一の①
一
「ここが現場ですか」
「はい。この部屋のデスクで、小手川社長は息絶えておられました。おそらく死因は……」
秘書は金光りした袋の縁を、指でつまんでぶら下げた。
「それは……」
「コーヒーですよ。毒入りのね」
「コーヒーに毒、か」
探偵は顎を指でさすりながら、ううむと唸った。
「どのタイミングで毒物が混入したのか、分かりますか?」
「いえ……うちの方でも毒物について科学班に調査させていますが、今のところは」
「すごいですね! さすがは世界を股にかける大企業、『デスティニー・グループ』の日本支社ですよ! 『科学班』なんてのがあるなんて」
探偵の助手が目を輝かせた。
「しかし、なあ。我々にできることなんてのは限られているぞ。……ああ、そう言えば、あなたのお名前をお聞きしていませんでした」
「林白雪と言います。ですが、名前で呼ばれるのはあまり好きではありません。『秘書』とでもお呼びください」
「ええ? しかし、それではいくらなんでも……」
よそよそしいと言葉を繋げようとしたところ、助手が口を挟んで、その話は遮られた。
「そのコーヒーって、メーカーはどこなんでしょう?」
助手は秘書の手元のコーヒー袋を指差して言った。
「いや、ふと気になったもので」
助手は照れ臭そうに首筋に手を当てた。
「おがわあ、そりゃ確かに重要なことだ。秘書さん、私からもお尋ねしますよ」
「ええ、これはですね……」
秘書は再び金の袋を、二人の目の前に突き出して見せ、中央のロゴを指差した。
「これは……山、ですか」
「これは島を表しています。コーヒーの『楽園』とも呼ばれる島なんですけど……日本からは最も遠い場所にあるんです」
「それって、地球の裏側ってことですか? へぇー、青木さんもよくコーヒーを飲むんですけどねぇ。知ってましたか?」
「ああ? ……あー、うん。もちろん知っていたぞ。コーヒーのことで私が知らないことは無いからな」
「嘘ですよ。知らなかった、やべーって、顔に書いてあります」
探偵は助手を、苦虫を噛み潰したような顔で睨んだ。
「小手川社長は、普段はコーヒーなんてお飲みにならない方なんですけどね」
「ほお! それは重要な証言です」
探偵の青木は、気を取り直すように敏感な反応を示してみせ、助手の小川にメモを取るよう、顎で合図した。
「他に、被害者の小手川社長について、何かありませんかねえ」
「何か、とは」
「そうですねえ、例えば——『小手川社長を恨んでいた人』に心当たりだとか」
秘書が他所を向いて黙るので、青木は首を傾げた。
「まあ、そうですねえ。それじゃあ、好きな食べ物とか何でもいいんで。教えてもらえますかね」
「青木さん……そんなこと聞いて、一体何の役に立つんですか?」
小川は呆れ顔で、首を横に振った。
「お前は黙ってメモとってりゃいいんだよ」
「おー怖」
「お前、さっきから聞いてりゃ、俺の揚げ足ばっかり取りやがって」
「当然の指摘ばっかりですよ」
「何だと?」
二人のやりとりをしばらく黙って眺めていた秘書であったが、思い出したように口を開いた。
「小手川社長は、寡黙なお方でした。ただ、会社第一という人で」
「はああ、なるほど。社長は何より仕事熱心だったと」
青木は小川を鋭く睨み、メモ取れと口だけ動かした。小川は渋々取りかかる。
サラサラと走り書きされたメモ書きの文字は、ひどく汚い。ぎりぎり読めるか、読めないかくらいのものだ。青木はそれを横目に顔をしかめる。しかし秘書の方に向き直った際には、やはり愛想笑いを忘れない。
「そろそろ……」
秘書は腕時計と青木とを、交互に見た。
「もうですか?」
「はい」
「でもまだ手がかりが十分じゃ……」
小川は不満げだが、秘書にはこれ以上ここにとどまる気はないらしい。
「じゃあ、最後にもう一つだけ、よろしいですか。——やっぱり、警察には通報せんのですよねえ」
「もちろんです。そのために、あなた方に、極秘に捜査を依頼するのですから」
「何で僕たちなんでしょう?」
