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マッドサイエンティスト

都心から少し離れた森


その中には一軒の家がある


そこに一人の青年が住んでいる


償えない罪を身にまとい、闊歩して歩いている


そんな日も終わりを迎える

僕はいつ死ぬのだろう。当てもなく彷徨うこの森のどこで死ぬのだろう。朝日を受け入れているここは、僕を受け入れてくれるだろうか。もう、何にもなれない僕を栄養としてくれるだろうか。ああ、足が疲れてきた。だけど、どうしてだろう。歩みが止まらない。疲れているはずなのに、棒のようになっているはずなのに。木々が横を通り過ぎていくのを止めない。

ふと一本の木の裏に人影が見えた。きっと幻覚だろう。もしかしたらまだ心の何処かで誰かが助けてくれると思っているのかもしれない。そんな醜い願望が視界に現れてしまった。そちらに気を取られていたから、足元の木に気が付かなかった。

大した音もなく倒れた僕の身体。枯れ葉が受け止めたことで、砂や土が宙に浮く。頬に当たる少し湿ったような感覚が何とも冷たくて気持ちが良かった。

そっと目を閉じると、正面にあった光が何かによって遮られ、暗い世界が訪れる。

「ちょっと、君。大丈夫ですか?こんな所で寝たりして。」

別に寝ているわけではない、と心のなかで返し、見える返事をせずただ通り過ぎるのを待った。

「はぁ、面倒ですね。連れてきますか。」

そう言ってその人は僕の肩を抱き、引きずりながら何処かへ運んでいった。明らかに僕より小さいその身体は触れた所から筋力を感じることができる。

それなりに雑に降ろされたところで、流石に目を開けて状況を整理する。

「すみません。ここはどこでしょうか。」

目の前の男であろう人物に声をかける。部屋の中は大学の研究室と殆ど同じような作りで、違う所と言うならば、一部に生活空間があることくらいだった。

「私の研究場です。」

上着をラックにかけながら、その人は答えた。

「では、貴方は誰ですか?」

自身についた葉っぱや土を落としながら質問を続けると、その人は生活空間にあるコンロへ移動し、お湯を沸かし始めた。

「私に問う前に、まずは自分から名乗ってください。」

特に怒ったりしている雰囲気はないのに、どこか強制力を持ったような声だった。

「僕は、蒼志です。」

咄嗟に口から出たのは名字ではなく名前だった。この発言に対しての返答がなかったため、僕は名字を名乗るタイミングを失う。

「私は、博士とでも呼んでもらいましょうか。君は何歳ですか?」

「僕は二十一歳です。」

お湯が湧くのを待つ間、博士は棚からマグカップを2つ出した。それぞれにインスタントのコーヒーの顆粒を入れる。仄かに香ったそれは、僕の知らない匂いだった。

「私は君より年上ですからね。それだけ覚えてくれればいいですよ。」

未だに入り口付近で座ったままの僕に顔も向けずにそう言った。ゆっくりと立ち上がり、博士の横に立つ。身長の差が大きいことに気づいた。頭一つ分の差があり、博士のことを上から見ると何だか不思議な感じがした。

「なんですか?せっかく来客向けのコーヒーを入れているというのに。」

「博士は僕を怪しまないのですか?」

あんな所で人を拾うなんてことはまずありえない話ではあるけれども。それでもここまで大したことがないように対応しているのだろう。

「あんな所で寝てたんですよ。君。明らかな訳ありでしょう?面白そうだと思ったんですよ。」

カップにお湯を注ぎ、片方を渡される。一口含むと博士はダイニングテーブルに移動し、タブレットを開いた。後ろから見る限り、博士は生物の生死を扱う研究をしているのだろう。

どちらかというと、死因の解明のほうが傾きが強いのかもしれない。

「ちょっと君。何をジロジロと。見たいならそう言えばいいでしょう。」

顔を上げてそう言われると、何だかいたたまれなくてすみませんと小さく謝る。

「博士のやられている研究について教えてもらえませんか?」

僕にとってこれからなんてどうでもよかった。どうせあそこで終わっていた未来だ。やりたいように、なるようにしかならない。


「君、なかなかに理解がありますね。まさか理解できるとは思っていませんでした。」

博士の話してくれた研究は驚きの連続だった。シンプルな疑問ではあるが、倫理に沿うことができない。

「僕は面白いと思ってますよ。でも、難しいですよね。安楽死って。」

博士の作ってくれた昼食を食べながら先程まで教えてもらった話について、質問などを交わす。

「博士は死にたいんですか?」

死にたいけど、苦しい、痛いのは嫌だって話はたまに聞く。それでもいいから死にたい人もたくさんいる。博士の場合は前者だったのだろう。そしてたまたま、それができる状況にあった。だから、研究をしている。

「私もね。色々あるんです。君がこれからも死なずにここで生活するならいつかお話しましょうか。」

食べ終わった食器を片付ける後ろ姿を見ると、ここでの生活が身体に染み付いているのが分かる。ノールックで洗剤を出せてるし。僕も食べ終わった食器を持って後ろに立つと、

「ご馳走様くらい言いなさいよ。」

と言われた。ふと、思ったことを口にしてみる。

「博士って男ですよね。」

横に立って分かる身長差とか、近くで見ると意外と広い肩幅とか。でも、背中まで長く伸び、艶のある髪を見ると映る影に女性を連想してしまう。

「もちろんです。私は生物学的にみてしっかりと男ですよ。」

そうだよな、と食器を渡しながら再びその姿を目に収める。水に濡れる手元を見ると、一本一本が細く骨ばっているのは男らしさを感じられるところの一つだと思った。

「食後は何がいいですか?紅茶、コーヒー、緑茶がありますけど。」

指さされた棚を見ると缶に分けられている顆粒を見つけた。別にどれでも構わなかったから、博士のおまかせで、と頭を下げる。

「そういうの困るんですけどね。まあいいですよ。緑茶にしましょう。コンロの火を付けてもらえますか?」

隣にあるコンロに移動して火をつける。やかんは綺麗に僕たちを写していて、日頃丁寧に使われていて手入れが行き届いているのが分かった。それかただの新品か。

「博士、どうして敬語なんですか?僕より年上なんですよね。」

洗った食器を拭いている博士に問いかける。すると微笑して顔を上げた。その横顔は儚く、正面にある窓からの光がかき消してしまいそうだった。

「癖ですよ。昔からの。治らないところまで過ごしてしまいました。なので、気にしないでください。」

まるで見えない誰かへ話しかけているようで、自分が蚊帳の外であることを感じる。

「それで、君はここ以外に行く宛などあるんですか?」

そう言われると、思い浮かぶ場所はなかった。あの場所で全てが終わるはずだった、だから何もない。家も、人も、場所も。何も、どこにも、なかった。

「ありません。でも、大丈夫です。夜までには出ていきますから。」

大概はこういった場合、ここから生きることを思い出すのだろう。でも現実はそう簡単に変わらない。それくらい中途半端な気持ちで死にたいわけじゃないから。

「出ていかなくていいですよ。その代わり私のを手伝ってください。」

だって君死にたいんでしょ?私のが完成すれば君にも貸してあげますよ。

嬉しい提案に心が揺らぐ。それと共に、何もかもを成り行きに任せたいという面倒くささが考えを支配し始めた。

「いいですね。博士の研究が完成したら無事に僕を殺してくださいね。」

こうして博士と僕の不思議な生活が始まった。


朝日が差し込むと同時に目が覚める。博士は朝早くから外出する人だと生活の中で知った。帰ってくるのはお昼に一回と夜陽が落ちた後。休日になるとお昼に帰ってこないこともある。その時は決まってお願いされることがあった。

