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さびてつなおんど  作者: ぽっぽ
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3.切花の妖精の物語

 廊下の突き当たりには、ただっ広い部屋があった。

 中はがらんとしていて、壁や床に敷かれた絨毯こそ廊下と同じような装飾が施されているが、それ以外は特にこれといったものない殺風景な部屋だった。

 唯一あるものといえば部屋の真ん中に置いてある天蓋つきのベッドぐらいで、これもまた古風なデザインの代物だ。

 なんとも、奇妙な部屋だ。

 ツアーの第一ポイントらしいこの「王様の夜話」という建物内の、先程俺とミユキが話していた廊下の突き当たりの部屋のことである。

「ここは何をする場所なんだ?」

 ミユキに尋ねるが、知る由もなく。

 さあ、と首を傾げるばかりだった。

 その時、ただでさえ薄暗い部屋の照明が更に落とされ、部屋の中央がうすぼんやりと光はじめた。

 この部屋の中央にあるものといえば、ベッドしかない。

「側に寄ってみましょう」

 俺達二人はおそるおそるベッドの横へ立つ。

 天蓋で覆われているため、そこに誰が寝ているかわからない。

 緊張しながら淡い光の集まるベッドを覗き込むと、そこには………

「こんばんは、王様」

 ベッドに横たわった半裸の女性が、甘い声でそう言った。

 正確には、半裸のような姿といったほうが良いだろうか。

 申し訳程度に胸元を覆うチューブトップ。

 下はいちおうパンタロンというものだろうか、裾広がりのズボンを履いていたが、良く見ると透けてる素材で作られているようで、下着のような、スイムウェアのような、派手な色をしたパンツが覗いていた。

「………………おい、これをどうしろってんだよ」

 まさかここがそのような目的で作られた建物だとしたら、今まで見てきた幻想的な古代の建築物の数々の雰囲気は全てぶち壊しである。

「この女性も糸巻き………『立体刺繍』から作られたものですよ」

 いたって冷静な様子で、ミユキ。

「んなこた見ればわかる。カタコンベには『立体刺繍』相手の風俗もあるんだろうが」

「よくご存知で」

 笑いを含んだ声で言われたのでムッとしてミユキを睨んだが、そんな俺を無視して天蓋を捲り、急にベッドに上がりはじめたので思わず慌てる。

 見かけは子供の癖にやることが大胆な男だ。

「何を慌ててるんですか。テオドールもベッドへ」

「あのなあ………」

 はたから見ると、『立体刺繍』の女性がまるで子供に添い寝する母親のような、ほほえましい光景ではあるのだが。

「先程廊下でこの建物の『コンブリオミシン』機器の性能を見たでしょう、古代の産物ですよ。そのような機能はありません。だいたいカタコンベの風俗は………………まあいいでしょう」

「なんだ?」

「なんでもありませんのではやくベッドに」

 納得はいかないものの、俺はしぶしぶベッドへ上がる。

『立体刺繍』の女性はさっきから表情が変わらない。成程、性能が悪いというのは確かなようだ。そんなことを考えていると、表情を変えないまま女性が喋りだしたので俺は思わず後すざる。

「二人の王様、わたくしがお休み前にお話をしてあげましょう。なんのお話がよろしいですか?」

 甘ったるい、何処か機械的な声だ。

「お話?そうか、それで『王様の夜話』なァ………」

「何処かの国の王が、妻の不貞を目撃した腹いせに毎夜若い女性を虐殺していたという説話があります。それをやめさせる為に一人の女性が毎夜話をして気を紛らわせたとか………恐らくそれを元に作られたものでしょうね」

「それをはやく言えよ」

 勘違いとはいえ、恥ずかしい。

 意味ありげに微笑んだミユキを尻目にため息を吐く。

 ミユキはたまにこうやって俺のことをからかうので、本気と冗談の境目がしばしばわからなくなることがある。

 気を取り直して、で、ここでは何をリクエストすればいいんだ?と尋ねた。

「ここはまあ、これでしょうね」

 ミユキはエミリオから渡された紙束をちらりと見せる。

「切花の妖精の話をお願いします」

「かしこまりました」

『立体刺繍』の女がパチン、と指を鳴らす動作をした。

 その途端、がらんどうだった部屋が一瞬にして緑の園に変わる。

 野原に見たことのない草花が咲き、風にそよいでいた。

 流れてきた穏やかなBGMには虫の鳴く声や鳥の歌声が入り混じる。

 安っぽい演出ではあるが、「ミシン」の機器の性能を見たらこれが限界だろう。

「『立体刺繍』を投影するには何もない方が都合がいいですからね」

 部屋ががらんどうだったことに関して納得したような様子で、ミユキ。

「自然界の全てのものには、妖精が宿るといいます。山、川、太陽、月………花や植物も然りです」

 女が淡々と話す合間にも、次々と映像が切り替わる。

 山の妖精は肌のごつごつとしたずんぐりとした大男の姿、川の妖精は水を纏った切れ長の目をした優男、といったふうにそれぞれのイメージにあった妖精の姿が宙を舞う。

 最後に、親指程のサイズの、背に蝶の羽根が生えた可愛らしい双子の少女の姿が現れ、俺達の周りをはしゃぐように飛び回った。

 これが花の妖精、という訳だ。

「ところで王様は、妖精の死をご存知ですか。これらの妖精が「死ぬ」時とはどういうことを指すのだろうと考えたことはないでしょうか」

 女の声は疑問系だったが、どうせ何か返答を返しても会話が成り立たないということはわかりきっていたので、俺達は黙って聞いていた。

「「死」とは、妖精によってそれぞれ異なるものですが、花の妖精には二種類の例があります。まずは花が枯れること。これは妖精の命が尽きることを意味します」

 予想通り、俺達の返答を待たず女の説明は続いた。

 説明と同時に、花々が枯れ、緑の園が一瞬にして茶色く染まる映像が流れる。

 なかなかショッキングな光景だ。

「もうひとつは花を「摘んで」しまうこと。地面から切り離された花は序々にその命を短く、細くし、すぐに枯れることから、大昔には摘む=死を意味すると考えられていました。ところが」

