第十一章 醤(ひしお)と野獣 2.試作
思い付くのは一瞬でも、それを実行に移すとなると並大抵の事ではない。何しろ肉醤のレシピなど、生前の日本においてすら読んだ事が無い。【田舎暮らし指南】師匠も、さすがにこの方面までは手が廻らないようであった。
だが、その程度で音を上げるようなら、そもそもこんな事は考えない。
「……肉には違いないんだし……魚醤の造り方を参考にしてみるか……」
なぜかこちらは載っていた魚醤の造り方を参考に、材料を魔獣の肉に代えただけの、似非っぽい肉醤の製造に着手する。魚醤の材料は魚の内臓とか小魚なので、肉醤の方も魔獣の内臓を主に使ってみる。それが正しいのかどうかは判らない。今はとにかくやってみるだけだ。数年以内に食べられるものができたら、それこそ御の字だろう。
「確か……蛋白質の自己消化がどうとかって読んだ気がするけど……まぁ、いいか」
秋田の塩汁では麹を加えると――なぜか【田舎暮らし指南】に――書いてあるが、能く読めば麹を加えない製法もあるらしい。また、奥能登の魚汁は麹を加えないで造るようだ。現状で麹の入手など不可能なので、今回は麹を加えずに試作してみよう。
――と、取りかかろうとしたところで気が付いた。
「……多分……成功しても失敗しても、臭いが凄い事になるよね……」
それに気付いたので、普段寝泊まりしている自宅ではなく、物置代わりに使っている別の家で造る事にする。
どういう手順で造るのが適切なのか全く判らないので、製法や条件を代えたものを幾つも造って比較する事にした。
「醗酵・熟成に一年かぁ……長丁場になりそうだなぁ……」
・・・・・・・・
……などと殊勝に待っていたのは数日だけで、痺れを切らしたユーリは数日後には善からぬ事を考えていた。
「……醗酵と腐敗って、本質的には同じだっていうよね。 ……だったら、闇魔法とか土魔法で、同じような事ができないかな……?」
闇魔法に【腐蝕】という魔法を見つけたものの、幸か不幸かレベルが足りずに使えなかった。一方土魔法では、【堆肥化】の魔法がそれに該当するようであった。
ただし……
「う~ん……【堆肥化】だと、一気に無機物にまで分解しちゃいそうだなぁ……アミノ酸とかエステルとかいう段階じゃないか。……それに下手をすると、醗酵を行なう微生物の餌である有機物を奪う事になりそうだよね」
そう上手くはいかないかと残念に思うユーリであったが、
「……あれ? 醗酵って、微生物の働きだよね? ……温度を上げたら活溌になったりしないかな?」
・・・・・・・・
現代日本で造られている魚醤でも、醗酵時に加温する事で反応を促進する事は行なわれている。それどころか味噌の製造においても、醗酵促進のための加温処理――温醸あるいは速醸という――は、珍しいものではなくなっている。味噌本来の旨味などは劣るというが、本来なら一年ほどかかる醗酵の工程を三ヶ月ほどに短縮できるとされている。
ただし……
「……こっちには恒温槽なんて気の利いたものは無いからなぁ……」
火魔法という便利技術は確かにあるし、魔道具というものもそれなりに普及している。ただし――少なくともユーリのレベルでは――火魔法にせよ魔道具にせよ、短時間に一気に「加熱」するならともかく、適切な温度に「加温」するのは、ましてやその状態を数ヶ月にわたって「維持」するのは難しい。地獄の業火で焼き尽くすのと、長期に亘って適温を維持し続けるのとは、根本的に違うのである。
「……バイメタルなんてものは無いし、それ以前に、あれって電気の使用が前提だったよな。……いや、そもそも正確に温度を測定する方法がネックか……?」
予想外の難問に頭を抱えるユーリ。恒温槽を開発しておけば、今後も色々と便利になるのは解っている。ただし、現在のユーリの力量では、いつまでかかるのか判らないのもまた理解している。
ユーリとしては旨味調味料が欲しいのであって、そのための技術開発が目的なのではない。目的と手段を取り違えるような事はしない。
しばし首を捻って唸っていたユーリであったが、やがて発想の転換に至って……
「……加温よりも、保温を考えたらどうなんだろう?」
秋の気配が日ごとに強くなってきている今日この頃、微生物の活動には不向きな時期が迫っている。加温に悩んで時間を浪費するよりも、保温を考えた方が実効性は高いのではないか。
では、どうやって?
「保温って言えば魔法壜……ジャーとかポットだよなぁ……」
中身がオッサンなだけあって古めかしい言い回しが口をついて出たが、発想の方向は間違っていない。容器を断熱構造にすれば、温かいものは温かいままに、冷たいものは冷たいままに、保っておく事は可能である。
ただ、それが目的に適うかどうかというと……
「甕を断熱構造にしたら……いや? そうしたら……外から温めようとしても効果が無くなるんじゃないか?」
微生物の活動に伴って熱が発生する筈ではあるが、その活動を高めるために加温しようとしているのだから、これでは本末転倒に陥りかねない。
「温室……は無理だとしても、断熱効果のある箱か何かに入れておくか? 箱の中を暖めるには……あ、お湯なら……いや、直に入れるんじゃなくて、お湯を入れた容器を箱の中に入れてやったらどうかな?」
原始的で、効果も限定的かもしれないが、その分仕組みは単純である。取っ掛かりとするには手頃かもしれない……
斯くしてユーリは、醸造中の肉醤の一部に、原始的な温醸処理を施す事を試みたのである。
結果が出るのはもう少し先の事になるだろう。




