6.錆鉄御納戸
そう遠くない、昔。
今と同じように、カタコンベの人間が「生」について躍起になって研究をしていた頃、力を持つ二つの研究機関があった。
ひとつは、『らせん図書館』もうひとつは名を『切花』といった。
このふたつは非常にうまく連携して様々な研究における成功を収めていた。
ひとつの肉体に遺伝子を移し変え、同じ人間を生き永らえさせる『らせん図書館』。
その資本となる丈夫な素体を作り出すのが『切花』だ。
『切花』の創立者の名は、ユリアナ・メーステル。
イシュタムが結成されて以来の、五本指に入る程の天才と呼ばれた女性、それが私だ。
地底世界カタコンベ完成後、環境科学者たちは再び汚染の清浄化についての研究を再開させるが、イシュタムを含む多くの人間が「人体の不老不死への到達」を望んだため、この研究は永久に頓挫することになる。
だが、彼らは何らかのプライドを持っており、医者達がやっているような「不老不死への到達」については決して手を出そうとはしなかった。
科学者からは、根本を正そうとしなければ何のためにカタコンベを完成させたかわからないという声も挙がった程だ。
これをきっかけに医者および医療関係の研究員と、環境科学者の間柄は急激に冷えてゆく。
いわゆる、仲間割れというやつだ。
ところが、何処にでも例外はある。
ユリアナ・メーステルもその例外の一部であった。
私は環境科学者でありながら、医者と研究員に「不老不死への到達」についての知識を売った。
「汚染環境で生まれた花」と人間との融合。
これについて長い間研究してきた私は、完成と同時に世間を震撼させた。
今まで頑なに「人類の不老不死への到達」において否定的な意思を見せていた環境科学者たちの中から、意見が百八十度違うものが現れたのだ。
これが良いことなのか悪いことなのか、世間では判断しかねる様子だった。
世間の騒ぎと相成って、今まで見向きもされなかった私の研究所は連日賑わいを見せた。
数え切れない程のビジネスチャンスが、暫くもたたないうちに舞い込んだのだ。
そこで私がパートナーとして手を組んだのが、『らせん図書館』という巨大な組織だった。
彼らは主にイシュタムらの遺伝子の保管、および復活を試みる研究をしており、数ある研究機関の中で最も現実味のある結果が残せそうだと感じた。
その予想は見事に当たり、一年後には『切花』と『らせん図書館』で新たに組織を立ち上げるにまで至った。
組織の名を、「カルティキ機関」、または『カルティキプロジェクト』とも呼ばれた。
先に説明した通り、汚染でも枯れない花と人間を融合し、この世で最も丈夫な素体を私は作り上げた。
だが、丈夫な代わりにこれには欠点がある。
感情の欠如や、思考レベルの低さが素体の主だった問題だったが、後に『らせん図書館』の研究成果でこの欠点は十分に補えるものとなった。
やがて二つの組織の研究は、最終段階に入る。
「カルティキ機関」結成から五年、ついに亡くなったイシュタムの遺伝子を「丈夫な素体」に移し変える技法が完成した。
当時も今も、恐らくこの研究以上の成果を残す者は誰一人として居ない。
保管してある遺伝子の「継承」を全て終わらせるには素体がいくらあっても足りず、私達『切花』は昼夜問わず働いた。
寝る暇もろくになかったが、研究を続けられることの楽しさが何よりもの糧であったことを覚えている。
凝り固まった考えを持った他の環境科学者どもは、今頃悔し涙で枕を濡らしていることだろう。
ざまあみろだ。
だが、暫くして私は最初の修羅場を経験することになる。
無菌室で栽培していた、素体の元となる「汚染環境で生まれた花」の鮮度が序々に落ちはじめたのだ。
もはや量産した花から採れた種からは鮮度の良い花が咲かず、素体のクオリティも日に日に下がってゆく。
このままではいけないと思った私は、捜索隊を組んで天然物の花を地上へ捜しに出かけた。
元々、この研究は汚染の強い地上に根強く咲いている花をサンプルとして持ち帰ったことから始まったのだ。
記憶によればまだまだ咲いていたはず、その全てをこの期に回収してしまえばいい。
ところが、私の目論見はあっさりと無に帰した。
久しぶりに見た地上は噂に違わぬ荒れようで、花など咲いている気配もなかったのだ。
それでも捜索隊はテントをかまえ、地上の隅々をくまなく捜す体制に移った。
こうなれば、一輪だけでもあればいい。高望みしなければ、数年は持ちこたえるだろう。
捜索を開始して数日、私達の中から最初の犠牲者が出た。
地上に住む野蛮な人間達、『アフ・プチ』に襲われたのだ。
犠牲となった一人の研究員は内臓と延命装置を抜かれ、見るも無残な死体で発見された。
ろくに延命手術のうけられない『アフ・プチ』にとって、『イシュタム』の丈夫な内臓や、性能の良い延命装置が何よりも価値のあるものなのだ。
これを見てすっかり怯えた捜索隊は、一旦地下へ帰還することを訴える。
士気もぐんと下がり、このままでは使い物にならないだろうと判断した私は彼らの要求を呑むことにした。
帰還命令を下した夜、私は先々の不安で眠れなかった。
環境科学者のクソッタレどもは、やれ環境改善だの口喧しいことを言っておきながら地上に対して何の対策も施さなかったのだ。
結果、地上は荒れに荒れ、人は凶暴化し、植物さえも生き残れない。
もはや「汚染環境で生まれた花」だったものは、絶え間なく悪化する環境の変化に耐えられず、滅んだのだ。
このまま放っておいたら地上は滅びの一途を辿るだろう、いや、むしろ彼らにとってそれが望みなのかもしれない。
イシュタムにとって何よりも大切な、「地位」、「名声」、「金」を一気に手に入れたはずが、環境科学者共のせいで全てを失ってしまう。
テントから外に出て、夜の暗い海を見詰めながら私は悔し涙を流した。
ああ、研究を続けられず「悔し涙で枕を濡らした環境科学者」はこの私自身だったではないか。
ふいに、近くで人の気配がした。
護衛もつけずうかつに外に出たことを激しく後悔する。
当時自己防衛機能『ソムニウム』はまだ完成していない、自分の身は自分で守るしかないのだ。
幸い護身用に特殊な金属を使ってできたブーツを履いていたので、うまくあてて不意打ちをくらわせようと咄嗟に思い立つ。
近づいてくる人の気配に向かって、身構えたその時。
「泣いてンの?」
そいつが言った。
高い、子供の声。その瞬間、安堵と共に私は戦意を失う。
ところが、その子供らしき人物は何時の間にか私の後ろに回りこんでいた。
しまったと思った時にはすでに時は遅く、私の背に冷たいナイフが当てられていた。
子供といえど『アフ・プチ』に油断してはいけないのだと、この時初めて知る。
「このままだとおばさん死ぬぜ?」
そうね、と私は言った。
相手が子供だからだろうか、不思議と恐怖感はない。
抵抗する気配を見せない私に子供は不審に思ったのだろう、ナイフを構えたまま、微動だにしなかった。
「俺、おばさんが捜してるもの持ってるぜ」
驚いた私は思わず振り向こうとするが、ナイフの先が僅かに背中に食い込んだ。
「おっと、それ以上動くなよ。取引きしようっつってんだよ」
取引………?『花』の代わりに延命装置や、金を要求しようというのか。それとも子供だからお菓子かな。
「馬鹿にしてッと殺すぞ」
更に数ミリ、ナイフが背に食い込んだ。暖かいものが、背を伝ってゆく。
何が望みなの、と私は尋ねる。
「………俺を、俺をおばさんの子供にしてくれ。地下で暮らしたいんだ、もうここには居たくない」
私は弾かれたように笑った。
なんだ、そんなこと。
わかったわ、あなたに暖かい服を着せ、食べ物を与え、延命手術をしてあげる。
あたしは殆ど家には居ないけど、世話をしてくれる人は沢山居る。
望めば学校へだって行くことができるわ、これでどう?