 周りの場面がパッと切り替わる。

 ここは、何処かの部屋の中の光景のようだ。

 ちょうどこの島にあるような古風な佇まいで、殺風景な部屋に出窓がひとつ。

 お世辞にも、一見して綺麗な家とはいえない場所だった。

「むかし、花の妖精に恋をした男がいました。男は妖精を自分の手元に置いておきたいと思い、妖精もまた、何時までも男の側で暮らしたいと考えていました。それが叶わぬ願いと知っていながら、お互いは切にそう想いあっていたのです。ある日、とうとう妖精が男に言いました。

『どうか私を摘んで下さい。短い間でもいい、あなたの側に居てあなたの暮らしを見てみたい。』

 男は金物屋でした。

 金物を扱う仕事のことをあまりにも楽しそうに話すので、一度でいいから側でそれを見てみたいと、妖精は望んだのです。男は戸惑います。楽しそうに話したのは、自分に話せる話題がそれしかないからであり、その話を真剣に聞いてくれるのが妖精しか居なかったからです。もし摘んだら、たった一日しか生きられない妖精。愛する彼女の命を犠牲にするには、あまりにも無謀な願いでした」


 殺風景な部屋には、いつの間にか大きな釜のようなものが置いてあり、何に使うのかはよくわからない細々とした道具が処狭しと並べられていた。

 なるほど、これらはきっと「金物」とやらを作るのに使う道具なのだろう。


「ところが、妖精があまりにも懇願するので男はとうとうその願いを聞き入れてしまいます。妖精の側でたった一日だけ暮らす、それだけの願いの為に、おろかにも尊いその命を犠牲にする覚悟を決めたのです。ですが、ああ、その一日のなんと幸せだったことか。

 男が何時も通り金物を打つ横で、コップに生けられた花の妖精は幸せそうにそれを見つめます。この時が永遠に続くことを願いながら、そしてそれが叶わぬ願いと知りながら、男は朝まで金を打ち続けました」

 やがて、ひとつしかない出窓から部屋の中に朝日が差す。

 コップに生けられた一輪の白い花が序々にしおれてゆき、花びらを一枚、また一枚と床に落としはじめた。


「朝になり、妖精の命の光は消えかかっていました。妖精はありがとう、あなたと過ごせた時間は幸せだった、と小さな声で呟いて、横たわり、ゆっくりと目を閉じます。男は、こちらこそありがとう、と大粒の涙を流しました。そして、つい今しがた完成した銀のティーポットに、枯れかかってる花を生けたのです。妖精への愛情が篭った、この世にたった一つしかないティーポットでした」

 丹精な細工の妖精の飾りがついたティーポットに、枯れた花がそっと生けられた。


 待てよ、このティーポットどこかでみたことがあるな。

 俺が見たのは確かもう少し大きかったはずだが………一体どこでだろう。


「すると、なんということでしょう。枯れていたはずの花が、みるみるうちに生気を取り戻したではありませんか。やがて、弱々しく倒れていた妖精も目を開けました。男は、驚き、涙を流して喜びました。ティーポットに籠められた愛の力が奇跡を起こしたのです。

 それからというもの、男は窓辺に花が生けられたティーポットを置き、妖精が見守る中末永く金物を打って暮らしましたとさ。

 めでたし、めでたし」

 そう女が言い終えると、部屋の中が元の広々とした空間に戻った。

 まあ、どこにでもありそうな説話だが………これが切花の妖精とやらの話なのだろうか。

「はい、これが切花の妖精の始まりの物語といわれています」


 一瞬、俺の心を見透かされたような錯覚を起こし驚いて『立体刺繍』の女性を見た。

 さっきとは表情が変わっている。

 笑顔のままで喋る様子が、少し怖い。


「このように人間の手によって摘まれ、根から切り離した花に宿る妖精を、切花の妖精といいます。育てるには、金物屋の男のように大きな愛情や、強い信念が必要です。最後までお話を聞いてもらったお礼に、王様たちには切花の妖精が宿るといわれている種をひとつ差し上げましょう。うまく花が咲いたら、きっとお二人ににとって良いことがあります。どうぞ、大切に育てて下さいね。それではおやすみなさい、王様。良い夢を」

