ウォーキング・デッド・ベビー 後編
ひとまず僕は警察に電話し、寝ているエイラを背負って外に出た。彼女が終始寝ていたのは不幸中の幸いだったと言えよう。彼女にあんな光景を見せるわけにはいかない。僕は彼女を起こし、何が起きたのかは言わずに、僕達は助かったこと、そしてもうすぐここに警察が来て騒がしくなるから先に家に帰って欲しいことを伝えた。彼女は自分のことより僕が何事もなかったことを喜んで泣いていたが、泣き止む頃には元気を取り戻してくれた。しばらく僕の側を離れようとしなかったが僕の懸命な説得の末、全てが終わったら連絡するという約束を取り付けて彼女は家に帰っていった。
まもなく警察がやってきて僕は事情聴取をされたが、金髪の男達に襲われたということ以外に事件への関係性がないとして早急に帰らされた。もちろん赤ん坊の笑い声が聞こえたことも警察に伝えた。
僕は帰宅するとまずエイラに電話を掛ける。待ってましたとばかりに電話に出たエイラは僕の声を聞いてほっとしているようだった。
僕は机に向かい、紙に書いて現状を把握する。まず状況から見て、今日僕達を襲った男達は謎の赤ん坊に殺されたと見て間違いないだろう。非現実的な話だが状況はそう語っている。そしてその赤ん坊がどこからやってきたのかという謎だが、それについては心当たりがあった。以前、僕と駆が追いかけた通り魔が持ち去っていった胎児である。あの胎児には何らかの非現実的な力があって、その力で歩き回り、そして今日、男達を殺したというのが現在の推測だ。通り魔は喉を噛みきられて死んでいたという話だったがおそらく彼を殺したのはその赤ん坊だろう。信じがたい話だが。ただ確実に言えることは、非科学的であるとはいえ、その赤ん坊は極めて危険な化け物であり、今もなおこの町のどこかにいる、ということである。
今日の事件は間違いなく明日の新聞に載るだろう。だが警察は犯行がもしかしたら赤ん坊によるものかもしれないと発表するだろうか。おそらくしないだろう。
翌日、僕は駆と図書館の新聞閲覧スペースに来ていた。僕は昨日の出来事、つまり男達に襲われたことと、彼等が謎の赤ん坊に殺されたこと、そしてその赤ん坊が通り魔事件で見た胎児なのではないかという僕の予想を全て話した。おおよそ信じられる話ではないだろうが、駆は僕の話を遮らず、最後まで黙って聞いてくれた。
「つまり、お前が言いてえのはそのチビを何とかしてぇってことだろ」
「そういうことになるな」
あのとき僕が通り魔に襲われている女性を助けることができれば、その恐ろしい赤ん坊は世に解き放たれなかったかもしれない。そう思うと後悔が募る。しかしその赤ん坊の力は底知れない、一体どうやって立ち向かえばいいのだろう?
「決まってんだろ、正面からぶっ潰すんだよ」
と駆は拳を僕に突きだして言った。
「……まだ何も言っていないだろ」
「おめえの考えてることはすぐに分かんだよ」
駆は本当に勘が良い。
「なるほど、だがどうやって戦う、相手は小さいとは言え4、5人の大の男をまとめて惨殺したんだぞ」
「けど話によると力づくで殺したって感じなんだろ。目からビームが出るとかじゃないんならまだやりようはある。それに強え奴にはそれ相応の弱点があるってもんだ」
当たらなければどうということはない、ということだろうか。
「では赤ん坊の攻撃は肉弾戦でかわすことができると仮定しよう。じゃあ弱点はどうする。こちらの物理的な攻撃が通じるかどうかは分からないぞ。通じなかった時点で僕達の死は確実だ」
駆は顔をしかめ、椅子の背もたれにもたれて上を向き、溜め息をもらした。
「そうなんだよなあ、英二、なんか分かんねえのか」
僕は頭の中で昨日の事件と通り魔の事件のときの赤ん坊による殺害現場を思い出す。明らかに違うのはその残虐性だ。前者は人の所業とは思えないほど残酷なものだったが、後者はただ喉を噛みきられただけだ。場所について一方は屋内、もう一方は屋外と違いがあるが、果たしてそれだけか? もっと違う点があるはずだ。
「流水か?」
地理的な状況を見るに最も違う点はそこだろう。通り魔の男が死んだのは河川敷だ。つまりすぐ側に流れる水があった。
「どういうことだ?」
