2.鈍色の記憶
つぎはぎだらけの顔をこちらに向け微笑んだ彼の姿に、俺は安堵感でいっぱいになった。
「………ご無事で」
その言葉をそっくりそのまま返したいくらいだ。
だから、おめェもな、と言って笑った。
これが今朝の出来事ーーー
俺達は馬に跨っていた。
正しくは馬の人形なのだが………とにかく、ゴツゴツしていて座り心地が悪い。
「カルーセル」という看板がこの遊具の横に建っている。
電源を入れるとこの馬が動く仕組みだということは、安易に想像がついた。
なんとも単純だが、子供が喜びそうな代物だった。
「これは馬ですね」
ちっとも喜んでいない子供が、奇妙なものを見る目つきで人形に跨っていた。
「想像していたものより随分と小さい」
「わかんねェよ?こっちが子供用サイズに作られただけのモンかもしれねえし」
何しろ、大昔に絶滅したと言われている古代の生物だ。
本物の馬を俺達が知る由はない。
「ミユキ、身体の調子はどうだ」
「お陰様で何ともございません」
唐突な俺の質問に、澄ましたような、一見その幼い外見からは生意気そうにも見える様子で答えた少年ーー
名をミユキ、彼はこう見えても俺よりずっと歳を重ねている。
その証拠に、子供と言うにはあまりにも奇妙ないでたちをしていた。
青みがかった不思議な色の髪で顔を半分覆い隠し、その下からは更に奇妙な色をした皮膚が覗いていた。
よくよく見ればその皮膚は細かい断片に分かれ、そのひとつひとつが糸で縫い合わせてあることがわかる。いわゆる、つぎはぎの皮膚だ。
奇妙なのはそれだけではない。濃紺のケープですっぽりと全身を包み、手には分厚い手袋。恐らく身体も顔と同様、つぎはぎだらけなのだろう。
それを隠す為の配慮だということが伺えるが、今時こんな格好ではかえって目立つだけだ。
だが本人はそれをさして気にすることはなく、好奇の目を向けてこちらを見ている島の住人の様子をかえって面白がっているようなそぶりさえ見せた。この性格は、カタコンベに居る時から変わらない。
察しのとおり、彼は『イシュタム』であり、「研究員」でもあったらしい。らしい、というのは俺は研究員だった頃のミユキを知らないからだ。
聞いた話によるとミユキは一時期相当変わった研究員だったらしく、自らを被検体ーーつまり実験用の肉体として使用していた。
研究内容は「物質変換」またの名を錬金術ともいう。
古臭い内容の研究だった上に、変わった性格も祟ってか他のプロジェクトに携わるイシュタムからはまったく相手にされていなかったが、彼は数多くの研究を自らの肉体で成功させていた。
まずは「若返り」。
これについては遺伝子に手を加えるという無茶な手術を繰り返せば必ず成功するものだと言われ、興味を示す者は少なかった。
イシュタムの生における欲求は貪欲だが、なにしろリスクが大きすぎるため実行している人は極めて少ない。
そして「生物から無生物への変化」。
昨晩俺が身体から取り出した小石のようなものーーあれはミユキが自分の身体を無生物へと変換させたものだったのだ。
これには非常に多くの者が興味を示したらしいが、ミユキ以外の人間が成功した例はひとつもないという。
理由は大きく分けてふたつ。
ミユキは過去数年間行方不明になっていたことがあるらしい。
何の手がかりもなしに忽然と姿を消したそうだが、ある日突然ふらりと自分が住んでいた家に帰ってきた。更に驚くべきことは、帰ってきた時過去の記憶を一切なくしていた。
記憶の消失は自らを被検体として無理な実験を繰り返していた一時的な副作用であると言われているが、それから数年たった今でも彼の記憶は戻っていない。当然、突然行方不明になった理由もわからない。
ミユキが記憶をなくし、研究者としての知識も失ったので専門分野の研究を続けることが不可能になった。
これがまずひとつめの理由。
ふたつめは「生物から無生物への変化」の研究についての資料がひとつもミユキの研究室に残されていなかったこと。