 女の姿をした『立体刺繍』が薄くなり、スーッと消えてゆく。

 これで「王様の夜話」は終わりなのだろうか、ベッドの上に取り残された俺達は思わず顔を見合わせた。

「………種とか言ってなかったか?」

「もしかして、これでしょうか」

 『立体刺繍』が在った場所にぽつん、と黒いものが置かれていた。

 ミユキが興味深そうに手を取り、覗き込む。

 が、はっとしたように身を強張らせ、同時に手の中のものが床に音をたてて転がり落ちた。

「おい、どうしたんだよ?」

「すみません………なにか………」

 何時にないミユキの動揺ぶりを不思議に思いながらも、ベッドから降りて床に落ちた種のようなものをを拾い上げた。

 それは小指程の大きさの、石のような形をした代物だった。

 少し緑がかった暗い青色をしており、見方によっては銀色にも見えなくはない。

「不思議な色だな、これが種なのか?」

「そのようですね、妖精が宿っているかどうかは知りませんが」

 気を取り直したように、ミユキが俺の横から覗き込む。

 なんとも言えない表情で俺の手の中のものを見つめていた。


「どうした、ミユキ」

「いえ、気のせいです」

 何が気のせいなのかもわからなかったが、俺はそうか、と言っただけでそれ以上は追求しなかった。

 ミユキが喋りたくないことは、俺にとって聞く必要のないことなのだ。

『お疲れ様でした、お帰りはあちらです』

 突然機械的な声が周りに鳴り響き、入り口とは反対側の壁にあるドアがゆっくりと開いた。

 俺は当初の目的を思い出し、種とやらを再びまじまじと見つめる。

「で、これをどうしろってんだよ?」

「王様の夜話」を出て俺達は南に歩を進めていた。

 時折島の人間から声をかけられるが、ミユキが得意の無表情かつ優しい声色で適当にあしらっていた。

 そうこうしているうちに、この島の人口がかなり少ないことに気付く。

 恐らくカタコンベの「地上」に住むアフ・プチ達よりも少ないのではないだろうか。

 ふと、エミリオからもらった紙束を見つめていたミユキが納得したような素振りで顔を上げた。

「どうやら「ツアー」はこの島を時計回りに一周するようにできているようです。

 先ほど行った東の「王様の夜話」から始まり次はここ、南の『アラーニャの館』という場所に行くよう書かれています」

 紙束に描かれた、遊園地全体の地図を俺に見せる。

 なるほど、ご丁寧に地図に描かれた建物や乗り物に番号が振られ、順番どおりに回るようにとの注意書きまで添えてある。

 番号が振られたものは全部で四つ、それぞれ東西南北に配置してあるようだ。

 うち、ひとつは先程立ち寄ったので残るはあと三つ。

「これらを回って切花の妖精の物語を完成させるのが目的のようです。

「種」のようにそれぞれの場所にでキーアイテムがあるらしく、それらを集めて北のここ………銀幕『タングステン』という場所に辿りつくと何か起こるそうですね」

「待てよ、切花の妖精の話っつーのはさっきので終わりじゃねえの?」

「さあ………完結しているようには見えますが、先程のは「始まりの物語」だとあの『立体刺繍』も言っていましたからね、まだ何かあるのでは?」

 ふうん、と返事をしながら俺は紙束をパラパラと捲る。

 他のページには遊園地の案内等が書かれている。

 ふと、目に留まったカボチャの形をした建物は間違いなくエミリオのレストランだ。

 案内文には、「野菜畑は大騒ぎ」というタイトルが文頭におかれ、野菜を好き嫌いをした子供たちに怒った野菜たちが大暴れ………等という内容が書かれていた。

 どうやら大暴れしているのはカボチャだけではなかったらしい。

 俺は思わず苦笑いを浮かべつつも、他の案内文にも視線を泳がせる。

 『生と死の天井』というあまり遊園地に似つかわしくない単語が目に留まり、気になって場所を調べてみて、少し驚く。

 トスカが乗りたがっていたあの「観覧車」だ。

 咄嗟に案内文に視線を走らせるが、特に何も書いてなかった。

 カルーセルなどの一目瞭然な乗り物には案内文がついていないので当然といえば当然かもしれないが。

「どうしました?」

 真剣な表情で紙を見詰める俺に、ミユキが不思議そうに尋ねた。

「いや、ちょっと気になったことがあったんだが、なんでもねェよ」

 そのまま紙束をミユキの方に放り投げる。

「乱暴にしないでくださいよ」

 やれやれ、と呟きながらミユキが紙束を閉じているのを見て、思わずおい、と声を出してしまった。

「なんです?」

「なんだよその絵」

 紙束の表紙に書かれた不気味な絵をまじまじと見詰めた。

 痩せてガリガリの身体をした、男とも女とも似つかない全裸の、人型をしたもの。

 耳元まで裂けた三日月形の口元が弧を描いて笑い、本来目があるはずの部分に目玉はなく、樹のうろのような大きな穴がぽっかりとふたつ開いていた。

 更に不気味なのは身体の色で、無造作に跳ね上がった髪の毛から足の先に至るまで銀色をしていた。

 背には四枚の蝶のような羽根が生え、まるで妖精のようだ。

「これが切花の妖精なのではないでしょうか」

「まあ、そうなんだろうが………あんな説話にこんな不気味な絵でいいのかよ」

「説話とは大抵そういうものですよ、古代人の美的センスというものもありますしね」

 確かに、この遊園地はいまいち理解できないセンスのものが多いが………

 まあいいか、と肩を竦める。ツアーに関してはあくまで島のことを知るのが目的で、絵がどうこうの問題ではない。

 他愛もない会話をして歩いているうちに、急に周りが暗くなったことに気付く。

 さっきまでは明るかったはずなので奇妙に思い、俺は反射的に顔を上げる。

 そこにはカタコンベでは見られない、美しい天然の空が広がって………はいなかった。