と駆が聞いてきた。
「流水だよ。通り魔の男は昨日の男達より遥かに穏便に殺されている。地理的な状況に着目すると通り魔の男は川の近くで殺され、昨日の男達はそうではない場所で殺された」
「つってーと何だ? そのチビは流水の近くでは力が弱くなるってことか?」
「確証はないから何とも言えないがたぶんそうなのではないだろうか。邪悪なものは清浄なものに弱い。流水は清浄なものの一つだ。吸血鬼だって流水に弱いだろ」
「なるほどな、だがそんな民間伝承レベルの話を信じて何とかなんのか、そいつは?」
確かにこれだけでは立ち向かえない。何かもっと決定的な弱点が欲しい。
「もっとよく調べてみよう、今日はとりあえずここまでだ」
「分かった。なんかあったら呼べば」
「ありがとう、助かる」
翌日、朝刊の地方欄に二つの殺人事件が掲載された。両方とも被害者は女性で股座が食い破られていたという。決まりだ、奴の狙いは女性だ。男達は単にその場にいたから殺されたに過ぎない。ということはエイラが赤ん坊に狙われる可能性は大いにある。僕と駆は赤ん坊がいなくなるまではエイラを一人にしない、と話をつけた。 それから僕は二人の女性が殺されたことに関する意見を駆に話していた。
「駆、あの赤ん坊にはどうやら回帰願望があるように思う」
「なんだそりゃ」
「つまり母親の胎内に戻りたいという願望だ。あの赤ん坊は母親を探してその胎内に戻ろうとしている。戻ることができればこの事件も解決するだろうが」
「そいつのお袋はすでに死んじまっているってことか……」
「そういうことだ、だからあの赤ん坊を止めなければ事件は終わらない」
もう少し駆と話をしたかったがそろそろ大学を出なければならない時間だった。というのは、これから大型の台風がこの地域にやってくるそうなのである。既に大雨洪水警報および暴風波浪警報が発令されたためにこの後の講義は全て休講になってしまったのだ。今はまだ風も吹いていなければ雨も降っていない。だが空は黒い雲に覆われていて今にも天気が崩れそうだった。
僕と駆は学部棟のエントランスホールにエイラを迎えにいき、そのまま3人で帰路についた。ひとまず3人全員でエイラの家へ向かって彼女を帰らせ、残った僕と駆はそこで解散しようという話になった。
遠くから雷の音が聞こえてくる、風も強くなりはじめて今にも雨が振りだしそうだった。自然と早足になる僕たちだったが、会話は普段通りに続けた。エイラも今朝の新聞を読んで女性ばかりを襲う殺人鬼がこの町をうろついているのを知っていたために不安がっていたのである。これは彼女の不安を和らげる措置だ。僕は一昨年の夏に父方の実家に帰省したときの話を二人にしていた。
「その日は実は台風が接近する前日だったんだが、それにも関わらず海は大荒れだったんだ。本当に凄かったよ。神奈川沖浪裏という絵は知っているかい? 北斎が描いた富嶽三十六景の一つで大きい波が描かれてるやつだ。まさにあれみたいな波が目の前で荒れ狂っていたんだ」
エイラは物凄く感心した顔をしている。
「本当ですか! 私もそんな波を見てみたいです! でもちょっと怖いですね……」
「ああ、恐ろしかったよ。僕はその波を制覇してやろうと果敢に立ち向かっていったんだが、あっという間に波に身体をまるごと引っくり返されてそのまま浜に打ち上げられたよ。信じられない破壊力だった。おまけに海パンは海に呑み込まれてどこかに行ってしまったし」
「ええ!? そ、それでどうなったんですか?」
なぜかエイラが嬉しそうにしているので微妙な気持ちになる。
「どうもしないさ。その日の海はずっと全裸で過ごしたよ。身内しかその浜にいなかったのがせめてもの救いだな。従姉妹の女子供たちに見せるのは精神教育的な面で心配だったが」
「いいなあ、私も見たかったです」
心の底から悔しいという気持ちと羨ましいという気持ちが湧き出て融合しています、とでも言いたげな顔つきだった。なぜ僕の全裸にここまで執着するのだこの子は。
その時、後ろからペタペタと足跡が聞こえた。エイラと駆の顔が凍りつく。おそらく僕も同じ顔をしているのだろう。振り返らなくても足音の正体は分かった。例の赤ん坊だ。今までに感じたことのないような怖気が背中を走っていたからだ。これがあの赤ん坊が放つ殺意だとでもいうのだろうか。