「お昼ごはんを私の部屋に置いておいてもらえませんか。」

「え、帰ってきたら僕温めたりとかしますけど。」

そう言ったけど、博士は珍しく折れずにそのまま部屋に置いてくれと言った。

「別にそこまで言うなら構いませんよ。」

そして今日は博士が昼に帰ってこない休日である。あれ以来バイトを始めたりなど考えたが、身体の状態などを考えたところまずは平均的な生活が送れるようになってからという話になった。

冷蔵庫を開けると先週博士が買ってきたお肉が残っているのを見つけて、炒め物を作ろうと準備を始める。慣れてきて、勝手が分かってきたキッチンで料理をする。皿に盛り付け、今朝の余った米をレンジで温めてインスタントの味噌汁を作った。

別皿におかずを盛り、お盆を出して博士の部屋に運ぶ。一応形式的にノックをして扉を開けた。

「失礼します。」

ごちゃついている部屋の唯一綺麗にされているスペースにお盆を置く。そして周りにあるものを踏まないようにそっと部屋を出た。

「失礼しました。」

自身の昼食が終わり、食器を洗い終わると午前中に残した掃除を進める。掃除機を生活空間の隅から隅までかけ、ほこり一つ無い部屋を作り出す。いつもより早く終わってしまい、時間を持て余しているため外に出る。

「久しぶりの外だ。いい匂い。」

森にある自然由来の空気を体いっぱいに吸い込む。内側から浄化されているようだった。家が見えなくならない程度に歩みを進め、日が落ちるまでひたすらに散歩をする。同じところを何度も歩いたり、水の音がする方へ歩いたり、知らない鳥を追いかけたり。

いつの間にか陽が落ちてきて、辺りが暗くなる。迷子にならないように家を目指して歩いた。すると後ろからの足音に気づき、振り向く。

「蒼志くん?」

「博士?おかえりなさい。」

両手に買い物袋を持った博士を見つけ、歩み寄る。袋を一つ受け取り、家に向かう。

「どうして外にいたんですか?」

顔を背けたままいつもより力の弱い声での発言に、気になり歩くのをやめる。

「少し時間が余ってしまったので、散歩してました。博士は早いお帰りですね。」

いつもはあと三時間ほど過ぎた頃に帰ってくる。

「週末だからって早く帰してくれたんですよ。今月は多めに入っていたので。」

確かに先月に比べたら、休みの日が少なかった気がする。受け取った袋の中身を見ると、いつもの籠もるための備蓄が入っていた。なるほど、来週からその期間か。

「来週から研究期間ですもんね。僕もそろそろ働こうかと思ってるんです。博士だってずっとこんな生活をしていたら身体壊しちゃいますよ。」

袋の中にある数え切れないほどのエナジードリンクと簡易食品を見て、思わずため息が出る。研究に入ってしまうと、食事があっても口にしないのは分かっているが、だからといってこのままでいていいとも思えない。

「大丈夫ですか?これだけ人との関わりがない生活をしてたんですから、慣れてからでないと無理しますよ。いくら身体が元気だとしても、心は別ですから。」

言葉に困った。博士以外の人には拾われた3ヶ月前から誰一人会ってない。確かに、いきなりではかえって悪い結果になるかもしれない。でも、このまま何もしないなんていいのだろうか。

「でも、このままじゃ駄目なんです。」

「何がですか?私としてはこうして研究の時間が料理する時間に取られなくて助かってますけど。」

さぁ、帰りますよと歩き出した博士に並んで歩く。隣で過ごしてるけど、全く違う道を歩いているようだった。それもそのはずだと結論をつけるが、どうしてかそれ以上を知りたいと思うようになっている。

「分かりました。明日から少しずつ街に出てみます。すぐに帰ってきたらすみません。」

そう言うと、博士は空いている手を目いっぱいに伸ばして頭を撫でてきた。

「気にしないでください。一人くらい食費が増えても困まってませんから。」

こうして博士は僕のことをまるで子供のように扱うときがある。別に最初は恥ずかしいだけだったけど、途中から違和感を抱くようになった。博士が頭を撫でる時は決まって、僕が離れようとする時。だから、何かを恐れるように逃さないように頭を撫でる。

家について買ってきた食材を仕舞いながら、後ろでソファーに身を投げる博士について考える。きっと博士が執着質に研究のために生活をかけているのは、とある女性のため。


ある時、博士の部屋にご飯を持っていくと微かに動いた物陰から女性のような姿が見えた。近寄ろうと一歩踏み出すとその子は影の中に消えてしまった。そのことについて博士に一度聞いてみたことがある。

「博士、お聞きしたいことがあります。博士の部屋には誰かいるんですか?」

すると進めていた箸を一度止め、大きく息を吸った。

「いますよ。私の大切な人が。いつか君にも会わせてあげたいですね。」

分かりやすい作り笑顔、無理矢理に誤魔化したいつも通りの声。どう考えても嘘が混ざっている発言だったけど、そこまでして隠したいことだと思い、無理に暴くことはできなかった。


「博士、これ僕食べれませんよ?」

袋から出てきたのは僕のアレルギーであるピーナッツとカシューナッツを混ぜたチョコレート。食事を担当するうえで、買い出しをしてくれる博士にアレルギーは事前に伝えてある。それなのに、どうして。

「ああ、それですか。私のおやつです。」

今まで博士が買ってきたおやつはいつだって僕も食べられるものだった。共有スペースであるキッチンの棚に都度補充されてきた。

「そうですか。」

そう言って博士にチョコレートを渡す。それを受け取ると風呂に入ると言って部屋に入ってしまった。数分後再び扉の音がしたと思うと、外出時とは違う服を着ている博士が少女に抱きついているのが見えた。

