ことのおこり
子供の怒りは割と理不尽。
それはつい先日のことだった――。
「ノリスケ! おなかすいた! カレー食べたい!」
姉貴夫婦から留守番を頼まれた僕は、玄関先で姪のジュリーこと、綾瀬樹里からそんなことを言われて困惑してしまった。
「ごめんよ、さっきメシ食べてきたばっかなんだ。お昼まだだったのか」
手を引かれてリビングまで連行されると、僕は定位置になっているソファへもたれ、持参していた麦茶へ口をつけた。
「なによ! 勝手にお昼食べちゃって!」
「ぐへっ」
オレンジジュースの入った大きなボトルとコップを抱えたまま、ジュリーがミニスカートの足で器用に回し蹴りを食らわす。おかげで、クリーニングから戻ったばかりの学生服へ麦茶をこぼしてしまった。
「しょうがないだろ、ママからは留守番だけお願いね、って言われてたんだから……」
ハンカチで麦茶を拭き取りながら愚痴ると、ジュリーはしばらくこちらをにらんでから、
「そうなの? じゃあしょうがないか……許してあげるからありがたく思いなさいよね」
と、いったいどういうポジションなのかわからない一言をつぶやき、そのまま黙々と、オレンジジュースを飲みだした。
「もたれて飲むと、服にシミがつくよ。そのタンクトップ、おニューだろ?」
半ば寝っ転がりながらジュースを飲むジュリーを注意すると、それまでブスっとしていた顔がすっかり陽気な表情へきりかわった。服とおしゃれの話題を振ると、大概ジュリーは機嫌をよくする。
「あら、ノリスケにしては目が利くわね。そう! これはママの新作なの!」
「やっぱりそうか……」
この子の母親、つまり僕の姉はとある子供服ブランドのデザイナーをしているのだが、その影響か、ジュリーは小四のわりにひどくファッションにうるさい。おまけに、隙さえあれば外を駆け回って日に焼けているものだから、遠くから見ると昔の黒ギャルと区別がつかない。
「――ねえ、聞いてるの? 上の空だと学ランにジュースひっかけるわよ!」
服の自慢をしていたジュリーが、僕が話を聞いていないのに気づいて、ジュースのコップを振るジェスチャーをした。
「――わ、それだけは勘弁!」
慌てて肩をすくめる僕へ、ジュリーは八重歯をのぞかせてケケケと笑う。
「もー、そのダッサい学ランどうにかしなさいよね! 高校生じゃないのに……」
「いいだろ別に。オレみたいに上だけ着てるやつ、結構いるんだぜ」
ジュリーの指摘はもっともではあった。大学に入ってすでに二年目、とっくに成人している今でも、ジーパンの上はよれた詰襟の学ランなのだから、おしゃれにうるさいジュリーからすれば骨董品でも羽織っているような塩梅なのだろう。
ちなみに、これには何か深い意味があるわけではない。単純に、ポケットが多い服を求めた結果、行き着いたのが学生服だったという話なのだ。
「だからって真似することないんじゃないの? ほんっとにオリジナリティない性格してるわよねっ」
「オリジナリティがないって……」
いったいどういうことだよ、と思ったが、折よくかかってきた電話によって、面倒な姪っ子から解放されることが出来たので、それ以上の追及は止すことにした。
「――もしもし。あれっ、マイさんどしたの」
電話の相手はマイさんこと、同級生の理学生・舞江啓太で、ちょうど姉貴の家の近くにいるから、よかったら昼でもどうだ、という話だった。
「ちょうどいいや、マイさん、どっかカレーのうまい店知ってたら教えてくれよ。――いっしょに行けて、役得だぜ?」
いわゆるロリコンの気がある舞江にこそっとつぶやくと、向こうからはあまり気のない答えが返ってきた。
『いいけど時任氏、今日はジュリーちゃん、つむじ曲げてない? あの子、結構デリケートだから困るんだよ……』
ロリコンはロリコンでも、舞江の場合はちょっとむつかしい。詳しく踏み込んで聞いたことはないが、ジュリーのようなタイプはあまり好みでないのは確かなようだった。
「まあ、いつも通りだな。でも珍しいんだよ、腹減ったー、とかいうことはあっても、具体的にメニューを言うのはあんまりなくてよ……」
「――だって、いつものお店閉まっちゃったんだもん!」
テーブルの上に置いてあった児童書を読んでいたジュリーが機嫌も悪く叫ぶ。
「――だ、そうですぜ旦那」
『なるほどなあ……。まあいいや、ひとつそっちに行くから、打ち合わせしてから行きましょ。じゃ……』
それだけ言い残して通話が切れると、僕は電話をポケットへしまい、ジュリーに出かける支度をするよう伝えた。数分ほどたってから、玄関先で舞江と合流して家を出て、とあるカレーショップのドアをくぐった。
「さぁジュリーさん、ここのはどれをとってもイチオシっすよ」
恰幅のいい舞江が、丸眼鏡越しに目を喜ばせながら語る。ジュリーはジュリーで、おそるおそるカレーへスプーンをしずめてから、