「なんだありゃ………」

 俺達の目の前には大きな繭のような、幾重にも細い糸が連なってできた白い塊が鎮座していた。

 あまりの大きさに周りの地面や建物は影で覆いつくされ、俺達はいつの間にかその真下に居たようだ。

「アラーニャの館、ここですね」

 白い繭の表面にでかでかと書かれた文字を読み、ミユキが淡々とした声で言う。

 どうやら、妖精の絵に相次ぎまた美的センスの理解できないものが俺の前に現れたようだ。

「まさか、この中に入るのか………?」

「それ以外に考えられませんね、恐らくあれが入り口でしょう」

 ミユキが示した繭の表面には、人一人分の大きさの、無理矢理こじ開けたようないびつな形の穴が開いていた。

「気持ちわりィな………」

 素直な感想が口をついて出る。

 が、所詮は遊園地。ここにあるものの全ては子供だましだ。

 気は進まなかったが、平然とした様子のミユキの後に続き、俺は繭の中へと脚を踏み入れた。

 ぐにゃりとした、思った通りの床の感触に思わず苦笑いする。

 糸で覆われた壁や天井が微かに脈打ち、繭の中はまるで生き物の体内のようだった。

 心なしか、外より湿気の量が多い気もする。

 余計な妄想をしてぞっとしていると、先導していたミユキがこちらを振り向いてにやりと笑った。

「おれはこういうの、嫌いじゃないですね」

 ………だろうな。

 探究心旺盛なミユキにとっては、この繭に限らず島全体が興味の対象だろう。

 勿論俺もそうではあるのだが………

 生まれてから今まで隔離された世界で育ってきた俺にとって、外の世界は興味半分、恐怖半分といったところだ。

 施設の中で資料や、コンブリオミシンによる仮想映像を見たりするのとは訳が違う。

 何せ本物を自分の目で見て、歩き、肌で感じているのだから。

 そうか………これらを積極的に行うことによって自我が育ってゆくのかもしれないな。

 生き生きとした表情のミユキを横目に、俺は妙に納得してしまうのだった。

 ぶよぶよとして歩きにくい回廊のような場所を暫く道なりに進むと、ごうん、ごうん、という微かな機械音が聞こてきた。

 行く手に開けた場所が見え隠れし、音はどうやらそこから聞こえてくるようだ。

 だが、実際辿りついてみるとさほど開けた場所でもなく、さしずめ広い廊下といったところだった。

 廊下の先は行き止まりで、どうしたものかと俺達が考えていると、ごうん ごうん という音がよりいっそう大きくなった。

「さっきから何の音だ?」

 音は、頭上から聞こえてくる。

 反射的に顔を上げると、天井の一部だけくり貫かれたように吹きぬけになっていた。

 暗すぎるため、いくら目をこらしても上に何があるかはわからないが、音がする以上「何か」があることは確かだ。

 生理的にあまり好ましくない場所なだけに、「何か」を気色の悪いものと想像してしまった俺はぞっと身を震わせる。

「あれを」

 俺の気持ちとは裏腹に、どこか楽しそうな声でミユキが天井を指差した先に、白いものがゆっくりとこちらへ向かって降りてくるのが見えた。


 ごうん ごうん ごうん ごうん


 という音と共に、初めは白い点だったものが序々にその姿を現しはじめた。


 ーーブランコだ。


 蜘蛛の巣を模したブランコのような乗り物が、吹き抜けになった天井から降りてくる。


 やがてがこん、という音をたててブランコが俺達の目の前で停止する。

 あれだけうるさかった部屋が急に静まり返った途端、嫌な予感がしてミユキの方をちらりと見た。

「乗ってみましょう」


 ………やはりか。


 何せ入り口からここまで一本道だ、先に進むには当然これに乗るしかないのだろう。

 あまり気は進まなかったが、蜘蛛の巣を物珍しげに触るミユキを両手で持ち上げ、俺の膝の上に乗せつつブランコに腰掛けた。

 小さいブランコだ、二人で横並びにはとても座れるものではないだろう。

 ミユキは俺の膝の上で驚いたように顔を仰ぎ、どうも、と小さく呟いた。

 皮肉っぽい笑みを返した途端、急にまたあのごうん ごうん という音が辺りに響き、俺達を乗せたブランコが上昇しはじめた。

 咄嗟にブランコの取っ手を掴むも、そのねばねばした、まさに蜘蛛の巣のような感触にげんなりする。


 ブランコは序々にスピードを上げながら、ぐんぐん上昇していった。

 生暖かい風が俺達の顔の真横を通り過ぎ、思わず顔を伏せる。

 そして、次に顔を上げた瞬間にははまばゆい光が一斉に飛び込んできた。


 がこん


 ブランコが突然上昇をやめ、今度は光のある方へと前進をはじめた。

 一体、俺達をどこへ運ぼうとしているのだろうか。

 その疑問を口にしようと思った時、「いらっしゃいませ」という複数の声が何処からともなく聞こえてきた。

 俺達は慌てて周りを見渡すが、誰もいない。

「上ですよ、お客様」

 タイミングを計ったかのように声がかけられ、見上げたそこにはとても人とは言いがたい生き物がいた。

 黄、黒のまだら模様の、細かい毛がびっしりと生えた身体に、二つの関節を持った、同じくまだら模様の針金のような手脚が九本。

 首から上こそ人のそれだが、良く見れば複眼で、大きさは顔の半分以上だった。

 それが、天井に張り付いて俺達のことを見下ろしている。

「蜘蛛………」

 俺の呟きに、膝の上のミユキが、そのようですね、と囁くように返す。

「正しくは蜘蛛のような生き物、でしょう。まあこれも『立体刺繍』ですから………さしずめ蜘蛛の妖精みたいなものを表現したのではないでしょうか」

「あまりいい趣味とはいえないがな………」

 この繭のような館といい、蜘蛛人間といい、ますます古代人のセンスに疑問を持ってしまう俺だ。