「え。」

手に持っていた玉ねぎが転がる。

いつか何かが動き出すと思っていた。何も変わらない日常なんてありえないなんて知っていた。

「切り替えよう。夜ご飯、夜ご飯。」

自分に言い聞かせるように呟く呪文がかかるまで多少の時間はかかったが、鍋の温まる音や食材の焼ける音で揺れている視界は照準があっていった。

その夜出来た料理の味は覚えていない。和食だったのか洋食だったのか。ご飯だったのか麺だったのか。

次の日起きて洗われた食器を見る限り多分和食だった。何を作ったのだろう。もう何ものっていない皿からは分からなかった。

「おはようございます。早起きですね。」

部屋から出てきた博士に声をかけられる。ふと見えたその顔には涙のあとがあった。その涙は誰が拭えるのだろう。

「大丈夫ですか?」

返事をしない僕を不思議に思った博士が顔を覗いてくる。ソファーで項垂れてる僕にしゃがんで視線を送る博士は不謹慎にも独占欲を掻き立てるようだった。思わず身体が動いてしまい、博士を抱きしめる。

「どうしました?何か悪い夢でも見ましたか?」

優しく背中を擦るその手を取る勇気すらない僕に、博士を心配する資格などないのかもしれない。それでも、博士のためになるなら。

「博士。僕に研究をお手伝いさせてもらえませんか。」

震える声を隠さずに伝える。死ぬためにこの森を訪れた僕だけど、博士に拾われたあの日から少しずつ心が変わってきている。生きることに前向きになったわけじゃない。でも、確実に死からは距離を置くようになった。

「僕は、これでも研究室に所属してました。少しでもお手伝いできると思います。何か博士に役に立ちたいです。」

この小さな身体を守りたい。敵すら見えてない現状は分かってる。でも、出来ることをして助けてあげたい。

「僕にも居場所をください。」

狡いってことくらい分かってる。博士はこうすれば断れないと。知っていてこの言葉を選んだ。

「それはできません。」

「えっ。」

思っていなかった反応に思わず腕の力が抜け、音もなくソファーに落ちる。回されていた腕を外され、顔を合わせる。

「君に背負えるものではないということですよ。大丈夫です、安心してください。私一人でも何も問題ありません。ですが研究以外の雑用のような資料などはお手伝いしていただけると助かりますよ。」

僕はまた嘘をつかせたのか。良い事も悪い事も沢山持てないはずのこの人に、沢山のものを抱え込ませて。

「ほら、朝ごはんまだですよね。食べましょう。」

さっと立ち上がる博士を抱きとめ、腕の中に収める。

「博士、ごめんなさい。我儘を言いました。僕を捨てないでください。」

勝手に溢れる涙を無視し、縋るようにしがみつく。フラッシュバックする景色が視界を埋めた。母親に捨てられたあの日、友達に裏切られたあの日、信じてた仲間にすべてを壊されたあの日。走馬灯のように流れるそれらが、手、足、身体に感覚を呼び起こした。

「僕を、捨てないで。僕はどこにも行かないから。何でもするから。だから、」

抱きつく腕に力が加わる。肌から感じる全てに抵抗するように。離さないように。

「ごめんなさい。僕が悪いです。ごめんなさい。」

渦を巻く脳内の片隅で冷静な僕が言う。この姿を見られたら、もう誰も一緒にいてくれない。今まで作ってきた信頼も、関係も、全てを失う。

「蒼志くん。大丈夫です。私は君を捨てたりしません。外で働くのはまた今度の機会にしましょう。私は今日から研究に入ってしまうので、ずっと一緒にいることは出来ませんが、休憩するときには一緒にしましょう。それ以外の時間はベッドだったりソファーでゆっくりしててください。」

首に響くようにかけられる声が、脳まで届く。まるで清流のような安らぎが心に訪れた。腕ごと抱きしめているのに、背中まで身体の全てを抱きしめられているような感じがして芯まで暖かくなる。

「おっと。安心できましたか。大丈夫ですよ。」

力の抜けた僕の身体から抜けて、博士は僕の肩を押してソファーに座らせる。そして僕の欲しかった笑顔を見せてくれた。

「今日は私が朝ごはんを作ります。少し待っててください。すぐに出来ますから。」

天井に視線を移し、大きく息を吸う。喉にあった何かが吐き出せそうな気がした。

博士は発言どおりにすぐに作って戻ってきた。両手に焼き立てのトーストと温かいスープを持って。

「ほら、食べましょう。」

朝ごはんに会話はなかった。隣に座ったまま食べ終わった食器をまとめる。

「僕が片付けます。今朝はすみませんでした。研究に戻ってください。」

「ありがとうございます。助かります。お昼ごはんが用意できたらノックをしてもらえますか?三回やって気が付かなかったら放っておいてください。」

待たせるのは申し訳ないので、そう言って博士は部屋へと戻っていった。いつも通りに食器を洗って、部屋の掃除をする。外に出る気にもなれず、リビングの端にあるベッドに横になった。天井に向かって博士が聞こえないのを良いことに、言葉を投げつける。

「僕はどうすればいいのでしょう。このままではいけないと分かっています。だけど、今の僕に出来ることがあるように思えません。」

跳ね返る言葉は身体に打撃を与え、何食わぬ顔をして床に落ちる。


目が覚めた時、時計は正午を過ぎていた。ゆっくりと身体を起こし、キッチンに向かう。常備している白湯を温め、冷蔵庫を開いて昼食を考える。まだ頭がはっきりと動かなかったため、レトルト食品を使おうと2人分の用意を始めた。冷凍の米を解凍するためにレンジからマグカップを出す。温め過ぎてしまって熱いのか、うまく掴めず落としてしまう。かなり大きな音がしてしまい、部屋から博士が出てくるのが分かった。

「蒼志くん?どうしました?」

駄目だ、頭が動かない。僕はマグカップを落としちゃった。

「大丈夫ですよ。一緒に片付けませんか?」

微塵も動かない僕の腕を引き、その場に座らせる。どこからかちりとりと箒を持ってきた博士は細かいものを拾っていく。僕は無理やり腕を動かし、大きな破片をビニール袋に入れていく。時折大丈夫ですよ、と声をかけてくれることで次第に頭の靄が晴れていった。

「これで大丈夫ですね。カレーも用意してくれてるんですか。ありがとうございます。」

「すみません。最後まで用意出来ませんでした。」

頭を下げる僕に、博士は咎めることもなく優しく言葉を紡ぐ。

「気にしないでください。さあ、食べましょう。マグカップは君の調子が良いときに一緒にネットで探せばいいですから。」

結局博士と一緒に用意をして、お昼ごはんを食べた。食べれば食べるほど蓄積される靄が苦しい。博士に視線を移すと何だか難しい顔をしてタブレットを見ていた。数秒見ていると、いきなり博士が顔を上げて目が合う。

