仮面
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第一章 仮面の街
東京。
それは光と影が混ざり合う街。
高層ビルの谷間で、誰かの夢が砕け、また誰かの野望が芽吹く。
生きる者と、ただ存在する者とが、同じ道をすれ違っていく。
湊はその一角に立っていた。
午前8時15分。新宿駅西口。
コーヒー片手に歩くサラリーマン。スマホを見ながらぶつかってくるOL。イライラした顔で舌打ちする男。眠そうに制服を引きずる高校生。
誰もが“忙しい”を仮面のように身にまとい、何かから目を背けるように歩いている。
湊はふと、駅ビルのガラスに映る自分を見た。
スーツの皺もネクタイの色も、世間に溶け込むよう計算された“平均的な会社員”。
だが、その奥にある顔は――自分ですらわからなかった。
『お前、何がしたいんだ?』
心のどこかで、もう一人の自分が問いかけていた。
入社3年目。湊は都内の中堅広告代理店で働いていた。
派手ではないが、堅実でクライアントの信頼も厚い。
だがその実態は、日々の疲弊と、同調圧力の連鎖。
誰かのミスは全員の責任。誰かが浮けば全員が沈む。
それでも湊は、仮面をかぶって笑った。
「すみません、すぐ対応します」
「いや〜、本当に助かりました!」
営業スマイルも定型文も、もう身体に染みついていた。
唯一、仮面を少しだけ外せる相手がいた。
同期の水島だ。
「お疲れ。珍しく早く上がったな」
湊がオフィスビルの1階で声をかけると、水島は自販機の缶コーヒーを片手に微笑んだ。
「今日の部長、珍しく機嫌良くてさ。雨が降るんじゃね?」
冗談っぽく言いながらも、目の奥には疲れがあった。
「……最近、どう?」
湊の問いに、水島は数秒だけ沈黙してから言った。
「まあ、ぼちぼち。…部署、変わってからは特に」
言葉を濁しながら、どこか距離を感じさせるように苦笑する。
湊は深く追及しなかった。
いや、できなかった。
自分が踏み込むべきじゃないラインがあることを、過去の経験が教えてくれたからだ。
けれど、どこかで気づいていた。
水島が、誰にも言えない何かを抱えていることを。
帰り道、湊は渋谷方面の電車に乗った。
駅を出て、スクランブル交差点を避けて裏通りへ進む。
そこに、彼が「東京で最も落ち着ける場所」と呼ぶ、こぢんまりした居酒屋があった。
店の暖簾をくぐると、カウンターの奥に懐かしい顔が見えた。
「おう、湊」
その声に、心が少しだけほどけた。
伊吹だった。
高校時代の同級生。湊の“かつての親友”。
だが、もう何年もまともに会っていなかった。
偶然というにはあまりに出来すぎている――そんな再会だった。
「久しぶり。元気そうだな」
「まあな。こっちは営業で疲れてるけど、どうせお前も似たようなもんだろ?」
二人は笑いながら乾杯した。
グラスが鳴る音が、まるで時間を巻き戻したかのようだった。
「最近さ、ちょっと疲れててさ……誰かと話したいって思ってたところだったんだよ」
伊吹が言った。
湊は頷いた。
「わかるよ、そういう時ある」
ただの社交辞令。
でも、その夜は少し違った。
伊吹の目の奥には、見過ごせない影があった。
「なぁ、湊」
グラスの中の氷がカランと鳴る。
伊吹は視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「お前、東京って好きか?」
その質問に、湊はすぐに答えられなかった。
好きか嫌いか、そんな二択で片付けられるような街ではない。
便利で、華やかで、チャンスにあふれていて――でも、冷たくて、孤独で、嘘に満ちている。
「便利だけど、落ち着かない。人が多すぎるし、誰もこっちを見てないくせに、誰かの目ばっかり気になる」
そう答えると、伊吹はふっと笑った。
「変わってねぇな、お前は。昔から、どこか俯瞰してた」
「それ、お前もだろ。自分を押し殺して、周りに合わせて、笑ってる」