子供は私の背に食い込んだナイフをゆっくり抜いた。
振り向けば、そこには十にも満たない少年が果物ナイフを構えて立っていた。
汚い身なりをしていたが、澄んだ夕日色の瞳が印象的だ。
少年は懐からうす汚れた包み紙を出し、無言で私に渡した。
包みを開くと、小さな押し花が一つ入っていた。
間違いない、「汚染環境で生まれた花」だ。
私は包みを大切に仕舞うと、礼を言った。
少年の面食らった様子に笑みを返しながら、この隙に殺してしまおうと考えた。
でも、とまた別の考えが過ぎる。
『らせん図書館』の連中が素体の元なる人間を、地上から調達してきているのを知っている。
聞けば、中でも子供は貴重な存在だとか。この子を連れていったら、丁度良い手土産になるかもしれない。
連中のご機嫌取りに最適だと考えた私は、少年に着いて来るよう促した。
ついでに、名前を聞いておくことにしよう。
私が名を尋ねると、少年は夕日色の瞳を瞬かせて言った。
「………エミリオ」
胸の悪くなる光景だった。
長い、銀の髪を靡かせて空を見詰める「できそこないのユリアナ」に今にも掴み掛かかってゆきたい気持ちを、この場に居る誰もが抑えている。
山道を塞ぐように佇んでいる大きな門の奥で観覧車はひっそりと回転していた。
長い間そうしていた沢山の客を乗せて、ゆったりとしたメロディを奏でながら回る。
廻り続ける。
「貴様………」
イアンが唇を噛み締め、搾り出すように呪いの言葉を吐いた。
無理もない、観覧車に乗っている客の中に「自分」が居たのだから。
「久しぶりの対面はどう?」
不気味な笑みを浮かべたまま、できそこないは振り向いた。
この世でこんな悲惨は光景はあるだろうか。
観覧車に取り付けられた四人掛けのゴンドラの中には、たった一つを除いた全てに人が腰掛けていた。
正しくはかつて人だったものに防腐処理を施した、いわゆる「人の剥製」だ。
それらの年齢も性別もバラバラで、唯一共通しているのは、遠くを見据えるその無機質な表情のみだ。
「………死者への冒涜です」
ミユキの呟きをできそこないは聞き逃さなかった。
「冒涜ですって?どの口が言うのかしら、ずうずうしい」
「やめろ」
俺の制止に、できそこないはうろのような瞳を見開く。
「まああ、珍しい。あなたがーーーを庇うのね」
ミユキがビクッと身を竦ませた。
「やめろッつってんだろ」
「何故、何故まだ”テオドール”なのユリアナ?この子のため?怯えさせないため?この子を愛しているの?」
「………………」
沈黙を肯定と受け取ったのか、できそこないは弾かれたように笑った。
「愛情?恋情?ああ、なんでもいいわ。
良かったわね、おめでとう。あたしはあなたのーーーを決して愛さない、情をかけない、徹底ぶりが好きだったの!
でもね、そうね、あなた死んでから馬鹿になっちゃったんだわ。
馬鹿は死んでも治らないっていうけれど、あなたは死んでから馬鹿になっちゃった」
「ーーー………?」
「知らないのね、そうねえ………カルティキ機関でも機密事項ですものね。
ねえ、人間の言葉ではなんというのだったかしら………?」
俺は無言で拳を振り上げる。こうなったら力ずくでも黙らせるしかない、これ以上ミユキには知ってほしくないのだ。
「どうぞ続けて下さい」
「ミユキ………!」
振り上げた拳を下ろせずに、俺は叫んだ。
すみません、と呟いてこちらを見る幼い子供の姿をしたミユキ。
彼は、自分の記憶を取り戻すことを望んでいた。
「ありがとう、テオドール。いえ、ユリアナというんでしたね」
「テオドールだ」
ミユキはゆっくり、悲しげに首を振った。
「おれがあなたに嘘をついていたこと、気付いているんでしょう」
「それは………」
「記憶を失ったおれは、ただ寂しかったんです。
なので、「下」に被検体の世話を命じられた時、人の側に居られることが嬉しかった」
だから、とミユキが言葉を切る。
「あなたにどうしても自我をもたせたかった。おれの友人になって欲しかったんです。
特別だと、あなたは特別だと毎日言い続けた。終いには鉄則まで破ってあなたに名前までつけた」
「………………」
「でも、無駄だったんです。検体は自我を持たない、脳を定期的に弄られて思考能力を操作されているのです。なので機関からあなたを連れ出す計画を立てた、カタコンベから切り離せばきっと………と、ずっと信じていたんですよ」
「ミユキ、もういい」
「いいえ、おれの話を聞いて下さい。いつもみたいに、何も言わないで聞いて下さい」
ミユキの言葉を、できそこないのユリアナは興味深そうに耳を傾けていた。
イアンも同様だ。
「継承手術を終えた検体を、たまたま見る機会がありました。噂には聞いていましたが、正直驚きましたよ。物言わず、ただ研究員の言いなりだった『カルティキの子どもたち』がまるで別人のように振舞っているのですから………そこで、おれの気が変わったんですよ。継承手術を終えれば、テオドールに自我を持たせることが出来ると。例えそれが他人のものだったとしても、おれは構わなかったんです」
ミユキの、屈折した愛情が何なのかが今ではわかる。
だからこそ、真実を告げたくないのだ。
「継承手術が初期段階なのは、あなたの中のユリアナ・メーステルという人物の遺伝子サンプルが少量だったのでそうせざる終えなかったんです。なので『ユリアナ』として目覚めたはずのあなたは本人そのものにはならなかった。女性の遺伝子を継承したはずなのに男性のように振る舞い、記憶も曖昧でした。しかし、元の遺伝子サンプルが少量の場合こういうケースはよくあると言います。「様子見」として元の部屋に戻されたあなたに、おれはここぞとばかりに脱出計画を話した」
そして俺達は地上に出て、アフ・プチに追われここへと辿り着いた。
継承手術後すぐに『ソムニウム』に入った俺はますます記憶が曖昧になる。
目覚めた時には、”テオドール”としての記憶を持ったひとつの人格が形成されていた。
「夢のようでした。あなたが自我のない時におれが話したことさえも、全て覚えているのですから。だからあたかも最初からあなたが”そうであったように”おれは嘘をついた。ほかでもない、そうであってほしかったという只の、おれの願望です………。だから「浄化」について話すことも間違いであると否定した。イシュタムのようには、なってほしくなかったですから」
そして、とミユキは顔を上げてこちらを見た。
「それは叶った。あなたは、おれの思い通りの人間になった」
嬉しそうに微笑むミユキと、目を合わせることができなかった。
もう、俺はミユキの望む人間ではない。
「ええ、わかっています、あなたがもう”ユリアナ”としての記憶が戻ってしまったことを。つかの間の幸せをありがとう………テオドール。もうこれで充分です。だから、真実をおれに教えて下さい」
空がうっすらと白みはじめていた、そろそろ日が昇る頃だろう。
観覧車に乗る「客」、できそこないのユリアナ、イアン、眠るトスカ、沢山の「人」が俺の次の言葉を待っていた。
痺れを切らせたできそこないが口を開きかけたが、遮るように俺は言った。
「ミユキ、お前さんは『さびてつなおんど』という植物だ」
緑がかった、暗く鈍い青色の細胞がプレパラートの上で蠢いていた。
『コンブリオミシン』を通し、立体刺繍として見えやすく再現されたそれを大勢の研究員が感嘆の表情で見詰めている。
