第三十九章 豆腐 1.準備
「さて……」
そう呟いて材料を前にしたユーリからは、静かな興奮とでも言うべき気配が立ち上っている。材料となる作物を手に入れてから四年、最後の壁となっていたものがローレンセンで手に入ったため、ユーリはようやくにしてそれを作る事ができるようになったのである。
ユーリの目の前に並んでいるのは吸水させてふやかした大豆ことソヤ豆、それに塩化マグネシウム……俗に言う「苦汁」の主成分である。
――そう。ユーリが作ろうとしているのは豆腐であった。
「大豆も充分な量が穫れるようにはなったけど、まだ味噌は試作の途中だし……先に豆腐だけでも作っておきたいよね」
先日豆麹――麹カビでないものも含まれているが、ユーリの中ではどちらも等しく「麹」――の育成に成功し、今は味噌玉を醗酵させているところである。成否がある程度判るのは、まだ十ヶ月は先の事になる。豆麹を見た事で沸き上がった豆への想いをそんな先まで抑えておける筈もなく、ユーリは豆腐の作成に着手したのである。寧ろなぜ今まで作らなかったのかと問いたくなるが、それには決定的な材料が入手できなかったという事情があった。
ユーリの住んでいる村の近くでは岩塩が掘れる。
岩塩それ自体は大いに有用なものであって、ユーリも日頃その恩恵に浴しているのだが、元・日本人のユーリとしてみれば残念な事が一つあった。ここで採れる岩塩には、マグネシウム分が含まれていないのである。そのお蔭で掘った岩塩が手間を掛けずに利用できるのだから、それはそれでありがたいのだが……苦汁が得られないために豆腐が作れないというのもまた事実なのであった。
しかも【鑑定】先生の説明によると、これはここだけの話ではないらしい。押し並べて岩塩というものには、マグネシウム分が含まれる事が無いようだ。岩石からどうにかして抽出するしかないかと半ば諦めていたユーリであったが、
「まさか薬屋で売ってるとはねぇ……」
厳密に言えば家庭用の医薬品ではなく、錬金術師向けの原料として売られていた。この世界でもマグネシウム塩は色々な用途に使われているようで、水酸化マグネシウムか何かを安価に作るための原料として、海水から採れる塩化マグネシウムが用いられているようだ。確かに、海水から塩を採る際の副産物として得られるのだから、安価に入手できるのは間違いない。
この事からも判るように、ここフォア世界でも海水塩の精製技術は知られている。ただし、その技術は一部の者が秘匿独占している状況であり、よって塩化マグネシウムの販売も、それら一部の業者が独占的に行なっているのであった。まぁ、こちらの世界では岩塩が主流となっているのと、魔獣のせいで製塩用の薪材を簡単に得られない現状から、海水塩自体はあまり強気な販売ができていないようであるが。
年端もいかない子供が大量の苦汁――と言うか、塩化マグネシウム――を買い上げたため、ローレンセンの薬屋では妙な顔をされたが、しつこく詮索してくる事は無かった。上客――もしくはその使い――と思われたのかもしれない。
「まぁ何にしても苦汁が手に入ったわけだし、豆腐を作らないって手は無いよね」
――というわけで、ユーリは豆腐の作製に着手したのであった。
一晩水を吸わせたソヤ豆は、好い感じに膨れている。次なる工程はこれを滑らかなクリーム状になるまで擂り潰して……
「――いや、擂り鉢と擂り粉木だけでこれをやれって……何の罰ゲームだよ……」
擂り鉢と擂り粉木もローレンセンで購入してきたのだが、試作分とは言えそれだけでソヤ豆を擂り潰すのは結構な手間であった。こんな事なら欲張って大量のソヤ豆を用意するんじゃなかったと思っても後の祭り。ふやかした以上は使うしかない。【収納】しておけば品質は変わらないとはいえ、それでは問題の先送りにしかならない。
それは確かにそうなのだが、擂り鉢と擂り粉木でちまちまと擂り潰すのも願い下げのユーリが、ここで一計を案じる。要は効率的にソヤ豆を擂り潰す手段があればいいのだ。無魔法という選択肢も無いわけではないが、どうやればいいのか今一つイメージが掴めない。それよりは文明の利器に頼るのがベターであろう。
ユーリが最初に思い出したのはミキサーであった。電動は無理でも、確か手回しのミキサーというのがあった筈だ。あれを作っておけば、後々も色々と便利になる……と、考えたユーリであったが、それではと具体的な構造を思い浮かべると、回転軸のシーリングが難しそうな事に気が付いた。
「……シーリング無しじゃ中身が漏れるし、パッキングみたいに密閉したら、多分今度は摩擦で軸が回転しなくなるよね……」
ひょっとして動力船のスクリューと同じ構造なのかと思い当たるに至って、これは素人の手に負えそうにない事にも気付く。下手をすると、いや多分確実に、ミクロン単位の摺り合わせが必要になるだろう。いくら豆腐のためだと言っても、そんな面倒な手順を踏むのは嫌だ。何か他の手は無いかと考える。
最初にミキサーからハンドミキサーを連想して、カッターを上側に取り付ける構造を考えたのだが、それだと容器の下までカッターが届かないだろうし、カッターが届くように容器を浅くすれば、今度は内容量が稼げない。
ならば、ミキサーのデザインはそのままに軸だけ伸ばせばどうかと言うと、今度はカッターの上に材料を置くのが面倒になるし、液状化した中身が飛び散りそうな気がする。万一軸がぶれて容器に当たったりしたら……容器が壊れるかカッターの刃が欠けるか、どちらにしても大惨事である。なるほど、ミキサーはなるべくしてあの形になったのか――と、感心したユーリであったが、問題は一向に解決していない。
ここでユーリが「ハンドブレンダー」と呼ばれている手持ち式の……まぁミキサーと同じような調理器具の事を知っていれば話が違ったのであろうが、生憎と台所仕事とは縁の遠かった前世が災いして、そこまで思いが至らなかった。
そんなユーリは次にミンサーという道具の事を思い出すが、内部構造などはさすがに知らない。【鑑定】の説明文で調べようにも、そう簡単ではない。あくまで【鑑定】結果の説明文であるため、鑑定するものが無い場合には使いづらいのである。例えば豆腐の作り方を例に取ると、まずソヤ豆を鑑定し、説明文にある「大豆」という単語のリンクを辿って――なぜかリンクが張ってあった――「豆腐」にジャンプし、そこから作り方を探すという手順を踏んでいる。ミンサーの現物が手元に無い――ローレンセンでも見かけなかった――ので、ミンチ肉を作って鑑定し、そこから辿れるかどうか試すしかないが、迂遠な事には違いない。また、首尾良く構造を知る事ができても、それを作れるかどうかは別問題である。
どうしたものかと考えていたところで、以前に観た時代劇の一場面が蘇ってきた。
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