伊吹は手元のビールを一気に飲み干した。
そして、静かに言った。
「……実はさ、最近、彼女とうまくいってないんだ」
湊は伊吹の横顔を見た。
高校時代、みんなの中心だった彼。運動も勉強もそつなくこなし、誰にでも優しく、頼りにされていた。
けれど、その“完璧”が、伊吹自身を締めつけていたことを、当時の湊は知っていた。
「なんか、全部俺が悪いみたいでさ。優しさって、時に重くなるらしい」
伊吹は自嘲するように笑った。
「それ、本当にそうかな」
湊が返すと、伊吹は目を細めた。
「……わかんねぇ。でも、最近は自分でも、自分が何考えてるかわからなくなるんだ。気づけば、彼女の笑顔が怖くて。SNSで自分の名前が出てるんじゃないかって、いつもビクビクしてる」
その言葉に、湊の心がざわついた。
伊吹は、何かを抱えている。
それは、ただの恋愛の悩みではない。もっと深く、もっと根の深い“影”だ。
「辛いときは、逃げてもいい」
湊は静かに言った。
「俺も最近、思うんだ。頑張ることと、壊れることって、案外紙一重だって」
伊吹は少し驚いた顔をして、湊を見た。
「……そういうこと、言うようになったんだな」
「俺だって、仮面のままじゃ生きていけなくなる日があるさ」
ふたりはそれきり、しばらく黙った。
店内のテレビからは、お決まりのニュースキャスターの声が流れていた。
「SNSでまた炎上」「芸能人の謝罪会見」「誰かの失言」「誰かの誤解」――
日常に溶け込む“他人の不幸”が、娯楽のように消費されていく。
湊はそれを見ながら、ふと考えた。
もし自分が、誰かに誤解され、炎上し、全てを失ったとしたら――
その時、この街の誰かは、自分の仮面の下を見ようとするのだろうか。
それとも、「よくある話」として流してしまうのだろうか。
きっと後者だ。
この国では、真実よりも“空気”が人を裁く。
湊はそれを、知りすぎるほど知っていた。
帰り道、伊吹と別れた後、湊はひとりコンビニに寄った。
カップ麺と水と、眠気覚ましのガムを買い、レジで会計を済ませる。
店員は無表情だった。
湊もまた、愛想笑いを浮かべるだけ。
「ありがとうございましたー」
機械的な声に背を押されるように、ビニール袋を手に店を出た。
夜の風が頬をなでる。
それは、今日という日が終わりを告げるサインだった。
湊は心の奥で、何かがゆっくりと歪んでいくのを感じていた。
誰もが仮面をかぶって生きるこの街で――
その仮面が剥がれたとき、人はどんな顔を見せるのだろうか。
彼はまだ、その答えを知らなかった。
だが、この夜の再会が、後にすべての始まりになるとは――思いもしなかった。
第二章 交差点の記憶
⸻
高校一年生の春。
桜が舞う校門の前で、湊は制服のリボンを直していた。
少し緊張しながらも、新しい環境に期待を膨らませていた。
「おはよう!」
元気な声が背後から響く。
振り返ると、同じクラスの伊吹が笑顔で手を振っていた。
スポーツ万能で、誰にでも優しく、クラスの人気者だった。
「よろしくな、湊!」
伊吹の笑顔はまぶしく、初対面の緊張を一瞬で吹き飛ばした。
それからの日々は、まるで映画のワンシーンのように鮮明だ。
放課後の部活動、文化祭の準備、誰かの誕生日を祝うためのケーキの買い出し。
いつも伊吹はそこにいた。
「なんだかんだ言って、アイツはお前のこと気に入ってるんだぜ」
部活の先輩が笑いながら言ったことを、湊は鮮明に覚えている。
二人は友人以上、親友未満の微妙な距離感で、高校生活を共に過ごした。
信頼と期待が少しずつ積み重なっていく。
夏が近づくにつれて、二人の関係にも少しずつ歪みが生まれていた。
伊吹はクラスの中心として振る舞いながらも、誰にも言えない悩みを抱えていた。
一方の湊は、そんな伊吹を気にかけつつも、自分の殻に閉じこもることが増えていた。
ある日、文化祭の実行委員会の打ち合わせで、伊吹は突然言い出した。
「湊、お前、もっと積極的に行けよ」