『切花』と『らせん図書館』、双方の研究員が肩を並べて昼夜研究に励む『カルティキプロジェクト』の施設内では、『切花』創立者である私、ユリアナ・メーステルから重大な発表の場が設けられていた。
「素晴らしいですね、ユリアナ。あなたにはつくづく驚かされる」
『らせん図書館』を創立した、スハヤと名乗るその男が立ち上がって手を叩く。
つられたように周りの研究員達も手を叩き始め、辺りは拍手の海となった。
「ありがとう、皆さん。でも、これを発見するに至ったのはエミリオのお陰ですの」
「エミリオというと………あの、アフ・プチの?」
「ええ、役に立ってくれています」
「役に立つ」という言葉を違う意味に受け取ったのだろう、スハヤは意味ありげな笑みを浮かべた。
「それはそれは。あの時あなたにお譲りして本当に良かった」
手土産に地下に連れ帰ったエミリオを『らせん図書館』へ引き渡そうとした時、本人に酷く抵抗された。
健康体だということを証明する為にあえて眠らせなかったのだが、仇となったのだ。
だが、スハヤはそれを非礼とは受け取らず面白そうに笑って見ていた。
『この子はどうやらあなたがお気に入りのようだ。どうです、『切花』で活用されてみては?』
そこまで言われては仕方がない。私はしぶしぶエミリオを『切花』へ連れ帰ったが、検体として使用することができなかった。
汚染に耐えられず生まれてからすぐに亡くなったが、私にも昔子供が居たのだ。
出会ってからすぐになら何とでもできたかもしれない。
しかし、数日を共にしたエミリオを今更どうにかする気にはなれなかった。
『切花』でのエミリオは嘘のように大人しくなり、私の言うことに何でもよく従った。
エミリオが、イシュタムである私を脅迫してまで欲していたものは延命装置でも、金でも、ましてやお菓子でもない。
ただ、親という存在だけだったのだ。
自らが生き延びるだけで精一杯のアフ・プチには叶えることのできない、ごく当たり前の幸せ。
それに気付いた時、私はエミリオを養子として迎えていた。
立体に再現された植物細胞を見上げ、私は概要を説明した。
「先日、わたくしが捜索隊を組んで地上に花を採取にいったのは皆さんもご存知かと思います。しかし、そこでの収穫はあまり芳しくないものでした。乾燥した花が一輪。犠牲者を出しながらも、手に入ったのはそれだけです。そこでわたくしは『切花』の研究の方向性を大きく変えることにしました。『花と人間を融合させる』のではなく、『丈夫な人間を産み出す花をつくる』もはや人では産むことのできない丈夫な肉体を、花に産ませるのです」
先程まで期待に満ちていた研究員たちの表情が、畏怖のものに変わった。
同じ人間の母親の胎内から生まれた者にとって、花から生まれる人間など不条理極まりないものだろう。
ましてやそれに、『らせん図書館』の手によって亡くなったイシュタムの遺伝子が組み込まれることになるのだから尚更だ。
だが、スハヤがざわついた研究員達を制し、私に続けるように促した。
「驚かれることもあると思いますが、ご清聴をお願い致します。
続けます………わたくしはまず、花の元となる種子を作りました」
ミシンが、小石程の大きさの鈍銀の種子を空間に「刺繍」した。
「『育て方』は簡単です。まず、この種子を固い土に埋めて日の当たらない場所に置いておきます。晴れた日は家の中に隠し、曇りの日に外へ出して少しだけ水をやります。一週間後に銀色の芽が出たら水はやらずに毎日話しかけるといいでしょう、親が赤ん坊に言葉を教えるように発音よく、ゆっくりと。一ヶ月後、それが「形」を成してきたら根元から静かに引き抜きます。根っ子はやがて枯れ落ちるので無闇に切ってはなりません」
私の言葉を、研究員達は呆然と聞いていた。
論より証拠。
私は『切花』の研究員を一人呼びつけ、実物を持って来るよう命じる。
やがて、ガラスの檻に入れられ丁重に運び込まれたそれに誰もが声を上げた。
大きさは成人した女性のもの。足元まで伸びた長い銀色の髪に、枯れ枝のような細い手足。
瞳の部分には、樹のうろのような穴がふたつぽっかりと開いている。
耳元まで裂けた三日月形の口元を醜く歪ませ、研究員達をためつすがめつ眺めていた。
「『彼女』は形こそ人のものであれ、完全な人間の姿はしておりません。不完全な生態………つまり『できそこない』です」
そこで、と言葉を切って更に先程の研究員に命じる。
今度は、大勢の研究員が四苦八苦しながら「それ」を連れてきた。
「馬だ」と誰かが叫んだ。それにつられたように他の研究員達も「まさか」「そんなことが」と、口々に叫ぶ。
流石にこれにはスハヤも驚いたらしく、黙したまま連れられてきた「馬」に視線を注いでいた。
艶やかな赤茶色のたてがみに、白く、しなやかな体躯。
優しげな目をしたその生き物は、大昔に「馬」と呼ばれた絶滅種だった。
ただひとつ、歴史上の記録に残された「馬」の特徴と異なっていたのは蹄の色だ。
むずがるようにせわしなく揺らしている四本の立派な足の先は、輝く銀色をしていた。
「今からおおよそ百年程前に亡くなった高名なイシュタム、ローデリック博士が我々カルティキ機関の手により、新しい肉体を経て復活なされたのはご 承知かと思いますが………実は彼にこの種をひとつ、お譲りしたのです」
「なんだって」「聞いていないぞ」と研究員から次々と非難の声が挙がる。
当たり前だ、誰にも「教えなかった」のだから。
ただ一人、この場でそれを知るスハヤは不満そうにこそしていないものの、この結果は予想だにしていなかっただろう。
「博士の話によると、生前に馬を飼われていたそうです。それは大切に育てていらっしゃったそうですが、汚染の影響により死んでしまい、大層悲しい思いをなされたのだとか。そこでこの「種」を育てていただいたところ、かつて一番大切になさっていたという馬が産まれたと、大変喜んでいらっしゃいました」
もうおわかりになりますね、と私は研究員達を見回した。
察しのいい者は、緊張した表情で次の言葉を待っている。
「『種』は、育てた人間の最も大切な生き物………それが人であれ、動物であれ、生き物なら何でも産み出します。いえ、「産み出す」というよりは「生る」のです。樹に果実が生るように、いとも簡単に。育てる上で一番大切なのは、「想い」です。「想い」が植物の成長を左右するのは、昔からよく言われていることでしょう。大切に育てたものほど、より「本物」に近づきます」
場は、みずを打ったように静まりかえっていた。
「勿論以前作った素体同様、汚染にも充分耐えられる………正しくは、汚染に順応した丈夫な肉体を持ちます。自分が一番大切に想う「生物」と丈夫な素体、この二つが手に入る「種」。これこそ、この度発表の場を設けさせていただいたわたくしの研究結果です。何か、ご質問がある方はいらっしゃいますか?」
「質問させていただきましょう」
間を入れず、スハヤが立ち上がる。
「名を教えて下さい。この素晴らしい種子、そして生き物の名を」
「錆鉄御納戸とわたくしは名付けました。最初にお見せした植物細胞の、緑とも、青とも言える不思議な色………まさに錆鉄御納戸そのものでございます」
後日、「想い」で種を育てることを一番最初に成功させた張本人、私の息子エミリオがたどたどしい演説することになるが、
