初めての興奮
「強一くん、退院おめでとう」
「ありがとうございます。退院と言っても完治したわけじゃないですけど」
八月に入り、お盆が近づいてきた今日、俺は退院した。
本当はずっと入院していた方がいいのだろうけど、初心に帰り、お金を無駄遣いさせるわけにはいかないので仕方ない。
それに木井さんと一緒に居る時間も増やしたいし。
「謝らないよ。強一くんが怒るから」
「はい、謝ったら怒ります」
今回の入院のことを木井さんが俺に謝ることを禁止した。
理由は当たり前だけど、木井さんは何も悪くないから。
だから謝ったら普通に怒ることにした。
「強一くんが怒ると怖いんだよね」
「怖くないと木井さんはやめないんですから」
「だけどその後は優しく慰めてくれるんだよね」
「罪悪感で死にそうになるんです」
自分で怒ると言ったけど、実際怒って木井さんの悲しんだ顔を見ると悲しくなる。
だから木井さんに怒った後はそれ以上に優しくすると決めている。
「ちょっと優しすぎて私の色んなところが壊れそうになるんだけどね」
「嫌でした?」
「いえ、とても嬉しいですよ? ただ、いつも以上に甘やかしてくれて恥ずかしいです」
「可愛かったですよ?」
「うるさいよ!」
木井さんがぷいっとそっぽを向いた。
いつものことだけど、木井さんは優しくするととても可愛くなる。
普通でも可愛いのに、それを軽く超えて可愛くなるから、俺の方も少し困る。
「それよりも、帰ったら私の個人的なお祝いがあるから楽しみにしてて」
「お祝いですか?」
「うん。ずっとやりたかったけど、できなかったやつ。いやぁ、今から強一くんの驚く顔が楽しみだよ」
木井さんがすごいニコニコしながら言う。
なんでだろうか、木井さんが自信満々だと不安になる。
主に木井さんのメンタル的問題が。
「まあそれはそれで楽しいからいいや」
「なんて?」
「すごい楽しみですって言っただけです。ちなみに母さんとは変わらずで?」
木井さんが複雑な顔で頷く。
あれから母さんは一度も俺のところには来ていない。
木井さんともずっと会わないようにしてるようで、たまに来る父さんから話を聞くだけだ。
一時は相当にやばかったらしいけど、今は少し落ち着いているとのこと。
「謝る気はないですけど、気まずいですよね」
「強一くんが私の為に許せないって言うんなら、気にしないでいいからね? 私のせいとは言えないけど、少なくとも強一くんが弥枝佳さんと気まずくなる理由なんてないんだから」
木井さんが言うなら俺だって母さんと仲直りしたい。
だけど今回のことに関しては俺から謝る気はない。
母さんがまず木井さんに謝らない限り、俺から母さんに謝ることは絶対にしないと決めている。
「頑固さんがいる気がするぞ」
「これで嫌われれば一番楽なんですけどね」
「怒るよ」
「すいません」
どうせ俺は居なくなるから、母さんに嫌われて後腐れなく居なくなれれば母さんは何も気にせずに生きていける。
だけどそれは木井さんが一番嫌う考え方だ。
「次に言ったら私は強一くんのことを一生忘れないで、一生強一くんのことだけを思い続けるからね」
「もしもがあった場合はどうなります?」
「それはもちろん……言わせんな!」
木井さんに腕をぽんっと叩かれた。
木井さんに思われ続けるのはとても嬉しいけど、やっぱり俺が居なくなったらすぐに忘れて欲しい。
「とにかく、私に忘れて欲しいとか思ってるなら二度と変なことは考えないこと」
「そうしたら忘れてくれますか?」
「強一くんが本当にそれを望むならそうするよ。嫌だけど、私は強一くんの気持ちを一番に考えたいから」
「すごい嫌そうですけど」
「嫌に決まってるでしょ。わざとなら怒るよ」
木井さんが今にも泣き出しそうな顔になる。
失敗した。
「すいません。俺はどんなことがあっても木井さんを忘れないので、それで許してください」
「やだ。強一くんが覚えてるなら私も忘れないもん」
「……辛くないですか?」
自惚れと言われるかもしれない。
だけど俺が木井さんの立場になって考えてみると、とても辛い。