湊は驚いた。
「俺、十分頑張ってるよ」
「そうじゃない。もっとお前らしく、前に出ろ。みんなお前を見てるんだぜ」
その言葉の裏には、伊吹の焦りと不安が隠れていた。
彼は完璧を求められるポジションに押し込まれ、誰にも弱音を吐けなかった。
その夜、伊吹は家でSNSを眺めていた。
友人たちの楽しそうな投稿。
だが、ある投稿には彼の名前が悪意あるコメントとともにタグ付けされていた。
「またかよ……」
彼の心はどんどんと追い詰められていった。
次の日、学校で噂が広がる。
伊吹が誰かと歩いている写真がネットに流れ、誤解が膨らむ。
湊は知らなかった。
だが、この事件が、彼らの友情を大きく揺るがすことになる
第三章 日々のすき間
新卒として入社したばかりの春、湊は緊張と期待で胸を膨らませていた。
広いオフィスの一角に、同じように初々しい顔が集まっている。
その中に、水島がいた。
無口で冷静な印象だが、どこか頼りになる存在だった。
初めての自己紹介で、水島はこう言った。
「よろしくお願いします。僕は水島です。ミナトとは同期だよね」
湊は軽く笑い、少し緊張しながらも返した。
「そうだね。これからよろしく」
最初の数週間は、研修や資料作成で忙しかった。
仕事は単調で、ストレスもあったが、同期の存在が救いだった。
昼休み、社員食堂で水島と並んで座りながら、湊は思った。
「彼は自分に何か隠している」
水島は何気ない会話の中で、時折眉間に皺を寄せたり、遠くを見るような視線を見せることがあった。
「部署が変わって、色々あったんだ」
水島がぽつりと言った。
湊は問い詰めることはしなかった。
「話したくなかったら、無理に聞かなくていい」と心の中でつぶやいた。
けれど、その“すき間”が次第に大きくなっていった。
水島が配属された新しい部署は、表向きは静かなオフィスだった。
だが、そこには誰にも見えない“影”が潜んでいた。
パワハラ、陰口、そして密かな孤立。
水島はその渦中にいた。
ある日、湊は水島が誰かに叱責されている場面を偶然見かけた。
その声は荒く、理不尽だった。
だが、水島は表情を変えず、黙って耐えていた。
「何か手伝おうか?」
湊が声をかけたが、水島は首を振った。
「大丈夫。これは、俺が乗り越えなきゃいけないことだから」
その言葉に、湊は言葉を失った。
彼の中で何かがぐらついた。
湊は水島の苦しみを知りながらも、表には出せない事情があった。
彼は水島を守るために、自ら犠牲になる覚悟をしていたのだ。
だが、その真実はまだ誰にも明かされていない。
日々の業務の合間、湊と水島は時折何気ない会話を交わした。
「この前の会議、どう思った?」
「正直、あまり納得してない。けど、しょうがないよな」
「まあ、こんなもんだよ、会社なんて」
湊はそんな水島の言葉の裏に、言えない叫びを感じ取っていた。
「俺たち、いつまでこんな仮面をかぶって続けるんだろうな」
湊が呟くと、水島は苦笑した。
「……わからない。でも、逃げられない」
その答えは、どこか重く、切なかった。
そして、ある晩の飲み会で、二人は言葉少なに乾杯を交わした。
「たまにはさ、正直に話せる相手がほしいな」
湊が言うと、水島は静かに頷いた。
「俺もだ。でも、それはきっと無理だ」
湊は水島の目を見た。そこには、どこか諦めの色があった。
「お互い、バラバラに壊れていくのかもしれないな」
二人の間に流れる沈黙は、言葉以上に重かった。
第四章 囁き
夏の終わりが近づく頃、伊吹の表情は日に日に曇っていった。
高校時代の“完璧な王子様”の面影は薄れ、疲労と不安が彼を支配していた。
SNSの炎上は続き、彼の名前は知らず知らずのうちにネット上の標的となっていた。
匿名の書き込み、悪意ある噂、誤解による攻撃。
「もう、耐えられない」
伊吹は独り、部屋の窓辺で呟いた。
彼の隣には、いつも彼女がいた。
だが、その存在が重荷になり、恐怖へと変わっていった。