その際『さびてつおなんど』を『さびてつなおんど』と言い間違えた為、語呂がいいということもあり、『さびてつなおんど』はいつの間にか俗語としてイシュタムの間で定着した。
ここだけの話、私が学名をつける以前からにエミリオが『さびてつなおんど』のことを「切花の妖精」と呼んでいたのを知っている。
彼にとってそれは、孤独の淵へと手を差し伸べる、御伽噺に出てくる妖精のような存在だったに違いない。
おもむろにミユキは、はめていた黒い手袋を外した。
俺はその動作から一瞬たりとも視線を外すことはできない。
全員が固唾を飲んで見守る中、ミユキは銀の腕をさらけ出す。
ようやく登りはじめた朝日の下で、それは緑にも、青に見える不思議な輝きを放っていた。
『さびてつなおんど』は必ず身体の何処かに銀色の部位を持って生まれて来る。
自分の素性を理解したミユキの顔は、何故か憂いに満ちていた。
記憶がなくなったのではない。
ミユキには、そんなもの「元からなかった」のだ。
「おれもまた、イシュタムたちの被験体だったという訳ですね………」
「少し違うわね」
できそこないが口を挟む。
どのような経緯でミユキが「咲いた」のか俺にもわからない。
少なくとも、生前のユリアナの研究室にミユキという存在はなかった。
「ミユキ………ミユキ・フィッツジェラルド博士、あなたはカルティキ機関に居たけれど、造られたのではないわ。「造らせた」のよ、私たちが造らせたの。あなたのオリジナルはこの世で一番自分が大切な人だったわ、その想いの力によってあなたは産まれたのよ」
「造らせた………?まさか………」
口をついて出た俺の言葉に、できそこないはふと笑った。
「観覧車を見て」
とても直視したいものではないが、ゴンドラに座った人の剥製を見る。
何処か、見覚えのある顔の人間たち。
それもそのはず、その中にはイアンと同じ顔だちをした者が居たのだ。
つまり、ここに居るイアンは『さびてつなおんど』
では、あれは、あのゴンドラの中に居るのは………
「オリジナル………」
「その通りよ」
できそこないは足音をたてずに、静かにミユキの前に躍り出る。
失礼、と呟いて彼の、全身を覆っているマントの裾を少し捲り上げた。
今まで俺はミユキが人前で肌を晒したところを見たことがない。
それは単に顔にあるつぎはぎのような、痛々しい実験の跡が残っているものだからだと思っていた。
しかし、僅かに捲くり上がったマントの下に見える腕の付け根や、首周りに、そんなものはなかった。
ただひとつ違っていたのは、首から下、恐らく足先に至る身体の全てが銀色だったのだ。
「身体に銀の部位が多ければ多いほど、『さびてつなおんど』たちを統率する力があるの。ミユキにはその資格があった、だから逃がしたの。この島の、統率者という役目を与えない為に」
「おれは、ここで生まれたんですか………?なぜ?何のために?」
マントの裾を握り締め、震える声でミユキが尋ねる。
「俺が話そう。俺達がしてきた罪の軌跡を、お前達には聞く資格がある」
トスカを腕に抱き、車椅子からイアンが立ち上がった。
驚いたことに、先程まで無かった筈の片方の脚が「在った」。
まるで、そこに生えたかのように忽然と出現したのだ。
イアンはしっかりとした足取りでこちらに歩いてくると、悪かった、と言いながら捲くれ上がったミユキのマントを丁寧に元に戻した。
「お前さん………足は………」
「知らないのか、ユリアナとあろう者が。
俺の脚のことを、汚染の影響か何かだと思っていたのか」
俺は無言で頷く。
「ばかなユリアナ、あなたはあたし達の全てを知る前に死んでしまったわ。
教えてあげる、あなたを殺したエミリオが、あたしと共に築いたこの島の全てのことを。
『さびてつなおんど』の王国ができるまでの全てを、聞いて頂戴」
「母」であるユリアナ。
『切花』の創立者であるユリアナ。
私は『さびてつなおんど』を只の研究材料としか思っていなかった。
完全に人の姿にならなかったものはできそこないと呼び、即座に廃棄した。
唯一、一番最初にエミリオが造ったものだけは本人がいたくお気に入りのようだったので遊び相手としてそのままにしておいた。
所詮ろくに喋ることもできない失敗作だ、放っておいても問題はないだろう。
そんな甘い考えが、全ての悲劇を生んだのだ。
『さびてつなおんど』を発表してからというもの、再び研究に明け暮れる日々が続いた。
ろくに家に帰ることもできず、エミリオのことはベビーシッターにまかせっきりだ。
一度だけ、エミリオが高熱を出して寝込んだと聞いて家に帰ったことがあった。
あの子はいたく喜び、私の作った蜂蜜入りのポリッジを美味しそうに食べた。
料理は得意だが最近は忙しくてめったにしていない。
時々、こうやって帰ってきて食べさせてあげるのもいいかもしれない。
そう思ったのもつかの間、『らせん図書館』の圧力もあって私はますます研究に没頭しなければならなかった。
元アフ・プチのエミリオは身体が弱い。
しょっちゅう熱を出しては、電話越しに私に苦痛を訴える。
「帰ってきて」
その声を聞く度に、母としての責任と、研究者としての努めを天秤にかけることになった。
そして
私は、研究を選んだ。
エミリオが私の息子になる為に取引として差し出した『花』をエミリオ自身に使った。
私は『切花』の創立者であり、『カルティキプロジェクト』の幹部の一人だ。
研究の成果を生かして、どんな汚染にも耐えうる肉体をあの子にあげよう。
病気にならなければ、苦痛も訴えない。
そうすれば、私が母としての罪悪感を感じることもなくなるのだと思っていた。
だが、事態はそんな単純なものではなかったのだ。
『花』を使った延命手術をエミリオに施した数ヵ月後、久しぶりに家に帰った私は信じがたい光景を目にすることになる。
エミリオの遊び相手として放っておいた『できそこない』が台所に立ち、まるで「人間」のように料理を作ってエミリオに食べさせていた。
食卓で料理を頬張りながら楽しそうに話すエミリオに時折相槌を打ち、耳元まで裂けた口元を歪めて微笑む。
その不気味な表情にぞっとした私は、慌てて台所へと飛び込んだ。
「何をしているの。温室へ戻りなさい、このできそこないが………!」
何時も護身用に履いている鉄製のブーツで、できそこないを蹴り上げる。
それは口元を歪めたまま、あっさりと床に這いつくばった。
「この………!」
抵抗しないのをいいことに、私は何度もその銀色の身体に蹴りを入れる。
エミリオが私にあんな楽しそうな顔を向けたことは一度もない。
なのに何故、何故、こんな化け物に微笑みかけるのだ。
「やめろ!」
その時、エミリオができそこないを庇うように私の前に躍り出た。
「どきなさい」
自分でも驚く程冷たい声でエミリオに言葉を浴びせた。
びくりと身を竦ませるものの、鋭い目つきで私を睨むその姿は初めて出逢った時と変わらない。
「できそこないを放置したのはあたしのミスだったわ、まさかこんな人間の真似事をしだすなんてね」
食卓に並べられた、料理の数々を見る。
ガーリックライスに、レンズ豆のスープ。家にある料理の本を見て覚えたのだろう、私の本棚を漁られたのかと思うだけでもおぞましい。
「どきなさいと言っているのよ、それは早急に処分するわ」
「いやだ………」
何ですって。
今、この子は何と言った………?
