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凡庸な人間には最後まで読めないまえがき

2020年にAMAZONのKindleStoreで発売した『ひきこもりの手記』の体験版まえがきです。興味あるかたは「ひきこもりの手記」で検索してみてください。

 第0章 凡庸な人間には最後までよめないまえがき



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 常に私は嘘吐きである。此の手記も虚構である。冒頭にこのような忠告は無作法だが理由がある。私は此処に過去の犯行を記録した。其のことについて読者に騒ぎたてられると面倒だから忠告したのだ。犯罪とは殺人である、しかし、手記の中心に殺人はない、数十年かけて考えたことを、自分の生涯と絡めながら発表したい、其れが動機であり、殺人自体を伝えたいのではない、だから、当手記は決して『殺人鬼の手記』ではないのである。



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 凡庸な人間には当手記どころか、此のまえがきすら最後まで読むことができないだろう。何故なら凡人は複雑で理解しがたいことを投げだしてしまう傾向があるからだ。そして人間の生涯、精神とは複雑で理解しがたいものである。此の手記は私の生涯と精神を記述したものにほかならない。もちろんその手記のまえがきにあたる本文も同様である。故に複雑で理解しがたい──否、理解しようがない。少なくとも大学受験程度の国語試験を上手に解答できたくらいで『自分には読解力がある』と勘違いしている優秀な凡人には到底理解できないだろう。国語の授業で勉強するような言葉、試験で出題される文章は所詮正しい言葉・正しい文章でしかない。それらはいうなれば調教された動物のようなもの。本来の言葉・文章とは野生の動物である。文明の外側に法律などないように野生の言葉に正しさなどない。正しい言葉・正しい文章だけ理解できても野生の言葉には通用しない。国語の試験が得意なだけの優秀な凡人は調教された言葉を手懐けることはできても野生の言葉に触れることさえできない。人間の本質も野蛮な動物でしかないように人間の言葉も本質は野蛮な雄叫びでしかない。正しい言葉・正しい文章しか理解できない優秀な凡人は永遠に人間の中身を理解することができない。人間の生涯や精神、要するに人間の中身には論理的整合性もなければ一貫性もなく堅牢な文体もなければ律儀に文法を守ることもない。それこそまさに野生なのだ。故にそのような人間の中身を記述しようとすれば必然的に支離滅裂で文体も混乱していて文法も逸脱したものになる。むしろそうでなければそれは人間の中身を切実に記述しようとしていない証拠だ。正しい言葉・正しい文章、要は飼いならされた子犬のような記述を求めている凡人は当手記の読者に向かない。そういう読者はいますぐ本書を読むのはやめにして本屋でベストセラー小説でも買うといい。ベストセラー小説は大抵『単純で理解しやすくて良いもの』だ。但し大抵『それだけ』だ。



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 当手記にはふたつの矛盾する性質がある、ひとつは誰にも読めないだろうということ、もうひとつは誰にでも読めるだろうということ、人間はそもそも他人の書いていることなど本当の意味で読解できるはずがないのだ、他人の考えていることを本当の意味で理解できるはずもないように……そしてまた、私は此処に自分の考えていることを嘘偽りなく記述した、故に当手記は他人が全部理解できるような都合のいい書物ではない、頭から尾まで読んで全部理解できる人間は、恐らく世界にひとりもいないだろう、その一方で、当手記は誰にでも読めるともいえる、というのは、当手記は断片的な記述の集積であるが故に、適当に開いて拾いよみしたとしてもそれなりに楽しめる書物になっているのだ、もちろんそれは私が意図したことではなく、結果的にそういう書物にしかならなかった、というだけのことなのだが……。



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 貴方は、数十年間、決められたいくつかの部屋を移動するばかりの人間を、数十年間、窓から外を眺めてばかりいる人間を、数十年間、本を読んでは書いてばかりいる人間を、知らないだろう、其のような人間が、何を考えて、何を書いているのか、貴方は知らない、私は知るなぜなら、私がそういう人間だからだ。

