~似合わない2人~ 4
先輩がこっちを目だけで見た。そしてのけぞるようにして、大声で笑った。笑う人だった。
先輩の呟きに対し、聞こえていないふりをするつもりだったのだが、思わず軽い冗談が口から飛び出した。初対面の人に「鬼軍曹」が軽いか重いかは相手方の判断に委ねよう。それにしても見た目と反して冗談を解する人でよかった。
「どうしました?」
トイレの中まで先輩の笑い声が聞こえたらしく、トイレのドアを閉めながら、後輩が尋ねた。まるで、珍しい気象現象でも目撃したような顔だ。
「鬼軍曹なんだって」
やはりはっきりと聞こえていた。気分を害していないようでなので、結果的には良かったか。後輩は当然、意味がわからない様子だったが、たかが気象現象だと思ったのか、たいして気にする様子もなく、上着の内ポケットからスマートフォンを取り出した。来月、そのスマートフォンには赤ちゃんの写真がたくさん保存されることを予言しておこう。
「ビール、2つ」
来た。早くもこの時が来た。まさか店を始めて、最初のお客さんで、しかもひとつの冗談を除いて、会話が弾んでいないのに、そのひとつの冗談も弾んだとは言えないのに、この時が来るとは思っていなかった。来てみれば、案外、あっけない。「2つ」は、つまり「マスターも一杯どうだ」っていう気持ちの表れだ。お客さんからお酒を頂戴する。売り上げに貢献するなどではなく、お客さんと店とのいい関係の証と考えていいだろう。やはり人と人を結びつけるには、気の利いたジョークだなと悦に入る。
しかしどうすればいい?
当然、一杯目は田中先輩の前に置く。二杯目をどこに置くか、これが問題だ。いきなり、「いただきます」なんて、いくらなんでも行儀が悪すぎる。とりあえず二杯目は迷った感じで、一杯目の近くの、後輩寄りに置くことに決めた。カウンターの上で、グラスを石代わりに、陣取り合戦をいているようだ。一杯目を田中先輩の前に置き、コースターをもう一枚、その少し手前に置いて、その上に二杯目を置こうとした、その時、太い指がビアグラスをわし掴みにして、奪っていった。こぼれたビールが俺の指を濡らす。
「吉井、お前もそろそろ飲め」
太い指がさらって行ったビアグラスは、スマートフォンから顔を上げた吉井の目の前に突き出された。スマートフォンを伏せてカウンターに置きながら、ビアグラスを受け取り、軽くビアグラスを掲げて一口飲んだ。
濡れた指を拭きながら、先輩に対してちょっとした怒りがこみ上げて来た。
誰が人の気持ちがわかっていないかって?江藤課長じゃなくて、田中先輩、あんただよ。俺の「いただきます」はどうしてくれる。
それにしても先走って「いただきます」なんて言わなくて良かったと怒りは直ぐに恥ずかしさに変わった。自分の早とちりで、最初の客で恥をかき、そのままトラウマになってしまうところだった。内省しながら、少し、膝が震えているのに気が付いた。
相変わらず会話が少ない2人だ。場を盛り上げるために何か話しかけるべきか、このまま沈黙を3人で楽しむべきだろうか。やはりBGMは必要だ、などと考えている間に田中先輩のビールは残り4分の1ほどになった。飲むペースが変わらない。
治安が悪い国へ出張に行くのだから、別れの盃のつもりか。先輩はビールを水のように呷っている。海外に行く時もそのスーツなのか。日本代表として、せめて襟がしゃんとしているスーツに着替えてもらいたい。プラントで仕事をするのだから、その時は作業着を切るはずだ。間違いなく、スーツよりも作業着の方が似合う。まさか作業着姿で飛行機には乗らないとは思うが、変な私服よりも作業着がましかもしれない。作業着とくればヘルメットだが、ヘルメットは普通サイズで合うのか、特注のような気がする。あの太い指が備わった手は、少々熱いものでも素手で触れるだろう。この体格だから世が戦国時代なら、今よりは出世できるに違いない。数々の武功を立てた豪傑として、敵味方から恐れられただろう。
「焼酎あるの?」
遅れて来た武士が訊いてきた。取っておきのが1本あるが、あいにく、それは俺が仕事終わりに飲もうと思っていたもので、それ以外にはない。やはり焼酎を揃えた方がいいな。ちらりと棚の端に待機している黒い瓶を見た。
「芋が1本だけありますよ」
言ってしまった。この焼酎はこれから日本の外交に貢献するお侍さんに献上することにして、軟禁生活を無事に乗り切ってもらおう。
「鹿児島?」
「あ、いえ、宮崎です」
一瞬、鹿児島に出張に行くのかと思ったが、芋焼酎と聞いて、鹿児島産だと思ったのだろう。実は宮崎の焼酎である。
「お湯か?」
「ええ、お湯割りもいいですが、まだ暑いですし、ロックでまろやかな感じを楽しまれた方がいいと思います」
オンラインストアの商品説明にそう書いてあった。ロックで飲んで、まろやかな感じを楽しみたいから買ったのだ。何を隠そう、俺も飲んだことはないが、こんな時は堂々とはったりをかまして、知識が豊富なバーテンダーの笑顔で説明しよう。とマニュアルに書いてなくてもわかる。
「ロック、2つ」
まさか氷を2つ入れて焼酎のロックを作るって意味じゃないだろうから、焼酎のロックを先輩と後輩で仲良く飲むつもりだろう。段々と田中先輩のことが理解出来てきた。あと数回店に通ってくれれば、田中先輩の通訳になれるだろう。
しばらくは日本酒も焼酎も飲めない海外生活が待っているお侍さんにじっくりこの焼酎を飲んでいただくことにする。音楽が無いせいか氷がロックグラスに当る音が店の隅まで届く。100円のグラスでもいい音がするではないか。先輩と後輩の前に新しいコースターを置いて、少しだけとろみがあるような透明の液体が入ったグラスをそれぞれに乗せる。
「違う」
田中先輩が短く呟いた。