「私、あなたのこと信じてる」
彼女は優しくそう言った。
だが、伊吹の心はそれすらも受け止められず、深く沈んでいた。
ある日の放課後、伊吹は廊下で誰かに囁かれた。
「お前、あの女と歩いてたの見たぞ」
その一言が、伊吹の世界を揺るがした。
噂は一瞬で広がり、彼の評判を地に落とした。
だが、真実は違った。
写真は加工されており、全く別の文脈が隠されていた。
伊吹は必死に抵抗したが、誰も耳を傾けなかった。
周囲はただ、流れる噂を信じた。
「なんで、俺だけがこんな目に……」
悔恨と絶望が交錯する中、伊吹の内なる人格は分裂し始めた。
優しい自分と、怒りに満ちたもう一人の自分。
その狭間で彼は揺れていた。
日が沈み、校舎の窓に夕焼けが映り込む頃、伊吹は誰もいない教室でひとり座っていた。
教室の机は彼の孤独を映す鏡のように冷たく、無機質だった。
「どうして…どうして、こんなことに…」
繰り返す言葉は、やがて呟きとなり、そして声にならなかった。
彼の携帯には数え切れないほどの嫌がらせのメッセージが届いていた。
彼女からの電話も、もう鳴らなかった。
心の中で、もう一人の伊吹が叫ぶ。
「やられっぱなしで終わるわけにはいかない。俺を侮辱した奴らに復讐してやる!」
だが、もう一人の伊吹は言い返す。
「それじゃお前は壊れるだけだ。そんなこと望んでないだろう?」
二つの声がぶつかり合い、彼の心は引き裂かれそうだった。
そんな折、彼の身の回りで奇妙な出来事が起き始める。
誰かが彼のロッカーに嫌がらせの落書きをしたり、授業中に無視される日々。
伊吹は次第に自分が誰も信用できなくなり、精神の均衡を崩し始めた。
「俺はもう、戻れないのかもしれない」
彼はそう呟き、教室の窓の外をぼんやりと見つめた。
そして、ある晩。
彼女の死が訪れる。
部屋の中で見つかった彼女の遺体は、自殺と断定された。
誰もがその悲報に言葉を失い、伊吹もまた深い絶望に沈んだ。
だが、真実はまだ闇の中にあった。
第五章 崩れゆく境界
秋の冷たい風が街を吹き抜ける頃、伊吹は以前の自分とは別人のようになっていた。
かつての笑顔は消え失せ、代わりに無表情と冷酷な視線がその瞳に宿っていた。
湊はそんな伊吹に違和感を覚えつつも、何とか支えようと試みていた。
だが、距離は次第に広がり、二人の間に見えない壁ができていた。
「伊吹、お前はどうしてこんなに変わったんだ?」
湊は問いかけるが、返ってくるのは冷たい沈黙だけだった。
伊吹は心の中で葛藤していた。
優しい自分と、壊れた世界に復讐を誓うもう一人の自分。
どちらも本物の自分であり、どちらも自分ではない。
彼の中で境界線が曖昧になり、現実と妄想が交錯し始めていた。
一方、湊の職場では、同期の水島が日増しに追い詰められていた。
パワハラの嵐は激しさを増し、彼の体と心を蝕んでいく。
湊は水島の苦境を知りつつも、表には出せない事情があった。
だが、その秘密はまだ誰にも明かされていない。
ある夜、湊は伊吹と飲みながら話をした。
「悔やんでも、戻らないものはある。でも、前に進むしかない」
そう言いながらも、湊の心は揺れていた。
伊吹は無言でグラスを見つめ、やがて呟いた。
「俺は、許されないんだろうな」
その言葉が、二人の関係に亀裂を深く刻んだ。
伊吹の瞳には、かつての温かみはなくなっていた。
代わりにそこにあったのは、冷徹で絶望的な光だった。
「俺は、壊れてしまった。誰にも理解されない」
伊吹はそう呟き、酒を煽る。
湊は彼を見つめながら、胸の奥で何かが締め付けられるのを感じていた。
「お前を助けたいんだ。でも、どうしていいかわからない」
伊吹は微かに笑った。
「お前はいつもそうだ。わからないくせに、助けようとする」
その言葉に、湊は返す言葉を失った。
二人の間に広がる溝は、日に日に深まっていった。
そんな中、水島の状況はさらに悪化していた。
彼は職場の陰湿な攻撃に耐え切れず、心身ともに疲弊していく。
