一話 転生と初戦闘
弓削治臣の人生は、傷んで腐りそうな赤い糸でトラブルと結ばれていたような人生だった。
彼は田舎の大地主の一人息子として生を受けた。戦後に生まれたが、それでも不自由は少なく、のびのびと育っていた。十五の時までは…。
彼が十五になってからは(彼が後に体質と呼ぶのだが)不思議なことが起こるようになった。無意識のうちに時間と空間を無視して移動してしまっているのである。最初に移動した時には、日本と戦争する前のアメリカに居た。寝て起きた場所が自宅の布団からスラム街の屋根の上であった。
そこからが大変だった。気付けば地球上の様々な場所に、時と場所を駆けていたのである。短いスパンの時なら今日は1980年代のフィリピン、明日は1800年代のインドに居たという具合に『移動』していた。言葉も通じない場所に二十歳にも満たない人間が何度も時間・場所問わず飛ばされていたのである。その果てしない距離と時間の途中に、たまたま錬金術師兼医者という胡散臭い男と出会い、この移動してしまう自身を診察して。
「体質だから、がんばって付き合っていってくれ」
と、匙を投げられたりした。そこから自分が移動してしまうことを『体質』と呼んでいた。
しかし不幸な事ばかりではなく、彼が二十になった時から八年間だけ、自分の時代と家に戻ってくることが出来た。その時にも一悶着あったが、彼は弓削治臣として家に帰り、両親と再会した。その後幼馴染だった女性と結婚し、息子が生まれたりとトントン拍子で事が進み、十年にも満たぬ時間だがそれでも幸せな時を過ごした。
彼の『体質』は結局改善することは無かったが、いつの間にか結婚していた息子と孫の顔も見ることは出来たので。幸せな人生だった、と彼は満足していた。
自分が生まれた時代にまた戻ることができる保証も無いため、自分に死亡保険をかけたり。死に目に会うことが出来なかった父母の遺産を譲ったりしていた。
他にも、色々な時間・場所で生きるために稼いでいたため。自分の生きている筈の時代に近ければ仕送りをする等。金には不自由をさせないよう心がけてもいたため、会えない寂しさを埋める事はできなかっただろうが、金銭的な苦労は出来るだけかけないように出来ていた。と思っていた。実際はロンダリングなどしなくてはいけないちょっと危ない金銭もあったが、善意のみでの行動である。
そんな彼が死ぬ時はちょうどひ孫が生まれるという時で、連絡も自身の生家と運良く付いたのだが。『体質』のせいでよくわからない土地にまたも飛ばされ、気付けば死んでしまっていた。
他人から見れば波乱万丈も度が過ぎる人生だった彼だが今は神に転生させられ。
「地図も無くてはなぁ…。あふたぁけあ、というものがなってないようだのう」
迷子だった。
* * * * *
少し時間を遡ろう。
「むぁ、眩しい」
ゆっくりと明かりを落としていた部屋が完全に闇に溶け込み、まばたきを数回したところで、彼は考えるのを後回しにして眠りに就いていた。そして眼を覚ましゆっくりと起き上がる。
「朝か?太陽の位置からすれば早朝か?」
老人は寝るのも起きるのも早いのだ。
立ち上がり、ふと自身の変化に気付く。
「声が変に高い? む、服装もさっきと違うのう…はて?」
妙な違和感と不安に駆られ周囲を見渡し、静かな水場を見つけ、近づいていく。
「飲み水になるかのう、兎角顔でも洗っ」
水面に映る自身だと思われる存在を確認。
「起きたら顔どころか色々変わっておるとか、ちょっとした恐怖だのう…」
恐怖と言いつつ暢気に呟く彼は、外見は十を過ぎた程度の子供のそれであった。
目鼻立ちは悪くないが眼はどこかぼうっとしている、黒髪は少しざんばらだが切りそろえられており。眼が呆けている以外は中々によさげな見た目である。