「何を言っているの?母親であるあたしの命令なのよ、育ててあげた恩を忘れたとは言わせないわ」
「………………じゃない」
「なに?」
「お前なんて母親じゃない………俺のママはこの、ユリアナだ」
私は恐ろしさのあまり、エミリオが指を指した方を見ることができなかった。
『ユリアナ』
確かにエミリオはそう言った。
私ではない、後ろで這いつくばっている、銀色の化け物を指してそう言ったのだ。
『『種』は、育てた人間の最も大切な生き物………それが人であれ、動物であれ、生き物なら何でも産み出します。いえ、「産み出す」というよりは「生る」のです。樹に果実が生るように、いとも簡単に。育てる上で一番大切なのは、「想い」です。「想い」が植物の成長を左右するのは、昔からよく言われていることでしょう。大切に育てたものほど、より「本物」に近づきます。』
あの日、『カルティキプロジェクト』の施設内でそう発表したのは私自身ではないか。
ああ、何故もっとはやく気付かなかったのだろう。
エミリオが最も大切としていた人物、それは「私」だったのだ。
研究に明け暮れ、家に帰らない私に会いたいと思ったその「想い」がこのできそこないを生んだのだ。
がくりと、膝をついた。
床に這いつくばる『できそこない』が、目を合わせてにたりと笑い、私と同じ声、同じ口調で言った。
「できそこないはあなたよ。ユリアナ・メーステル」
ふいに、背中に焼けるような痛みを感じる。
「刺されたのだ」と理解した時には、今度は私が床に這いつくばり、銀色の化け物に見下ろされていた。
形勢逆転
まさに、この状況にふさわしい言葉だ。
「哀れね。あなたは、自分に唯一足りなかったものを手に入れる機会を、自らの手でふいにしたんだわ」
冷蔵庫から、ごとりと音を立てて何かが床に落ちた。
ああ、あれは、エミリオを世話するよう頼んでいたベビーシッターの死体だ。
恐ろしい、恐ろしい植物の化け物。
より「人」に近づく為に、邪魔になる人間を次々と排除するのだ。
化け物がエミリオの手を取った。
行ってしまう、息子が、私の偽者に連れられて何処かへ行ってしまう。
遠くなる意識の中で、炎のはぜる音を聞いた。
何ということ………家に火を放ったのだ。
信じられないことだが、私の真似をする化け物は、思考パターンまでも私にそっくりだった。
焼死体では、『らせん図書館』であろうとも遺伝子の採取は難しい。よって、私の復活は不可能になる。
そこまで計算しつくした『できそこない』は、根底まで『ユリアナ』の存在を潰す気なのだ。
燃え盛る炎の中、化け物に手を取られ、去ろうとするエミリオが振り向いた。
ああ、せめて、もう一度、もう一度だけ私を見てほしい。
ーーだが、その切なる願いが最後まで叶うことはなかった。
俺達は回り続ける観覧車の、唯一無人であるゴンドラに乗った。
「ここを封印していたのには、理由があるわ」
無人のゴンドラの扉を開け放ち、俺達を誘導しながらできそこないは言う。
「見られてはまずいものが見えるからよ」
「ここが満員なのにも理由があンのか」
物言わぬ人間たちが乗っている両隣のゴンドラに視線を向け、皮肉を込めて俺は尋ねた。
「………もちろんよ」
そう言ったできそこないはからは何時もの人を小馬鹿にした様子はなく、俺は思わず押し黙る。
乗りましょう、とミユキが短く言った。
常に回り続けているゴンドラは、地上に留まっているうちに乗らないと上昇していってしまう。
俺はしぶしぶ先に乗り込んだイアンとトスカの横に座り、ミユキも後に続く。
それを満足そうに見届けたできそこないは、外側から勢いよくゴンドラのドアを閉めた。
「おい………お前さんは………!?」
乗らないのか、という叫びも空しくゴンドラはどんどん上昇していってしまう。
窓の外から小さく「それは四人乗りよ」と聞こえた気がした。
ため息を吐き、俺は四人掛けの椅子に座りなおす。
暫くの間、ゴンドラの中に気まずい空気が流れた。
イアン、ミユキ、眠るトスカ………誰も、一言も発しない。
誰もが、これ以上真実に触れることに躊躇しているようにみえた。
だが、そうも言ってはいられない。
俺が話を切り出そうと口を開きかけたその時、イアンが外の景色を見詰めながらぽつりと呟いた。
「己の存在意義について考えたことはあるか」
愚問だ。
ここに居る全員、この質問に答える筈がない。
答えないことこそが、答えだ。
「俺達は誰かの代わりであることに日々疑問を持ち、その「誰か」には決してなれないことに苦悩する」
イアンは一呼吸置いて、俺達の方を向いた。
「人のようで、人ならざるもの。あってはならない、存在自体が罪であるもの………それがーーー………人間の言葉では『さびてつなおんど』と言うのか」
俺の横に座るミユキから、緊張した様子が伝わってくる。
彼らが自分達『さびてつなおんど』をなんと呼んでいるかは俺にはわからない。
人間には発音できない不思議な言葉は、『列車』で聞いた木々の話し声にすこし似ていた。
「だが、時々それを忘れることがある。自分達が最も優れた「人」であると、勘違いすることがある」
思い出したのだ、と眠っているトスカの髪をそっと撫でる。
「観覧車を見て、改めて思い出した。俺やトスカ、島の人々すべてがここに乗っている客の代用品だった。俺達は優れた存在などではない。ゆめゆめそれを忘れぬよう、貴様の代用品であるユリアナはここを造ったんだな………」
イアンはすでに豆粒大の大きさでしか見えない、地上に居るできそこないを見下ろした。
「すべて、すべてと言ったか………?島の住人全てが『さびてつなおんど』なのか?」
頷きかけ、イアンは首を振る。
「エミリオ以外のすべて、だ」
エミリオ。
俺のーーいや、私の、『ユリアナ』の息子だった。
私を殺し、できそこないと二人で炎の向こうの何処かへ消えたエミリオ。
久しぶりに再会したあの子は昔と違って明るく、そして、まるで「私のように」喋った。
それだけではない、私の得意料理を主にレストランまで開き、島の住人にふるまっている。
違う、あれは「私のように」成っているのではない。
恐らく私より長い時間あの子と共に居たであろう、「できそこないのユリアナ」のふりをしているのだ。
だが、何故そんなことを………。
「わからない」
俺は思わず口にしていた。
「やっと解りかけたエミリオの気持ちが、また離れた気がする」
俺の頭の中で、微かな波の音が聞こえた。
顔を上げるとイアンがじっとこちらを見ていた。
「エミリオがユリアナのふりをしている理由が知りたいか」
「………!」
俺の考えていることが筒抜けだ。
怪訝そうに眉根を寄せる俺に、イアンはふと笑った。
「さびてつなおんどは、自らが「育成者」と認めた相手と心を通わせることが出来る。水音を聞いたことがあるだろう?あれは我々が介入する合図だ。根が水を吸い上げるように、気持ちを汲み取る。人の「想い」によって育つ、花の特性だ。反対に、人間の心がなければ俺達は生きてゆけない」
「育成者………?俺はお前さんのことは育ててねェぞ」
「誰でもいいのだ、「人間」なら」
ということは、イアンが俺のことを認めたというのか?