僕達はなおも歩いたが後ろの足音が離れていく様子はなく、いつまでもペタペタとついてくる。しかも驚いたことに、こんなに歩いているのにも関わらず僕達3人以外の人間と一向に遭遇しないのだ。これもあの赤ん坊の力なのか。
「駆」
と、僕は駆に呼び掛けた。ここであいつを叩くしかないと。
「ああ、分かった」
と頼もしい返事が返ってきた。
「いくぞ」
僕達は念のため鞄の中に入れてあったナチュラルウォーターのボトルを取り出して同時に鞄を投げ捨てた。後ろを振り返り、二人でエイラを隠すように構える。ここで僕達は、初めてその赤ん坊の姿を見た。
そこには2本足で立っている赤ん坊がいた。目は白く濁って窪んでおり、口元は歯を剥き出しにして笑っている。まだ歯が生え揃う年齢ではないはずなのに。「んひぃひぃ、きゃっきやっきゃ」と例の笑い声を上げては涎を垂らしてエイラという女性を見つけたことを喜んでいるようだった。全身が乾いた血にまみれていて、元の肌の色も判別できない。もっとも特徴的なのは左腕が肩から無くなっているということだ。あんなおぞましい化け物がこの世にはいるのか。赤ん坊がおええと何かを吐き出す。人間の女性の子宮だった。赤ん坊が残った手で口を拭う。新たな子宮を腹に納めるべく、エイラを獲物に絞ったようだ。
「なに、あれ……?」
とエイラが腰を抜かしている。やはり彼女がここから動けない以上、逃げるという選択肢はない。ここで迎え撃つしかなくなった。
「おらあ!」
と駆が赤ん坊に向かって駆け出していった。打ち合わせ通り、僕はエイラの元を離れず彼女を守るのに努める。ナチュラルウォーターのボトル口はもう開けていた。駆はそのまま剣を振る要領でボトルを振り回す。ボトル口から出た水は線となって赤ん坊に掛かろうとしたが、相手はそれを後退することでなんなくかわした。
僕は足元にあった石を拾って思いっきり赤ん坊に投げつける。すると赤ん坊はその石を難なく叩き落とした。間違いない、あいつは水が苦手なのだ。
「英二! 思ったよりこいつは速くねえ! いけるぞ!」
「分かった!」
だが次の瞬間、赤ん坊が予想外の行動に出た。自分の左足を引っこ抜いたのだ。断面から土の塊のようなものがボトボトと落ちる。そして赤ん坊は引っこ抜いた足を駆に投げつけた。
「な!?」
あまりの早さに駆は反応できていないようだった。高速で放たれた足は駆の右腕の骨を鈍い音とともにへし折った。
「ぐうう!!」
駆はボトルを取り落としてしまった。赤ん坊はその隙を見逃さず駆を突破して片足でぴょんぴょんと跳ねながらこちらに高速で近づいてくる。怒り狂って体中に血管を浮き上がらせ、白い泡を口から撒き散らしながら、それでも顔は笑っていた。
「ひっ!」
とエイラが悲鳴を上げる。あの形相を見れば誰だってそうなるだろう。だがここで僕が倒れればエイラの命はない。
赤ん坊が大きく跳躍してこちらに襲い掛かってきた。剥き出しになった歯が異様に白い。僕はエイラを抱きすくめて横っ飛びにかわす。先程まで僕らがいた場所に赤ん坊が着地した。僕は横凪ぎにボトルを振り回し、赤ん坊に水を掛けようとしたが、相手はそれをしゃがんでかわし、同時に小石を拾って僕に投げ付ける。その小石は僕の右の肩を貫通した。一体どんな馬鹿力で投げればそんなことができるのか、僕はそのままボトルを落としてしまった。
「英二! エイラを連れて逃げろ!」
次の瞬間、駆が赤ん坊に飛びかかっていった。だが彼の力では抑えきることができないようで、駆の大きな体が小さな赤ん坊に振り回されてしまっている。彼は必死の表情でこう叫んだ。
「はやくしろ! そう長くはもたねえ!」
赤ん坊を見ると自分を捕まえている駆の腕に噛みつこうと首をカクカクあっちこっちに動かしている。とにかく今の内にエイラを連れて逃げるしかない。
「エイラ、行くぞ!」
しかし、彼女は動こうとしなかった。
「ダメです! このままじゃ駆くんが……!」
「頼むエイラ! 今だけは自分のことを優先して考えてくれ!」