「アラーニャ様の館へようこそ」

「ようこそ」

「こそ」

 天井に蜘蛛人間は全部で三匹居て、まるで不協和音のように同じことを別のタイミングで喋っている。

 よく見れば三匹とも顔のつくりが違うので、かろうじて見分けることだけはできた。

「ご用件はなんでしょうか」

「しょうか」

「うか」

「切花の妖精について伺いたいのですが」

 すかさずミユキが答える。

 蜘蛛人間達は顔を見合わせた。恐らく、そういう仕様なのだろう。

「いいでしょう」

「でしょう」

「しょう」

 シャカシャカという音をたてて蜘蛛人間達が天井を這い回る。

 うち、リーダーとおぼしき一匹がおもむろに口から粘着力のある糸を吐き、吐いた糸を足場にしつつ俺達の側にやってきた。

 あまり直視はしたくない光景だ………

 次に何をするのかと思えば、吐いた糸と俺達の乗っているブランコ(おそらくこれも糸と同じものでできてるのだろう)を括りつけ、括りつけた方とは反対の糸の先を器用な手つきで伸ばし、細かい毛のびっしり生えた自らの身体に巻き始める。

 成程………こうやって俺達を引っ張り、何処かへ移動させるつもりか。

 と、ここで気付いたのだが、俺達の乗っているブランコは紛れもなく本物だが蜘蛛人間が今身体に巻きつけている糸は『立体刺繍』による仮想のものではないか。

 そのことをミユキに囁くように話すと、そうですね、と感心したように頷いた。

「古代の立体刺繍の限界に挑戦した演出だと思いますよ。実際は………ホラ上を見て下さい、何のこともない、只の歯車でこのブランコを引っ張っているんです」

 言われたとおりに上を見上げると、白い繭の天井の隙間に、大きな歯車が見え隠れしていた。

 ごうん ごうん という響くような音は、歯車が擦れ合う音だったのだ。

「主人の元へご案内します」

「します」

「ます」

 彼らが言うや否や、天井の歯車がいっせいに回る。

 あくまで蜘蛛人間に「引っ張ってもらっている」という演出に合わせて、ブランコは上がるのではなく、ゆっくりと前進しはじめた。

 蜘蛛人間の後ろ姿を眺めながら暫く進むうちに、ふいに俺達の周りを小さな虫のようなものが横切った。

「何だ?」

 ざ ざざ ざざざ

 一匹………二匹、三匹と、ブランコが前進するにつれて虫の数が増えてゆく。

 耳元でする不快な羽音に思わず顔を顰め、手で追い払う仕草をして、気付く。

「ミユキ、見ろ。この虫」

「切花の妖精、ですね………」

 痩せた身体に樹のうろのような大きな空洞の目、背には蝶のような羽根が四枚。

 あの紙束の表紙に描かれたイラストとそっくりな切花の妖精が、俺達の周りをせわしなく飛び交っていた。

 時折目が合うと、三日月型の口元をほころばせ、にいっと笑う。

 その数はもはや数え切れないまでに膨れ上がり、羽音のせいで歯車の音も、俺達の話し声さえもかき消されてしまうほどだ。

「おい!どうなってんだよコレ」

 俺は大声で三匹の蜘蛛人間達に呼びかけるが、聞こえないのか、ただ黙々と俺達を乗せたブランコを運び続ける。

「無駄でしょう、おそらく彼らはおれたちの質問に答えるようにできてはいません」

「妖精については、その主人のみぞ知るっつー設定か?」

 まあそういうことです、とミユキは半眼で頷いた。

 やがてブランコは、大きなドーム型の部屋に入り、その入り口付近で止まった。

 脈打つ壁で覆われたドーム内は、奥が暗くてよく見えない。

 足場のない感覚に俺はブランコの上で身じろぎしながらも、これから何が起こるのかと、期待と不安が入り混じった気持ちで部屋の奥を見つめた。

 蜘蛛人間の一匹は、ブランコを引っ張っていた糸を身体から解き、俺達の方を向き直った。

「アラーニャ様がお見えです」

「お見えです」

「です」

 ぼんやりとした光が部屋の中全体を包み、奥の方がはっきりと見えてくる。


 ぶぶ ぶぶ ざざざざ ざざ


 点、点 点 点………


 点のようなものが黒だかりになって部屋の中を飛び回っている。


 さっきとは比べ物にならないほどの妖精の数だ。

 そして、妖精達をまるで身に纏うかのようにドーム型の天井に張り付いている大きな影。

 俺達を案内した蜘蛛人間のゆうに五倍くらいはある。

 ふたつの大きな目玉をぎょろりとこちらに向け、九本の脚をゆらめかせた、大きな大きな蜘蛛人間。

「我はアラーニャ。喜びて迎ふ、人間たち」

 黒く、艶やかな長い髪を振り乱し、甲高い声で言った。

 見たところ性別がわからないのは、他の蜘蛛人間達と同様だ。

「おれたちは………」

 ミユキが口を開きかけると、わかっている、とアラーニャが遮った。

「これらの小さき者につきてゆかしからむ」

 アラーニャは首をぐるりと巡らせ、妖精達を見回した。

 会話が成り立つシステムでないと判断したのかミユキは押し黙り、相手が喋るのを待った。

「奇跡を驚かししかぢの物語は汝たちも知っている通り」

 予想通り、アラーニャは一方的に話し出す。古い言葉の入り混じった喋りだ。

「かぢ………?」

「あの金物屋の男のことですね、つまり「王様の夜話」で聞いた話は知っているだろう、と言っています」

 ミユキが俺の膝の上で丁寧に翻訳してくれる。

 古語はカタコンベの施設に居た時にカリキュラムとして教えられたが、こう入り乱れていると単語を聞き取るのが精一杯だ。

「かぢの愛しし切花の妖精は種を産みき。その種よりまた小さき者が産まれ、これを繰り返す」

「金物屋の愛した切花の妖精は、種を産んだのだそうです。おそらく、花が種をつけるのと同じようなものなのでしょうが………。これらの種からまた切花の妖精が生まれ、それが繰り返され、増殖したと言っていますね」

