第三十三章 また会う日まで 1.その前夜
明日にはユーリたちがローレンセンを発つという夜、屋敷の主人であるアドンは旧友であるオーデル老人と別れの盃を傾けていた。
「随分と長居をしてしもうたのぅ」
「お前は長居と言うがな、私にとってはまだ足りぬというのが本音だぞ?」
「お主はそうじゃろうが、ユーリ君にも儂らにも畑の世話というものがあるでのぅ。これ以上は無理じゃ」
「それが解っているから止めはせんよ。だが……近いうちに、できれば冬明け早々にでも、再び会いたいものだな」
「ふむ……このところ何やら動いておったようじゃが……例のナイフの件かの?」
「そっちの方は、土魔法使いが確保できん事には話が進まん。どちらかと言うと、鉛筆とかいう筆記具の方だな……鉛を使わんのに、なんで『鉛』筆と言うのか解らんが……」
「まぁ、名前は売り出す時に改めて決めればいいじゃろう。で、そっちの方は進んでおるのか?」
「ユーリ君から情報秘匿のためのあれこれを教えてもらってから、まだやっと十日だぞ? そう簡単にできるわけが無いだろうが」
「確かに……部署を敢えて分断させるというのじゃからなぁ……」
鉛筆――正しくはチャコールペンシルになるのか?――の利権が大きなものになると同時に、その秘密を探り出そうとする動きも熾烈になるだろうとのアドンのぼやきを聞いて、ユーリは情報秘匿のために、製造に関する部署を敢えて複数に分割し、それぞれの作業を他の部署に知らせないという方法を提案した。
鉛筆の製造は大まかに、
1.黒鉛(今回は炭の粉)と粘土の精製
2.適切な比率で混合
3.芯押し機で細い穴から押し出すようにして成型
4.芯の焼成
5.焼きあがった芯を、書き味を滑らかにする目的で、油などに保管
6.板状の軸木に彫った溝に芯を入れ、膠などで固定・圧着
7.軸木を切り分けて整形
――という手順で行なわれる。
ユーリはこれらの工程を別々の場所で行ない、加えて各部署の従業員が互いに往き来しないようにする事で、製造の全体像を把握させない方法を提案した。
無論こんな事をすれば、製造の効率は極端に低下する。しかし、例えば2・4・5の過程を秘匿するだけで、同じグレードの製品を作る事は困難になるのではないかと示唆したのである。それをどこまで受け容れるかは、事業者であるアドンの判断になる。
ちなみに、削りすぎて短くなった鉛筆を挿して使うためのホルダーも、ユーリはアドンに教えている。また、鉛筆の芯には本来黒鉛を使うもので、木炭を使用したのは苦肉の策である事も、やはり教えている。これらの情報がアドンにとってどれだけ有益なものであるか、きちんと理解した上での教示であった。
「今はまだ製造場所の確保すら終わっておらん。それとは別に少量の試作を進めようとしているのだが……年明け頃に試作品ができれば御の字だろう」
「ふむ……来年早くにユーリ君に会いたいというのは、そういう事か」
「一つにはな。その頃には、例のナイフの方も少しは進展しているだろう……」
老人二人は互いに無言で乾杯する。やや間を置いて口を開いたのは、オーデル老人の方だった。
「随分と力を入れておるようじゃが……それほどの利益が見込めるのか?」
「さてな」
思いがけない友人の答えに、片眉を上げて疑問の意を表したオーデル老人であったが、返って来たのは予想外の答えであった。
「いや……本音を言えば、それほど早く利益が上がるとは思っておらん。と言うか、直接の利益など、すぐに上がらなくても構わん」
「……どういう事じゃ?」
「すぐにではなくとも、この鉛筆は、いずれ必ず世界を変える。その時に、わが商会が主導権を握っている事が重要なのだ」
「ふむ……先の先を見越した投資というわけかの。……妙に機密保持に心を砕いておるのは、そのせいか?」
「まぁな……とは言え、これもユーリ君のお蔭で何とかなりそうだが……」
「お主、ユーリ君には頭が上がらんのではないか?」
オーデル老人の問いかけに、アドンはむぅ、と唸ったきり答えない。やがて返って来た答えは……
「オーデルよ……ユーリ君が喜んだ……関心を抱いたのは、どのような品だ?」
急に話題を変えた友人を一瞥して、オーデル老人は記憶を辿る。
「さぁてのぅ……あの子の住んでおる場所では金貨など意味は無いし、使いもせんじゃろう。買い求めておったのは……金属器はかなり買い込んでおったな」
「武器とか……」
「ではのぅて、普通の庖丁やら鑿やら鋸やらじゃ。一通り買い揃えたようじゃから、もう要らんのではないか?」
「……他には?」
「そうさのぅ……綿や布、糸などはそこそこ買っておったが……アドンよ、お主、あのティランボットとかいう魔獣の毛織物より上等な布を手配できるか?」
「……無理だな。他には?」
「薬の類と魔道具は熱心に見ておったな。じゃが、これも住んでおる場所を考えたら、当然と言えるのではないか?」
「むぅ……塩辛山か……」
「ただのぅ……薬にせよ魔道具にせよ、目玉の飛び出しそうな大金を、ポンと思い切りよく払っておった。あれは……何じゃな、価値が判っていて買い込んだ、そういう顔じゃったな」
幼い頃祖父と死に別れてからずっと塩辛山に引き籠もっていたせいで、金銭感覚がおかしいのか。必要と判断したら、高いかどうかなど全く気にせず支払ったらしい。いや……普通の金銭感覚を持たないからこそ、値段の高い低いではなく、必要かどうかだけを判断して購入したのか?
困惑しているアドンを尻目に、オーデル老人は言葉を続けていく。
「他には……野菜や果物などには相応に興味があるようじゃったが……おぉ、そうじゃ、調味料の事をあれこれ訊き込んでおったのぅ」
「食材か……確かに、色々な食物や食べ方を知っているようだったが……」
「自分の村で育てられるかどうかという点にも、関心があったようじゃぞ」
「ふむぅ……」
ユーリの気に入りそうな品物を用意して歓心を買おうと考えていたが、これは中々手強いようだ。