 私の手記を貴方が読まないならば、貴方は貴方の知らないそれらを、知らないまま生きて、知らないまま死んでいくことになる、貴方はこれまでどおり知らないことを知らないまま何不自由なく生活していく、困ることはなにひとつない、其れにそもそも、知らないと困ることなんて、本には書いていない、本に書いてあるのはいつも、生きていくうえで不要で、邪魔で、余分なことばかりだ、知らないと困ることは大抵、両親に教わるか、身体に刻みこまれている、何よりも、此処に書いてあるのは知らないと困るどころか、知らないほうがいいことばかりである、貴方がもしも、知らないと困るなにかを探しているのなら、私の手記を読むのはここでやめにして、他を探したほうがいい。



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 私のような人間を世間知らずと揶揄する人達がいる、自分は世間を知っているつもりの人達、其のような人達は、私のような人間の何を知るのだろう、何も知らない、其れなのに、自分は世間を知っているつもりなのであるつまり、無自覚に私のような存在を世間から除外しているのだ、仮に、私のような存在を世間からはみだした、世間の外側とするのであれば、私を世間知らずと揶揄する人達は世間の外側知らずにほかならない、私はそういう人達に、自分がないものにされるのが不快で仕方ない、ないものにされてそのまま死んでいくのが堪らなく嫌である、世間を舞台とすれば、ないものにされるとは、舞台の上、自分にだけ役柄のないようなものだ、舞台にいてもうろうろするしかないのだから、舞台袖に隠れたのだ、当時は、自分の立場をなんて言えばいいのかわからなかったが、今では私のような人間にも名前が与えられている──ひきこもり、ひきこもりという言葉を流行らせたのは、精神科医らしいが、精神科医は大嫌いである、私は、彼等に不当に気狂扱いされた経験がある、私は不当に気狂扱いされながらも、其のような取扱いを逆手に利用した、社会保障を駆使することで、膨大な時間を確保した、古今東西の書物を読みこみ、創造的活動に取組んだ、確かに私はひきこもりだが実際、歴史的偉人と比較しても劣らぬほどに働いたのである、只、私と時代の噛みあわせが悪かった、だけ、なのだ、だから、読者諸君にはいますぐ、偏見を忘れてもらわなければならない、偏見に支配された人達は、目前の人間を直視できない、偏見の捏造した虚像を其処に幻視してしまう、其のような人達が、私の言葉を読んだところで、私の言葉を其処から読みとることはできない、私は此処に勿論、私の言葉を書きつらねているが、偏見に支配された人達は、其処から私以外の言葉を読みとるだろう、特に、精神科医や心理学者や社会学者が語るようなひきこもりや気狂や殺人鬼の印象、人物像は即刻、頭から追いだすべきである、私はひきこもりや気狂や殺人鬼の代表ではない、私は私の代表である。



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 当手記は、私の考えたことを率直に書いているため、読んでいて気分のよくなるものではない、人間が、心底で考えていることなんて、本来気分のいいものではない、精神的に潔癖な人達は読まないほうがいい、又、当手記の内容についてはできるだけ口外しないでほしい、厳密に禁止したりはしないが──現時点で私筆者の過去の犯行は時効を迎えているはずだが──内容が内容だけに、大袈裟に吹聴されて面倒事にされたくない、万が一、嫌がらせなどの迷惑行為を受けた場合は、法的措置を取らせてもらう、手荒なことはしたくないが、断固とした姿勢で対峙するつもりである、故に覚悟してもらいたい。



