第四十章 樽の中から生まれたもの 1.ワイン
並んだワイン樽を前にして、にまにまと何とも言えない笑いを浮かべているのはユーリである。十二歳の子供が浮かべるにしては不似合いな表情であるが、その実態は三十七歳(プラス五歳)のおっさんである事を考えると、この表情も納得できるものがある。
……納得はいっても不似合い――と言うよりもはや不気味――なのは変わらないのだが。
実は前世の去来笑有理は、本来は結構いける口であった。
にも拘わらず入院生活が長かったため、不本意な禁酒生活を強いられていたのである。こちらの世界に転生してからそのような縛りは無くなったものの、この身体はまだ子供であり、過度の飲酒が健康や発育に宜しくない事ぐらいは解っている。……と言うかそれ以前に、前世の日本のように手軽に酒を買って飲むという事が望めない境遇であった。
大麦やプルア――やや小粒なリンゴの原種のようなもの――など、酒の原料になる食物は無くもないが、それらは食糧としての利用が優先であり、酒造原料に廻すほどの余裕は無かった。後になって山葡萄のようなものを見つけたが、こちらも収量は多いとは言えない。一応栽培化してはいるものの、実が小さい上に着果数も少ないのである。プルアについては良さそうなものを播種して育てている――木魔法による成長促進付き――が、それらもまだまだ試食程度の数しか実を着けていない。なので、手頃な若木を見つける毎に木魔法で成長を促したり、それらのうち一~二本を――全てを移植すると他の動物たちが困るので――村内に移植したりして、適宜収量アップを図ってきた。その努力がようやく実を結び、実の一部を林檎酒の醸造に廻せるようになったのが、つい昨年の事であったのだ。ちなみに、原料確保に目処が付いた時点で、抜かり無く酵母は幾つか確保してある。
こういった事情であったため、ローレンセンでワインなどの酒を購入できた事は、ユーリにとっては福音以外の何物でもなかったのである。尤も、購入に当たっては少しばかり揉めたのだが。
少し時を遡って、その辺りの経緯を観てみる事にしよう。
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甘い――というのがアドンの屋敷でワインを飲んだ時に最初に抱いた感想であり、次いで感じたのが思ったより「若い」という事であった。
これにはそれなりの理由がある。
まずこの国の気候であるが、冷涼とまではいかないにせよ、前世の日本よりかなり涼しい。従って、ブドウを収穫後にワインに仕込んでも、醗酵に適した気温は長続きしない。低温のために酵母の活動が抑制された結果、果汁中の糖分が酵母に消費されずに残るため、度数が低く甘口のワインができる事になる。このようなワインは甘味料としても使い易かったため、この国ではワインの多くがこの手のもので占められていた。
ちなみに、ガラス壜がまだ割高な事もあって、壜内熟成の事は知られていない。そのためユーリの感覚では、まだ若い感じのワインばかりなのであった。
酒というより調味料に近い扱いをされているため、ユーリがワインを購入すると言っても不審がられる事は無かったのだが……
〝ねぇユーリ君、さすがに大樽五つは買い過ぎじゃないかしら?〟
〝え? でも、僕のところだとワインなんかそうそう手に入りませんし……ハンの宿場にも売ってなかったですよね?〟
〝まぁ、あそこは旅人相手の小売りばかりじゃからのぉ……〟
〝今度いつ手に入るか判りませんから、買える時に多目に買っておこうと思ったんですけど〟
〝それは解るけど、それでも五樽は多くない?〟
半ば調味料代わりとは言っても酒は酒。ドナが心配しているのも解るのだが、中身おっさんのユーリとしては、ようやくありついたワインを買わないなどという選択肢はあり得ない。うち一~二樽は蒸溜してブランデーを造ってみたいし、ガラス壜に移して長期熟成させてもみたい。あれやこれやを考えると、やはり五樽くらいは確保しておきたいのだが、そんな事を馬鹿正直に打ち明けるわけにもいかず……
〝え、え~と……やっぱり甘味は確保しておきたいですし……〟
普通ならそれで納得してもらえたのだろうが、生憎とドナもオーデル老人も、ユーリがメープルシロップ――この国風に言えば木蜜――を自作している事を知っている。甘味料が無いという口実は使えない。
ならばメープルシロップの生産量が少なく、気楽に使えないと言うべきか。しかし迂闊にそんな事を言うと、ドナに気を使わせる事になりかねない。何度かメープルシロップのご相伴に与っており、密かに楽しみにしている事は明らかだ。実際にも普段使いに充分な程度の量は確保しているし、ノンカロリーのステビアもこっそり精製している。頑是無い子供の楽しみを奪うような無粋な真似はするべきでない。
――と、素早く考えを巡らせたユーリが口に出したのは……
〝……木蜜ばかりだと、やっぱり飽きちゃいますから。あ、あと、これから寒くなるとホットワインなんかも欲しいので〟
これならドナに気を使わせる事もあるまい。内心でグッジョブとサムズアップしたユーリであったが……惜しむらくは少々詰めが甘かった。
〝……ユーリ君、木蜜に飽きるとは、どういう事かな?〟
酒屋に行くというので偶々同行していたアドンに食い付かれ、説明に苦慮する羽目になるのであった。
ちなみに、この時ユーリは酒以外に空き樽も購入している。樽は自分で作れないからと釈明したが、実はブランデーの熟成に使うつもりなのは秘密である。熟成用の地下室は既に造ってある――別段酒蔵というわけではなく、単に食糧の貯蔵場所としてであるが。何でも【収納】に突っ込むと、醗酵や熟成などが進まなくなったりするので、こういう貯蔵部屋は必要なのであった。