俺は居なくなる側だから平気かもだけど、残される側は辛さが残る気がしてならない。
「辛いよ。だけど強一くんのことを忘れる方がもっと辛い」
「……」
「無視?」
「いえ、嬉しいものですね。ほんと木井さんのせいで諦められないですよ」
「諦めさせるわけないでしょ。これからやることだってその一環なんだから」
何をする気なのだろうか。
木井さんのやることだから、多分から回るのだろうけど、それならそれで楽しみではある。
から回る木井さんはとても可愛いから。
「なんか緊張してます?」
「し、してないけど? 私は強一くんが驚いてる顔を見るのが楽しみなだけだよ」
「動揺してるじゃないですか。もううちに着きますけど、無かったことにするなら今ですよ?」
「や、やるし。今日こそは絶対に強一くんに勝つんだから」
木井さんはどうやら意を決したらしい。
そこまでしなければいけないのならやめておけばいいものを。
「楽しみにしてますからね」
「してなさい。……ハードル上げといてあれなんだけど、これからやることに対して無反応だけはやめて欲しいの」
「何をされるのかわからないので何も言えないですけど、善処はします」
「お願い。無反応だとさすがに私のメンタルが崩れ落ちる」
よくわからないけど、木井さんのメンタルの為にいい反応をしなければいけない。
いい反応がどんなものかわからないけど、俺がした反応はこうだ。
「む、無言で目を逸らすな!」
「無理ですよ! し、刺激が強いんです!」
木井さんの『お祝い』から目を逸らす。
せっかくのお祝いから目を逸らすなんて酷いことだけど、こればっかりは仕方ない。
だって木井さんがいきなり服を脱いで前に買った水着姿になったのだから。
「強一くんが選んだんだから、か、感想が欲しいなー」
「木井さんも動揺してるじゃないですか。木井さんは綺麗で可愛いです。これでいいですか?」
「よ、よくないね。ちゃ、ちゃんと見てくれないとわからないでしょ?」
「見なくても木井さんが唯一無二の可愛さなのは知ってます!」
俺を照れさせたい木井さんと、色々とやばくならないように目を瞑る俺の戦いが始まる。
そしてすぐに終わる。
「やっぱり私の醜い体なんて見たくないよね……ごめん」
「……ずるい人だよほんとに」
俺は振り向いてゆっくり目を開ける。
悲しげだった木井さんが驚いた顔に変わる。
そして顔から下に視線を下ろす。
「いや、無理!」
「過剰過ぎない? 確かに水着を下着って思う人もいるみたいだけど、これって水着にしては布面積多いよ?」
そういう問題ではない。
いや、あるんだけど。
「俺はそういうのに免疫が無いんですよ。女性の肌を見ることだってほとんど無かったですし、前回は木井さんの綺麗さに目が行って大丈夫でしたけど、今回は色々と破壊力がやばいんですよ」
俺が見たことのある女性の肌は、お見舞いに来る人が半袖だった時の腕が最大で、それ以上は見たことがない。
母さんの買ってきた本の中には漫画もあるので、そこでなら多少は見たことがあるけど、それはあくまで漫画であって、やっぱり本物ではない。
だからいきなり女性の肌、しかも木井さんの肌なんて見せられたら色々とまずい。
「えっちなこと聞いていい?」
「嫌です」
「強一くんってさ、……一人のしたことある?」
「知りませんよ。そもそも入院してるのにそんなことできるわけないじゃないですか!」
「なるほど。知らないかと思ってたけど、強一くんはちゃんとお勉強してたんだもんね。律儀に保健も」
木井さんにすごい納得された。
それがまた結構くる。
俺にだって性知識ぐらいはある。
だからこうして木井さんから目を逸らさなければいけないのだから。
「ふーむふむ。つまり強一くんは私に発情してくれてると?」
「言い方が嫌です。というか男なら木井さんの体を見て何も感じないなんて有り得ません」
「女性不信とか同性愛者なら何も感じないかもよ?」
「そういう屁理屈はいいんです!」
とてもやばい。
俺がこうしてテンパっていると、木井さんがから回れない。
そうなると俺が一方的におもちゃにされる。
だけどどうしようもないのが現状だ。