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 友人がそうであるように、読者は数人程度が好ましい。



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 どうしてひきこもりになったのか、どうして気狂扱いされているのか、どうして人殺しになったのか、此のようなもろもろの謎が頁をめくるごとにおもしろおかしく解きあかされていく……仮に貴方がそういうものを求めているのだとしたら私はその期待に応えることができないだろう、私は此処に自分の生涯や精神を記した、そしてそれらは娯楽作品などではない、人間の生涯や精神は他人を楽しませるための道具ではないのだ、私は文字通り此処に全身全霊を注いだ、私がこれまで考えてきたことの総決算を此処に記した、数十年間、書きためてきた膨大な言葉の内、最重要と思われるものだけが此処に記されているのだ、貴方が、気晴らしになるおもしろおかしい物語を求めているのなら、当手記ではなくそういう物語を読めばいい、少年漫画や少女漫画や推理小説……気晴らしに最適化された素晴らしい娯楽作品は腐るほどある、故に私はそういうものを書きたいとは思わないし、私がそういうものを書いたとしても既製品の再生産にしかならない、再生産で済むならまだしもおそらく劣化版にしかならない、私より上手に書ける人間がたくさんいるような作品を私が書かなければならない理由はない、私は私にしか書けないことしか書かない、其れは私の中身、私以外に私の中身を上手に書ける人間は存在しない、私はこれまで生きてきて誰にも私の中身を打ちあけたことがない、私以外に私の中身を知る人間さえいないのだ、故に私は私の中身を此処にぶちまけた、私の中身は世界の何処を探しても此処にしかない、貴方は世界にひとつしかない珍奇な卵をたまたま発見した、誰も中身を見たこともないし開いたこともなければ味見したこともない、貴方が今、読んでいる当手記はそういう卵である、貴方の発見はたまたまがもたらした奇跡にすぎないが、貴重な発見とはそういうものなのだ、世界にひとつしかない卵の発見者は貴方以外でもよかった──しかしたまたまだろうとなんだろうと──現に発見したのは貴方なのだ、作品と読者の出会いというのはこうでなければおもしろくない、偶然であり奇跡であり未知の発見でなければ……私はそもそも自分の中身を数千円で売ることにも相当な抵抗感がある、私からすれば当手記は生涯であり精神であり全身全霊なのだ、此処にあるのは数ヶ月で書きあげたおもしろおかしい物語ではない、私が数十年間かけて考えそして書いてきたことの総決算が此処にあるのだ、それを数千円で──要するにビール数杯分の値段或いは数十分で食べおわるような一枚のピザと同程度の値段で──売るなんてこれほど理不尽に思えることもない、仮に貴方が「数杯のビールや一枚のピザのほうが余程価値がある」と思うなら、貴方は今すぐ宅配のピザを頼んだらいい、若しくは居酒屋でビールを頼んだらいい、其れこそ凡庸な人間に御似合いの選択だ、私が求めているのは特別な人間だ。



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 貴方は生まれてはじめての読者であり、友人である。



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 貴方は十年後まで現れないかもしれない、貴方はそれどころか百年後まで現れないかもしれない、しかし、私はそれでもかまわない……文学とは時空をこえて筆者と読者を結びつける秘密の待合場なのだ。

 或いは、待合場ではなく決闘場、幾千の剣闘士が血を流した円形闘技場、かつてどれほどの初学者がニーチェの『ツァラトゥストラ』を前に平伏したことだろう、かつてどれほどの人々が『聖書』を舞台に殺しあいをしたのだろう、文学は私と貴方ないし思想と思想の決闘の場所となる……通信技術の発達はひきこもりにも待合の場所と決闘の契機を与えてくれた、ローマ帝国の円形闘技場がそうであるように、奴隷であろうとなんであろうと無論、たとえひきこもりであろうと気狂であろうと殺人鬼であろうと一切関係ないむしろ、数々のそのような偏見や誤解の付きまとう私自身の立場が、私の燃えるような闘志に蒔を焚べたとさえいえる、轟々と唸りをあげる炎において追風も向風も区別なく、糧となる。