「どうかしましたか?カレー辛いの苦手でしたっけ?」

微笑みを浮かべて心底美味しそうに食べる博士を見ると、また霧が晴れていく。

「いいえ、大丈夫です。」

食器を洗い、片付けていると後ろから博士に呼ばれた。

「蒼志くん。申し訳ないのですが、夜ご飯を部屋の前に置いておいてもらえませんか?夜型なもので多分ノックに気付けないと思うので。」

初めてだった。博士が一緒に食べようと言ったのに、自らそれをなかったことにするのは。その感情に気がついた時、なんて心の狭いやつなんだと自分が嫌になる。

「分かりました。ラップして置いておきますね。研究、頑張ってください。」

少しそっけないと分かっていながら、顔を見ること無くベッドに身を投げた。

「ありがとうございますね。」

扉が閉ざされたのを確認すると、上半身だけを起こし壁に寄りかかる。意味もなく流れる涙は止まることを知らず、この苦しさを流してもくれない。あの時死を選んでいればよかった。窓から差し込む陽の先に、その未来が見える。そっと伸ばして光を遮ると、現実の今が現れた。酷い顔で涙を流しているのだろう。誰にも見られること無く、枯れるまで涙は止まらなかった。

いつの間にか寝ていたようで、寝違えた首が痛い。左右に揺らして痛くないところを探すが、頭が振られて視界が揺れた。大きく息を吸い吐く。電気をつけていない部屋は暗闇で、手探りでスイッチを探すと何かを倒してしまったのが分かった。とりあえずスイッチを見つけ付けると、そこには少女の写真があった。

「これは、誰。」

一枚ずつ手に取り両面を見ながらまとめていく。一番上にあったのは大学生くらいであろう頃の写真。講堂で寝ているのを撮られたもの。一番下にあるのは高校の卒業式の写真。そこには少女と博士によく似た人が写っていた。

「これは、星華さん。」

僕はこの人を知っている。立花星華。僕の高校の先輩で、唯一僕の味方になってくれた人。


高校は施設に進められたところへ進学した。入学した時は、少しの心配と大きな期待を抱いていた。しかし、地域的な囲いがまだ残る町だったこともあってなのか、親のいない僕は異端に見られることがあった。それでも強く生きようと心に決めていたが、高校に入ってそれは無惨にも破壊されてしまった。

「お前なんか、生きてる必要あるの?」

「親にすら愛されないやつが、生きてる価値なんてあるわけないじゃん。」

こんな毎日、耐えられるはずがなかった。それでも星華さんに出会ったから、僕は学校を卒業するまで休むこと無く登校を続けた。

「蒼志くん。無理しないでね。出席はギリギリでも、テストさえちゃんと点数取れてれば大丈夫だから。無理しないで来なくても大丈夫だよ。」

お昼ごはんを食べる時必ず星華さんはこう言ってくれた。星華さんとは家が近くて、学校外でも会うことも多くて沢山助けられていた。

「来月から受験で学校に来れなくなっちゃうから、一人でも無理しないでね。一ヶ月くらい来なくても出席足りるはずだから。」

年末が近づくにつれ、ご飯を食べているときに単語帳を手放さなくなっていった。それに反抗するように僕も勉強に熱中してるふりをしてた。

年明け、一学年分の空白ができた学校は風が廊下を駆け回っていた。僕は何を言われても、何をされても、全ての感情を勉強にぶつけていた。気がつけば、クラスで一番を経て学年トップになっていた。

星華さんの卒業式が終わった後、どうしても会いたいと約束をした。

「ご卒業おめでとうございます。大変お世話になりました。」

校舎裏に一本だけある桜の下で星華さんと二人きりで話す。

「いえいえ、私も一緒に過ごせて楽しかったよ。蒼志くんだって、学年トップでしょ?大学なんてすぐそこじゃん。すごいよ!おめでとう。」

この言葉だけで僕は大学に行き、星華さんと近づける学部を選んだ。同じところに入らなかったのは、知らない星華さんを見たくないという若い反抗。

心配だったが入学が決まってすぐに星華さんに連絡を入れると、あの時と相変わらずなテンションで返事が返ってきた。勉強が始まって悩むたびに星華さんに相談をした。

「星華さん、週末空いてますか?相談したいことがあって。」

「いいよ。いつものお店で待ってる。」

こうして星華さんとの交流は途切れること無く続いていくはずだった。

ある日、初めて星華さんから会う約束をもらう。その日の約束は家のある町から少しはずれた古民家で、日の落ちた夜だった。

「こんばんは。夜ご飯が美味しいから、行ってみたかったんだ。」

少し忙しいから会えないと言われている間に、星華さんは変わっていた。見える腕や足からは明らかに体調が良くないことが分かるし、目の下に隈もある。

そっと腕に手を伸ばすと振り払われることなく掴むことができた。片手で掴めるその腕を見て、言葉が出ない。

「最近忙しくて。それでね、蒼志くんに相談したいなと思って。ごめんね、こんな姿見たら心配しちゃうよね。」

目尻を下げて無理矢理に上げた口元を見ると、胸が苦しくなる。腕を引き腕の中に収めると、考えられない力で引き剥がされた。

「ごめん。蒼志くんが嫌ってわけじゃないんだ。ただちょっとね。」

ほら行こう、と手を引かれ店に入る。店内は落ち着いた雰囲気の光で構成されていて、家具はウッド調で揃えられていた。

「素敵なお店。和食だって。」

メニューを開いて、どれにしようかな、と声をあげる星華さん。立てられたメニューによってその表情は見えなかった。

注文が終わると、星華さんは大きく息を吸って顔を上げる。

「蒼志くん。相談っていうか、そのね。聞いて欲しいなって。そう思ってることがあってね。」

星華さんの癖、僕知ってるよ。こういう話し方をする時は、

「大丈夫です。僕は何があっても星華さんの味方ですから。」

こう言って、両手で包む。そうすれば、力の入った肩が下がる。

「ありがとう。私ね、実は女の子と付き合ってたの。その子のこと本気で好きなんだ。町を出てからは一緒に住んでたし、順調だった。」

そこまで話して星華さんは、俯いてしまった。続くのを待って、何も言わずに時に身を任せる。

「順調だったんだけど、ある日お父さんがいきなり家に来てね。女と付き合うとはなんてことだって激怒。そこから彼女に酷い暴言を言い続けて、挙句の果てには手まで出してきて。私が守らないといけなかったのに、昔のこと思い出しちゃって身体が動かなかった。その後、勝手に気が済んだのか一旦帰るって言ってどっか行っちゃった。」

顔を歪めることなく一筋に落ちる涙に手を伸ばそうとすると、怯えるように手を挙げる星華さん。僕を守ってくれたこの人を僕は守りたい。でも、どうすれば。

「彼女の手当とかしてあげたかったんだけど、お父さんが出た後彼女も家出ちゃって。連絡してるんだけど一回も返ってこなくてさ。当然だよね。付き合ってる人の親からあんなことされたら。でも、簡単に諦めなんてできなくて。苦しい気持ちを誰かに聞いてほしくて、思いついたのが蒼志くんだったんだ。いきなり連絡してごめんね。」

