どこかで食べた覚えはあるが~食卓の名推理~
子供に好き嫌いの多いのはそれだけ味覚が鋭敏な証拠だそうで……。
翌々日に行われた追加の調査は、どうにか腹の余裕をもたせたおかげで乗り切ることが出来た。しかし、血糖値がフルにあがっている直後に頭を使わねばならないという点において、今回もなかなかに苦行ではあるのだが――。
「一軒目のゴリラ亭は福神漬けのチョイスを馬鹿にされて、それ以来ラッキョウしか置かなくなった。で、二軒目の辛麗軒はビーフカレーがまずいと言われて、トラウマになったのかポークとチキンだけしか置かなくなった……どう見ます、ジュリー先生」
丸眼鏡をなおしながら尋ねる舞江に、姉貴特製のちいさなインバネス、鹿撃ち帽子という恰好に身をくるんだジュリーはハッカパイプをくわえながら、
「あたし、別にラッキョウとか福神漬けはなくても困んないのよね――それに、カレーはやっぱり、ママのつくるチキンカレーが一番おいしいのよねー」
と、わりに子供らしい返答をしてみせる。こっちは書記を仰せつかったが、睡魔のせいでペンを持つ手がひどく危ない。はっきり言って、話の内容のどうでもよさですっかり眠くなっていたのだ。
「ちょっとノリスケ! あんた聞いてんの!?」
「いたたっ!」
テーブルの下で脛をけ飛ばされ、あっという間に眠気が去った。つくづくひどいやつである。
「わあ、ご褒美――というのは冗談としてネ。時任氏、なんか食べてて気になることとかなかったのかい? なんか下処理が悪いとか、雑いとか……」
「なんだい、それが事件に関係あんの?」
ズボンの上から足をなでる僕に、質問をふった舞江は肩をすくめる。
「いけませんなぁ。先生、ひとつこやつに説明しちゃくれませんか」
「よかろう舞江くん……。ノリスケ、いいこと!?」
「ナンダイッ」
ジュリーが耳を引っ張り、中くらいの声で怒鳴ったせいで痛みが上へあがった。
「あんだけのことをした人間が調理場に立ってるなら、なにか普段はやらないようなミスとか、そういうものがあるはずなのよ! 辛口なのに甘いとか……」
「ちょいちょい、きみはたしか甘口しか食べてなかったんじゃなかったっけ?」
ひりひりする耳を抑えながら、胸元へ押し込んだ手帳を開く。そして、店の名前とめいめいの頼んだ品の名前の書付を読むと、それまで威勢の良かったジュリーの顔が、だんだんと赤くなっていくのがわかった。
「――っと、以上が四軒回ったすべてにおけるジュリーの注文だけど……おや、どしたの」
座ったままのこちらに対して、立ち上がったジュリーは小柄とはいえ、それなりに高低差がある。鹿打ち帽子のヒサシの下で、今にも決壊しそうな目元をのぞかせると、
「ノリスケのばかぁぁぁ!」
「そんな――」
容赦ない回し蹴りがコートのすそから繰り出され、僕は床へ頭を打ち付けたのだった。
騒ぎを聞きつけた姉貴から氷嚢を借り、頭を冷やしながらどうにか書記は続行したものの、これと言って何かめぼしい情報を得られた実感はない。
あとの二軒、たいまい軒とカリークラブのほうは、ほとんどイチャモンのような書き込みがあったきりで、これといって料理の提供の仕方に問題があるような、そんな素振りは見られなかったのだ。
「――へーえ、たいまい軒って、元はふつーの洋食屋さんだったんだぁ」
舞江の持ってきたタブレットで食べログの記事を見ながら、ジュリーがつぶやく。そういえば、舞江の頼んだミートボールカレーの肉団子を、店主が奥で仕込んでいるのを見ていたのだった。
「あのミートボール、なかなかに美味でしたよ。なるほど、さすがに元が洋食屋さんなだけはある。さぞかしトンカツやハンバーグなんかもおいしかったろうに……なんでカレー専門になったんでしょ」
「そういや……」
カレー一本でいくより、普通の洋食屋さんとしてやっていったほうが安牌だろうに、なにか思うところがあったのだろうか。ただ、そのわりにジュリーは不満げな表情で、
「でも、あのカレー、なーんかイマイチだったのよね。よくわかんないんだけど、お店で食べた割にはガックリ来たような……啓太はどう思った?」
「ハテ? そうですな……お肉がおいしかったもんで、どうもよく思い出せませんネ」
「もー、しょうがないわね……おいノリスケ、あんたはどうなの」
いきなり態度の変わるジュリーに、胸の中で舌打ちをする。とはいえ、指摘が的外れ、ということは決してないのが、なかなか頭の切れる証左であった。
「――そういや、ひとくち食べた時に、『これ、どっかで食べたような感じがするな』って……そんな気がしたんだよな。特別な店とかだったら、そっちの名前が出てくるんだけど……」