 死闘の最中においては肩書きどころか世間一般の常識、倫理、法律ですら御呼びではない、文学という特異の場所はそれら日常の外側にある、否、時として文学はそれらにこそ決闘を申込むのである。私は、貴方や社会や世間一般に対して、詩情を剣に論理を盾に修辞を技に、決闘を申込もうとする現代の剣闘士である。誰が私の蛮勇を嘲笑うことなどできようか、現に、羊飼いは投石で巨人の戦士を倒したではないか、私はただただひきこもりをしていたわけではない、貴方達(それはまるで巨人の戦士に違いない)の額に石をぶつける機会を窺っていたのである、そして、私は自身の死闘の場所を荒野でも円形闘技場でもなく文学にこそ見出したのだ、事実、貴方は最初の友人でありながら最初の決闘相手でもある。刺違えんばかりの剣闘士としての覚悟や自尊心こそが当手記の発表に踏切らせた、私が危険を冒して自身の殺人に言及したのもそのため、粗暴な批判や非難を恐れて死闘などできはしない、何度でも叫ぼう、私がひきこもりであるとして気狂だとして殺人鬼だとしてそれがなんだというのだろう、私は中学生の時点で教育を拒絶した、私は労働の経験もほとんどない、しかし、其のような事実すらも私自身の知性の欠如を裏付ける根拠にはならない、私は代わりというにはあまりあるほどに膨大な時間を思索に費やした、読書を通して古今東西の文学者、哲学者、科学者、思想家、神秘家、宗教家、芸術家、凡ゆる叡智を教授陣として孤独の部屋に招きいれた、そしてたくさんのことを彼等の書物から学んだのである。貴方達が如何に環境に恵まれていようと高度の教育を受けていようと高校や大学にガウタマ・シッダールタやデジデリウス・エラスムスやエイマヌエル・カントやリファス・レヴィやルドルフ・シュタイナーやフリードリヒ・ニーチェやエトムント・フッサールがいるはずもない、仮に、彼等に劣らぬ講師がいたとしてもひとつの教育機関にひとりやふたりくらいのものだろう、しかし、私の書棚には彼等が勢揃いして腰下ろしているのだ、尚且つ、彼等の一生涯を賭したともいえる知の集大成としての書物は、高校講師や大学講師や凡才学者の思いつきの講義とは比べものにならないほどに濃密ではないか、彼等の書物に比べたら高校講師や大学講師の講義なんてものは司書や本屋店員の読書案内程度に過ぎないだろう、書物ほど優れた家庭教師はいないし、読書体験ほど有意義な講義なんてものもない、何処の馬の骨かわからぬ凡才学者に学ぶくらいならば、偉大な先人の名著を精読したほうが……否、何も私は教育機関一切を批判したいのではない、只、学校教育を受けていないことは無学を意味しない、ひきこもりでありながらも人知れず高名な学者達の叡智に触れていたのだ、と此処に宣言したいのだ、私には貴方と互角に決闘できる自信がある、そして何度でも叫ぼう、仮に私が気狂だとして何の問題があるのだろう、仮に私が殺人鬼だとして何の問題があるのだろう、理性の内に一抹の狂気があるように、狂気の内に一抹の理性があるのではなかろうか、徳の内に一抹の悪徳があるように悪徳の内に一抹の徳があるのでなかろうか、問題があるとすれば読者の偏見だけだ。



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 私自身の当手記に込めた気概は上述したとおりであるが、一方で当手記は多様な読方ができる。芸術家が天性の霊感に翻弄される生涯について記したという意味では『芸術家列伝』のようにも読める、思想家が自身の思索を声高らかに歌いあげるという意味では『善悪の彼岸』のようにも読める、科学者が難問に取組んでいく様子を赤裸々に綴るという意味では『フェルマーの最終定理』のようにも読める、歴史的記録であり同時に個人的記録であるという意味では『アンネの日記』のようにも読める、不思議な夢物語という意味では『不思議な国のアリス』や『鏡の国のアリス』のようにも読める、しかし『ドン・キホーテ』のようには読まないでほしい……というのも、私自身が当手記の読方を決めかねているのだ。

