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第1部:客人の忘れ物

雅宗隼人シリーズ第2弾

札幌、すすきのの路地裏に、その店は静かに佇む。

小料理屋「雅宗がしゅう」。

店主の名は、雅宗隼人。

白髪混じりの髪を結び、どこにでもいる初老の料理人。

しかし、彼が長年の経験で培ったのは、食材の味を見抜く舌だけではなかった。

人の心の機微を読み、嘘の匂いを嗅ぎ分ける、鋭い観察眼。

幼なじみの刑事が持ち込む、警察が解き明かせない難事件。

常連客たちと共に、料理人は、今日も事件という名の厄介な食材を、鮮やかに調理していく。

これは、一杯の出汁と、人の情が、悪を炙り出す物語である。

 第1章:日常に落ちた影


札幌、すすきのの喧騒を一本裏に入った路地。藍色の暖簾の小料理屋「雅宗」、雅宗隼人がしゅう はやと、55歳の城であり、戦場だった。パートの古海うるみと二人で切り盛りするこの店は、昼は手頃な定食で腹を満たし、夜は旬の肴と旨い酒で心を潤す、常連たちの止まり木だ。

「大将、大根いい感じに味染みてるわよ」

厨房の奥から、かいがいしく動く古海の声が飛ぶ。

「だろうぅ」

隼人は短くにやけながら、カウンターの向こうに目をやった。そこにはいつもの顔ぶれが揃っている。

ノートパソコンを開き、ハイボールのグラスを傾けながらキーボードを叩くのは、在宅SEの諒平りょうへい、30歳。店の隅の「彼の指定席」で、今日も仕事をしているのか飲んでいるのか判然としない。

その隣で、プロテインシェイカーを誇らしげにテーブルに置き、熱燗をちびちびやっているのは消防士の智仁ともひと、28歳だ。非番の日には必ず現れるこの男は、「見てくださいよ隼人さん!上腕二頭筋のカットがキレッキレでしょ!」と己の筋肉を褒めちぎる、清々しいほどのナルシストだった。

「はいはい、智仁は相変わらずだねぇ。」

お盆を片手に妖艶な笑みを浮かべるのは、古海54歳。隼人より一つ年下だが、その落ち着いた物腰と時折見せる色気は、彼女を「女将さん」と勘違いする客が後を絶たない。情報通で、この界隈の事情にやけに詳しかった。


その男が、初めて「雅宗」の暖簾をくぐったのは、冷たい雨が降りしきる夜だった。歳の頃は四十代半ば。くたびれたスーツに、憔悴しきった表情。カウンターの端に腰を下ろすと、ただ「熱燗」とだけ呟いた。

隼人は黙って酒を温め、お通しのあん肝を出す。男はそれに手を付けるでもなく、虚空を見つめていた。その時、男のポケットで携帯が震えた。男は無言で席を立ち、店の隅で電話に出る。

「……ああ、俺だ」

最初は静かだった声が、次の瞬間、微かに上ずる。

「なんだと!?……いや、わかった。……わかった」

一瞬、その顔に狼狽と恐怖が浮かんだのを、隼人と古海は見逃さなかった。だが男はすぐに表情を消し、何事もなかったかのように席に戻ると、残りの酒をぐいっと呷り、勘定を済ませて出ていった。嵐のような来訪だった。


「なんだい、今の客は」古海が眉をひそめる。

「さあな。何か面倒なことにでも巻き込まれてる顔だったな」

隼人は、男が座っていた席を拭きながら、胸のざわつきを覚えていた。


 第2章:残されたメモ


それから、男は週に二,三回通う様になり、古海と世間話をするくらいの余裕は見せていた。ただ、ふとした瞬間に見せる、底知れない不安を宿した目は変わらなかった。

そんなある夜、男はいつものように熱燗を数本空け、静かに席を立った。

「ごちそうさん」

「毎度ありがとさんです」

隼人がいつものように声をかける。その背中を見送った古海が「あら?」と声を上げた。

男が座っていた場所に、黒い革の名刺入れがぽつんと残されていたのだ。

「忘れもんか。まあ、また来るだろう」

隼人はそれを手に取り、レジ横の棚に置いた。ちらりと見えた名刺には「株式会社HAYAMAコーポレーション 営業部長 愛甲達也」と記されている。

しかし、その日を境に、愛甲と名乗った男はぱったりと店に姿を見せなくなった。

一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、名刺入れは棚に置かれたままだ。

「あの人、どうしたのかしらね」

古海が心配そうに言う。

「風邪でもひいたんじゃないか」

隼人はそう答えながらも、あの電話での狼狽した顔が脳裏をよぎっていた。

そして、ある日の昼下がり。店のテレビで流れていたローカルニュースが、隼人の動きを止めた。

『昨日未明、札幌市郊外の渓谷で男性の遺体が発見されました。警察では、男性の身元を市内の会社員、愛甲達也さん(46)と特定し、足を滑らせて転落した事故と見て調べています』