残されていたとしても、記憶のないミユキにはそのありかがわからないということ。
記憶を取り戻させる為に、脳の手術を行おうとした者も居たようだがいくらなんでもこれ以上ミユキの身体に手を加えるのは危険と判断された。
例え「元」研究員であっても同じイシュタムを命の危険に晒すのは公式にはご法度だ。
このふたつの理由により、「生物から無生物への変化」の研究の成果は明るみに出ないまま彼の研究者としての人生は幕を閉じた。
身体は子供のまま、唯一できることは身体を石ころ程の大きさに変化させることだけ。
イシュタムでありその資格を失ったミユキに課せられた仕事は、被検体の世話だった。
通常被検体とはイシュタムより下層の階級の人間に与えられた役割なので、俺のようにイシュタムでありながら被検体と変わらない生活を強いられている者は機密事項であり、記憶のないミユキは世話係として適任とされた。
これが、俺とミユキの出会いだ。
二十年間俺の側で世話をしてくれた、いわば親のような存在。
そして、カルティキプロジェクトの研究機関からの脱走を促し俺の「容れ物」としての人生を変えた者ーー
「ミユキくん、だったかしら?」
声のした方に俺が顔を向けると、エミリオが「お待たせ」とこちらに手を振った。
「今朝は驚いたりして申し訳なかったわ」
エミリオはミユキと俺の双方に謝っているようだった。
「いえ」
ミユキのそっけない返事。
朝、ミユキを紹介するとエミリオは驚いて暫く固まっていた。
いきなり見知らぬ人間が自分の家に居るのと、この外見では無理もない。
だが、カタコンベでは彼のような人間は特に珍しくないと説明すると妙にあっさり納得してくれた。
最もエミリオは、この島に流れてきたソムニウム起動状態の人間を他にも見ている訳だから、小石ほどの大きさに姿を変える者が居てもさしておかしくないと思ったのかもしれない。
「しかしまあ、男二人でカルーセルなんて乗っちゃって………確かにここで待っていてとは言ったけれども」
飽きれたようなエミリオの様子に、俺ははっとして周りを見渡す。
どうやら、ギャラリーが集まって遠巻きに俺達を見ているようだった。
俺はとっさにカルーセルから降りる。
「馬が珍しかったもので」
「そういう問題じゃねェ気もするが………」
実はこれを気に入ったのかもしれないミユキが、なかなか降りようとする気配を見せないので半ば強引に馬上から引きおろした。
「馬は貴重な生き物だものねえ」
「ええ、絶滅種です」
ミユキはさらりと返したが、エミリオの言葉にはやや引っかかるものがあった。
「本物の馬を見たことがあるのか?」
「あるわよ?」
「『何処で?』」
俺とミユキがほぼ同時に尋ねる。
「ちょっと、二人ともそんな真剣にどうしたのよ」
「知的好奇心です」
俺はそーそー、と相槌を打つ。
「ええと………確か昔………」
エミリオはひとしきりウーンと唸った後肩を竦め
「ごめんなさい、忘れたわ」
ミユキが何か言いたげな視線を俺に送ってきたが、あとにしろ、と目で合図を送った。
俺達が静かになったのでエミリオは不思議そうにしていたが、やがて気まずくなったのかそうそう、それでね、と場を仕切りなおすように喋りはじめた。
「二人に待っていてもらったのは、これを取ってきていたからなのよ」
黄ばんだ紙の束をいつもながら強引に俺に渡す。
「何だ………?」
紐で括った紙の束の表紙に、「切花の妖精の物語」と書いてある。
これはまた、なんとも子供騙しなタイトルだが………
横からミユキが興味深そうに覗いているので、紙束を渡してやった。
「で、これがなンだ?」
「もう………テディもちゃんと見て頂戴」
男にもう………と拗ねた顔で言われてもちっとも嬉しくないので、あとでな、と軽くあしらった。
「レクリエーションの一貫ですね」
紙束をパラパラと捲りながら、ミユキ。
「そう、元はこの遊園地を一巡りする為のツアーイベント用のパンフなんだけれども、島の案内用に書き直したの。テディ、昨日はトスカに島を案内してもらっていないでしょう?」