 当手記の執筆は、大元を辿れば四十年以上前からはじめられていて、当初はこのような形式で発表することを勿論想定しておらず、夢や神秘体験あるいは考察や記録や論理や理論等が膨大なメモやノートに断片的に記されているだけであった、断片的な言葉の極一部を強引にひとつにしたものが当手記の内訳というわけだ、だから、首尾一貫したものになるはずもない、数十年間、人間の考えていることが変化することなく発展がないなんてことはありうるはずもない、矛盾や支離滅裂が多少発生するのは必然、事実、私が書いてきたものは見返してみてもひとりの人間が書いたものとは思えないほどに多種多様な言葉で書かれていたのである、勿論、矛盾や支離滅裂の発生部分だけを取りのぞいて有象無象の全体からひとつだけを此処に記すこともできた、恐らくそのような作業を踏めば分かりやすく読みやすく理路整然とした作品を仕上げることもできただろう、しかし、其れでは私の研究報告書としても私の生涯記録としてもあまりに不十分、不十分どころか出鱈目で不誠実、例えば、熱帯雨林から美しい花や植物だけを収集して美しい花畑や植物園をつくりあげたとしてもそれは熱帯雨林ではないだろう、其のような風景を本当の熱帯雨林と宣伝して入場料を徴収したとすればそれは興行師あるいは詐欺師の仕事である。本当の熱帯雨林ならば、川辺には牛を丸呑みにしてしまうような鰐や蛇が、足元には軍隊蟻が、頭上には猛獣が、人間の理解や侵入を阻むような多種多様の生命が、美醜の区別もないままに、其処になければならない、有象無象の風景のうちからそのような不都合を取除いて再現したところでなにが本当の熱帯雨林だろうか……確かに凡庸な人間が踏込むにはあまりに危険だろう、仮に、貴方が庭園のように美しくて歩みやすくて直線的で人工的な読物を探しているのであれば、当手記は貴方の期待に応えられるものではないかもしれない、しかし、真の冒険者は危険の領地にこそ踏込んでいき、泥塗れになりながらも、蔦や蔓や茂で構築された自然の迷宮を這うように進んでいき、天高くまで伸びていく広葉樹の真黒い陰影の隙間に、黄金に輝くような生命の神秘を発見するものなのだ、むしろ、複雑で雑多で多様の風景のうちにあるからこそ美しいものはより美しいものとして真の冒険者の目前にのみ浮かびあがるのである。世界一の美しい蝶と謳われるレテノールモルフォの標本は世界中の何処でもみることができる、しかし、熱帯雨林の奥地、深緑が織りなす幾重の陰影から怪しく浮かびあがるようにゆれる青色の羽、深緑の巨人の背中で羽を休める青色の妖精、明暗の、色彩の、美醜の、鮮烈な対比により演出される奇跡の美しさ……は捕まえることも持ちかえることも標本にすることもできない。美しい羽や美しい花や美しい生物だけを集めてもそれは造花のように捏造された真実、陳腐な装飾、仮初の美である。私はこのような芸術家特有の美意識や文学者特有の誠実性や科学者特有の生真面目をないまぜにした結果、矛盾も支離滅裂も含めてまとめようと決断したのである。当手記には私自身でさえ理解のできていない箇所がある、いや……一箇所一箇所を読んでいくぶんには問題ないのだが、複数の論理や理論が展開されていくために相互に多少不一致があり全体観として理解することが困難なのである、大体、自分で書いたとはいえ数十年も以前の記述を自分で分かるものでもないだろう、しかし、私は分からないところにこそ真実が隠れているような期待を抱いた、分かることを分かるままに書いたとしてそもそもなんになろうか、既知の事実を既知の事実としてまとめたところでそれは芸術的価値も学術的価値もありはしない、芸術鑑賞において、研究過程において、作者も読者も自分自身の既知の世界を超えるべく未知の領域にまで踏込まなければならないのである。何も熱帯雨林のような未整理の物語を読ませようとしているわけではない、むしろ、読者の読みやすさを十分考慮したうえで限界まで、興行師や詐欺師数歩手前の段階まで整理整頓したつもりなのだ、只、其処には上記の理由から不可避の矛盾と支離滅裂が含まれているというだけのこと、四十年間も書きためてきたことを此処まで整理整頓した自分自身を褒めてやりたいほどである、十歳時点の記述、十五歳時点の記述、二十歳時点の記述、三十歳時点の記述……是等は文体においても内容においても、乱視者が見ている風景のように、輪郭が重なるなりずれるなりぼやけるなりして、兎角焦点の定まらないものなのだ。