だが、水島は誰にも弱みを見せなかった。
湊だけがその苦しみを知り、彼を庇おうと必死だった。
「俺がなんとかする。お前は自分の仕事に集中しろ」
そう言って、湊は水島を守る決意を固めた。
しかし、その決意は湊自身の心に深い闇を落としていく。
彼は誰かを守るために、自らを犠牲にしなければならない現実に直面していた。
「これが、俺の役目か……」
呟く声は、冷え切っていた。
第六章 綻びの序曲
冬の初め、東京の街は冷たい空気に包まれていた。
湊の胸の内もまた、冷え切っていた。
彼は日々の仕事の中で、自分が抱えた秘密の重さに押しつぶされそうになっていた。
水島のパワハラを庇いながら、自分の立場を犠牲にする決断は、簡単なものではなかった。
「俺が犠牲になれば、水島は救われる」
そう自分に言い聞かせていたが、心の奥底では何かが壊れていくのを感じていた。
一方、伊吹はもはや元の姿を失い、闇の中を彷徨っていた。
誰かを恨み、誰かに憎まれ、誰かを殺したいと思うこともあった。
しかし、彼の中のもう一人の自分が叫ぶ。
「復讐しても何も戻らない。だが、これが俺の生きる道だ」
その矛盾の中で、彼は自分自身を見失っていった。
湊はふとした瞬間、水島と話す時間が増えたことに気づいた。
二人の間には言葉にならない絆が生まれつつあった。
「お前には本当の自分を見せられない」
水島は時折そう呟いたが、湊はそれでも彼を支え続けた。
「俺はお前の味方だ」
そう言うことで、湊は自分自身をも励ましていたのかもしれない。
冬のある日、湊は水島から久しぶりに連絡を受けた。
「久しぶりに、話せるか?」
それは、どこか助けを求めるような声だった。
湊はすぐにカフェを指定し、待ち合わせた。
目の前に現れた水島は、以前よりも痩せ、目の下には深い隈があった。
「……もう、限界なんだ」
水島はそう言うと、震える手でカップを握りしめた。
「毎日が地獄だ。怒鳴られて、物を投げられて、俺が壊れていくのがわかる」
湊は、静かに聞いていた。
「……もう、誰かを巻き込んででも、終わらせたいと思ってしまう」
その言葉に、湊の中で何かが反応した。
「俺が、お前の代わりになる。お前が矢面に立つ必要はない。俺が“悪者”になればいい」
「……何言ってんだよ、そんなこと……」
水島は目を見開いた。
「大丈夫。俺、病気なんだ。余命はそんなにない」
そう、湊は嘘をついた。
それは決して軽いものではなかった。
だが、それが唯一の方法だと思った。
自分を差し出せば、誰かが救われる。
自分の人生はすでに、役目を果たせないまま流れてしまったのだから。
水島は首を振った。
「そんなの……そんなの、間違ってる」
「正しいとか、間違ってるとか、もう関係ないんだ」
湊の目はまっすぐだった。
「これで誰かが救われるなら、それでいい」
水島は言葉を失い、うつむいた。
ただ、ぽたりと涙がテーブルに落ちた。
その数日後、伊吹がふたたび湊の前に現れた。
真冬の夜風のなか、震える声で彼は言った。
「俺さ……もう、どうしたらいいかわからないんだ」
湊は彼を抱きしめた。
「大丈夫だ。俺がいる」
だが、湊の心の中では、すでにある覚悟が固まりつつあった。
第七章 真実の温度
十二月。
年の瀬を迎えた東京の空は、どこまでも重く、乾いていた。
冷たい風がビルの谷間を吹き抜け、人々の心までも凍らせるようだった。
湊は、会社の屋上に立っていた。
遠くにスカイツリーの明かりが滲んで見える。
彼のポケットの中には、水島宛の手紙があった。
内容は簡潔だ。「お前は間違ってない。ただ、生きてくれ」
誰かを救うというのは、時に、自分を失うことだ。
そう理解しながらも、湊はその道を選んだ。
その夜、伊吹から連絡が入った。
《会えないか。話したいことがある》
待ち合わせ場所は、高校のときによく通っていた公園だった。
冷たいベンチに並んで座る二人。風が、わずかに伊吹の髪を揺らした。