 俺達の周りを飛び回る切花の妖精を見ながら、ミユキはしみじみと言った。

「これらの小さき者たちは、人が望むかげをまねびて生まれてくる」

 これは俺にもなんとなくだが理解できた。

 つまり、切花の妖精は人間が望む人物の姿を真似るということだ。

「我らはめづる者を食ぶる習性がある、習性といへどあはれがる。なれば小さき者の種を作る。ここら作る」

 アラーニャは愛おしげに目を細めたが、俺には言葉の意味がよく理解できなかった。

「めづる者」とは一体何のことだろうか。

 反応できずに困っていると、それに気付いたミユキが翻訳を再開した。

「彼らは愛する人を食べる種族なのだそうです、なので食べた人の代わりを切花の妖精を望むままに育てて補っていると」

 さしずめ、とミユキは続ける。

「金物屋の男の話は子供向け、こちらはそれを大人向けに改変した説話、というところなんでしょう」

「そういえばカタコンベにもあったな、そういうヤツ」

「そうですね、もっとも、向こうでは逆の場合が多かったですが。改変されたのは子供向けの方で、実際はなかなかグロテスクな内容のものが数多く」

「コレもそうかもしれねェぜ?」

「子供向けの遊園地ですからね、むしろこちらが派生したものと考えた方が良いのでは」

 などと俺達がボソボソ喋っている間にも、アラーニャはまだ何事かを朗々と語っていた。

「………故に人間は我々にとりていとせちなるものなり」

 俺達は話を中断して顔を上げた。

 というのも、今まで微動だにしなかった例の三匹の蜘蛛人間たちが天井を這ってこちらにやってきたからだ。

「何だ?」

 ブランコを引っ張っていたリーダーとおぼしき一匹が、俺に向かって小さな透明のビンにはいった液体を差し出す。

「これが今回のキーアイテムでしょう」

 言うや否や、俺の代わりにミユキが手を伸ばして受け取った。

 なるほどなァ、と感心しながらミユキが受け取ったビンをしげしげと見詰めた。

 一体今度はなんだというんだ。

「先ほどアラーニャは何と言いましたっけ、人間がなにかとても大切であると………?」

「は?どういう意味だよ、それと何の関係………が………」

 そう言いかけて俺は固まった。

 ドーム型の部屋の中が何時の間にか先ほどより明るくなっていて、アラーニャの大きく波打つまだら模様がはっきりと見えた。

 そしてその後ろ、黒だかりになっている切花の妖精たちの更に向こうに、まるで貯蔵庫に解体された肉が吊るされているかのように、大勢の人間が天井から蜘蛛の糸に吊るされていた。

 死んではいないようだったが、痩せこけ、目はうつろ。何かを訴えるように全員がこちらを見詰めている。

「テオドール、周りを」

 落ち着いたミユキの声とはうらはらに、俺達のすぐ隣にも直視しがたい光景が広がっていた。

 天井を埋め尽くすまだら まだら まだら模様の数。

 ひときわ大きいアラーニャを真ん中に、一体何処から湧いてきたのかという程の量の蜘蛛人間達が天井を覆っていた。

 切花の妖精達に至っては何がそんなに楽しいのか、三日月型の口元をほころばせ、俺達を取り囲んでいる。


 ぶ ぶ ぶぶぶ 

 しゃか しゃかしゃか しゃか


 それらはブランコの上で身動きの取れない俺達に近づき、全員で取り押さえようとしている。

 微かな期待と、絶望の入り混じった目でこちらを見ている、糸で吊るされた人間達と同じようにするために。


 近づいてくる 近づいてくる


 俺は思わず膝の上に座っているミユキの肩を力強く握った。

「これも『立体刺繍』ですよ」

 ミユキのその台詞を今日何回聞いただろうか。

 はっとした瞬間に、どこからともなく機械的な声が鳴り響いた。

『お疲れ様でした、お帰りはあちらです』


 ひんやりとしたティーカップの中で、俺は情けないうめき声を上げた。

 あまりの気分の悪さに目を閉じると、切花の妖精の残像が浮かんでは、消え、浮かんでは消える。

 うんざりだ。

「吐いてしまった方がラクですよ」

 遠くでミユキの声が聞こえる。

 少なくとも俺のことは大して心配していない。

 他に興味をそそられるものがあるような、そんな、うわの空の時の声だ。

『アラーニャの館』から北へ、島の西側に位置する三つめのツアー地点である『招かれざる客』という場所には人が数人入れるよう大きなティーカップとソーサーがごろごろと六客地面に置いてあった。

 まさに「ごろごろ」という形容がふさわしい不規則な並びで置いてある巨大なティーカップたちは、もう何年もの間洗うのを忘れられて放置されている食器さながらだった。

 少し前まで散々インパクトの強いものを見させられたせいか、これには拍子抜けだったが内心ホッとしたのも事実だ。

 所詮は子供だましのようなものだと、例の妖精が表紙に描いてある紙束に書いてあった通りにティーカップに乗り込んだ俺達だがその数分後に後悔することになる。

 無造作に置いてあったティーカップは俺達が乗った途端に動き出し………、とここまでは予想の範疇だったのだが、その後一定の間隔で隊列のようなものをつくり、もの凄いスピードで回転しはじめたのだ。