「そんなことより、俺は昨日の話の続きを聞きたいんだが」
「ここのことが知りたいなら、まず自分で歩いて確かめるのが一番早いわよ」
その為にわざわざ引っ張り出してきたんだから、と紙束を指差す。
「確かに、ちょっと面白そうですよ」
ミユキが俺の方を見る。
二人がかりでそう言われては、折れるほかなかった。
わかったよ、と言うとエミリオは微笑んだ。
「良かった、久しぶりに島が生き返るわ」
「なに………」
俺が尋ねる間もなく、エミリオはカルーセルの屋根を支えてる支柱の一角を拳で思い切り叩いた。
支柱の表面がぱっくりと開き、漏斗のような形の管が勢いよく飛び出した。
それに向かって「リィ、お願い」と一言。
「管制装置………」
あれが?と言わんばかりの口調のミユキ。俺も同じ気持ちだ。
だが、次の瞬間突然地面が動き出したから堪らない。
慌てて側にある手近な馬にしがみつくも、なんと馬までもが上下に動いている始末だ。
ああ………思った通りの動きをするんだなと妙に感心してしていると、何処から共なく調子はずれな音楽が聞こえてきた。
成程、冷静に周りを見回すと今までぴくりとも動かなかった遊具らしきものが、このカルーセル同様調子はずれの、それでいて陽気な音楽を奏でながら動いている。
先程エミリオが言った「生き返る」という表現がまさにぴったりだった。
これがこの島の本来あるべき姿なのだろう。
「どう?」
気がつくとエミリオが俺の横に立っていた。
「ああ、驚いた」
「古代の神秘ですね………美しいです」
ちゃっかりと馬の上に乗っているミユキは、やはりカルーセルが気に入っていたようだった。
「『切花』かい?エミリオ」
先程居たギャラリーより更に多くなっている様子の人だかりから声がかかる。
「そうよ、久しぶりのお客様ですものね」
エミリオが返すと、「活気が出てなによりだ」と歓声が上がる。
「以前からこのようなことを?」
やっと馬から下りたミユキが尋ねる。
「ええ、普段から動かしても電力の無駄だし………それにこんなものが動いていては生活の邪魔にもなるしね。
でも、この島に人が来た時だけこうやって動かして歓迎イベントのようなものを開くの」
それが「『切花』ツアー」ってわけ、とエミリオが説明した。
「トスカが遊具を動かしたがっていたから、本当はあの子にやらせてあげたかったんだけど………昨日は色々あったし………今日は出かけているみたいで」
トスカと聞いて、あることを思い出す。
「観覧車」だ。
そもそも、トスカが遊具を動かしたかったのは観覧車のためなんじゃないか。
ふと、顔を昨日見た観覧車の見える山間の方に向ける。
やはり動いていない………
「どうしたの?」
急にキョロキョロしはじめたので、エミリオが不審に思ったのだろう。
「あれは動かねェの?あのでかいの」
俺は山間の方を指差した。
「ああ、観覧車ね?実はあれ、今は動かせないのよ」
「壊れたのか」
ううん、とエミリオは首を振る。
「ここら辺の遊具は殆どひとつの管制室でまとめて管理してるんだけれども、まれに個別で管理しなければならないものもあるのよね」
あれもそのひとつ、とエミリオは観覧車の方に視線を向ける。
「動かしたいのはやまやまなんだけれども、少し前から観覧車兼もろもろの管制室の鍵がひとつ、行方不明なの」
成程、トスカが言ってた「動かなくなった」とはそういうことだったのか。
「今度真剣に探しておくわ。まあ、今回はツアーとは関係ないから」
そんなに乗りたいの?と聞かれたので咄嗟にいいや、と答えてしまった。
トスカが乗りたがっていた、とはなんとなく切り出せず口を噤んでいると、出発しないの、と痺れを切らせエミリオが俺達を促しはじめる。
「エミリオ様は来ないのですか」
「ちょっと、エミリオでいいわよ。子供はそんなふうに遠慮しなくていいの」
「ミユキは子供じゃねェんだが」
俺のツッコミは聞こえなかったらしく、あたしはリィのサポートに回るから、と手を振りながら去って行ってしまった。
