第三十八章 麹魔多し
こちらの世界に転生して以来、ユーリは自分の生活を向上させるために、前世の知識を惜しげも無く使ってきた。それもこれも元を辿れば、〝自分はこの辺りで最底辺に位置する弱者〟――という、確乎たる誤解が原因である。最弱の自分が生き残るためには、手段を選んでなどいられようか。大丈夫。神様に戴いた【田舎暮らし指南】にも載ってる事ばかりだし……
――と、まぁこういった次第で、ユーリは文明開化に邁進したわけである。
それでも、ユーリ一人がその恩恵を被っているうちはまだよかった。が、やがてユーリは本当の意味で、この世界との邂逅を果たす。こちらの世界の人間と出会い、交流を持つ事になったのだ。第三種接近遭遇である。
更にこの国有数の商都に赴く事で、より深くこの世界の文化に触れる事になり、その刺激を新たな知識、新たな技術という形でこの世界に還元した。それらの中には、今後の展開次第では、この国の将来にまで影響しそうなものも幾つかあった。
そして……今日というこの日、ユーリはまたも新たな技術の萌芽をこの世界にもたらそうとしていた。
解り易く言えば、ユーリは遂に豆麹の育成に成功したのである。
「これって……麹……だよね……?」
感無量といった体で鑑定結果を確認しているユーリの声も震えている。
何しろ転生してから五年というもの、何とかして味噌と醤油、もしくはその代替品を入手せんものと続けてきた努力が、遂に実を結んだのだ。それはまだ小さな実にしか過ぎなかったが、それでも大いなる進歩と言えた。
ユーリが大豆……と言うかソヤ豆を入手してから既に三年が経過しようとしていたが、まずはソヤ豆の数を殖やすところから始めなくてはならなかった。ある程度の数が揃ったところで味噌の試作に着手したわけだが……
「最初の頃は腐るばっかりで……本当に、何度諦めようと思ったか……」
煮て軟らかくしたソヤ豆をあちこちに放置して、麹カビが生えるのを期待したのだが、案に相違して豆は腐るばかり。納豆のようなものは何度かできたのだが、ユーリが納豆嫌いだったために即座に廃棄となったのである。その頃からいずれは酒造りをと目論んでいたユーリにしてみれば、酒の腐造の原因となる納豆菌、別名火落ち菌を育てるなど、断じて容認できなかったというのもある。
なのに目当ての麹カビは一向に生えず、この世界には雑菌と火落ち菌しかいないのかとヤサグレかけていたユーリであったが……二つの試みが、相次いで閉塞した状況を打開した。
一つ目は、バージョンアップした【田舎暮らし指南】の教示に従って、煮た豆に木灰を加えてアルカリ性を保つようにした事である。雑菌の多くはアルカリ環境では生育できないが、麹菌はアルカリ耐性を持っているので問題無く生育できる。日本では室町時代から行なわれていた方法らしいが、こうした一種のスクリーニングを採用した結果、その一つが恒温実験室の中で麹を生やすに至ったのであった。
そして二つ目は……
「……うん……ちゃんとアミノ酸ができてる。大豆も分解できるたみたいだ」
二つ目の試みは、スターターとして肉醤の汁を添加した事である。
転生初年から作製を開始した肉醤は、試行錯誤と改良を経て、それなりに旨いものができていた。最初の頃に造ったものは臭いがきつくて食べづらかったが、製法や材料を工夫した結果、今ではその異臭も無視できるまでになっている。その汁をスターターとして与えたソヤ豆の一つで、大豆が分解されて旨味成分となるアミノ酸が生じていたのである。肉醤の中で繁殖していた微生物の中に、蛋白質分解酵素を産生するものがいたらしい。
前世地球における魚醤では、蛋白質の分解は主に魚肉の自己分解酵素が担っていたが、こちらの世界でユーリが造った肉醤では、それ以外に耐塩性の微生物も蛋白質の分解に関与していたようだ。
分解に関与したのがカビでないのは明らかであり、従って厳密に言えばそれは日本で言う「麹」とは違っているわけだが、同じようにプロテアーゼを産生して同じように蛋白質をアミノ酸に分解するなら、ユーリの中では同じ「麹」である。原核生物か真核生物かなど、それに較べれば些細な違いではないか。
「……気のせいかな。味もこっちの方が少し好いような……ちょっと肉醤に似てるかな?」
どうやら耐塩性酵母と耐塩性乳酸菌、あるいはそれに類するものが加えられる事になって、アルコールやエステル、有機酸などが生み出され、味の改善に至ったものであろう。前世で食べていた味噌とはかなり違うが、これはこれで悪くない。
とりあえずこの二系統を別個に保存・育成しておこう。場合によっては麹カビ由来の味噌に、肉醤の汁を添加するのも良いかもしれない。
「とりあえずは……うん、この『麹』を殖やしてから味噌の試作と、あとは……そうそう、麹カビの方は胞子を作らせて種麹を保存しておかなきゃ」
豆麹の育成に成功したとは言っても、それは味噌造りの第一歩に過ぎない。できたものが食用に堪えるかどうかはまだ未知数なのである。
ちなみに、麦麹を選ばなかった理由は単純なもので、主食たる麦には試作に回せるほどの余裕が無かったからである。麦の収量が満足できる水準に達したのは最近の事で、それまではあまり余裕は無かったのだ。
「えぇっと、『麹』を殖やした後は……ソヤ豆を蒸かして味噌玉にしてから麹を加えて培養……少なくとも十ヵ月は寝かせないといけないのかぁ……」
既に述べたように、適切な微生物を選抜するために、少なくとも当面は加温しての醸造は控える事が決まっている。ゆえに、この十ヶ月という期間を短縮する事はできない。味噌玉は今までの醗酵室と、新たに建造した醗酵蔵に分けて置くつもりだ。
そしてそうやって試作品が出来上がっても、期待どおりの品質になっているかどうかは判らない。まだまだ先は長いようであった。