 いったん隊列を作ったのはどうやら回転している最中に横のティーカップとぶつからないようにするためだったらしく、そこは妙に感心してしまったのだが、すぐにそんなことすら考えてもいられなくなるほどの吐き気と眩暈に襲われた。

 おまけにお決まりのように、『立体刺繍』の切花の妖精が辺り一面を飛び回るので、具合の悪さに拍車がかかった。

 それで何があるのかといえばそれ以上は何事も起こらず、後はただ序々に回転が遅くなるティーカップが完全に停止するのを心から待つばかりだった。

 回転する前と同じように不規則な並びで停止したティーカップの中でグッタリとしている俺を尻目に、ミユキはさっさと降りてしまった。

 小さな身体にも関わらず、つくづく丈夫だ。

「近くに三つ目のキーアイテムがある筈ですから」

 と言い、ちょこまかと辺りをうろついてた様子だったが、暫くして急に大人しくなったのできっと何かを見つけたのだろう。

 俺は重たい身体をのろのろと起こした。

 確かに吐き気はするが、回っている時よりかは幾分かいい。

 よっ、と口にしながら淵を滑るようにしてティーカップから降り、ソーサーに脚をかけつつなんとか立ち上がった。

「大丈夫なんですか?」

 ミユキは六客のティーカップが無造作に置かれた、丁度真ん中らへんにしゃがみ込んでいた。

「ああ、なんとか」

 俺はぶっきたぼうに答えた。

 目がまだチカチカとするが、『立体刺繍』はとっくに消えている。これは残像だ。

「歩けそうならこちらに来て見て下さい」

「何かあったのか?」

 俺はよろよろと歩き、しゃがんだまま床に真剣に目線を注いでいるミユキのところまで行った。


「来た時は見えなかったのでティーカップが回転したことによって現れたんだと思いますが………」

「なに?」

 ミユキが覗き込んでいるひび割れた床には、細かい文字でびっしりと何事か刻まれていた。

 なるほど、よく見れば無造作といえどティーカップの位置が来た時とは変わっている気がする。

 つまりはその為の回転だったのだ。

 ならばわざわざ乗らなくても良かったのでは、と思ったが、乗らなければ動かない仕組みだったのだということに改めて気付く。

 ため息を落としつつ、何て書いてある?とミユキに尋ねた。

「………何かの注意書きですね。おそらくは、切花の妖精に関しての」

 次にミユキが読み上げた事柄はこうだった。


『「それ」に名前をつけてはいけない。

「それ」はありとあらゆる生物の中で一番人間に近い。

 しかし「それ」は人間ではない。


 見た目は普通の種子とそう変わらない。

 つやっぽく、一見石のようにも見える。

 先は黒く、表面は鈍い銀色。


 種子は固い土に埋めて日の当たらない場所に置いておく。

 晴れた日は家の中に隠し、曇りの日に外へ出して少しだけ水をやる。

 一週間後に銀色の芽が出たら水はやらずに毎日話しかける。

 親が赤ん坊に言葉を教えるように発音よくゆっくりと。

 一ヶ月後、それが「形」を成してきたら根元から静かに引き抜く。

 根っ子はやがて枯れ落ちるので無闇に切らないこと。


 成長後の注意点を簡単に挙げておく。


 一、「形」になってもそれを無闇に太陽の下に出してはならない。


 二、それに見かえりを求めてはいけない。それは決して育てた人間に恩を返さない。


 三、それが何処へ行こうとも後を追ってはならない。それの好きなようにさせること。


 四、それを生物学上のカテゴリに当てはめてはならない。

 それには人権もないし、また法律も関与しない。


 五、それに名前をつけてはならない。

 名前を与えることにより、情が移るからである。』


 俺は暫く黙想した。

 おそらく、ミユキも同じことを考えているのだろう。


「………………………なあ、これ」

「ええ、不思議ですね」


 小さな指先で、もう一度熟読するようにミユキが数字の振られた注意書きを辿る。


 一

 二

 三

 四………


 五番の項目で手を止めた。


「『研究所』共通の、検体に対する鉄則です」


 それが動物であれ、ヒトであれ

 検体には名前を絶対につけてはならない。


「テオドール」

 それでもミユキは俺の名前を呼んだ。

 はじめは、何故そう呼ぶのかと尋ねた。


『良いことを教えましょう。』


 俺は、かつてミユキが言った言葉を準えるように頭の中で反芻した。


 ヒトは名前で呼ばれることによって、他の何者でもない唯一無二のものになれるのです。

 他の検体に名前はないでしょう

 だからあなたは おれが名前をつけたあなたは この研究所で誰よりも特別な素晴らしい存在なんです

 でも、今は胸に閉まって 他の科学者達に気付かれないように

 もし辛いことがあっても、自分は特別なんだと思い出して下さい そして


 そのことを誇りに生きなさいーー


 検体に情をかければかける程、辛い目に合うのは「かけた側」だ。

 そこまでのリスクを犯してミユキが俺に尽くしてくれたのは、彼もまた記憶の欠落によってどうしようもない孤独を抱えていたからかもしれない。


「この遊園地は、一体なんの為に作られたんでしょう」

 ポツリ、と漏らしたミユキの疑問に俺は答えてやることができなかった。

 切花の妖精と、検体の俺。

 床に書いてある説明によれば互いに人権もなく、法律もない、何より生まれた時から名前がない。

 架空のものと自分を比較するのもおかしな話だが、まったくの無関係とはもはや思えないでいた。


「目的がイコール結果ではない」

 突如、背後から声がした。