「どうすッか?」
「とりあえずここから離れましょう」
ギャラリーはまだぱらぱらと居る。
時折、興味深そうに話しかけてくる人をあしらいながら俺達はとりあえず人気のない場所へ移動することにした。
ミユキが先程紙束を見ていたようなので、恐らく島のだいたいの構造は把握したのだろう。
迷いのない彼の足取りに、俺は黙って着いて行った。
朝、ふと、人の気配に目を覚ます。
俺が眠るベッドの脇に、ミユキが腰掛けていた。
ああ、「無生物から生物への変換」が成功したのだ。
ミユキの身体は、度重なる肉体への負担故に限界を期していたので、これ以上の肉体変換は危険かもしれないと危惧していたのだった。
それなのに、よくも、まあ俺の体内で何日間も生き続けられたものだ。
汚染の海へ飛び込む前に、無生物化したミユキを最も安全だろう俺の体内に縫い込んでおいて本当に良かった
互いの無事をひとしきり喜んだ後、俺は昨日トスカと話したことや、エミリオとの会話、ヴァージニアのことを大まかにミユキに説明した。
彼がまず驚いていたのは、この島の汚染の少なさについてだった。
「信じられません、このような島が存在するなんて………」
これについては俺も昨日散々驚かされたので、そうだろう、と同意を示した。
「まァ、イアンの例があるから、安全とは言い切れないんだが………カタコンベよかマシだろ。清浄化できるモンならしてェがなあ………俺一人の力じゃ無理だな。人数を募らないと。あと発電所も確認してェな。聞いたところによると大分旧式らしいが………」
ここで思わず口を噤んだのは、ミユキが不審そうな目で俺を見ていたからだ。
「どうした?」
「テオドール、あなたは」
コンコン、という音にとっさに俺達はドアに視線を向ける。
「………?ドアの向こう側に人の気配がしますが、『百目』が作動していませんね」
昨日の俺とまったく同じ反応のミユキに、思わず苦笑いを浮かべる。
「テディ………?部屋に誰か居るの?」
「お邪魔しております」
ドアに向かって、礼儀正しく頭を下げるミユキ。
「ミユキ、『百目』はない。だからここで頭を下げても相手には見えねェよ………」
「今朝は驚きました」
開口一番、ミユキはそう言った。
ギャラリーを追い払い、俺達はカルーセルのあった島の中心地点から東の方に移動した。
満月を模した丸い建物の影で、一旦今後のことを打ち合わせすることにする。
建物には金の文字で「王様の夜話」と書かれてあり、エミリオから渡された紙束に記してあるツアーの第一ポイントでもあるらしい。
「あァ………『百目』のことな。あれは俺も驚いた」
文明水準の差だな、と感心しているとミユキ首を横に振る。
「そうではありません、おれが驚いたのはあなたのことですよテオドール」
「俺………?が、何かしたか?」
「この島を清浄化すると言いましたね」
そんなことを言っただろうか。
「ン、言ったかな………言ったかもしれねェ」
ちょっと待て、何かがおかしい。
「おかしいですよ、気付きませんか。何故あなたはこの島に居るんです?」
「それは………」
流されてきたからだ、この島の海岸に。
………何故流されたんだ?
海に飛び込んだのだ、それしか方法がなかった。
だが 何故 何故
「追われたんだ、アフ・プチ達に………」
『アフ・プチ』とはカタコンベではなく、地上………つまり最も汚染状況の酷い場所に住む一番身分の低い者達のことだ。
その大半はイシュタムを嫌悪しているため、万が一イシュタムが地上に出る場合があるとすれば、身分を隠すか護衛をつけるかをして厳重な警戒が必要だ。
着の身着のまま研究施設を飛び出した俺はそんな対策があるはずもなく、地上に出てから暫くして数人のアフ・プチに取り囲まれた。
イシュタムの身体に組み込まれた数多くの延命機器は、そのひとつひとつがアフ・プチ達の間で高額取引されている。
俺を捕まえてバラせば一生食物に困らないどころか、イシュタム並の財産を手にすることだってできるのだ。
