~似合わない2人~ 2
ゲップ男の正面に置かれたコースターは場所が悪いのか、いつまで待っても、男にコースターとして使われない。ただカウンターに円形の薄いものが置かれているだけだ。びんにはまだビールが残っているので、それを示すべく、少し離れた男の正面にビンのラベルが正対するように置いた。一方、ウーロン茶は幾分か減ったのだろうか。
会話がないので、2人の関係を推測することができない。新しく開店した店に探りを入れに来た刑事2人組ではなさそうだ。もっとも新しい店にいちいち刑事が探りに来ることはないはずだ。
2人のことを失礼は承知の上で便宜上、一号と二号とする。一号は年齢的には課長クラスだろうか。頭髪は少なくなっているのが、店内の照明でもわかり、髪型には気を使っていないのも店内の暗い照明でもわかる。仕事中もこんなに無口ならやりにくい上司だろう。二号は主任クラスか、その手前か、俺よりは若い。二号の顔に皺がなく、虫が止まっても、引っ掛かりがない皮膚のため、もがいても滑り落ちそうだ。などと考えていると一号がビール瓶をわし掴みにし、まだ4分の1くらい残っているグラスに注いだ。乱暴に注がれたビールはほとんどが泡となって、その一部がグラスから溢れ、グラスの外側を伝ってカウンターに広がった。磨かれた黒いカウンターに広がった泡は、みるみるビールに戻っていくが、すでにビールとしての価値は失われている。男が2回目のゲップをした後に二号が口を開いた。
「先ほどはすみませんでした」
2回目のゲップをした男はグラスを口に運びながら、3回目のゲップが不発だったかのように息を少し吐いた。笑ったのかもしれない。謝った男はウーロン茶を乾いた唇を湿らすように舐めた。
「まさか1人2万円もするなんて、びっくりでした」
「ああ」聞き逃しそうな返事だった。
「あの寿司屋はいい店だったんですね」
「まあな」
ビールを飲もうとして、一瞬、傾げたグラスが止まり、口元が緩んだのがわかった。二号の失態を思い出して笑ったと悪意に解釈するよりは、自分の行きつけの店が褒められたので、喜んでいると解釈した方が、俺の営業スマイルに切れが出るだろう。
一号の太くて短い指がコースターを摘み上げた。コースターの位置を変えるのだと思い行方を見ていたら、コースターの端を親指と人差し指で挟み、反対側をカウンターに押し当て、勢いよくコースターを2つ折りにした。この行動に何の意味があるのか、自分の力を誇示するための威嚇行為なのか。ゴリラの生態に詳しい博士に訊いてみたい。コースターは半分が本来の態勢であるカウンターに寝た状態、残りの半分はカウンターから浮いた状態になった。紙製のコースターには自力で元の姿に戻る力は残っておらず、コースターらしからぬ形状にとどまっている。きっとゴリラはコースターが嫌いなのだ。
「ビール」
2本目のビールを注文したことから、ビールは気に入ってくれたようだ。冷蔵庫からビールを取りだし、銀色に輝く栓抜きで、栓を抜く。勢いがよすぎて、栓が床に落ちたが、後で拾うことにする。
「今度の出張は俺が行く予定だったんですよね」
二号がいい終わらないうちに「江藤か」と遮るように言いながら、たばこに火を付けた。たばこの火が眉間の皺を浮かび上がらせる。早くも灰皿の交換時期だ。
「もともと江藤課長に打診されてたんですよ」
「わかってねえな」煙と一緒に言葉を吐き出した。わかってない?誰が?と考えながら、灰皿を交換した。
「いい経験になりそうな案件でしたし」
「江藤はわかってない」
江藤さんは何がわかっていないのだ?この会話でわかったことは、この2人の関係は上司と部下ではない。先輩後輩の関係だ。先輩の方はおそらく主任だろう、係長の可能性もあるが、平社員の代わりに係長が出張に行くだろうか。一号に部下を育てる器量はないと、人事担当者のように少ない情報で判断を下す。そしておそらく年下の江藤課長との関係は良くない。この主任の様子だと、協調性に欠け、年下の上司とだけではなく、同僚との人間関係も良くないと再び、偽人事担当者が推測だけで判断した。
「お前、来月、産まれるんだろう?」この店に来て、初めて先輩から沈黙を破った。
「はい、来月が出産予定です。一人目なので何をしたらいいのかわかんないんですよ」
「大変なんだろな、出産は」
「びっくりするくらい、お腹が大きくなりましたからね」
「だから江藤はわかってないんだよ」先輩の声が大きくなった。
後輩は先輩の大きな声には驚かず、愛想笑いをして、色が薄くなったウーロン茶を飲んだ。まだ3分の2も残っている。何て経済的なヤツだ。そんなに燃費がいいのか、環境に優しいつもりか。
「あいつは人間関係も機械みたいに命令一つで動くと思ってやがる」
先輩はしゃべりながら、半分ほど残ったたばこを灰皿に押し付けた。火は完全には消えず、線香から出たような煙が上がり続ける。江藤課長に恨みでもあるような口振りだ。普通でも年下の上司とはやりづらいとありふれた想像をし、勝手にこういう人は言わずもがなだと決めつけた。
「合理的ですからね、江藤課長は」
やんわりと後輩になだめられた先輩の顔を盗み見たが、表情は変わらない。店に来たときと同じ不満に彩られた顔だ。
サラリーマンは大変だ。年下の上司の愚痴を言う先輩に付き合わされて、こんな店に来るなんて・・・こんな店?まあ初心者のバーテンダーが1人でやっている店だから、こんな店か。でも2万円の寿司を食べてしまったのだから、その分は体できっちり払いましょう。
「わかってないんだよ」
わかっていないのは、出世できない先輩ではないのかと思ったら、先輩がこっちを見た。はっ、思わず言葉が口から出てしまったか?