「さて、顔を洗ったら色々確認せねばのう」
彼は見た目を気にしない男だった。
* * * * *
彼が身の回りを確認して理解できたことは多かった。
まず、老眼気味だった視力が以前より良くなっている。それどころか視覚や聴覚などの感覚が尋常ではない鋭さとなっていた。服装はポケットが多く付いた登山用か、もしくはミリタリーめいたものでジャケットと薄手のコートも着ている。そしてポケットの中には何だかよくわからないものが矢鱈と突っ込まれていたが。捨てるのも勿体ないのでとりあえず持っておいた。体調も良好である。
起床した場所を確認したが。林のような場所であり、どこかへと続く道の傍であった。
「進むか? いや、しかしどっちに…。こういう時は棒でも倒すか」
近くにあった手ごろな棒を倒し、進路を適当に決めて迷った結果が冒頭である。どうにもこの男、楽天的すぎる。
「ふぅむ」
迷子となってから、かれこれ小一時間はゆうに越えて歩いていた。道に沿って歩いているのでどこかに着くと考えてはいたが。
「この先が街でなくただの何も無い場所とかであったら…。うむ、考えないようにしておくか」
ポケットの中には食料の類は見当たらず、水はさっきの水場に行かねばならない。草木も食べられるような物、というより彼が知っている植物は無く、栄養もあるかどうかはわからない。このまま食料の類を見つけねば緩やかに、しかし確実に死ぬわけである。
「ロキめ…、転生などは気にせんけど…。む?」
体が粟立つような寒気が体を覆う。
(おかしい、何か、昔秘境グンマーで感じた敵意のようなものを感じる。違う、これは敵意ではなく…?)
思うが早いか、即座に振り向く。
「殺意か!」
殺意を向けてきたのは、あまりにも巨大な狼と蛇だった。
* * * * *
体中が軋む。殺気に中てられ寒さすら感じる。
銀色が眩しい狼と、緑と青が混じったような艶やかな鱗を持つ蛇が。仲良く並んで近づいている。
狼と蛇の二匹がいつの間に近付いたのかわからないが、それでも確実である事のみ思考する。
(奴らはわしを狩る気だ)
おおよそ百メートル以上はある距離だが、油断は禁物である。この距離からはっきりと目視できるということは、相手は普通の大きさの動物達ではないということだ。
視線を狼達から外さずにポケットに入っていた帯と思われるものと縄を取り出す。
(ポケットに収まる大きさのものではないとか、用途に耐え得るかどうかを試し、考える時間は無いようだのう、ロキが持たせたであろうものだ。チャラくても神からの贈り物、粗悪品ではないだろう)
帯を右手に巻き拳の保護を。左手に縄を持ち、巻きつけるか、打ち付けるかの用意をし、狼達と対峙する覚悟を決めると。
「ゴァウッ!」
狼が短く吼えると同時に、単独で疾走してきた。
「お、おお!? お前さんちょっと大き過ぎやしないか!?」
距離を詰めてきた狼は、人間を一呑みすることが可能な体躯であった。そして銃弾のような速度で、狩りを行おうと肉薄してくる。
彼は狼の速度と体格に若干怯みつつも、縄や帯での迎撃が間に合わないと悟ると、右足で地面を蹴り砂を巻き上げ、向かって来る狼に目潰しを狙うが…。
(砂程度では怯まぬか! ならばこのまま)
狼は巻き上げられた砂を気にも留めず、こちらを一撃で仕留めようと牙を向ける。無論、巨体に見合ったその鋭利な牙が掠りでもすれば、狼の速度も合わさり、体が切断されるのは必至であろう。
(眼の中に突っ込んで!)
以前では考えられない速度で、地面を蹴り上げた脚の軌道を変化させて。明暗を分かつために。乾坤一擲、ある部位を狙う。
対峙している狼の、柔らかな、紅い水晶のような左眼を。
(蹴り抜ける!!)