現にそうやって資金を得て、下の階層に移り住むアフ・プチも居るらしい。
『おれの父は元々地上の人間だったんですよ。』
鈍色の壁に囲まれた、殺風景な部屋。
『カルティキプロジェクト』施設内の、カタコンベで唯一俺が存在を許されている場所でのこと。
今まで自分のことを一切話さなかったミユキが、唐突に俺にそう言ったのだ。
『記憶を取り戻す為、そして「下」から催促されている過去の研究成果を見つける為に、自宅に残っていたものを隅から隅まで調べました。そして………わかった唯一のことが、自分がアフ・プチの子供だという事実でした。おれの父は、イシュタムを誘拐した後延命機器を取り出して売買し、得たお金でのし上がった………いわゆる犯罪者だったのです。』
俺は、自分の部屋が常に監視されていことを知っていたので、そんな重大なことを俺に軽々しく話していいのかと尋ねた。
『三十分………いや、二十分だけこの部屋の監視網を解いてあります。時間がありません、黙って聞いて下さい』
驚いた俺は思わず声を上げそうになったが、ぐっと堪えて言われたとおりに口を噤んだ。
『ありがとう………、続きを話します。』
一呼吸置いてから、ミユキがまた話しはじめる。
『どうやらおれは生まれた時からアフ・プチの延命についての研究をするよう、父から教育されていたようです。勿論、公にはしませんでしたが。被検体に身分の低い人間を使用できなかったのも、そのせいがあったからでしょう。』
なるほど、今まで散々変わっていると噂されてきたミユキだが、そんな事情があったのなら無理もない。
俺は頷きだけを返す。
『記憶を失う前のおれが、イシュタムのことをどう思っていたのかはわかりません。ただ、父の入れ知恵もあってかあまり良くは思っていなかったのではないかと思います。現に、周りに「変人」と呼ばれることになった一端に、人を遠ざけて生活しているという理由がありましたから、できるだけ他のイシュタムと関わりたくなかったんでしょうね。』
ここまで調べていて、未だ記憶の取り戻せないミユキ。
それがミユキにとっていいことなのか、悪いことなのか、俺にはわからない。
『ですが、記憶を失いこの仕事に配属され、そして「カルティキの子供たち」と出会い、イシュタムであり、イシュタムでない者の存在を知りました。わかりますか?』
俺は再び頷いた。
イシュタムであり、イシュタムでない者の存在
最高の地位を与えられながら、個人としての価値を生まれた時から持っていない俺達のことだ。
『正直、その時おれは疲れていました。何故なら、自分のことを知れば知るほど後悔することになる。イシュタムでもない、アフ・プチでもない………挙句に記憶までもを失った、この世界にとっておれは非常に中途半端な存在であることに気付いたのです。しかしテオドール、貴方や他の子供達と出会ってからおれは自分が記憶を失ったことについて後悔したことは一度もありません。自分と同じく中途半端で、自分よりもずっと弱い存在の「カルティキの子供たち」。
心からあなた守れるのは、おれしかいないと思ったのです。記憶を失ったからこそ、自分の本当にやるべきことに出会えたのだと、そう思いました。』
俺は無言で泣いていた。泣きながら何度も頷いた。
もし、一般のイシュタムのように恵まれた人間だったら、「守る」などと言われてもピンと来ないだろう。
だが、俺達は悲しいことに誰かの力なくしては生きていけないミユキの言ったとおり「中途半端」な存在なのだ。
味方が居る、それだけでも嬉しかった。
それだけでも、俺達は生に対する希望が持てるのだ。
『検体ナンバーUMー二二四。あなたにつけられたこの番号は特別なものです。過去に偉業を残した研究員の中でも、最も重要な人物の遺伝子パターンがあなたに移植される手筈になっています。他の人物の遺伝子パターンを組み込まれた人間が、最終的にどうなるかご存知ですか?』
俺は首を振った。
知る筈がない、ここでは余計なことは一切知らされないことになっている。