胸元に落ちた雫はきっとそのまま居座るのだろう。そしてまた目元から落ちる。連鎖を止めてあげたいのに、手が伸ばせない。これが好きという気持ちなのか、それとも別なのかは分からなかった。

「それでね、一人だと寂しくて。何とか周りの友達の家に行ったりしてたんだけど、流石にそろそろ誤魔化しができなくなって。」

ゆっくり顔を上げた星華さんは不謹慎にも光にあたって綺麗だった。

「どうしてかわかんないけど、蒼志くんに会いたくなったんだよね。」

言葉の力は絶大だった。胸の中に沸々と湧き上がるこの気持ちが苦しくて、手に力がこもる。目を合わせて、瞳を真っ直ぐに捉えた。

「ありがとうございます。僕、今まで沢山星華さんに助けてもらってきたので、こうやって頼ってもらえて本当に嬉しいです。」

続きを話そうと思ったら、料理が運ばれてくるタイミングと重なってしまい、一度会話は途切れた。

お会計のタイミングで、この後どこかでゆっくりお酒でもと誘ってみる。

「ごめん。この後ちょっと行かないといけないところあって。」

そう言って星華さんは森に向かって道路を歩き始めた。

「星華さん。そっちは暗いですから、僕も一緒に行きますよ。」

日が落ちたこの時間はもう真っ暗で、女性が一人で歩くにはあまりにも危険すぎた。一緒に歩こうと、隣に並ぶと星華さんは歩みを止める。

「ごめん。一人で行きたいんだ。人との約束だから。ごめんね、蒼志くんが嫌なわけじゃないんだけど。」

星華さんは僕を置いて、森へ歩いて行ってしまった。頭は動けと信号を示しているのに、身体が動かない。

これが星華さんと僕の終始。


「どうして星華さんの写真が。」

博士の家にあるのだろう。隣にいる少女に微かに見覚えがあった。誰だったかな。

まとめた写真にもう一度目を通す。すると一枚の写真の裏に、

「海咲と星華。」

海咲って、よく星華さんが話してた人だ。確か同級生だって聞いた気がする。でもそれ以上は思い出せなかった。他にも写真がないかと、周りを探したが特に目ぼしいものはなかった。博士と星華さんになんの関係が、そしてこの海咲さんとの関係も、どうしたら分かるのだろう。


いつも通りの気分転換として出た森で、不思議な人影を見つけた。彷徨うように、一歩一歩が覚束なくて、まるで幽霊みたいに見えたから一度は通り過ぎようとした。でも、もう一度振り向いたらその人が倒れるのが見えて慌てて近寄る。恐る恐る触れると人であるということが分かり、肩を担ぐ。

倒れているその人を見た時、海咲さんの姿が重なった。そういえばあの人を拾ったのもこんな日だった。

家まで連れて帰ると、明らかに自分より大きいものを運んだ身体にどっと疲れが現れる。とりあえず飲み物を用意しようとキッチンに向かい、コップを探した。初めて海咲さんと自分以外の人間がこの家にいる状況に困惑が溢れかえっている。何とか落ち着いて返事をしているふりを続けるが、ふと気を抜くと足から崩れ落ちてしまいそうだった。

彼、蒼志くんとの生活は苦しかった。どんな背景があってこの森に来たかは分からないが、講堂の節々に海咲さんが見えるから。

部屋に入り、覆われたベッドを覗く。中で深い眠りについているのは海咲さん。あの頃の面影を残し、心を失った彼女がいる。

「海咲さん。帰りました。」

彼女に聞こえないように小さく音にする。着ていた服を脱ぎ、婦人服を身につける。髪を下ろしメイクを施した。少し咳払いをすると、ベッドを覆う布を外す。

「海咲。おまたせ。今日は誕生日だよ。だから海咲の好きなお菓子買ってきちゃった。」

袋からチョコレートを出す。寝ぼけ眼でそれを見た彼女は心底嬉しそうに言った。

「ありがとう。星華。大好き。」

伸ばされた腕をとり、後ろに回す。抱きとめたその身体がもう長くないことが分かって胸が苦しくなる。でも、表に出すわけにもいかないため、心を沈めた。

「私も、大好き。身体大丈夫?きつくない?」

声がはっきり聞こえないように、肩に口をのせたまま話しかける。すると、くすぐったいのか海咲さんは少し笑いながら答えてくれた。

「大丈夫って言いたいんだけど、ちょっときついかも。」

申し訳無さそうに顔を合わせて言う海咲さんの頭に手を載せ、優しく撫でる。

「無理しないでいいよ。私がずっとついてるから。お薬だけ飲もうか。しんどいの減らそう。」

彼女をベッドに座らせたまま立ち上がり、机から薬を用意する。震える手が見えないように彼女へ背を向けたまま、一つ一つを包装から出していく。全てを手にまとめ、彼女の元へ戻った。

「おまたせ。海咲さ、ベッドにお水残ってたよね。それ持ってきてもらってもいいかな?」

そう言うと彼女はベッドの奥へと身体を伸ばす。ちらりと見えた首筋の血色の悪さ、床につく足の白さ。私の我儘はうまくいっているようだった。

「星華。持ってきたよ。」

薬を一つずつ渡し、飲むまでを確認する。一番最後に睡眠薬を飲ませると、効きが早いためすぐに目が虚ろになった。

「星華。寝るまで一緒にいて。」

倒れた身体から細く伸びたその手を握り、海咲さんが眠るまでずっと床に座っていた。立ち上がっても反応がないことが分かると、そっと手を離し研究資料が山積みになっている机に座る。この部屋にいるときはいつ海咲さんが起きてもいいように、このままで過ごしていた。前回の実験で得られたデータをもとに次回の計画を立てる。


俺と海咲さんとの出会いは、姉さんが友達として海咲さんを連れてきた時だった。囲まれた集落のようなところで生まれ育った俺たちは、信頼できる大人なんていなくて、自分たちの周りにいる人をとことん疑って生きるしかなかった。そんな中家族というのは無条件に首を絞めてくる人たちで、信じられるのは姉さんだけ。そして、そんな姉さんの友達だと言う人を初めて見たのが海咲さんだった。初めは姉さんを陥れるために近づいているのではないかと、酷い関わり方をしていたと思う。でも関わっていくほどに本当に素敵な人だということが分かっていった。そして姉さんたちが高校を卒業するタイミングで今までの言動を謝罪した。