小川は目をまん丸に見開いて聞いた。
「僕たち、大した探偵でもないのに」
「そんなことはどうでも良いのです。とにかく、この件は当面の間伏せておくので……決して他言無用ですよ? この社内の人間にさえ、気を許さぬようお願いします。小手川社長の死を知る者は、未だごくわずかですから……」
「あの、もし俺らからばれちまったら……」
「そのときは、少々覚悟をしていただかなくてはなりません」
秘書はぎこちない笑顔を見せた。きっとこの秘書は笑うことに慣れていない。だから青木らには、それがちっとも笑顔には見えなかった。
「し、失礼しますう」
二人はおどおど退出すると、情けない表情を互いに見合わせた。
「おいおがわあ、こいつはやばいヤマかもしれねえぞ」
青木は声をひそめて言った。
「何弱気になってるんですか! 僕たち、これしか仕事がないんですから……。それに、青木さん言ってたじゃないですか。今度のは報酬が『たんまり』だって」
「解決すれば、の話だろう……」
「ほんっと、弱気ですね。はなっから諦めてちゃ、どうしたって無理ですよ」
「うーん……まっ、とりあえず帰って、情報の整理でもすっか」
青木は大きく伸びをした。
「バカなんですか? ここは現場。聞き込みが肝心でしょ!」
「えっ、でも、ここで聞き込みなんてしたら……」
「うまくバレないようにするのが青木さんの仕事でしょ。ほら!」
小川は青木の背中をポンと押すと、前に出て、上品な廊下を威勢良く歩き始めた。青木はつられるまま、その後に続く。
「おい小川、さっきのメモ、見せてみろ」
小川は振り向かず、胸ポケットからメモ帳を抜き取りざま、青木に差し出した。青木はふんと鼻を鳴らしてそれを受け取ると、ペラとページをめくった。
「おんめえ、整理してねえから、どれがどのヤマのことなのか分からなくなってるじゃねえか」
「いちばん新しいページを見ればいいでしょうが」
「ああ、なるほどな。いちばん新しいページっと……ああ、どれどれ……これ、さっき聞いたな」
青木はほれ、と小川の肩をメモ帳で突いた。小川は不機嫌そうに、それを青木の手から引き抜いた。
「おい、あれに何か聞いてみたらどうだ」
スーツを着た男が二人、フロアの角の休憩場にてくつろいでいる。
「青木さんが行くんですよ、もちろん」
小川はあっという間に、先頭を青木に譲った。
「何?」
「当たり前でしょ。僕はしがない助手で、青木さんが探偵なんですから」
「お前はまた、こういう時だけ都合よく……」
「僕、青木さんのカッコいいところ見たいなあ」
青木は例によって顔を顰める。
結局、今度は青木に小川が付いて行く形となった。嫌々ではあったが、「ちょっとすみません」と熟練の探偵のつくり笑顔でもって切り込む。が、それに続ける言葉を特に深く考えていなかったせいで、「小手川社長って、どんな人ですか?」と、恐ろしいほどの直球勝負に出た。いきなり見知らぬ、加えてこの場に似つかわしくないよれた薄緑のコートのオヤジと、茶のカーディガンの青年との組み合わせに詰め寄られたスーツの男たちは、怪しい二人を見定めようとするように、視線を上下させた。小川は小川で、青木を不信の目で見つめている。
「小手川社長? 何なんですか? あなたたちは」
「ああ、失礼」
青木は襟につけた自作の探偵バッジを頻りに見せつけるが、それが何なのか理解してもらえるはずもなく、とうとう「探偵です」と自ら漏らした。整った身なりの二人は、キリッとした眉毛と賢そうなメガネをお互いに見合わせた。
「探偵なんて、物騒ですね。何か事件ですか?」
賢そうなメガネの方が尋ねた。
「いやあ、ま、そういうわけじゃないんですが」
青木はボサボサの髪を乱し、口元を結び、小川の方を一瞥した。小川は、嘲笑うばかりである。青木は小さく舌打ちした。
「たいしたことじゃないんですが……そう! ちょっとした調査で」
「調査? 怪しいな」
今度はつり眉が言った。
「小手川社長に何かあったのか」
