「馬鹿と気づかぬ阿呆になるな。阿呆を演じる馬鹿になれ」と語呂、語感(「超やべえ」)について
「馬鹿と気づかぬ阿呆になるな。阿呆を演じる馬鹿になれ」
ひふみ神示ではよく「馬鹿正直ならん」や「阿呆になれよ」と言いますが、それは馬鹿正直(→馬鹿と気づかぬ馬鹿)ではなく阿呆(→阿呆と気づいている阿呆)になれと云うことなのだと思います。
上記の台詞文はそれをもじったものです(ᐢ ᵕ ᐢ)。
始めは「馬鹿と気づかぬ馬鹿になるな。阿呆を演じる阿呆になれ」にするつもりだったのですが、
「阿呆を演じる阿呆になれ」の語呂というか語感に違和感を感じたのです。
「阿呆を演じる阿呆になれよ」もしっくりきません。
それで発想の転換で、試しに馬鹿と阿呆を入れ替えのが
「馬鹿と気づかぬ阿呆になるな。阿呆を演じる馬鹿になれ」で、これで私の違和感もすっきりしました(ᐢ ᵕ ᐢ)。
「馬鹿になれ」を一文の結びにすることにより、”言葉”の魅力が上がった気がしますが、
皆様はどうでしょうか?
この語感というか語呂は、日本語においてとても大切な気がします。
例えば、「やべえ」と「超やべえ」や「うぜー」と「超うぜー」です。
「やべえ」や「うぜー」(3文字)は何故か、字足らずというか言い残し?感がするのです。
「超やべえ」や「超うぜー」(6文字)は言いきった?感というか、とても収まりがいい気がします。
まぁ、何にでも「超」をつけるのはいかがなものかと思いました(ᐢ ᵕ ᐢ)が、語呂の安定感が増したのは確かなようです。
当時あれだけ流行ったのも、根底に(「超」をつける事による)語呂の安定感があったのかも知れません(ᐢ ᵕ ᐢ)。