その全てを知っても海咲さんは俺と関わることを辞めることはなかった。

大学進学と共に上京した姉さん達はルームシェアを始めた。高校を卒業するまで町を出ることは出来なかったが、大学進学を言い訳に親を説得し上京を認めてもらった。

上京してからは一人暮らしだったが、月末になると必ず姉さんと海咲さんと遊んだりご飯を食べたりして、町で過ごしていた頃を忘れることができた。あの日までは。

その日俺は学校の研究に熱が入ってしまい、帰るのが遅くなってしまった。連絡を見るのも遅かった。そこには短く、お父さんが来た。この一言がいかに一大事なのか。思わず落としたスマホを開き、姉さんに電話をした。しかし繋がらず、深夜であることも気にせず姉さん達の家に向かう。

扉を開けると、明かりのついていない部屋に姉さんが一人で座っていた。正確には崩れ落ちたまま、光のない目で床を見つめていた。

「姉さん、どうしたの。何があったの。海咲さんは?父さんが来たってどういうこと。」

駆け寄り肩をゆすりながら声をかける。口を開いたと思うと、

「ごめんなさい。海咲ごめん。ごめんなさい。海咲ごめん。」

壊れた機械のように同じことを繰り返す。その時俺は怖くなって、立ち上がり後ずさってしまった。するとそれを見た姉さんの呼吸が変わり、過呼吸になる。

「お父さん、ごめんなさい。」

俺に向かってそう繰り返す姉さんを見てられなかった俺は、そのまま家を出てしまった。自分の家についてからも、心臓の鼓動の速さは変わらない。落ち着こうと家を歩き回るが、ただ無情に時が過ぎるだけ。何も解決はできなかった。

次の日から姉さんに連絡をする勇気が出ず、その後どうなったのか知ることはなかった。そこから月日が流れ、俺が研究していた内容が大学内で評価されたことで俺の周りに集まるやつが現れた。そんな付き合い方をしたことがなかった俺は、その人達から逃げるために大学を辞め、森の中にあった空き家を買った。そこらの大学生よりはお金を持っていたから、生活スペースの改築はすぐにできた。実家の跡継ぎであるということを最大限にちらつかせ、実家からは十分に資金をもらう。それを貯めながら家をリフォームし、一人で過ごすには十分なほどまでにすることができた。家が完成したと同時に実家との縁をきるため、持っていたスマホを破壊し持ち物に異常がないか確かめ全て捨てた。

ある日、買い物に行こうと朝一で家を出ると森の中に人影を見つけた。それは痩せ細った海咲さんだった。慌てて近寄ると、俺を見た途端

「星華。星華、大好き。ごめんね。」

そう言って力なく倒れてしまった。昔から似ているとは言われていたが、思春期も終わっている今、放ったらかして伸びた髪があるだけで姉さんと勘違いするほどの状態に驚きを隠せない。とりあえず抱えて家まで歩き、自分のベッドに寝かせる。触れた腕から不健康な細さを感じて、久しぶりに栄養に気をつけた食事を作った。買い出しに向かわないと次の日以降の食事が出来ないと思い出し、作った料理を一度机に置いたまま鞄を持って外に出る。予定していた買い物を大幅に削り、必要最低限だけで帰宅した。まだ、海咲さんは起きておらず、料理を温め直しながら部屋にいる海咲さんを起こす。

「海咲さん。大丈夫ですか?起きれますか?」

優しく肩を叩き、声をかける。深く眠ってしまっているのか、起きる気配がなかった。無理に起こしてしまうのも可哀想だと思い、普段は食べない朝ごはんを一人で食べた。

陽が高くなった頃、自室から大きな音がしたため慌てて入ると、床に海咲さんが落ちてしまっていた。

「大丈夫ですか。どこかぶつけたりしてませんか?」

そっと身体に手を置き、問いかける。すると海咲さんは何かを探すように手を彷徨わせる。対象を見つけられないその手は力なく床に吸い込まれていった。俺の存在に気がついた海咲さんは、

「あれ、星汰くん。どうして。」

不思議そうな顔をして、無自覚に腕を隠した。ここで本当のことを言うべきか、何事もなかったように返すべきか。

「海咲さん、とりあえずお腹空いてませんか?俺、ご飯作ったんですよ。食べません?」

そう言って手を取りリビングまで歩く。何も言わずについてくる海咲さんは今まで見たことのない表情をしていた。

「これ全部星汰くんが作ったの?すごいね。」

太陽に形容されるほど眩しかった表情は木漏れ日のように薄くなり、いくら木を焚べても炎は大きくならない。かえって消してしまいそうだった。

「そうですよ。沢山あるので、好きなだけ食べてください。」

「星汰くんは?」

きっと計算をしていない上目遣いは目をそらしてもおかしくないはず。

「あ、目そらした。もしかして食べてない?」

申し訳無さそうに箸を置いてこちらを見てくるから、きちんと食べたことを伝えると安心したように笑みを浮かべ再び箸を持つ。

そこから海咲さんが食べ終わるまで会話はなかった。俺も話しかけなかったし、海咲さんは食べる箸を止めなかった。決して沢山食べたわけではなかったが、小さく確実に食べているのを見ると安心が心に積もる。2時間ほどかけて全てを完食した海咲さんは、食器を片付けようと立ち上がるためそれを止めて食器を受け取り片付ける。

「星汰くん、面倒かけてごめんね。」

食器を洗っていると背中から聞こえる声に手が止まる。

「図々しいの分かってるんだけど、少しの間ここにいてもいいかな。ちょっと家に帰れなくて。」

断る理由なんてなかった。付き合ったと姉さんから聞いたときに封をしたはずの気持ちが風で捲られる。気持ちを知ってほしい、伝えたいなんて我儘は言わない。でも、許されるのならばこのひと時を過ごす幸せが欲しかった。

「全然構いませんよ。俺も一人で過ごすには広すぎたって思ってたんです。」

その日から海咲さんと俺の二人での生活が始まった。


ずっと続くなんて思ってなかった。だから終わりはあまりにも必然だった。生活の中で海咲さんは体調が回復の兆しを見せたものの精神的には壊れていく一方で、日常で俺のことを

「星華。」

そう呼ぶ頻度は増えていった。その度に声を出さずに微笑むのは苦しかった。そしてある日俺はあることを決める。それは、このまま苦しさに押しつぶされて消えていってしまいそうな海咲さんを楽にしてあげると。正常な判断ではなかったと思う。でも、その償いとして海咲さんの前では俺は姉さんになる。こんなことで許されるとは思わないが、俺に出来ることはこれしかなかった。

そう決めて、海咲さんに自室を渡してから数日後。父さんが来た事件以来久しく連絡を告げなかった番号からの着信がきた。

「もしもし。」

大きく息を吸う音が耳元ですると、知った声が言葉を発した。

「星汰さん。お久しぶりです。ご主人よりご伝言です。星華様がお亡くなりになりました。」

俺は何も言うこと無く通話を切った。頭が真っ白になって手から力が抜け、スマホが床に落ちる。姉さんが死んだ。俺の唯一と言える家族がいなくなった現実を受け止められず、感情の行き先を作ることもできず、ただ涙を流した。