「いやいやいや、そんなことはけっっっっして、ありません! ありませんから」
「何をそんなに慌ててるんだ」
「ああ、とにかくすぐうろたえるタチなんです、この人」
小川がすかさずフォローを入れるが、状況は悪くなるばかりだ。
「おっほん! とにかく、小手川社長のことで、最近変わったことは」
「僕たちは滅多に社長には会いませんからね」
「やっぱり、社長がどうにかなったのか」
「いやいや! ……ってかさー、さっきからつり眉の君? 初対面でどう見ても年上の人には敬語使ったら? 普通使うよねえ」
「青木さん」
小川が制す。
「あー、はいはい。何はともあれ、小手川社長について何でもいいので、教えてくださいますか?」
「あっ、分かりました! もしかして浮気調査ってやつですか? 探偵が動くって言ったら、相場はそう決まってますもんね」
「ということは、社長。実は女癖が悪かったりなんかして」
つり眉の男は何が面白いのか口に手を当ててニヤニヤとする。
「まあ詳しくは言えませんが……何かありませんか」
「本当にそうならスクープですよ! 小手川社長は頑固一徹、仕事第一のイメージしかありませんから」
「ほお。小手川社長が『仕事第一のイメージ』しかないとは?」
「社長はとにかく仕事熱心なんです。ずっと社長室にこもってますし」
「でも、こもってるだけじゃ本当に仕事してるか分かりませんよ? もしかしたら部屋の中でパターゴルフしてるかも」
小川は素振りをして見せながら言った。
「それはありませんよ」
メガネがそう即答したのに、つり眉は少々驚いたようだった。
「社長の秘書が言っていたんですよ。ほら、ハクさん」
メガネがつり眉に呼びかけると、つり眉は、ああ、と納得した様子であった。
「そういやあ、お前、社長の秘書と仲よかったな」
「へええ。あの秘書のことを『ハクさん』ね」
青木と小川は、互いに顔を見合わせた。
「随分仲が良いんですか?」
メガネは開きかけた口を閉じて、ごくんと唾を飲み込むと、「さあ」と首を傾げた。
「それは分かりませんね」
「分からない? ……まあ良いでしょう。ではあなた方のお名前は」
「僕は青山幸太郎です。ここの社員ですよ」
「久米康介、右に同じく」
「僕ら、そろそろ仕事に戻るんで、いいですか?」
「はあ、どうぞ」
青木は特に彼らを引き止めることもなく、道を譲った。
「『青山さんと久米さんに聞き込みするもほとんど手がかりは無し。青山さんは、秘書の人と仲がいい』と。青木さん、もういいんですか?」
小川はメモを取り終えて、青木を窺った。青木は力なく、「うむ」と答えると、とぼとぼ歩き始めた。
「青木さん!」
小川は去っていく社員の二人を一瞥しつつ、青木の肩を掴んだが、振りほどかれた。
「何落ち込んでるんですかー。聞き込みはまだまだ始まったばかりですよ」
朱色のフロアを踏みしめる、二人の足取りは重い。
「こんなんでやる気失ってちゃ、探偵失格ですよ」
「弟子のくせに説教するな」
「弟子じゃありません、助手です」
小川は口を尖らせながらメモ帳をめくった。
「今のところ、秘書の『ハクさん』と青山さんの証言しか得られてませんね。……両者に共通する発言は、『小手川社長は仕事熱心だった』ってことですね」
「なあ、おがわあ」
青木の声の調子は、酷く、陰鬱である。それを聞いていると、小川の方まで気が滅入ってしまう。
「俺は、もう帰るわ。ちょっと疲れた」
「はあ? そんな、帰るって、まだたいした話も聞けてな……」
「いいんだよ! 俺は寝不足なんだ。事務所に帰って昼寝しとくから、お前は残って引き続き調査しろ」
「まーた昨晩、飲み過ぎたんだ」
小川が呟いて立ち止まると、青木はどんどん先へ離れていってしまった。
「人任せのろくでなし!」
エレベーターに乗り込むのが見えた。小川は一つ、大きなため息をついた。
青木の姿はもう見えない。無人の廊下は、一人でいるとやけに寂しい。シャンデリアは無為に明るい。ダメ探偵の助手には、どうやら苦労が付き物だ。