張り詰めていない水風船に触れた時にも似た、ぐにゃりとした感触が足先から伝わる。生物の眼球に靴越しであるとはいえ触っているのだ、込み上げる嫌悪感を堪えつつ。必死の、必殺でもある一撃を叩き込む。
「ギャン!」
全力で蹴ったとはいえ。信じ難いことに数メートルはあるその巨躯を、少年の体での蹴りが一閃し。蹴り抜き、吹き飛ばしていた。
「まだだッ!」
相手は常識的な存在ではなく、また手負いの獣ほど恐ろしいものは無い。
彼は今までの人生経験から、まだ手は緩めてはいけないと判断し、狼に一足で近寄り、手に持っている縄で完全に怯んでいる狼の口を縛り上げる。
縄の強度はわからないが、動物の構造上(特にワニなどに顕著だが)顎を開く力のほうが弱く出来ている。これで牙を用いた攻撃を封じ、昏倒させ、あわよくば後の食料にと思考を向けた矢先に。ふと、狼から敵意が無くなっている事に気付く。しかもこちらから離れた場所におとなしく移動したかと思えば、こちらを見つめつつ、お座りの姿勢で待機している。
「犬の縦社会というやつか…? 色々腑に落ちぬが、とりあえず九死に一生というヤツか。幸運だったということだろう」
疑問はひとまず置いておき、蛇の方を注視する。
「また、やたらと大きい蛇なんだろうのう」
軽く呼吸を整え、こちらを睨む蛇へと自分からにじり寄る。
(アナコンダとかいう蛇より巨大とは…)
昔見た映画の中の、架空のサイズでの存在である巨大蛇を思い出しつつ闘志を燃やす。
(狼も血を流し、倒せることは出来た。おそらくこやつも血は流れるだろう。うむ、映画で聞いた台詞だが、確か…血が流れるならば)
「殺せるのだ!」
蛇と人間の戦いは彼の物騒な一言によって幕を開けた。
なんとなくだが、自分の身体能力が、以前と比べ物にならない程上がっているのは理解できた。迫り来る狼の巨体を彼が体得していた変形蹴り、ブラジリアンキックとも呼ばれるソレで蹴り飛ばしたというのに、自分が反動で吹き飛ぶことも無かったのだから。だが相手は人智を超えた馬鹿げた大きさを誇る存在である。時間を掛ければそこに待っているのは、全身の骨を砕かれた後、生きたまま丸呑みされるであろう未来か、毒蛇ならば毒により死に至る結末だ。
狙うはさっきのような一撃での勝利。
相手の巨体から繰り出される攻撃が掠るだけで即死であろう。しかし蛇相手では蹴りが届く距離よりも遠くから他の攻撃が来る可能性がある。
その上、狼との戦闘を一撃で終わらせられたのは、幸運によらしむるものであろう、油断無く狙おうとも。どうなるかはわからない。
(電車めいた大きさをしておるが、どうするか。考えるだけ無駄か…?)
棒一つでもあればまだ少しはマシなのだが、と考えつつ、蛇の射程の直前であろう所まで近寄る。直後。
「跳んっ!?」
蛇が全身を伸ばし、勢いによる跳躍どころではなく、飛来するかの如くこちらへ急襲してくる。新幹線が向かって来るような速度で、大蛇が今まさに自分を喰らおうと向かってくる。
驚愕のあまり体が硬直しかけたが、死なないためにどうするべきか、考えるよりも早く体は勝手に動いていた。
自分でも何と言ったかわからない叫び声をあげながら。蛇の頭、それが真下に来る位置に自分も跳んでいた。こうなっては仕方が無い、大人しく着地してはおそらく来る二撃目に対処できず死ぬ。ならば一か八か蛇の頭を、全力で殴りつける!
その時、申し訳程度で持っていた、拳を保護するための右手の帯から紫電の光が漏れる。
「何かわからんがくらえッ!」
殴打を目的として蛇の頭目掛けて右手を振り下ろすと。
雷雲も雨雲もどこにも無かったが。どこからともなく、空気を割る光の音が耳を貫き、空から降る何条もの轟雷が、彼の目を焼くかのように光を撒き散らし、蛇に向かって走った。
そして大蛇を焼くだけでは終わらなかった電光は、大地を幾重にも抉り、彼の周囲全ての物を薙ぎ払い、やがて収まった。
「げふぇっ」
受身も取れず、拳を振りぬいた後、跳躍からの着地に無様に失敗し、蛙の鳴き声めいた声を出したのは弓削治臣だった。
「あああぁぁ…!目がぁ!!耳がぁぁ!!」
どこぞの王を名乗る大佐めいた悲鳴をあげるのは、世間では一応主人公と認識される者で、短いながらもこの死闘を制した勝者だった…。