涙が枯れた頃、うっすらと日が差し込む部屋に一人の足音がする。振り向くこともできず、その音を聞いていると後ろから暖かな身体に包まれた。

「星華、泣かないで。私まで悲しくなる。大丈夫私がいるから。」

その言葉を聞いて、頭が真っ黒になる。俺が海咲さんと過ごしている間、他の方法があったのかもしれない。姉さんと海咲さんがどちらも幸せに過ごしている未来が。

「星華、朝ごはん食べようよ。」

そう言って立ち上がった海咲さんはよろよろと座り込んでしまった。何とか身体を動かして近寄ると、部屋から出なくなった身体でここまで歩いてくるのは大変だったようで眠ってしまっていた。

「海咲さん。ごめんなさい。」

寝ているのを良いことに深く身体を折り曲げ謝罪をする。

次の日から俺は海咲さんにとっての姉さんになることで現実から逃げようとした。そして研究への熱を無理やり再加熱させる。

そこから時は水のように流れ、海咲さんの身体は順調に壊れていった。姉さんの姿をしているときに俺だと分からないようにするために一人称を変え、語尾を変えて、婦人服を集めた。記憶をたどりながら、苦しみをかき集めるように姉さんの痕跡を作り上げる。


次回の計画を見ると、来月が最終目標の達成になっていた。もうそんなところまで来たのかと、深い眠りにつく海咲さんに目をやる。もう悲しみなんてない。角が出来るたびに削ったそれはもうなくなってしまった。

そろそろ日が昇る時間になる。蒼志くんがいるリビングに足を運ぼうと部屋の扉を開けると、置かれているトレーに気が付き食事を取っていなかったことを思い出した。そのままリビングに持っていきレンジで温める。ベッドをふと見ると、蒼志くんの姿が見えなかった。日が昇ると言っても今すぐではない。まだ辺りは暗く、木々が生い茂るこの森ではいくら歩いても目印を作ることができないため、この状況で家にいないことが不安を生み出した。急いで家を出て名前を叫ぶ。

「蒼志くん。蒼志くん、どこ。」

どうしてかわからないけど、彼を見失ってはいけない気がしていた。辺りを探すと、彼は家の裏の倉庫によりかかって寝ていた。

「蒼志くん。どうして。大丈夫?」

肩を強くゆすり、意識を浮上させる。目を開き、姿を捉えた蒼志くんは、立ち上がり後ずさるように足を動かす。

「博士。博士は星華さんと何の関係があるんですか。あの部屋にいる人は誰なんですか。」

怯えるように向けられる視線が苦しい。どこで彼が姉さん達を知ったのかは分からないが、あと少しで計画が全て終わるんだ、今更どうにか出来るわけがない。彼に話したらきっと計画が狂ってしまう。何とか良い逃げ道を考えるが、徹夜で計画を作っていた頭では何も浮かばない。

「どうして言えないんですか。教えてください。僕は博士のためになりたいんです。名前も教えてもらえないのはどうしてですか。」

身長差以上に上からかけられる言葉は威圧的で、立ち上がろうとした身体が止まる。

「博士にとって僕はなんですか。ただの暇つぶしですか。僕にとっては全てをかけて生きてもいいと思える相手ですよ。」

今までの会話は海咲さんを重ねて見ていたもので、こうして彼の言葉として見てしまった今、どうすればいいのか分からなくなっていた。

「博士、何か言ってください。それとも、星華さんと海咲さんが何か関係しているんですか。」

思わず上げた顔で見た彼の顔は苦しみが覆っていた。上った日で影になった表情の詳細は掴めないが、下げた目線の先にある手に力が入っているのが分かり、反対の手に握られた写真に気がつく。

「どうしてそれを。」

海咲さんが見てしまわないように倉庫へ全て仕舞ったはずの写真だった。唯一形で残っている二人の関係を示すものであるため、どうしても捨てられなかった。

「部屋の隅っこに置いてありました。」

博士と星華さんの関係を教えてください、と言いながら視線を合わせる蒼志くんの目を見ると全てを話してしまいたくなる。今全てを話したら楽になれる、その対価はどうなるのだろう。

「蒼志くん、ごめんなさい。言えません。後一ヶ月で話せるようになります。それまで待ってください。」

全てが終わってしまえばもうこの身体がどうなろうと、人生がどうなろうと構わない。蒼志くんには悪いことをしていると思う。でも、それでもやり切るべきことが今はある。

「そうですか。一ヶ月のお約束守っていただけますね。」

手を取り立たせられると、小指を掬われ固く結ばれる。逆光で黒いシルエットに浮かぶ海咲さんが見え、思わず手を引くと離さないと言わんばかりに強く手を引かれた。

「お約束してください。それまで必ず待ちますから。」

何も言わず顔を見つめるだけの自分を引き寄せ抱きしめる。小さいこの身体は彼の腕の中に収まった。

「大丈夫です。僕はどこにも行きません。」

大切な人に触れるように頭や背中を擦られ、張り詰めていた心が解れていくのが分かる。こんなことをしていてはいけないのに。それでも今ある安らぎを少しでもかき集めて感じていたかった。

家に戻りましょうと言われ二人で家に入る。吸い込まれるようにソファーへ倒れると蒼志くんは

「朝ごはんが出来るまで寝ていて構いませんよ。それともさっき食べました?」

レンジに入れていたことを思い出してそう告げると、分かりましたと言って何かを作り始めた。どうせすぐに出てくるだろうと思っていたが、最後の記憶を覚えていないくらいすぐに眠りに落ちてしまっていた。


ソファーから規則正しい呼吸が聞こえる。博士から星華さんのことが聞き出せず、心臓の鼓動は依然早いままだった。知りたい、知りたくない。そんな気持ちが渦を巻き、思考をかき乱していく。死にたいと思っていたはずの数ヶ月前が信じられないほど遠くに感じて、今の現状が現実なのか夢なのか分からなくなっていた。苦しみは感じすぎて分からなくなってきていて、悲しみは今ではないと奥へ下がってしまっている。

レンジが完了の合図を告げ、電気が消える。中から取り出したものの向かうべきところは受け付ける用意ができていない。起こすのも申し訳ないと思い、自分の朝ごはんにすることにした。博士が起きたらその分を作ろうと椅子に座り食事を始める。

先程までの博士の反応からして星華さんと海咲さんと博士は何か明確な関係があるのだろう。心なしか博士が時々星華さんと重なって見える気がしていた。きっとそれは僕にとって守りたいと思える対象になったからなのだと思う。

写真を見つけてから家を出て倉庫を漁っていた身体は栄養を予想以上に必要としていて、食事はものの数分で終わった。食べ終わった食器を片付け、博士の様子を見る。時折苦しそうな顔をするが、普段の睡眠を知らない僕はどうするべきなのか分からなかった。もう少し寝かそうと時計を見る。普段ならばこの時間から家の片付けなどを始めるが、この状態では何もできないと判断し博士の眠るソファーを背に腰を下ろす。