『脳細胞が徐々に書き換えられ、あなたが、あなたではなくなります。テオドールという人物でありながら、まったく別の人間の思考を持ったものに生まれ変わるのです。』
それは薄々勘づいていたことだった。
むしろそうでなくては俺達が生かされている意味がないのではないのかと考えていたのもまた事実だ。
だが、こうやって改めて聞かされることによって、いい様のない絶望感が俺を襲った。
『そして、あなたの場合それだけではない。ここからはおれが独自に調査したものですが、最も重要な研究員の遺伝子パターンを継承する「子供」は、脳………つまり記憶まで別のものに書き換えられます。』
『つまり………』
俺は思わず口にした。ミユキが目を伏せて頷く。
『残るのは、あなたの外観のみ。記憶を含め、中身はまるごと継承する研究員のものになる………』
今まで生きてきた二十年間は最悪なものだった。
でも悪いことばかりではない、ミユキに出会ってからはとくに検体としての単調な生活に少しづつだが変化があった。
彼は世話係として俺に尽くしてくれただけではなく、施設以外の世界の様々なことを教えてくれた。
記憶を取り戻す為に吸収した知識を、端から俺に与え続けたのだ。
お陰で俺は他の「子供たち」とは少し様子が違っていた。ミユキ曰く、被検体にはない探究心と貪欲さを持ち合わせていたのである。
俺はそれを「検体」ではなく「人間らしい」ものと考え、ずっと誇りに思ってきた。
『俺にはちゃんとした意思がある。カルティキの子供としての役目を果たす代わりに、それが消滅するなんて御免だ………』
『ある意味そのせいでもあるのです。』
ミユキの言葉の意味がわからず、俺は眉を潜める。
『自我のある被検体など、研究員連中にとっては邪魔でしかないでしょう。あなたの身体を使って記憶ごと継承させるのは、本来の自我を崩壊させる手段でもあるのです。これは、テオドール………あなたの自我を育てたおれのせいでもあります』
『そんなことは………!』
シッ、と唇に指を当てミユキは俺のそれ以上の言葉を制した。
『もう話している時間がない………聞いてください。記憶をなくせど、おれは元イシュタムの研究員です、この数年間無駄に過ごしてきた訳ではありません。『カルティキプロジェクト』研究施設の内部構造は調べ尽くしてあります、あとはテオドールの意思だけ。』
ミユキは一呼吸置き、俺を見た。
『中途半端なおれたちでも暮らせる場所はきっとあります。あなたが自我を失う前に、ここから出ましょう。』
思い出した。
随分遠い記憶のように思えたが、俺はこの島に居る理由を思い出したのだ。
「何故だ………?」
「それはこっちの台詞ですよ」
ミユキは心配そうな表情で俺を見ていた。
「今のあなたは………カタコンベから逃げてきたにも関わらず、帰ろうとしている」
悲しげな声。
そうだ、その通りだ。
「ここがおれたちの居るべき場所であるのかはどうかはわかりません………でも、あんな場所よりはずっとマシでしょう。清浄化とは一体どういうことです………?まるで」
「まるで、『イシュタム』みてェだ」
まさか………
しかし考えたくない。
俺は頭を抱える
耳をふさぐ
生き返った遊園地からは絶え間なく陽気な音楽が流れ、まるで誰かの声のように頭の奥に鳴り響いた。
「これだけは考えたくありませんでしたが………きっと、あなたの継承手術はもう終了しているのですね。おれの………おれの誤算です」
悲鳴に近い、ミユキの絶望的な言葉。
ああ、やはりそうだったのだ。
今の俺は、以前とは何処か違う。
それが口調だったり、癖だったり………まだ些細なことかもしれない。
だが、いずれはまったく別の人間のものになってしまうのだ。
なんと恐ろしいことだろう。
考えただけで背筋が凍るようだった。
今、こうやって怯えている俺の思考の裏で、誰かが主役の交代を今か今かと待っているのか。
怯える俺の姿を見て笑っているだろうか?
意思の弱さを馬鹿にしているのだろうか?