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 私自身が踏込みたくないところにまで踏込もうとしたがために、行止まりのようなところに、深海のようなところに、大海原のようなところに、此等の何処でもない何処かに、私自身が投げだされたのである、否、決して投げだしたのではなく投げこんだのだ、大空には岩のような暗雲、暗雲と暗雲は火花を放ちながら擦れあい、火花のうちから稲妻が、産声をあげながら閃光の根をおろす、羅針盤は失神した患者の眼球のように右回り左回りに回転し、航路図は空飛ぶ絨毯のように彼方に消えていく、私は遭難したのではなく、私の冒険者としての血こそが、嵐雲の中心、荒れくるう海原、船乗りの墓場にまで私自身を向かわせた、四方八方を幽霊船に囲まれながら、黒々とした渦潮にめがけて投げこんだ、私自身は私自身の踏込めるところまで進んだ。



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「指で月を示すと馬鹿者は指をみる」という中国の諺があるが、私が此処に書きつらねている言葉はいわば私の指、私の伝えたいことはその先にこそある、確かに私の指は震えてみえる、月を示したかとおもうと太陽を示したかのような挙動をみせる、しかし、私の震える指先、言葉は、確かになにか指し示すべきものを示そうとしている、震え、軌道、運動にさえ、何らかの方向、否、意志があるのだ。



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 実は当手記以外にもこれまでかぞえきれないほどの書物を書きあげてきた、もしかすると当手記はそのなかでいちばんできの悪いものかもしれない、完成させるために何度も何度も書きなおしてきたが、まるでものにならなかったのだ、事実に対して忠実に書きなおそうとすればするほど、四方八方にやたらと手足が伸びていくものだから、均整のとれたまとまりになるどころか、自分でもキマイラか奇怪な化物でもでっちあげようとしているようにしかおもえないほどだった、それにくわえて、文体は散乱、論理は錯乱、粗筋は混乱ときているのだから、万人にわかりやすく整理された作品とはまるで無縁のものなのだ……しかしどうしたわけか、私はこれまで自身の書きあげてきたあらゆる書物よりも当手記におもいいれがある、当手記を書くために生まれてきたのではないかとさえいまではおもっている、私自身を引きつけてやまないなにかがある、自分の精神の奥深くでながれている私自身でさえわからない特別な水脈の手触りがここにあるのだ……自分でいうのもなんだがこれは疑いようもなく傑作である、賢人は自画自賛する人間のことを愚者と咎める、しかしそんなことは問題にはならない、愚者こそ私の名にふわさしいのだから、賢人はこざかしく嘘を語るが愚者は愚かであるがために真実しか語れない、賢人が着飾られたいつわりの人間だとしたら愚者はありのままの人間である、私以上に私のありのままの精神を記述できる人間がほかにいるだろうか、私以上に私を知るものはだれもいない、私が愚者だとすれば私以上に人間の精神を率直に記述できる人間はいないのだ、何故なら愚者こそ人間の本質なのだから。