「俺……もう、自分のしたことから逃げられない気がしてる」
伊吹の声は震えていた。
「彼女のことも、SNSのことも、すべて……わかってた。わかってたのに、止められなかった」
湊は、ゆっくりと答えた。
「伊吹、お前は壊れたんじゃない。ただ、壊されただけだ」
伊吹の目に、初めて光が宿った。
「そう言ってくれるの、お前だけだよ……」
だが、湊の目の奥には、別の決意が静かに滲んでいた。
(これでいい。俺がすべてを受けることで、誰かが前に進めるなら)
翌朝。
会社に出勤した湊は、突然会議室に呼び出された。
上司たちの前で読み上げられたのは、社内メールの送信履歴だった。
「これは、君のアカウントから送信されたものだ」
それは、かつて水島を救うために、湊が自ら送ったメールだった。
匿名を装い、上司に対する批判を流し、自分がいじめの中心人物であるように見せかけた。
「事実確認のため、しばらく自宅待機してもらう」
静かな声が、湊の脳内にゆっくりと沈んでいった。
エレベーターの中、湊は携帯を見た。
水島からの未読メッセージがいくつも届いていた。
《お前がやったのか?なぜだよ……》
画面が滲んで見えた。
誰かのためにしたことが、誰かの心を壊す。
それが現実だった。
湊は、静かな部屋で独り、ベッドに座っていた。
パソコンの電源は落とし、携帯も伏せられている。
窓の外では、年末の喧騒が遠くで聞こえていた。
彼は、父親の顔を思い出していた。
かつて、会社の濡れ衣を着せられ、声を上げることもできずに追放された父。
その背中を、幼い頃の自分は何もできずに見送るしかなかった。
そして、母の死。
あの時、自分は何かを変えられたのではないか。
そう思い続けて生きてきた。
「過去は変えられない。でも、未来は、誰かの中に残せるかもしれない」
それが、湊の信じた唯一の希望だった。
夜、玄関のチャイムが鳴る。
開けると、水島が立っていた。
コートも着ずに、凍えるような表情だった。
「お前だったんだな……全部、背負ったの」
言葉が震えている。
湊は静かに頷いた。
「ごめん。でも、もう、いいんだ」
「よくない!」
水島が叫ぶ。
「俺のせいで、お前の人生がめちゃくちゃになってる!」
湊は微笑んだ。
「違うよ。俺の人生は、もともと壊れてたんだ。だけど、お前に出会って……救われた」
その言葉に、水島は膝をついた。
「……お前だけは、いなくなっちゃいけない」
湊は言葉を返せなかった。
ただ、彼の背を優しく抱いた。
***
翌朝、湊はいつもよりゆっくりと身支度を整えた。
鏡に映る自分の顔を見つめながら、深く息を吐く。
その日、彼は会社には向かわなかった。
代わりに、伊吹の元を訪ねた。
伊吹の部屋は、薄暗くカーテンが閉め切られていた。
机の上には、彼女との写真が飾られていた。
「来てくれて、ありがとう」
伊吹は、以前より穏やかな表情をしていた。
湊は座るなり、ゆっくりと言った。
「俺、君に言わなきゃいけないことがある」
伊吹が顔を上げる。
「……君のこと、最後まで信じてる。だけど、人間ってさ、時に“悔いてからじゃないと”変われないこともあるんだよ」
伊吹の目が揺れた。
「俺は、悔いてる。たくさん。だけど、今ならまだ……君は間に合う」
その瞬間、伊吹は嗚咽をこらえながら泣いた。
まるで、何年も封じ込めてきたものが崩れ落ちるように。
数日後。
湊の姿が、どこからも見つからなくなる。
最後に残されていたのは、ただ一通の手紙。
宛名は伊吹と水島、そして“まだ顔のない誰か”へ。
「悔やむことを、やめないでほしい。
それは、君がまだ何かを変えられる証だから。
俺のことは、忘れていい。
だけど、俺がいたことは、忘れないくれ」
第八章 遺された声
湊が姿を消してから、一週間が経った。
警察にも届けは出されたが、失踪という扱いのまま、手がかりは何一つなかった。
部屋には生活の痕跡がそのまま残っていた。