考える度に、いつか見た記憶が次々にフラッシュバックする。
俺はあれではない
それは、悲しく赤い記憶
本物の俺はここなんだ、俺を見てくれ
一生届くことのない、思い出。
お前の側に居るだろう
その時、………が振り向く
こちらを見てくれ
もう一度 もう一度だけ
「テオドール」
ミユキの声に俺ははっとする。
同時に周りの音が息を吹き返したかのように耳の中に押し寄せ、思わず激しくかむりを振った。
気がつけば、だらしなく力の抜けた俺の腕をミユキの小さな手が握っていた。
「向こうに誰かが居ます、先程からこちらの様子を伺っているみたいで………」
反射的にミユキの示した方向を見ると、確かに建物の陰に人が居た。
いや、人というよりあれは………
「車椅子?」
車椅子から、連想する人物は一人しか居なかった。
トスカを育てているという、妙にエミリオを毛嫌いしている男、イアン。
だが、何故ここに?只の散歩という訳でもなさそうだが。
やがて俺達が気付いたことを察したのか、車椅子の人物は急に踵を返した。
「あ………」
俺が思わず声を上げると、放っておきましょう、とミユキが片手で制する。
「危害を加えられた訳ではありませんからね」
それはそうだが、昨日のエミリオの話を思い出すと何か引っかかるものがある。
逡巡していると、未だ俺の腕を掴んだままのミユキが手を引いた。
「テオドール………ここの建物に入りませんか」
この一件から、先程の話をあまり島の人間に聞かれたくないと思ったのだろう。
俺は頷いて、「王様の夜話」と書かれた金の文字が目立つ建物を見上げた。
建物の中は薄暗かった。薄暗い演出がされていた。
古代の権力者が住むような、大きな城の内部を思わせる内装である。
長い廊下が奥の方まで続き、時折装飾の施された窓から外を覗けばそこには外の景色はなく、見覚えのない夜の庭園が見えた。
「随分古い型の『コンブリオミシン』………ああ、あそこに糸の欠けが見えますね」
『コンブリオミシン』とは、セットした糸巻きから空間へ立体刺繍を施し、物や風景を擬似的に作り上げてあたかもそこにあるかのように見せるという、古くから存在する機械のことである。
古い機器の性能の低さを指摘しながら、ミユキは別のことを考えているようだった。
「さっきの話だが」
俺が唐突に切り出すと、ミユキはええ、と頷く。わかってると言わんばかりの口調だ。
「おれが思うに、継承手術は数回に分けて行われるものなのだと思います」
「そうなのか?」
ミユキは窓から目を離し、俺の方を振り向いた。
「おれがあの日あなたに施設の脱出を促したのには理由があります。
「下」の人間から近々あなたの継承手術が行われる、と知らされたのです。だからあの日あなたに………」
この場合の「下」とはミユキより偉い役職の者のことを指す。
地底に住む俺達にとって、しばしば「上」に居る者より「下」に居る者の方がより偉いと表現されることがあるのだ。
「手術が終わった、という報告ではなくか………?」
「ええ、違います。子供たちの世話人は継承手術の前に、手術後もあなたがたの側で働く気があるかどうか必ず聞かれるのですよ」
「それを聞かれたと?」
はい、とミユキが頷く。
「カルティキの子供たちは、手術後に全く人が変わるといいます。つまり、その覚悟があるかどうかおれたちは意思確認をされるのですね」
「そこでもし、いいえと言ったら?」
「恐らくですが、いいえという選択肢は元からないものなのでしょう。『カルティキプロジェクト』は組織自体は大きなものの、非合法なことを沢山やっていますから。情報漏洩を防ぐ為にも、一生別の部署で雑用をやらされるか………あるいは、永遠に口を封じられるか」
「………………」
後者の場合が多いのだろうということはいやでもわかる。何故なら、その方がどう考えても簡単だからだ。
『イシュタム』の連中が平気でやりそうなことだった。
「待てよミユキ、手術後には人が変わると言ったな?」
「ええ、例をいくつか見ましたが………別人のようだったと記憶しています」
「俺はどうなんだよ」
「そこなんですよ」
確かに俺は、「清浄化」について考えたりとおかしな部分はあるのかもしれない。
だが、根本はどうなのだろう。自分では、そんなに変わった気がしないのが正直な話だ。
何しろ、ミユキに言われるまで自分の挙動に気付かなかったぐらいなのだから………
「おかしな点は少しありますが、あなたが別人のようになったとは思えない。だから、継承手術というものは何回かに分けて行われるものなのかもしれないと考えたのです。おれが意思確認をされた時、すでにあなたは初期段階のオペのみ済んでいた………そうは考えられませんか?」
「だが待てよ、俺はオペなんてされた憶えねェよ」