「美味しいじゃん! さっすが啓太、あなたハズレがないわよね。ノリスケもちょっとは見習いなさいよね!」
と、目まぐるしく変わる表情で、僕と舞江に喜怒入交りの言葉をあびせる。
「――ときにジュリーさん、お気に入りのお店が閉まっているとは、お店の人はご旅行にでも行ってらっしゃるんですかな?」
汗をかきながらスプーンをつかっていた舞江が、ジュリーに事のあらましを尋ねた。そういえば、きっかけはジュリーお気に入りの店が閉まっているのが原因と聞いたが……。
「ひどい話なのよねー、それが。聞いてよ二人とも……」
ナプキンで口の周りを拭っていたジュリーが口を開く。ジュリーの話と、それを合間合間に調べた舞江の話を総合すると、ざっとこんな具合になる。
三週間ほど前、駅前公園の茂みで、男性が頭部を殴られた昏睡状態で発見された。
被害者は有名なカレーブログ「華麗ライフ」の管理人で、彼の日ごろの歯に衣着せぬ言動や書き込みなどから、彼に恨みを持つ業界関係者によるしわざでは――と捜査陣は考えた。そのとき、容疑濃厚と目された五軒の店――律儀なことに、財布にそれぞれの店の領収書が入っていたのだ――の一軒が、運悪くジュリーのお気に入りであった「カレー大王」というカレーショップだったのだ。
しかも、そこの店主が犯行前日、味に対する指摘でひどく激昂し、「殺してやる」などと叫んでいたのを大勢のギャラリーに見られていたものだからたまらない。
証拠不十分で保釈はされたものの、世間の好奇の目にさらされることを恐れた店主は、家族で田舎に避難してしまったのだという。
「そのせいでジュリーさんは不満がおありというわけだったのですな……」
食後に舞江がとってくれたジュースを飲みながら、ジュリーはその通り、といいたげなドヤ顔をむける。
「だからあたし、ホームズみたいな方法で真犯人を探して、カレー大王がまたお店をやれるようにしてあげたいわけ!」
継がれた二の句に、思わず額へ手を当てる。この頃学校ではやっているとかで、ジュリーはすっかり、子供向けの推理小説にハマってしまっていた。そこへ姉貴が、ホームズよろしく小さな探偵帽やコートなんかを作って与えたもんだからたまらない。今日は暑さに耐えかねて着てこなかったが、これがなかなか目立つ――。
「――ねえ啓太、協力してくれない? もちろんノリスケも!」
つぶらな瞳で懇願するジュリーに、舞江はすっかりのぼせている。
「おやおや! もちろん僕はジュリーさんにお供しますが……時任氏、きみはどうするの」
「……行くよ。そうしないと、姉貴に殺される」
うっかりこのロリコンと幼女だけにして何かあったらたまらない、とは口が裂けても言えなかった。とにかく、問題の起きた五軒のうち、確認が出来る四軒を回ってみようということに決まったものの、これが厄介だった。
「なに悠長なこと言ってんの! さっそく今から、全部の店に行くのよ!」
「――時任氏、わてら腹ボテにされてまう」
「だまれメタボ」
今だけ友人の顔が鬼に見えた、そんな瞬間だった。
追加の二軒分のカレーをどうにか胃に押し込むと、僕は舞江に肩を借り、どうにか下宿に戻ることが出来た。
「ちきしょう、手からカレーの匂いが離れねえ」
膨れた腹を抱え、万年床へ寝転がりながらぼやくと、舞江はお湯の支度をしながら、
「ターメリック系なら、太陽にかざしてれば取れますぜ」
と、呑気な調子で答える。
「バカ、そりゃ服に着いたときの対処法だろうが……」
「ああ、流石に知ってたかァ。しかし時任氏、この調子だと明日当たり、まーたジュリーちゃんに呼び出されますぜ。まあ、僕は構わないんだけど……」
「このロリコン、お前なんかとっととしょっぴかれちまえっ」
しかし、舞江はヘラヘラと笑って、おお、こわい、というだけだった。
「まあ、飽きれば自然と解放されるでしょ。それに……」
「それに、なんだよ」
慣れた調子で二人分のお茶を支度する舞江が、こんなことを口にした。
「それにほら、もしついでに真犯人あげられたら、警察から謝礼の一つや二つ出るんじゃない?」
「バカ言え、そんなこと出来たら苦労……」
と、口にしかけてみたものの、はっきり言い終えるのをためらうような、不思議な感情が胸の内をよぎった。
「ほーら、まんざらでもないでしょ? ジュリーちゃんをダシに、僕らが得しちゃえばいいんだよぉ。日頃何かと遊ばれてる身としては、それくらいの役得があってもいいんじゃないの、時任氏……?」
「――悪魔のささやきってのは、こういうのを言うんだろうなぁ」
肩を借りて身を起こすと、ひとまず僕は学生服のホックをゆるめ、熱いお茶を飲み干すことにした。つまらない知恵がめぐってきたせいか、ちょっとずつ胃の具合もよくなりつつあるようだった。