画面に映し出された顔写真は、紛れもなくあの男だった。事故死。その言葉が、隼人にはどうにもしっくりこなかった。


 第3章:幼なじみの訪問


その日の夜。店の営業が落ち着いた頃、がっしりとした体躯の男が暖簾をくぐってきた。

「よう、隼人。一杯もらうぞ」

野太いが、どこか疲れた声。北海道警捜査一課の刑事、轟春馬とどろきはるまだった。

隼人とは、ガキの頃からの腐れ縁だ。

「春馬か。お疲れさん」

隼人はカウンターにビールのグラスを置く、春馬はそれを一息に煽ると、太い溜息をついた。

「勘弁してくれよ。最近、物騒な事件ばっかりだ」

「テレビで見たぞ。渓谷の…」

隼人が言いかけると、春馬は人差し指を口に当て、声を潜めた。

「その件で来た。死んだ愛甲って男、お前の店に来てたらしいな」

「ああ、何度か。忘れ物もある」

隼人が棚から名刺入れを取り出すと、春馬は目を見開いた。

「これだ。現場にも自宅にも、名刺入れが見当たらなかったんだ。中を見てもいいか?」

隼人が頷くと、春馬は手袋をはめ、慎重に名刺入れを開いた。名刺の束の後ろに、一枚の小さなメモが挟まっていた。

『Kのデータを渡せ。奴らを信じるな』

走り書きのような、震える文字。春馬の顔が険しくなる。

「K…?データ…?どういうことだ」

「ただの事故じゃない、そう言いたいんだろ、お前は」

隼人の問いに、春馬はグラスのビールを飲み干し、重々しく頷いた。

「ああ。状況から見て事故で処理されそうだが、俺はどうにも腑に落ちん。他殺の線で洗いたいが、上がうるさくてな。何か知らねえか、隼人。あの男、何か言ってなかったか?」

刑事としてではなく、友として。春馬の切実な目が隼人を捉えていた。


 第四章:雅宗探偵事務所、始動


春馬と隼人の密談は、カウンターの隅で聞き耳を立てていた者たちの好奇心を刺激するには十分すぎた。

「データ、ですか。面白そうな話ですね」

いつの間にかパソコンを閉じ、身を乗り出してきたのは諒平だ。

「愛甲さんの会社、HAYAMAコーポレーション。確かIT系のコンサルだったはず。データってのは、その関係かもしれませんね。俺でよければ、サーバーくらいは覗けますけど?」

悪びれもなく言う諒平に、春馬が「おい、民間人が勝手な真似を…」と咎めかける。

「まあまあ、春さん。こういうのは餅は餅屋って言うじゃないか」

古海が艶然と微笑み、春馬のグラスに焼酎を注ぐ。

「Kってイニシャルにも心当たりがあるかもしれないわよ、この界隈の人間ならね」

「俺も手伝いますよ!」

智仁が力こぶを作りながら立ち上がる。「外回りの聞き込みとか、体力勝負なら任せてください!この正義に燃える大胸筋が、悪を許しません!」

「お前は黙って座ってろ、筋肉バカ」

隼人が一喝するが、智仁は「えー、俺の出番じゃないんですか?」と少し嬉しそうだ。

春馬は呆れたように頭をかいた。だが、その目には微かな希望の光が宿っていた。警察組織の中でがんじがらめになっている彼にとって、この規格外のメンバーは、突破口になり得るかもしれない。

隼人は、目の前にいる幼なじみの刑事、情報通の女将、天才ハッカー、そして体力自慢の消防士を見渡した。そして、事故として片付けられようとしている愛甲の、あの寂しげな顔を思い出す。

「春馬。お前が手詰まりなら、俺たちが代わりに調べてやる。警察にはできねえやり方でな」

隼人の言葉に、全員の視線が集まる。

「ただし、ここは料理屋だ。捜査本部は、このカウンター。いいな?」

諒平がニヤリと笑い、智仁が力強く頷く。古海は「面白くなってきたじゃないか」と目を細めた。春馬は天を仰ぎ、諦めたように笑った。

「…好きにしろ。ただし、無茶はするなよ。あくまで、俺への情報提供という形でだ」

こうして、小料理屋「雅宗」のカウンターで、奇妙な捜査チームが産声を上げた。隼人は目の前の客人の無念を晴らすため、そして友を助けるため、料理人から、探偵へとその顔を変える。

凍てつく北の街の闇に、小さな店の明かりが、真実を求めて揺らめき始めた。

(第1部 了)

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