そういえば心なしか出会った時と印象が変わった気がする。
なんというか、前よりはっきりとものを喋るようになった。
これもさびてつなおんどの特性なのか………
ユリアナが生きている間に解明できなかった彼らの生態に、俺は戸惑いを隠せなかった。
「『それに見かえりを求めてはいけない。それは決して育てた人間に恩を返さない。』」
ゴンドラに乗る、全員の視線がミユキに注がれる。
うわごとのように呟くミユキに、そういうことだ、とイアンが頷いた。
「『種』は一人の人間の手によって育てられる。だが、成長しきったさびてつなおんどは次々に『育て親』を変える。理由などはない、より気に入った相手を気分で選ぶだけだ。
そうしないと生きてゆけないのだ、『育て親』の居ないさびてつなおんどは序々に枯れ、やがて樹になってしまう」
列車を見ただろう、という言葉に俺ははっとする。
まさか、あそこに生えていた木々たちは………
「『育て親』をなくして樹になった同胞だ………死んではいないが、生きているとも言い難い。俺達は、あの場所を墓場と呼んでいる。列車を待つ人間達のように何年も何十年もあの場所に留まり、『育て親』が現れるのを待っているのだ」
「まさか、お前さんの足………」
「ああ、俺はかつて『育て親』だったエミリオを見限ったため、貴様と会った時点では枯れる寸前だった。枯れるというのは脚や身体の一部も樹の幹のようになり、日々人間の言葉を忘れてゆく。それでもなんとか真実を伝えようとしたが、貴様達を見て、何も知らないほうがいいこともあるのだと思った」
それであの時、俺達に帰れと言ったのか。
イアンは俺が『招かれざる客』でさびてつなおんどの特性を読んだことにより、ユリアナの記憶が目覚めるのを恐れていたのだ。
「貴様達は幸せだった頃を思い出させる。俺が、エミリオを『育て親』として認めていた頃を」
ゆっくりと上昇するゴンドラには、染みるほど強い朝の光が差し込んでいた。
窓の外に目を向けたイアンにつられて、俺もそちらを見やる。
頂上だ。
観覧車の、一番高い場所へと登り詰めたのだ。
空と海の境界から覗く朝日が、島を、海を、世界中を包み込んでいた。
俺もユリアナも、かつてこんな美しい光景を一度も見たことがない。
今日という日が誕生する瞬間の光の、なんと素晴らしいことか。
地下墓所で燻っていたら一生見ることのできない光に、私はただただ胸を焦がす。
ああ、世界はこんなにも広かったのだ。
気がつけば、頬が濡れていた。
泣いているのだ、この私が。
かつて「非道」と謳われたユリアナ・メーステルが世界を目の当たりにして泣いているのだ。
「美しく、悲しい光景だ」
イアンが指を指した、日の光の向こうに何かが見えた。
「あれは………!」
ミユキが身を乗り出して叫ぶ。
日が昇ってゆくと共に、だんだんとはっきり見えてくる、この島からそう遠く離れてない場所に広がる大陸。
「冗談だろ………」
そこには、巨大な本のかたちをした塔が高々と聳え立っていた。
できそこないが言っていた、「見られてはまずいもの」とはこれのことだったのだ。
「カタコンベが、何故………!」
カタコンベへの入り口がこんなにもすぐ近くにある、それが意味することはただひとつ。
「最高クラスの汚染区域………」
ミユキの言葉は、目の前に広がる美しい光景の全てが打ち消される程絶望的なものだった。
この腐りきった島で生きられる生命体は限られている、とイアンは言った。
さびてつなおんどと、身体の改造を施された一部のイシュタム………つまり、「カルティキの子供たち」である俺もその一人だ。
「エミリオは、この島は汚染を免れていると」
イアンは悲しげに首を振る。
「それだけじゃねェ、トスカだ。トスカがカタコンベの人間だッつーのは………」
眉根を寄せ、イアンはああ、と低く呟いた。
「貴様の同情を買う為の嘘だろう。トスカはうまく喋れない、都合がいい」
「何故だ!何故嘘を吐く!?」
汚染がなく、互いに助け合って幸せに暮らす島の人々。
夢のような古の遊園地は、全て嘘で塗り固まれた虚構の世界だったのだ。
遠い昔に、酷い汚染によって放棄された島にこれ程の生命体が暮らしているなどとは、誰が想像できようか。
「貴様が、あの『ユリアナ』だとは些か信じがたいな」
ちらりとミユキの方を見て、イアン。
「これもミユキというさびてつなおんどの成せる技なのか?もしそうなら、羨ましいことだ」
「おれは何もしていません」
怪訝そうな様子でミユキが言う。
「何もしないことが、元来俺達の仕事だ」
だが、と言って言葉を切る。
「エミリオは我々に多くのことを望んだ。自らが支配する国を作るために、多くの人間を犠牲にしたのだ。だから母親代わりであった『ユリアナ』のさびてつなおんどさえも、奴を見捨てた」
エミリオ以外の全ての人間が『さびてつなおんど』である汚染に支配された島。
そして観覧車にに乗っている、イアンや島の人間と同じ顔をした人の剥製。
「種」は人間でなくては育てられないし、「育て親」もまた人間でなくてはならない。
イアンが言っていた罪の軌跡とは、まさか、まさか。
「カタコンベから数え切れない程の人間を攫った。攫ってきた人間を騙し、エミリオの造った「ツアー」を体験させることによって様々な感情を植え付け、想いの力で「種」を育てさせた。そうして、さびてつなおんどの数をここまで増やした」
頭を強く打たれたような衝撃が襲った。
俺は、『ユリアナ』はなんという恐ろしい生き物を生み出してしまったのだろう。
人を捕らえ、種を育てさせ、切花の妖精を増やす化け物。
ツアーの一部である、『アラーニャの館』で見聞きしたことは全て本当だったのだ。
「言っただろう、ここは大層な場所ではない、と。それを何年も、何十年も繰り返してきただけだ。考えたのはエミリオ、計画を練るのはヴァージニア、実行するのは俺だ。
俺はこの島で、せめて「育てる期間」だけでも生きていられる特殊な人間………つまりイシュタムを片っ端から攫った。
それでも、彼らが生きていられるのはせいぜい一日か二日。よくて一週間だ。
種が咲いたら次、咲かなくても次………と、人間は俺達を生み出す道具として利用した」
ミユキが小刻みに震えている。
そうだ、そうしてミユキも造られたのだ。
誰かの、儚い命の代わりに燃やした「想い」によって。
「俺が咲くまでは、どうやらユリアナが人間を攫っていたらしい。最初は、寂しがるエミリオを思ってのことだったらしいが………何時の間にかそれがエスカレートしていった」
人の命を利用するだけ利用したのだ、と、イアンはふと思いついたように力なく横たわっているトスカの身体を抱き上げる。
「生命力の強いイシュタムは限られている。攫ってゆくうちにさびてつなおんどの「元」になった人間の、知り合いや家族、はたまた本人と鉢合わせるケースもあった。運命とは非情なことに、俺もそれを経験することになる。