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 当手記を読むためにもちろん学歴も身分も必要無い、博学である必要もないし知識人や文化人や勉強家や読書家である必要もない、詩や戯曲や文学に触れたこともなければ哲学書や思想書や宗教書に触れたこともないというひとでもかまわない、当手記は複雑そして難解ではあるが、無闇に学術用語や高名な学者の名前を散りばめて初学者を拒絶するようなことはしていない、分からなければ分からないで何も問題無い、或いは分からないことを楽しめることこそ、当手記の読者には求められるのだ、当手記を読むにあたり必要なのは教養・知性・理性ではない、必要なのは霊感・感性・創造性……暗闇や未知や神秘に対する純粋な好奇心である。仮に貴方がそういう特別な人間であるならば最後まで読まなくとも当手記から十分ななにかを得られるだろう、極論、当手記を退屈しながら読んだとしてもそのうちの極一部から貴方はなにかを得られるだろう、若しくは当手記をまともに読まなくとも適当に開いてみつけた一行から貴方はなにかを得られるだろう、反対にいえば貴方がそういう特別な人間ではないのなら、幾ら頭脳明晰だろうと博覧強記だろうと当手記からなにも得られない、特別な人間には天啓を与えて凡庸な人間は拒絶する、当手記は暗闇に包まれた森である、人間どころか獣物にも開かれているが其処からなにかを得られるのは特別な存在だけなのだ。



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 所で、此処まで読みすすめることのできた読者はひとりでもいるのだろうか、此処までついてこれた読者がひとりでもいるとすればそして、其れが貴方だとすれば、貴方は百人にひとりの逸材だろう、貴方はこれまで自分を凡人と勘違いしてきたかもしれない、しかしそれはとんだ勘違いだ、大抵の凡人はこういう書物を見掛けてもまず開こうとさえしない、凡人は凡人であればあるほど保守的であり、未知なものより見慣れたものを好む、未知なものに、自身の理解できないものに触れることを恐れる、書物の選びかたにしてもみんなの読んでいるものを選ぼうとする、誰も読んでいないこんな珍奇な書物を開いただけで貴方は相当変人なのだ、其れだけではない、貴方は開いただけでなく此処まで読みとおした、恐らく当手記を開いた人間が百人いたとしても此処まで読みきれるのはひとりくらいしかいないだろう……断言しよう、貴方は未知に触れる才能がある、読書を通して、未だかつて誰も触れたことのないなにかを掴みとる才能がある、複雑で怪奇で巨大な物事を捉えようとする才能がある、そしてそれこそ現代人に欠如している能力であり、現代人に必要な能力なのである、何故なら現代社会こそまさに複雑で怪奇で巨大な物事にほかならないからだ、もうひとつ、貴方には創造の才能がある、言葉から直感と霊感と想像力を得られる人間だけが偉大な創造者になれる、音楽にしても絵画にしても彫刻にしても建築にしても、古代よりその背後には神話、宗教、詩歌があった、神話や宗教や詩歌は単なる芸術のモチーフではない、神話や宗教や詩歌こそが──言葉こそが!──創造の源泉なのだ、此処まで読みとおすことのできた貴方は、言葉からなにかの気配を感じとる感受性を有している、其れこそ創造者に不可欠な才能、むしろその才能を有するものはその才能を自覚したが最後、創造者になるほかない、自分の内面に孕んだなにかを生みだしたくてたまらなくなる、貴方には、有象無象の冗長な散文からでも一行の奇跡を見出しそこから万の創造を成しとげるだけの才能がある、貴方は自覚していないかもしれないが、貴方のような人間はなにかを創造するためにこの世界に生まれてきたのだ、故に貴方はささやかでもいいからなにかを絶対に創造するべきだ、私は貴方にこのことを指摘できただけでも当手記を発表した甲斐がある──但し、そんな貴方でも当手記を最後まで読みとおすことはできないだろう、仮に読みとおせたとしても半分程度しか理解できないだろう、何故なら、当手記にはそれほどまでに孤独と退屈と苦痛と憂鬱と憎悪と激情と混乱と矛盾と不可解と不愉快と理不尽が渦巻いているからだ、そしてそれは、私の精神と生涯がそれらに──孤独と退屈と苦痛と憂鬱と憎悪と激情と混乱と矛盾と不可解と不愉快と理不尽に──満ち溢れていたからにほかならない。

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