 ふいをつかれたように俺達が振り向くと、車椅子にのった男がポツンとそこに居た。

 イアンだ。

 今朝も遠くから俺達のことを見ていた奇妙な男。

 昨日のことも相成ってか俺は思わず警戒の色を見せるが、相手がそれを素早く察したのか、争う気はないと言わんばかりに両手を広げて見せた。

「どういう意味です?」

 ミユキが鋭く尋ねる。

「そのままの意味だ、よく考えてみろ」

「何の用だ、イアン」

 ふいに黙りこくったミユキの代わりに、俺が尋ねる。

「名乗った覚えはないが………そうか、トスカから聞いたのか」

 一人で納得する相手に、俺はああ、とだけ短く答えた。

「トスカを捜している、今朝出て行ったきり帰ってきていない」

 俺は片方の眉を上げて、相手を見た。

 何故そんなことを俺達にわざわざ聞くのだろうか。

 昨晩、イアンはエミリオがトスカを引き取りたいと言ったことに反対したと聞いたことを思い出す。

 それでエミリオと疎遠になったということも。

「エミリオが預かってるんじゃないかって?」

 単刀直入に聞くと、イアンは意外そうな顔をした。

「どこまで知っているんだ」

「さァ、少なくともお前さんがエミリオを良く思ってないことだけは。例えそうだとしてもエミリオはトスカのことを取って食う訳じゃねェだろ」

「そうかもしれんし、そうでないかもしれん」

 イアンの口調は至って真面目だった。

 一体何が言いたいのか、その表情からは読み取れない。

 俺が神妙そうな顔つきをしていると、イアンは車椅子の車輪に手をかけきしむ音と共にこちらへ近づいてきた。

「お前にとって何が最善なのか、俺には検討もつかん。だが、覚悟がないなら元居た場所へ引き返せ」

 お前もだ、とミユキの方を見た。

「おれたちには帰る場所はありません」

 ミユキは相手の腹の内を探るような目つきで、イアンを見詰め返す。

 やけに長い沈黙が続いた。

 先に根負けしたのはイアンの方だった。

 視線を逸らしたあと、ふいに口元に笑みを浮かべる様子に、俺達はますます困惑した。

 と、その時何処か遠くで呼び声がするのを聞いた。

 ーーーエミリオの声だ。


 途端にイアンの顔つきが険しいものになる。

「テディ………!イアンもここに居たのね」

 長い髪を乱し、息を切らせてこちらに走ってくる様子は、切羽詰まったものに見えた。

 イアンの名前を呼んだことに、俺の頭を不安が過ぎる。

「何を慌ててンだ?」

 はあ、はあ、と大きく肩で息をしながら立ち止まり、切れ切れにこう言った。

「トスカが『列車』の方に行ったって………みんなが………」

「なんだって………!」

 イアンが声を荒立てる。

 本能的に立ち上がろうとしたのだろう、ガタンという音を立てて車椅子が揺れた。

「『列車』?」

 事態がよく飲み込めない俺は、オウム返しに訪ねる。

「詳しく説明してる暇はないけれど、とても危険な場所よ」

「墓場だ………」

 イアンの顔は青ざめ、焦点が定まっていなかった。

 その表情から、とにかく一刻も争う状況なのだということだけ理解した。

「あたしはこれから『列車』へ向かうところよ。まずアナタに知らせておきたかったんだけど、家に居なかったから………でも、会えて良かったわ」

 エミリオがちらりとイアンを見る。

 イアンは複雑そうにああ、と答えた。

「よくわからんが、俺も行く。トスカが危ねェんだろ?」

 これにはエミリオとイアンの双方が驚いたようだった。

 危険な場所なのよ、ともう一度エミリオは忠告したが、俺は頑として譲らなかった。

 トスカがカタコンベから来た遭難者であり、イシュタムであった、という理由が俺の気持ちを押していた。


 元居た場所に居られなくなった者ーー帰る場所のない者ーー


 自分と同じ境遇の人間をこの状況では放っておけない。

「わかったわ………でも、できるだけあたしの側を離れないで」

 俺は力強く頷く。

「こんな身体だ、俺は行っても足手纏いなだけだろう。くれぐれもトスカをたのむ」

 イアンは俺の目を見て言った。

 エミリオの方をちらりとも見ようとしないのは、やはり彼との間に壁があるのだろう。

「任せておいて」

 そんなイアンの様子に気付いているかいないのか、エミリオはウインクを返し、行くわよ、と言って来た方向とは反対に駆け出した。

 俺も慌ててその後を追う。

 おれも行きます、と今まで無言だったミユキが、当然のように後を着いてきたが、ふいにその手をイアンが掴んだ。

 面くらったようにミユキが振り向き、俺も思わず脚を止めた。

「お前もそんな身体では危険だ」

 そう言って無遠慮にミユキのつぎはぎだらけの顔を見詰める。

「これは………」

 普段あまり表情を変えないミユキが、珍しく当惑したように自分の頬に手を当てた。

「ミユキ、イアンと残れ」

 確かにイアンの言うことも一理あるだろう。

 そんな危険な場所だとしたら、お世辞にも健康体と言えないミユキのことを、守りきれない可能性だってある。

 仮に無生物に変化したとしても、変化中は外界のことは一切わからなくなるらしいのでそもそも行く意味がない。

 ミユキは迷うように暫く視線を迷わせていたが、俺の真剣な表情を見て諦めたようにため息を吐いた。

「………………わかりました、くれぐれもお気をつけて」

 しぶしぶと承知したミユキを、安心させるように少し笑ってみせる。

 遠くで立ち止まってどうしたの、と叫んでるエミリオに何でもないことを告げると、俺は一目散に駆け出した。

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