のどまで出てひっかかるような、ひどく歯切れの悪い感覚が頭をくるむ。打ち所が悪いのか、血液どころか知恵の巡りまで鈍っているらしい。
「どうやら、お二人はたいまい軒のカレーが匂うとお考えのようですな。どうにも知恵が回らなくって申し訳ない」
頭を搔きながら、ジュリーの手元のコップへオレンジジュースを注いでやる舞江に、中間管理職のような悲哀を覚える。対してジュリーは、
「啓太は謝んなくてもいいのよぉ。ただしこの頼りなーい大学生さんは別だけど……」
と、木っ端をいたぶるお局様の様相で、こちらの心をひどく刺激する。
「お前のパパと一緒にやけ酒してやるぞ……パパがべろんべろんになってキス魔になってもおら知らねェずらァ」
手酌でジュースをあおり、ついでにジュリーのほうもあおっておく。家で酒を飲むと、ついつい娘を甘やかしたくなる義兄の存在は、ジュリーの暴走を止める最後の防波堤と言っても差し支えなかった。
「……仕方ないわねっ、これ以上は追及しないでおいてあげるからありがたく思いなさいよね!」
「ハハッ、ありがたきお言葉」
手をつきながら、見えないのをいいことにペロリと舌を出す。しょせんは小学生、こんなものだと思えば、さきほどの痛みもまあまあ薄れてくる――。
「――でも、やっぱりウザいからおかえしっ」
「なんで――」
世の中そんなに甘くはない。反対側をやられて、痛みが倍々ゲームになっただけだった。
そんな一幕がありながらも、夕飯時になればやはり腹は減る。姉に呼ばれてジュリーともども食卓へ降りると、僕と舞江は義兄とともに晩酌へ加わり、運ばれてきた姉特製のポテトグラタンへ舌鼓を打った。
しばらく、他愛もない話をしながら箸をすすめていたところへ、何かのはずみでジュリーによる、たいまい軒のカレーの指摘が出た。すると――。
「樹里、偶然だね。そんな話が今日、パパのゼミでもあったばかりなんだよ――」
「えっ、本当ですか」
僕の問いに、義兄はしきりに首を振る。ちなみに義兄は、学部こそ違うが同じ大学に籍を置く行動心理学の研究者でもあったりする。ジュリーのDNAは、見事に両親の良いとこどりをしているわけだ。
「持ち帰りを買いに行った学生たちが、『このカレー、レトルトみたいな味がする』って騒ぎだしてね。気になって一口もらったら……やっぱりそうだったんだよ」
「レトルトのカレー!?」
おとなしく座っていたジュリーが、テーブルの上へ両手をついて起き上がる。
「パパ、そのカレー、どんな味だった!?」
娘の真面目な瞳が心に訴えたらしく、義兄はしばらく考え込んでからポンと手を打つ。
「――そうだそうだ、樹里専用のあれ……『月の王子様』印のカレーに似た味だったなぁ。さすがにいくらか香辛料を足してはいたようだが……」
「ママ! たしかあれって、買い置きがあったよね?」
ジュリーの迫力に驚いて、姉貴はカクカクと首を動かす。
「――ノリスケ! 啓太! ちょっと協力して!」
椅子から降りると、ジュリーは台所の戸棚の一番下にしまってあった「月の王子様」印のレトルトカレーを取り出し、それをレンジへと放り込んだ。
「最近のは湯煎しなくてもいいから、便利だよなぁ」
「――できた!」
指定の時間通りに温まったカレーをレンジから出すと、僕はジュリーの命で、出来立てのそれを小さなスープ皿へ移した。
「パパ、圭太、ノリスケ、いっせーの、でなめるわよ」
「……いっせーの、せ!」
ティースプーンですくったお子様カレーが、舌の上でじわりと広がる。
「やっぱり!」
開口一番、ジュリーがスプーンを加えたまま叫ぶと、義兄や舞江も、
「樹里、やっぱりそうだったよ。この味で間違いない」
「時任氏、ボクにはどうにも、たいまい軒で食べたのと似たような味にしか思えないんですが、どないでしょうか」
と、たいまい軒のカレーが市販のレトルトをごまかしたものらしい、と騒ぎ出した。もっとも、僕は全然自信がなかったのだが……。
「そうなると、いったいこれはどういうことなんでしょうかジュリー先生」
「啓太、きっとことの真相はこんな具合だとおもうわよ。みんなで食べて分かった通り、たいまい軒のカレーの正体はレトルトだった。その事実がバレるのを恐れたお店の人が、勢い余ってブロガーの人を……!」
「んなわきゃないだろ、いいトシこいた大人がよぉ……」
あまりのばかばかしさに、手酌で一杯やっていた僕は勢いよくビールを飲み干そうとした。ところが――
「――あんたってやつは、ほんっっっとにいい性格してるわよねっっっ!!!」
椅子の上から飛び出した回し蹴りが背中へ決まり、僕は口からビールの噴水を巻き上げ、ダイニングの床へ転げ落ちてしまった。