「ぴとっ」
「……可愛い擬音で誤魔化されませんよ? 何してます?」
「強一くんが見てくれないからくっついてみた」
まったく意味がんからないけど、確かに俺の背中には木井さんの温かさを感じる。
そして木井さんの……
「私で興奮しちゃった?」
「……」
「いいよ、男の子だもん。むしろ私を女の子として見てくれてて安心した」
「木井さんはどう見ても男には見えません」
「そういう意味で言ってないのはわかってるでしょ?」
木井さんの声が耳元で聞こえて頭がおかしくなりそうだ。
というかこれ以上はやばい。
「木井さん、ちょっと離れてください」
「なんで?」
「わかりません?」
「恥ずかしいから?」
「そうですけど、俺の心臓が文字通り死にます」
「やば!」
木井さんが慌てて俺から離れる。
落ち着きはしないけど、これならまだ大丈夫なはずだ。
「ごめん、調子に乗った」
「いえ、死ぬ理由が木井さんにドキドキしすぎてなら本望ですけど、木井さんが自分を責めてもいけないので」
「正直に言うと、私も心臓がいたいくらいにドキドキしてる」
「もうやめましょうね」
「んー、せめて感想だけはちょうだい」
「少し時間をください」
今の状態で木井さんの体を見たらほんとに心臓が止まる可能性がある。
俺は深呼吸をして、心臓を落ち着かせてから木井さんの方に体を向ける。
「ど、どう?」
木井さんがモジモジとしながら俺に聞く。
いや、もうそんなの可愛いよ?
俺が木井さんに選んだ水着は、黒くて右肩だけに掛かっていて、どうやって着てるんだ? って思う水着だ。
実際こうして着てるのを見ても、なんで脱げないのかが不思議でならない。
選んだ理由? そんなのピンときたからだから知らない。
「強一くん、無反応は駄目って言ったじゃん。それともやっぱり見るに堪えない……?」
木井さんが自分の痣に手を伸ばす。
だけど俺は今それどころではない。
「強一くん?」
「木井さんが悪いんですからね」
俺はそう言って立ち上がり、木井さんに近づく。
そしておもむろに木井さんを抱きしめた。
「え? えー……え?」
「綺麗です、可愛いです。もう聞き飽きたかもしれないですけど、俺も言い飽きました。なので素直に行動に移して、ちょっと本音をぶつけます」
俺はそう言って木井さんの耳元に顔を近づける。
「あんまり誘惑すると、俺も我慢をやめるから」
「ひゃ、ひゃい!」
木井さんが崩れ落ちた。
俺が支えていたので怪我はないと思うけど、いきなりどうしたのか。
顔は茹でダコのように真っ赤になって、目もキョロキョロしている。
これもまた可愛い。
ちょっと追い討ちしたくなった。
「可愛い夢奈、おいたはほどほどにね」
俺がそう耳元で囁くと、木井さんが「ひゃい」と言って倒れた。
どうやら何かをやりすぎたようだ。
とりあえずこのまま寝かせて風邪を引かれたらいけないので、《《他意はなく》》、お姫様抱っこをしてベッドに運んだ。
決して木井さんの女の子らしい柔らかな太ももを堪能なんてしていない。
マジで。
木井さんをベッドに寝かせ、目に毒なので即座に毛布をかけた。
そしてそのまま離れれば良かったものを、木井さんに視線を持っていかれ、手が伸びて……
木井さんの綺麗な鎖骨を触っていた。
そこですごい罪悪感に襲われたので、俺はクローゼットの中に引きこもった。
暑かったけどちょうどいい罰になった。
すぐに木井さんが起きる音がしたので、クローゼットから出ると、木井さんに「何してんのこいつ」みたいな顔をされた。
それに対して「無防備な木井さんに……なんでもないです」と答えると木井さんが毛布を被ってモゾモゾとしだした。
そして数分後に「したの?」と言われたので、無言で返すと、木井さんの顔がまたもや真っ赤になった。
それからは服を着た木井さんと気まずい雰囲気になり、それに耐えられなくなった俺が鎖骨に触れたことを謝ると「あ、鎖骨……だけ?」と言われたので頷いて返すと、木井さんがホッとして、だけどちょっとだけ残念そうな顔をしていた。
もう二度と勝手に木井さんに触れるのはやめようと心に決めたのだった。