………たまたま、攫った人間が「俺の元になった人間」だった。随分歳をとっていて気付かなかったが、確かにその人間は「俺」以外の誰でもなかったんだ」
イアンはトスカを胸に抱き、まるで懺悔をするように話した。
「仕方なく俺はその人間に全てを話した。この島の秘密を知った者は生きて返せない、もし逃げたら殺すことも考えた。だが彼は黙って俺の話を聞き、自分の妻が昔に行方不明になった話をしてくれた。………何を隠そう、その妻こそが、「イアン」というさびてつなおんどを産み出した張本人だったのだ」
もうとっくにこの島で亡くなっていたが、と間を置いて遠くを見つめたその先には、例の「イアン」のオリジナルが乗るゴンドラが見えた。
隣に座っている女性の姿をした剥製は、おそらく妻なのだろう。
オリジナルのイアンとは夫婦というより親子ぐらい年齢が離れているように見えるのは、互いが生きた時間の差を感じさせた。
一体、この島のさびてつなおんどは何年生きているのだろう、長い年月の狭間を彷徨う、イアンの懺悔は続いた。
「年老いた「イアン」は逃げなかった。
一人のさびてつなおんどを育て、一週間もたたないうちに死んだ。
死ぬ間際に自分の育てたさびてつなおんどを指して、自分の娘の姿をしていると呟いた。
娘の、幼い頃の姿だと。そして、その娘「トスカ」は寂しい生き物である俺へのプレゼントだと奴は言った」
トスカ、と呟いて腕の中の少女にイアンは語りかけた。
「すまない、トスカ。俺は、彼のような父親になれなかった。
観覧車にでさえ、こうなる前にもう一度乗せてやることもできなかった。
お前が………人であるうちに昔のような幸せを取り戻すことができなかった………」
ああ、とイアンは涙を溢れさせて嘆いた。
観覧車はもうすぐ終着点に着く。
地上からできそこないのユリアナがじっとこちらを見上げていた。
そのうろのような瞳の奥には、心なしか悲しみの色を湛えているように見える。
(よかったです これで のれました みんなで、かんらんしゃに)
さざ波の音に入り混じって、トスカの声が俺の頭に響いた。
(ありがとう イアン………おとうさん)
イアンが涙で濡らした顔を上げ、大きく目を見開いた。
(ありがとう テオドール わたしの さいごの 「育て親」)
次の瞬間優しい波が俺の頭の中をさらい、我にかえった時にはイアンの腕の中にトスカの姿はなかった。
その代わりに、トスカが着ていた服に包まれるようにして根をむきだしにした小さな銀色の樹が一本転がっていた。
「トスカ………」
俺は泣いた。
テオドールとして、ユリアナとして。
『さびてつなおんど』を愛さない、情けをかけない、ユリアナ・メーステルが『さびてつなおんど』の為に声を上げて泣いた。
「どうだった?生の天井からの見晴らしは」
ゴンドラから降りた俺たちを、寂しそうに微笑みながらできそこないのユリアナが迎えた。
「美しいが、それだけだな。生の天井に花は育たない」
うろのような瞳から表情は読み取れなかったが、恐らくは俺の答えに驚いたのだろう。
できそこないのユリアナは僅かに間を置いて、そうね、と答えた。
軽やかな足取りでイアンの側に寄り、腕に抱かれているトスカの苗木に枯れ枝のような指先でそっと触れる。
「おかえり………そしておやすみ、トスカ。死の天井でゆっくり眠りなさい」
「庭に埋めようと思っている、それまで預かっていてくれるか」
イアンの言葉に、できそこないのユリアナは頷いた。
「『墓場』に埋めるよりずっといいわ」
墓場とは例の列車のある場所だ。
確かにあんな寂しい場所よりも、手入れの行き届いたイアンの家の庭の方がいいだろう。
「エミリオから逃がす為に「戻した」か………これは、ヴァージニアの手回しだな。彼女もまた『育て親』を鞍替えしたか」
「あの子がエミリオの側を離れるとは予想もつかなかったけれど、そのようね」
二人の視線が俺に集まる。
話をかいつまむと、つまりはイアンとヴァージニア、そして、今しがた眠りについたトスカの三人のさびてつなおんどが俺を認めたということだろうか。
しかし、認められたことでのメリットや、そこに至るまでのきっかけがいまいち掴めない。
俺が難しそうな顔をしていると、できそこないのユリアナが人を小馬鹿にしたように笑った。
「しっかりて頂戴、仮にもあたしのオリジナルなんでしょう」
「言っただろ、継承手術は完全じゃねェんだよ。俺はあくまでテオドールだ、勘違いするなよ」
できそこないのユリアナは耳元まで裂けた口元を歪め、テオドールねえ、と呟くように繰り返した。
「あなたの言う”テオドール”は所詮、幼いエミリオへの未練が表面化しただけよ。それがあくまでユリアナの思念からきたものである限り、あなたはそれ以外の何者でもないの。二重人格者でも気取るつもり?」
わかっている、そんなことはとうの昔にわかっている。
俺のなりたい「テオドール」は、エミリオの、息子の性格を表面化しただけなのだ。
いいや、表面化ですらない。
ただの「ふり」だ、俺はエミリオのふりをして生きている。
ぐうの音も出なかった。
奥歯を噛み締め、無言でできそこないのユリアナを睨みつける。
「その子供みたいな、怒りっぽい性格もそう。本来のあなたならいくらでも冷静になれるでしょうに。あなたたちはどうしてそうやって互いに反対のものを望むの?」
「あなた………たち?」
己に投げかけるようなミユキの問いにイアンがああ、と返した。
「その話が途中だったな。何故、エミリオがユリアナのふりをしているか、だ」
「ユリアナはエミリオのふりをする、エミリオはユリアナのふりをする。求め焦がれ、願っても、すれ違って繋がらず。さびてつなおんどは相手の姿を投影し、終いには自分が成り代わる」
謳うようなできそこないの物言いは、人を嘲笑うかのようだった。
「その通りだ、エミリオはユリアナになりたかった。人の上に立つ者………この島で言えばさびてつなおんどの頂点に立つ者になりたかったんだ。だからかつて「統率者」だったこの、ユリアナのふりをしはじめた」
観覧車が回り始めた時、イアンはできそこないのユリアナがこの島の「真の統率者」であると言った。
人間でなくともさびてつなおんどを認めさせることができるとでもいうのだろうか。
「ユリアナ・メーステルという人物は、並み外れたカリスマ性があったわ。
それを元にして造られたあたしは、さびてつなおんどに対する人間以上の支配力があった」
「我々はそれを「統率者」と呼んだ。さびてつなおんどの頂点に立つ者を「統率者」、さびてつなおんどに認められた人間を「育て親」両者は、似て否なるものだ。「統率者」の場合は全てのさびてつなおんどに対しての支配力がある、大概我々は逆らえない」
「真の統率者」という意味がやっとわかった。
全てのさびてつなおんどに影響力のある「できそこないのユリアナ」は陰でこの島を牛耳っていたのだ。
だが、待てよ、もし「統率者」の「育て親」であったのなら間接的に全てのさびてつなおんどを従えさせることができるのではないだろうか………?
