獏
獏…中国の想像上の動物。鼻は象、目はさい、尾は牛、足は虎に似て頭は小さい。(旺文社 国語事典 第十版より抜粋)
私は、獏を見たことがあります。
それは私が保育所に通っていた頃の話です。当時私が通っていた保育所は、平屋造りの建物に、大きなグラウンドやプールまである、広々とした場所でした。それにしては園児数は少なく、一組の人数は十人前後だったように思います。その十人前後の中に、私の親友がいました。
名前を、仮にAちゃんとします。Aちゃんは、可愛くて明るい女の子でした。男の子と同じような服装をしていた私とは違い、いつもフリルやリボンのたくさんついた、人形のように可愛らしい格好をしていました。それでいて、かけっこは一番で、鉄棒で逆上がりが最初にできるようになったのも彼女でした。
夕方になると綺麗なお母さんが迎えに来て、延長保育の常連だった私は、ひどくうらやましかったのを覚えています。それで言うと、彼女は私がうらやましかったようでした。「Aも、ゆうちゃんみたいにもっと遊んでたい」と、帰り際になるとどこか元気がありませんでした。
それでもやっぱりお母さんが来ると嬉しいのか、あの綺麗なお母さんに名前を呼ばれると、挨拶もそこそこに帰ってしまうのでした。
Aちゃんはピンクと水色が好きでした。服も、靴も、靴下も、たいていピンクか水色でした。強烈に覚えているのは、お昼寝布団です。保育園では午後に一時間ほど、お昼寝の時間が設けられているのですが、その際に使う布団に色や種類の指定は無いのです。だから、みんな思い思いの…と言っても、大抵は親の意思なのか真っ白なものばかりでしたが…布団を持ってきていました。
Aちゃんは、というと水色でした。キャラクターものではなく、柄物ですらなく、ただ一色の水色でした。夏の青空のような、くっきりとした水色でした。
その日も、Aちゃんは水色のお昼寝布団を敷いていました。お昼寝の時間です。仲の良い子たちが喋ってしまうことを防ぐためか、私とAちゃんの布団は、何人かの園児を挟んで、離れたところに敷いてありました。
夏の午後でした。
締め切ったガラス窓の奥に、人のいない運動場が見えていました。多くの園児はすぐに寝ついてしまっていて、私もいつの間にかうとうとと目を閉じていました。
ガタ、と音がして、私は目を覚ましました。保育園は木造で、ドアも木の引き戸でしたから、ドアを開閉すればそんな音がするのでした。どうやら、園児たちを寝かしつけていた先生が、部屋を出ていった音のようでした。
寝起きの、まだぼんやりとする目で、私は何の気なしにAちゃんを見ました。
はっとしました。
いつもと同じ、水色の布団で眠るAちゃん。仰向けに寝るAちゃんの体の上に、何か覆い被さるような黒いもやがあるのです。もやはAちゃんの体より一回り大きく、子供用の布団からはみ出さんばかりでした。人の形ではなく、四つ足の獣のような形をしていました。得体の知れない、形もはっきりとしない四つ足の生き物が、おそらく顔にあたるだろう部分を、Aちゃんの額に押しつけているのでした。
そして、その時に気付いたのですが、Aちゃんはひどく、苦しそうな表情をしていました。
私の胸には、親友を助けなければという勇気が湧き起こりました。同時に、得体の知れないものに立ち向かう恐怖の心も生じました。
あの黒いもやもやが、自分の方に向かってきたら、どんなに怖いことになるだろう。
私は動くことができず、四つ足のもやと、苦しむAちゃんを見つめ続けました。そしていつの間にか、また眠ってしまったようでした。
再び目が覚めた時には、昼寝の時間は終わっていました。先生も戻っており、園児たちは自身のお昼寝布団を片付けていました。先に目を覚ましていたAちゃんは、既に外に遊びに行ってしまったようでした。
布団の片付けを終えた私は、グラウンドで遊ぶAちゃんに声をかけました。
遮るもののない夏の日差しの中、Aちゃんはいつも以上に元気そうに見えました。
「Aちゃん、お昼寝中、大丈夫だった?」と、私は要領を得ない質問をしました。お昼寝の時間、ただ寝ていただけのAちゃんに、何のことか分かるはずがありません。そのはずです。
けれど、Aちゃんは頷きました。
見たこともないような、輝かんばかりの笑顔で頷きました。
「うん。大丈夫だよ。大きな強い動物さんがね、ママをやっつけて食べてくれたの」
……。
……………………。
その日、Aちゃんを迎えに来たのは、彼女のお母さんではありませんでした。