「それは、本人に気付かれずやる方法もありますから………記憶操作は彼らの得意分野です」
そうだった。
余談だが、ミユキが一時期記憶がないことを注目されたのはそのせいでもあったのだ。
ミユキの突然の失踪と記憶の喪失については、何か重大な秘密を知って他の研究者に記憶操作されたのではないかと考える人間が大部分を占めていた。
もはや、生物から無生物への変換がもてはやされた根底もここにあると考えていい。
まあ結果的には何をしてもミユキの記憶は戻らなかった訳であるが………。
「仮にそうだとして、不審な点があります。手術中だというのに、あなたが普段の生活をしていたこと………不思議に思いませんか?」
「確かになァ、代わり映えのない生活だったことは覚えてる」
「継承手術が何回に分けられていたとしても、検体が普段の生活に戻されることはまずありえない。一旦オペに入ったら、終わるまで完全に研究者と医者の監視下に置かれることになりますからね」
「まさかだとは思うが………」
「話がはやくて助かります。そうです、おれたちは泳がされたのかもしれない」
「なんのためにだ?」
それがわからないのです、とミユキが渋い顔をした。
「思えば、おれが施設の内部構造を何年も調べていたことさえも彼らには筒抜けだったのかもしれない。今考えると、うまくいきすぎている。あんなにあっさりと脱出できるとは思ってもいませんでしたから………」
ミユキは脱出が失敗した時の対策も何通りか考えていると俺に説明していた。
その手回しの良さから、いかにミユキが脱出計画に対して真剣なのかが伺えた。
そして、これを思いついたのが今日昨日の話ではなく長い年月を経てなのだということもわかったのだが、その対策をひとつも披露することもなく簡単に脱出できたので、不審といえば十分不審である。
「そうだとしても、この島に俺達が居ることは流石に計算外だろうよ」
そう、ミユキは「脱出計画」のみに固執しすぎていて、その後のことを何も考えていなかったのだ。
結果、地上でアフ・プチに追われ、やむをえず海に飛び込むことになったのだが………
俺は肩を竦め、ミユキの背後にある窓から外を覗く仕草をした。
先程と何も様子の変わらない夜の庭が見える。
これを投影しているであろう古代の機器、ミシンの存在を確認し、ここがカタコンベではないということを改めて実感する。
ああ、本当に糸が「欠けて」やがる………
「そうですね………そうだといいのですが………」
俺はいまいち自信のなさそうな様子のミユキの肩をポン、と叩いた。
「でも正直な話、俺は安心した。継承手術が初期段階で終わっていたとしたら、まだ手の施しようがあるんじゃねェか?」
「しかし、初期段階で止めてある理由すらもわからないのですよ?」
「まァ、ここは落ち着こうぜ。少なくとも今は奴らの手の届かない処に俺達は居るんだし、考える時間はたっぷりあるだろ?」
ミユキは逡巡しているようだったが、やがて疲れたように肩を落とした。
「そうですね、とりあえずあなたの自我が失われていないことだけでも感謝しなくては」
「あぁ、その通りだ」
「くれぐれも、もう戻るなどと言わないで下さい。「清浄化する為に人数を募る」と聞いた時には内心ヒヤっとしましたよ」
「すまなかったな………どうかしちまッてた」
改めて今朝の発言や、昨日考えていたことを思い巡らせ、自分でもぞっとした。
これからは意識が他のなにかに飲まれないよう、自我をしっかり持たなくてはならない。
まずは長年の間俺を支え、助けてくれたミユキ………そして介抱してくれたエミリオにだって恩を返さなくてはならないのだ。
意識混濁としている場合ではない。
とりあえず、おれ自身の意思で何かを始めなくては………何か………
「そうだミユキ、折角だから「ツアー」とやらの続きをやろうぜ」
えっ、という顔でミユキが俺を見詰める。
急に何を言い出すんだ、といわんばかりの表情だ。
「いやな、初期段階とはいえ俺の頭の中には別の意識を持つ奴が居るっつーコトだろ?それを抑え込むには、おそらく自分の意思で動くことが必要なんだ。ツアーとやらが愉快なものかどうかは知らねェが、この島のことを知るっつーのは俺の理に叶ってる。これも立派な「自我」のひとつだろ」
いまいち自信はねぇけどな、と付け加える。
ミユキは無言のまま俯き、こくりと頷いた。
「ええ………ええ、そうですね。その通りです」
「正直な話、何かやらねえとどうにかなりそうだ………何でもいい、とりあえず目の前のことを最後まで終わらせようぜ」
「わかりました、おれも協力します」
つぎはぎだらけの顔の目元には、涙が浮かんでいた。
俺は大丈夫、と言ってミユキを元気づけた。
自分に言い聞かせるように何度も 何度も………