そうか、話がだんだん読めてきたぞ。
「やっとわかってきた、って顔してるわね。察しの通り、あたしの「育て親」はエミリオよ。一時期、あの子はあたしを監禁して島中のさびてつなおんどを支配下に置いていたの」
「全てはイシュタムを攫い、種を育てさせて人口を増やす計画を実行する為だ。先程話した通り、俺も実行グループのメンバーだった。かつてはユリアナを通してではなく、エミリオ自身を「育て親」として崇拝していたからな………奴にとっては適材適所だったろうよ」
現在のエミリオに対する態度を見ていると、イアンがエミリオを「育て親」として認めていた、ましてや崇拝をしていたとはにわかに信じがたい。
そういった意味では、『育てた人間に恩を返さない』という一説は言葉通りということか………。
「だけど、トスカ様の一件であなたの気が変わった、と」
「あながち間違っては居ないな。ミユキ・フィッツジェラルド………貴様もかつてはこの島の統率者の資格があったのだ」
「それは、観覧車に乗る前の話の続きですね。詳しく聞かせてください」
いいだろう、とイアンが返す。
ここにきてやっと、ミユキは自分の出生の謎を知ることが出来るのだ。
それが例え己の記憶に残っているものでないにしろ、受け止める覚悟はとうにできているのだろう。
意を決した様子のミユキの横顔を、俺は複雑な思いで見詰めた。
「トスカの一件で、俺に迷いが生じていたのは事実だ。だが、それでも暫くはエミリオを見限ることができなかった。しかし………」
「あたしがイアンに忠告したのよ。エミリオはトスカを次の統率者にしようと考えていたようだったからね。あの子はあたしの『育て親』であると同時にあたしもあの子の『親』であったの。ユリアナ、あなたには悪いけれどあたしの方があの子と居た時間が長いの、長すぎたのよ。月日がたつにつれてあの子はあたしより従順な「統率者」を望んだ。身体に銀色の部位が多く、カリスマ性のあるさびてつなおんどが産まれるのをずっと待ち続けていたわ」
それが、ミユキないし、トスカだったという訳か。
皮肉なものだ、『切花』が『できそこない』と呼んでいた不完全なさびてつなおんど程、彼らにとって貴重な生き物だったのだ。
私は………ユリアナは、それすら解明できずに死んだのだ。
人にも、研究にも裏切られ、最終的に何も得られずに死んだ私こそが『できそこない』だったことに、今更ながら気付く。
『できそこない』が今、ここに他人の肉体を借りて生き返ったとて、一体何の意味があるのだろう。
カルティキプロジェクトの連中は何を考えて私をこの世に呼び戻したというのか。
「俺はエミリオを見限り、ユリアナをタングステンの檻から逃がした。彼女には身を隠す場所が必要だと考え、観覧車周辺の管制室の鍵を盗み出して渡したんだ。この島で完全に封鎖できる区域といえば………ここぐらいだからな」
「あたしは身を隠す前にイアンに頼んだわ。他に統率者の資格がありそうな者が産まれたら、この島から逃がしてほしいと。エミリオにいいように使われるのを防ぐだけでなく、あの子自身の成長にも繋がるからよ。なにを隠そうエミリオはこの島で唯一の人間なのだから、「統率者」を通さなくても充分な支配力を持てる筈なの。あたしはあの子を『育て親』としても、『親』としても愛していたけれど、甘やかすだけが愛ではないのよ。時には突き放すことだって必要なの………わかる?」
わからないでしょうね、と言って微笑む三日月形の口に、一瞬喰われそうな錯覚に陥る。
完敗だ。もうとっくの昔に完敗していた。
私は、エミリオの親として自分のさびてつなおんどに勝てる要素をひとつも持っていない。
元より私は、人の感情において人ならざる者に完全敗北していたのだ。
「でも、それでも、あの子のことが心配だったわ。だから管制室の鍵はお互いしかわからない場所で管理していたの。
『「想い」が歪み、島が崩壊を始めたら「鍵」を腐らせ、天井を定めるな。』
エミリオが成長を遂げずに、歪んでしまったら、島の全てが崩壊する。
予兆があったら、観覧車を回すようにと約束したわ。一種の、賭けのようなものだった。願わくば鍵を使うことが訪れないよう………あたしはこの場所で、「観覧車の客」と共に朽ち果てる気でいたの。でも、現にこうやって生と死の天井は廻ってしまった」
すっかり上りきった太陽に目を細めつつも、疲れた様子で「さびてつなおんどのユリアナ」が観覧車を見上げる。
「数十年前に産まれ、ユリアナとの約束により決死の想いで俺がこの島から逃がした「統率者」のミユキ………貴様がカタコンベで蘇ったユリアナに出逢ったのはもはや偶然とは考えられない。ましてや、再びここに戻って来ようとは………何も知らないままで居た方が良かったものの、ここまできた以上は最後まで付き合ってもらうぞ」
ミユキは何も答えなかった。うな垂れたように、視線を彷徨わせている。
今の私にならわかる、イシュタムの中で唯一ミユキしか成功例のない「生物から無生物への変化」とは単にさびてつなおんどの特性のひとつだったのだ。
ミユキが成る「小石のような肉体」とはつまり一時的に種に戻るということ。
これはさびてつなおんどの精神面が極端に不安定になった時に起こりうる現象で、生前に私が発表した資料にもファイリングされていたはずだ。
今のミユキにかけてあげられる言葉は一体何なのだろう。
息子すら正しく愛せず、表現を誤って死を遂げた私に、何ができるのだろうか。
「………最後まで、とは」
のろのろと顔を上げ、ミユキは重たい口を開いた。
イアンは喉の奥で笑い、おもむろに片手をミユキの肩に乗せる。
「エミリオは恐らくユリアナ………いや、テオドールを待っている。統率者として迎え入れるために『タングステン』で待ち構えているはずだ。「人間」であり『ユリアナ』であるテオドール程統率者に相応しい者は居ない。レストランに火を放ったのは、恐らく用済みになったトスカと邪魔なミユキを同時に消す為だ。さびてつなおんどは火に弱い、俺が警告していなかったら炎の中で生き残れるのはただ一人」
「『ソムニウム』がある俺だけ………」
イアンは頷く。
そして、小さくありがとうと呟いた。
「トスカを救ってくれて感謝している。トスカがテオドールを「育て親」として認めたのは知っていた、だからこそ貴様達を信じたのだ。俺一人があの身体でトスカを救うことは到底無理だっただろう」
俺は、ああ、と返して苗木になったトスカにそっと触れた。
「観覧車、一緒に乗れて良かったぜ」
俺の呟きに、イアンは口元に小さく笑みを浮かべた。
ややあって顔を上げ、ぎんいろのユリアナを真っ直ぐ見た。
「ユリアナ、お前さんの「育て親」はエミリオだな」
ええそうよ、と私の代わりであるユリアナが返す。
「安心しな、俺は………”あたし”は、あの子に初めて母親らしいことをするつもりよ。この島に、さびてつなおんどにとって新しい未来へ繋がるようあの子を導いてあげる。あなたがこうやって、身を潜めることもないような明るい未来にね」
二人の『ユリアナ』は見つめ合う。
やがてうろのような瞳を細め、宜しく頼むわ、と「ぎんいろ」のユリアナが言った。
今まで負けてばかりだったけれど、今度こそ私が最初の勝利を収めるつもりだ。
そう、きっとその為に私は再び生まれ変わったのだ。
驚いた表情で私を見詰めるイアンとミユキに向き直る。
「イアン、お前さんのは『育て親』は誰だ?」
「………”テオドール”貴様だ」
「ミユキ、お前さんの『育て親』は?」
「テオドール、あなたですよ。はじまりからずっと、おれの『育て親』はあなたでしたよ」
ならば、と二人を交互に見た。
「『最後』を決めるのは俺だ。エミリオを、正しい方向へ導くことに協力してくれ。さびてつなおんど達に新しい未来を託す『最後』まで、二人とも俺の側に居てくれるな?」
「もとより、そのつもりだ」
イアンに続いて、ミユキも力強く頷く。
「テオドールの言うことに、異存はありません」
「と、言う訳よ。大船に乗ったつもりでいなさい」
私が言うと、「ぎんいろ」のユリアナは、けたたましく笑った。
心の底から、楽しそうに笑い続けた。
「あなた、本当に変わったわ。いいわ、いいわよ。待ってる、期待して待ってるわ」
これを持ってゆきなさい、と観覧車の物陰から取り出した見覚えのあるティーポット。
取っ手に丹精な細工の妖精の飾りがついたそれは、トスカが「スープ」を入れて持ち歩いていたものだった。
「久しぶりに外へ出てみたら、偶然列車の側で見つけたわ。エミリオが考案した、あの忌まわしい『ツアー』のキーアイテムのひとつよ」
なるほど、これで合点がいった。
『招かれざる客』でキーアイテムが見つからなかったのは、トスカが勝手に持ち歩いていたからだったのだ。
だが、今更こんなものに何の意味があるというのだろう。
「銀幕『タングステン』に入るには切花のツアーのキーアイテムがいるはず。種、アンプル………そしてティーポット。他のふたつが何処にあるかは、解りかねるのだけれど」
「そういうことだったんですね………銀幕『タングステン』は確かツアーの終着点だったと記憶しています。大丈夫、おれたちはツアーを一通りこなしています。種とアンプルは持っていますよ」
ミユキが自分のマントの中を示すと、「ぎんいろ」のユリアナは安堵したようにティーポットを差し出した。
「あの子を………宜しく頼むわ」
長い、銀の髪を風に靡かせて手を振る彼女を背に、私達は銀幕『タングステン』へ向けて山道を下る。
その途中、微かな波の音を聞いた。
『間に合うと、いいわね。』
「ぎんいろ」のユリアナから送られてきたメッセージには、皮肉めいたものは込められていなかった。
私は短く、間に合わせてみせる、とだけ返した。
そう、何が何でも間に合わせなければならない。
私に残された時間は、あとわずかなのだから。