僕はエイラの手を取り、この場を離れるために駆け出した。駆を見るとこちらを見てニヤリと笑い、口の動きだけで「早く行け」と行っている。
「すまない!」
僕とエイラはひたすら走った。できるだけ彼等から距離を離すために。だが直線距離で100メートルほど走ったところで駆の叫び声が聞こえた。
「英二いいいいいい! そっちに行ったぞおおおお!」
振り返ると赤ん坊が首だけになってすぐそこまで来ていた。エイラもそれを見たようで恐怖に悲鳴を上げた。
「いやああああああああああああ!!」
彼女は足が縺れ、そのままこけてしまう。つられて僕もこけてしまった。首がもうそこまで来ている。ダメだ避けられない。僕はエイラを守るように彼女に覆いかぶさった。
僕の背中に首だけになった赤ん坊の歯が突き立てられる。凄まじく痛い。赤ん坊はそのまま僕の背中を噛み破ろうとしている。
「ぐううう!!」
あまりの激痛にのたうち回りそうになるが何とかこらえる。僕には勝算があったからだ。それが来てくれれば何とかなる。だがこのままでは僕も持ちそうにない。頼む、早く来てくれ。
突然西の空からドドドという轟音が迫って来た。その音の正体は瞬く間に僕達のところまでやってくる。僕は本当に運が良い。それは台風が連れてきた豪雨だった。
僕の背中に貼り付いていた赤ん坊の首が地面へと落ちる。見ると赤ん坊の首は炎を上げて燃え付きようとしていた。この世のものとは思えない赤ん坊の絶叫が響きわたる。
やがてそれが燃え尽きた後に残ったのは野球ボールほどの大きさをしたケロイド状の黒い固まりだけだった。ここからは見えないが駆のところでも同じように赤ん坊の体が燃えているのだろう。そして後にはこんなものしか残らない。安心しきったエイラは引き付けを起こしたように顔を手で覆っていつまでも泣いていた。
それから3週間後、僕の怪我はほとんど治っていたが駆は相変わらず入院していた。全身の骨という骨にヒビが入り、一部の内蔵は破裂し、右腕に至っては開放骨折を起こしていたという。まだベッドからは起き上がれないがそれ以外は素晴らしく元気そうだったので何よりだ。
僕とエイラは休日を利用し、二人で河川敷まで向かった。彼女の話によると、赤ん坊が燃え尽きて死んだ後、僕らが救急車に乗せられている間にその死骸を拾っていたのだという。僕たちの付き添いをした次の日、一人で河川敷までやって来て赤ん坊の墓を作ったそうだ。今日はその墓参りである。
「どうしてそんなことを?」
僕がそう聞くと彼女は悲しそうに笑った。
「だってかわいそうでしたから。お母さんから引き離されて、あんな姿になってしまって……」
確かにそうだ。あの赤ん坊は確かに大勢を殺したが、それでも全てがあの子のせいというわけではない。
河川敷に到着した。彼女はきょろきょろとして何かを探しているようである。
「どうかしたのか?」
「いえ、確かこの辺りに赤ちゃんのお墓を作ったのですが……あ、ありました。でも何だか様子がおかしいですね」
エイラに連れられて僕は赤ん坊の墓の前まで来ていた。だがその場所は明らかに掘り返されているように見える。当然、穴の中には何もいない。
「犬か猫が掘り返したんじゃないか?」
「うーん、そうなんでしょうか。だとしたらかわいそうですね」
すると墓があったところの背に生えている茂みで何か小さいものが動いた。エイラは気づいていないようたが。僕はその何かがいると思われる場所を注視する。草の影に隠れていて姿は見えなかったが、どうやらそいつは僕達を見つめいているようだった。しばらくお互いに見つめ合う。
再びガサガサと茂みが動いた。草の動きから察するにそいつは立ち去っていくようである。既に見つめられているという感覚も消えていた。
僕はまだ赤ん坊の死骸の行方にについて考えていたエイラに声を掛けた。
「エイラ、これから時間があったら僕と一緒に以前行った喫茶店に行かないか。まだ紹介していなかったがあそこのチーズケーキが絶品なんだよ」
「え、ほんとですか! 行きます行きます! 私チーズケーキ大好きなんです!」
僕達は来た道を戻って駅に歩き始めた。そういえばまだエイラを漫画喫茶に連れていってないことを思い出した僕は、頭の中でそれも予定に組み込んだ。