冷蔵庫の中、読みかけの本、乾いていない洗濯物――
どれもが「昨日まで彼が生きていたこと」を証明していた。
伊吹は、湊の部屋のソファに座り、何度目かの溜息をついた。
「あいつ、なんで俺に何も言わずに……」
そう呟く声は怒りではなく、喪失の重さによる震えだった。
机の引き出しの中から、一冊のノートが見つかった。
そこには、湊の筆跡でびっしりと綴られた言葉があった。
「人は誰しも、“正しさ”と“救い”の間で揺れる。
正しくあろうとすることが、誰かを救うとは限らない。
でも、誰かの痛みに手を伸ばすことは、きっと間違いじゃない」
伊吹はその一文を読みながら、初めて涙を流した。
言い訳を繰り返し、誰かを憎み、自分すら守れずにいた彼の胸に、湊の“悔恨”がゆっくりと染み込んでいくようだった。
「俺は……間違ってた」
声が震えた。
そして、ようやく伊吹の中で、時間が動き始めた。
水島もまた、湊の死を受け止められずにいた。
彼の机の上に、手紙が置かれていた。
封筒の中には、ただ一枚のメモ。
「水島へ。
誰かの痛みを代わりに背負うのは、間違ってるかもしれない。
でも俺は、それしかできなかった。
お前は、生きてくれ。それだけで、俺は報われる」
水島は、その言葉を繰り返し読んだ。
何度も、何度も。
「俺は……こいつに全部、背負わせてしまったんだ」
パワハラの件も、社内での立場も、すべて湊が盾になってくれていたことを、上司から聞かされたのはその数日後だった。
水島はその場で号泣し、膝から崩れ落ちた。
伊吹はある朝、ふと鏡を見た。
やつれた顔、眠れない日々の痕跡。
だがその瞳には、かつてなかった“意志”が宿っていた。
彼は会社に行き、上司に頭を下げた。
「話したいことがあります」
彼女の死、自分が隠していたこと、そして――
自分が彼女を殺したかもしれないという“恐怖”。
それは告白というより、自分自身への審判だった。
上司は言葉を失い、ただ深く息を吐いた。
その日の夕方、伊吹は自主退職した。
だが彼の背筋は、今までで一番まっすぐだった。
「俺はこれから、自分を生き直す。そう決めたんだ」
誰に言うでもない言葉を、冬空に放つように呟いた。
水島もまた変わり始めていた。
湊の死を無駄にしたくない。その一心で、彼は行動に出た。
社内のパワハラ体質を内部告発し、労基署に資料を提出した。
社内では裏切り者扱いされたが、彼は顔を上げて言った。
「これは湊がやろうとしていたことだ。だから俺が、やる」
その言葉に、数人の若手社員が彼の背中を追うように名乗り出た。
会社はやがて体制を改め、パワハラを行っていた上司は異動処分となった。
水島はその報告を受けた日の夜、湊の家の前まで歩いた。
そして、ポストに手紙をそっと入れた。
「お前が守った未来、俺が生きて証明する。
ありがとう。お前の痛みは、ちゃんとここに残ってる」
空を見上げると、雪が降っていた。
それは、湊が最後に見たであろう冬空と同じだった。
後日、伊吹と水島は、湊の実家近くにある河川敷で偶然再会する。
何も言わず、ただ並んで座る二人。
会話は少なかったが、共有しているものは、あまりにも大きかった。
やがて伊吹が、ぽつりと呟く。
「俺たちはまだ、許されてはいないよな」
水島は頷いた。
「でも、生きてる。それが湊の望んだことなんだろうな」
風が吹き、木々がざわめいた。
その音がまるで湊の声のように、ふたりの背を押していた。
第九章 悔恨
春が近づき、東京の空気にも少しだけ柔らかさが戻り始めた。
けれど、湊がいない世界には、どこか取り返しのつかない“冷たさ”が残っていた。
伊吹は、小さなNPO団体で働き始めていた。
いじめやSNSによる誹謗中傷で心を病んだ若者たちのカウンセリングを支援する団体。
彼自身がかつて傷つき、また傷つけた人間だったからこそ、言える言葉があった。
「逃げることは、間違いじゃない。
でも、本当に大切なのは、“逃げたあとにどう生きるか”なんだ」