月日は残酷に過ぎていった。私はデータを見ながら、最後の薬を用意する。もう意識があるかも分からない海咲さんに口づけ薬を飲ませた。無情に訪れたファーストキスは作られた罪の味がした。微かに動く筋肉で笑ってみせた海咲さんを見ると涙が止まらない。その姿を見せたくなくて抱きしめる。耳元で小さく聞こえた海咲さんの最期の言葉。

「星華。」

姉さん。こんな俺を罰してください。大切な姉さんを守れない俺を、大切な姉さんの大切な人に手をかけた俺を。どうか許さないで。

身体の力を失った海咲さんをベッドに横たえる。俺もその横に並び目を閉じた。二度とこの部屋で目覚めないようにと。


博士との約束から一ヶ月後、ある場所に呼び出された。今目の前にあるのは大きな総合大学。約束の場所だと言う場所にいるが、博士が来る気配はない。すると、ある人が駆け寄ってきた。

「君が蒼志くんかな。」

両手に資料を抱えたその人は博士のことを星汰くんと呼んだ。思わぬ所で知ることになった博士の名前。受け入れるのは案外すんなりだった。

「はい、そうです。あの、貴方は。」

「僕は星汰くんから相談を受けていた者です。貴方を大学に受け入れるようにと。星汰くんからいくつか資料作りと言われて作成してたものがありますよね。あれが僕の先生に大変好評だったので、大学への受け入れが決まりました。特別も特別な案件なので少し時間がかかってしまいましたが、無事申請が通りました。これから僕たちとよろしくお願いします。」

知らないところで用意されていた生きる道。簡単には納得できないが、どうにか自分にも出来ることに出会えた。

「ありがとうございます。僕の状態についてはどれくらいご存知ですか。」

博士の家で過ごしていた間、覚えている限りでも精神的に健康だとは言えない時を過ごした。身体は健康へとコマを進められたが、心はずっと荒波のままだった。

「星汰くんからきちんと説明をもらってますよ。こちらでもできる限りのサポートはします。それが星汰くんとの約束ですから。」

これ以上にない待遇を提示されて、未来への期待を持ってしまいそうになる。目の前に差し出された見知らぬ暖かく優しい手、それに自分の手を重ねたら今から抜け出せる。その代わり、今を全て手放さなければならなくなる。

「今すぐとは言いません。でも、できる限り早めに返答をもらえますか?」

今動かなければ、何もかもを失う気がした。

「よろしくお願いします。僕で良ければご一緒させてもらいたいです。」

深く頭を下げる。握った拳は震えるほど力が入っていて、ゆっくり頭を上げるとにこやかに微笑みを浮かべた顔が目に入った。

「ありがとうございます。それでは、詳しくお話しても大丈夫ですか?」

そう言って小部屋に入る。事細かく説明を受け、手続きの書類の記入。全てが終わる頃、外は真っ暗で夜も深くなっていた。

「申し訳ないです。こんな遅い時間になってしまって、どこか近くのホテル用意します。」

言いながら部屋を出てしまった彼を止めることは出来ず、数カ月ぶりに博士以外の家で夜を過ごした。

次の日、すぐに大学へ来て欲しいと言われ向かうと教授と名乗る人を紹介された。

「君が蒼志くんか。実に面白いものだったよ。」

これから期待しているよ、と言い教授は話を続けた。それから自分の中に埋もれていた知識や好奇心が掘り起こされていった。

「君、面白いね。星汰くんからも随分話を聞いていたが、実際に話してみるとより分かるよ。」

それに星汰くんに少し似ているところもあるし、詳しく聞こうと口を開くと教授はコップに口をつけてしまった。終わるのを待っていたらその先を聞く熱がなくなってしまい、別の話題に舵を切る。

「あの、星汰さんについてお話聞いてみたいです。」

僕はあの人のことを本当には知らない。周りに丁寧に切り貼りされたものは全て見てきた。でも本当にその中にあるものを僕は見ることができない。

「そうだね。星汰くんの話でもしようか。」

そこから半日以上博士についての話を沢山聞いた。今まで一色に染まっていたイメージがいくつもの色がたされて、鮮やかに立体的になっていく。時間を忘れて話を聞くと、はじめとは違う姿の博士が現れていた。

「蒼志くんの前では何とかかっこつけようとしてたのかもしれないね。」

あれでも、君の1個上だから。そう続けられたことで知る博士のこと。それに実際に博士と呼んでいた星汰さんは博士なんて立場でもなかった。

「博士ね。そう言われても不思議がないほど彼は才能を自在に操っていた。それなのに、いきなり研究所を出るとか。」

才能のある人が考えることは分からないね、と笑いながら話す教授たちを見て僕の中の博士は再び孤立した。きっと僕の知らない人が寄り添っていて、僕の知らない言葉をかけて、僕の知らないところで博士は生きていた。

「この後も聞かせたい話があるんだけど、夜は空いてるかな?」

昨日も家に帰っていないし、流石に帰ろうかと一度断る。しかし、どうしても僕と話をしたいのか引き下がらない教授に根負けしてご飯に行くことになった。

その夜も帰るにはあまりにも遅い時間まで付き合ってしまい、近くのホテルに泊まり朝一で帰ることにした。


次の日家へ戻ると中はもぬけの殻になっていた。ご飯を食べた机も寝落ちしたソファーもあるのに、二人の生活を証明できるものが全て無くなっている。家中の扉を開き、博士を探すが影1つも見つからない。最後に博士の研究部屋と言われている部屋に足を踏み入れる。全てが無くなった部屋は広く虚しい空間で、隅まで歩くと窓に一枚の紙が貼られていた。

’蒼志くん。君がこの紙を見つけたのならば、それは申し訳のないことをしたことでしょう。こんなものを残しておきながら見つからなければいいのにと思っています。家にあった私のものは全て捨てました。勝手に決めてしまい申し訳ありません。大学ではこれからの君を支えてもらえるようにと話をしてあります。私のことなんて忘れて自分の人生を生きてください。私は君と最後を過ごせてよかったと思ってます。君は時に優しすぎてしまうのが難なので、気をつけるように。最後になりますが、お世話になりました。さよなら。’

その窓から見える森の先に、木々に似つかわしく石碑が見えた。家から飛び出しその石碑を見ると、

”SEIKA MISAKI”

”SHOTA”

と掘られていた。博士はどうなったのだろう。この地に眠っているのだろうか。それともどこか遠くへ行ってしまったのだろうか。この三人の関係はどうだったのだろうか。

もう知る術はなくなってしまった。


結構頑張って書いてみました


何か質問、感想があれば嬉しいです


よろしくお願いします

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