第2部:Kの輪郭
第1章:カウンターの上の捜査線
愛甲達也の死から一週間が過ぎた。「雅宗」のカウンターは、夜の喧騒が始まる前の短い静寂の中、非公式な捜査本部と化していた。
「調べましたよ、HAYAMAコーポレーション」
ハイボールを片手に、諒平がノートパソコンの画面を隼人に見せる。「表向きはクリーンなITコンサル。でも、ここ数年の金の流れが少し不自然だ。特に道東の自治体関連の仕事で、妙に大きな金が動いてる」
「道東…」隼人は眉をひそめる。
「それよ」古海が布巾でグラスを磨きながら、艶のある声で口を挟む。「あの愛甲さん、生前『今度の出張は気が重い』って漏らしてたわ。確か、根室か釧路だって言ってたかしらね」
「何か掴めそうじゃないですか!」智仁が身を乗り出す。「俺、行ってきますよ!HAYAMAコーポレーションに!体力測定のボランティア指導とか言って、潜り込んでみせます!」
「そんな怪しい口実があるか。追い出されるのがオチだ」
隼人の冷静なツッコミに、智仁は「じゃあビル清掃のバイトで…」としょげる。だが、その瞳の奥の正義の炎は消えていなかった。
その夜、閉店間際に春馬がやつれた顔で現れた。
「…進展なしか」
カウンターに突っ伏す幼なじみに、隼人は黙って熱い味噌汁を出す。
「上はもう事故で決めたがってる。刑事部長の城田さんが特にうるさくてな。俺の独断での捜査も、時間の問題だ」
城田寛治。警察庁から来たエリートで、出世のためには波風を立てることを極端に嫌う男だと、春馬は吐き捨てるように言った。
「だが、諦めるわけにはいかねえ。協力者が一人だけいてな。後輩の乾が、愛甲の通話履歴をこっそり調べてくれた。死ぬ前日、非通知の着信が数回。それと、ススキノにあるバーの番号が一つ」
古海がその番号を聞いて、ふと手を止めた。
「…その番号、心当たりがあるわ。いい店じゃない」
第2章:鉄仮面の同僚たち
翌日、結局「ビルの防災設備点検の事前調査」という、消防士の立場を最大限に活かした口実で、智仁はHAYAMAコーポレーションへの潜入に成功した。
オフィスは、愛甲という男を失ったとは思えないほど静まり返っていた。
上司だという鎌倉五郎課長は、落ち着きなく視線を泳がせ、「ああ、はい、ご苦労様です」と上の空。判断力に欠けるという前評判通りの男だった。
愛甲の同僚だったという小池清泉は、几帳面に書類を整理しながらも、智仁の質問に「さあ?仕事仲間というだけですから」と短く答えるだけで、どこかイラついているのが見て取れた。
対照的だったのが、同じく同僚の川村景子だ。見た目は30代にしか見えないその女性は、智仁の突飛な訪問にも動じず、サバサバとした口調で応対した。「愛甲さんは優秀な人でしたよ。でも、少し一人で抱え込みすぎるところがあったかも」その目は終始落ち着いており、まるで男社会を見下しているかのような冷徹さがあった。
そんな中、新人の森谷愛だけが、智仁に心配そうな表情を向けた。
「あの、愛甲さん、本当に事故だったんでしょうか…」
おっとりとした見た目に反して、その声には強い芯があった。「最近、すごく何かに怯えてるみたいで…。会社のことで悩んでるって…」
しかし、彼女がそれ以上何かを言おうとした時、隣の席の北嶋翔がスマホから顔も上げずに「森谷さん、コピーまだ?」と呟き、会話は遮られた。
智仁が会社を出て、大通りを歩いている時だった。ふと、視線を感じて振り返る。通りの向かいのビルの入り口に、一人の男が立っていた。中年の、どこにでもいそうな男。だが、その目は粘りつくように智仁を見ていた。目が合った瞬間、男はすっと姿を消した。智仁の脳裏に、その男の顔が焼き付いた。
第3章:組織の壁と一条の光
北海道警捜査一課では、春馬が孤立を深めていた。
「轟!まだあの事故を追ってるのか!」
同僚たちの冷ややかな視線が突き刺さる。そんな中、課長の一文字圭介だけが、すれ違いざまに「信念を貫け。だが、足元をすくわれるなよ」と低い声で告げた。厳格な男からの、静かな激励だった。
希望は、後輩の乾伸二がもたらした。
「春馬さん。愛甲のデスクのPC、鑑識がデータを抜き取る前に、こっそり一部をコピーしました」
乾は、USBメモリーを春馬の手に握らせる。「愛甲の死んだ渓谷ですが、近くの林道を通った猟師が『あの日、愛甲さんの車の他に、黒い高級車が停まっているのを見た』と話していたそうです。この証言、なぜか正式な調書から消されてるんです」
警察内部に、捜査を妨害する人間がいる。春馬の疑念は確信に変わった。
「ありがとな、乾!」
「春馬さんを尊敬してますから。俺にできることなら何でも」
乾の言葉に、春馬は固く頷いた。
第四章:ススキノのTILT
古海の情報と乾から得た電話番号を元に、その夜、春馬は問題のバーに足を踏み入れた。店の名は「TILT」。看板もなく、重い鉄の扉が客を拒絶している。中には強面の男たちが数人、黙ってグラスを傾けていた。ヤクザとは違う、もっと組織化された傭兵のような、冷たい空気が漂う。
カウンターの奥で、マスターらしき男がグラスを拭いていた。歳の頃は三十代。口数は極端に少なく、ただギラギラとした目だけが、春馬を射抜くように見ている。通称、ハイド。
「愛甲達也という男を知らないか」
春馬が単刀直入に尋ねると、ハイドは初めて口を開いた。
「…客のプライバシーには答えない」
その声は、店の空気と同じくらい冷たかった。これ以上の情報は引き出せそうにない。春馬が席を立とうとした、その時だった。
店の奥の個室の扉が開き、一人の男が出てきた。
HAYAMAコーポレーションの前で智仁が見た男だった、春馬と目を合わせると、何も言わずにハイドに目配せし、静かに店を出ていった。
愛甲、TILT、そして謎の男。バラバラだった点が、ススキノの闇の中で繋がり始めた気がした。
第五章:交差するKの謎
深夜の「雅宗」に、諒平の興奮した声が響いた。
「隼人さん、やった!乾刑事が持ってきた愛甲さんのPCデータ、暗号化されたファイルを見つけました!」
画面には一つのフォルダが表示されている。その名前は、『K』。
「K…」隼人は、愛甲の名刺入れに挟まっていたメモを思い出す。『Kのデータを渡せ』。
鎌倉(Kamakura)、小池(Koike)、川村景子(Kawamura Keiko)、北嶋(Kitajima)。そして、警察内部の人間。捜査一課長の一文字圭介(Keisuke)、刑事部長の城田(Kanjita?)。誰もがKになり得る。
その時、春馬から隼人の携帯に緊迫した声で電話が入った。
「隼人か!?今、道警本部に匿名のタレコミがあった。『愛甲達也は事故じゃない。奴は殺された。と」
誰が、何のために。
愛甲の死は、事故なのか、自殺なのか、あるいは自殺に見せかけた巧妙な他殺なのか。
真実は深い霧の中だ。
隼人は、店の窓から見える、眠らない街ススキノのネオンを見つめた。この光と影が渦巻く北の街で、見えない敵との戦いが、今、静かに始まろうとしていた。
(第2部 了)