目の前の青年が俯いたまま、小さく頷いた。
その姿に、かつての自分が重なって見えた。
帰り道、伊吹はスマホを取り出し、保存されていた湊とのツーショット写真を見た。
笑っている自分と、少し照れくさそうな湊。
「なあ湊。俺、まだ毎日悔やんでるよ。でも、だからこそ……前に進める気がするんだ」
つぶやくように、そう呟いた。
一方、水島は、労働環境改善のための社内委員会に加わっていた。
“かつての被害者”が、いまや“守る側”に立っていた。
新しく入ってきた社員が彼に言った。
「水島さんがいてくれるってだけで、少し安心できます」
その言葉に、彼は小さく微笑んだ。
「そう言ってもらえると……少しは報われる気がするな」
湊が自分のために犠牲になったことを、彼は決して美談にはしなかった。
でも、あの日あのとき、彼が自分の前で見せた“静かな覚悟”は、今もずっと心に残っている。
だからこそ、彼はこうして、生きることを選んだ。
「生きて、悔やみ続ける。それが俺の罪の背負い方だ」
誰にも聞かせるわけでもないその言葉を、夜の帰り道、風に乗せてつぶやいた。
ある日、伊吹と水島は、湊の墓前で再会した。
白い花を手にした二人は、黙って並び、深く頭を下げた。
「……あいつ、こうやって俺たちを繋いだんだな」
伊吹が言う。
水島は頷いた。
「最期の瞬間まで、誰かのために生きた。俺たちには真似できないよ」
しばらくの沈黙。
そして、伊吹がぽつりと呟いた。
「悔やんで、悔やんで、でも生きる。それが、あいつへの供養なんだろうな」
風が吹き抜け、枝が揺れる音が、優しく響いた。
まるで、湊が微笑んでいるようだった。
第十章 灯
その日、伊吹は一通の手紙をポストで見つけた。
差出人は不明だったが、封筒には湊の筆跡によく似た丸い字が並んでいた。
「これはもし、俺がもういない未来が来たときに、君たちが読んでくれたらいいと思って書いておく手紙です」
「俺は、いろんなものを失った。
でも、それでも誰かのために生きたいと思った。
それは、誰かが昔、俺にそうしてくれたからです」
「世界は不公平で、冷たくて、ときに残酷だ。
だけど、その中にも微かな“灯”がある。
君たちが、誰かの“灯”になれる未来を、俺は信じてる」
読み終えた伊吹は、しばらく動けなかった。
胸の奥に、言葉では説明できない熱が灯った。
それは「悔恨」ではなく、「願い」に近いものだった。
同じ手紙は、水島の元にも届いていた。
彼は自宅のベランダで、その手紙を胸に、深く夜空を見上げた。
「俺は、お前に“重さ”を押しつけてしまったかもしれない。
だけど、お前なら、それを“誰かのための重さ”に変えられる。
そんな気がしてた。ずっと」
水島の瞳に、ぽたりと涙が落ちた。
でもその顔は、どこか晴れやかでもあった。
彼はスマホを手に取り、「いのちの電話」のボランティア募集ページを開いた。
湊の死を無駄にしない。
彼が“生きていた証”を、自分の中で繋いでいくと決めた。
春。
桜が舞う道を、伊吹と水島が並んで歩く。
「なあ」
伊吹が言う。
「この国ってさ、どうしてこうも、人が壊れてからじゃないと気づかないんだろうな」
「それでも」
水島が応える。
「気づいたら、次は“壊れないように”できるだろ」
沈黙が、二人の間に流れる。
それは不安や絶望ではなく、確かな“決意”の沈黙だった。
その後ろを、一陣の風が通り過ぎる。
ふと伊吹が空を見上げると、そこにはひとひらの桜の花びらが宙に舞っていた。
「……湊、見てるかな」
ぽつりと伊吹が呟く。
「見てるさ」
水島が、少し笑って答える。
「きっと、笑ってる。少し照れた顔でな」
二人の歩幅が、ゆっくりと揃っていく。
その背中に、春の陽が柔らかく差し込んでいた。
小さな、小さな――
だけど、確かな“灯”が、そこに生まれていた。
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