1.世界は極彩色
奇妙な場所に居た。
まず、匂い。
不快という程でもないが、決して良い香りとは云えない。
何処かで嗅いだことのあるような、それでいてそれが何かは思い出せない、得体の知れない匂いが辺りにたち込めていた。
そして、どうやら自分はベッドのようなものに寝かされているらしい。
「ようなもの」というのは、自分が今横たわっているそれがベッドであるということにいまいち確信が持てないからだ。
寝心地は悪くない。
しかし、何かが違っていた。
ベッドだけではない。見上げた先にある天井、ベッドらしきもののすぐ横の壁でさえも、何もかもが自分の知っているそれとは違っていた。
壁とは反対側に首を廻らせると、今時珍しい木製のドアが見えた。金持ちか、骨董趣味の人物の家なのだろうか。
やけに殺風景な部屋の中を見回すと、そうも思えない。
「ここは………」
思わず声に出していたのだろう、静まりかえった部屋の中にやけに大きく自分の声が響いた。
ドアが二回ノックされた。
この家の住人は随分と古風な感覚の持ち主らしい。今時ノックをして部屋の中の様子を伺う人間なんて居るだろうか。
そんなことをしなくても、『百目』と呼ばれる住まいの管理プログラムが人の来訪を告げるだろうに。
なんにしろ、この家の主………もしくは住人は、余程の物好きか変わり者なのだろう。
自分なんかを助けて、御丁寧ににベッド(?)にまで寝かせているのだから。
俺がまだ朦朧とした意識の中で考え事をしていると、扉の向こうから遠慮がちな声が聞こえる。
「入るけど、良い?」
ーー男の声だ。
「ああ」
短く返すと、木製の扉はこれまた古風な音をたてて外側からゆっくり開いた。
開いた扉の隙間から、さほど気にならなくなっていたあの奇妙な香りがどっと押し寄せ、俺は思わず顔を顰める。
「声がしたと思ったから。良かった、気が付いたのね。具合はどう………?何か食べられるかしら」
「………失礼だけどよ」
「待って、云いたいことはわかるわ」
そうか、と俺は呟いて口を噤んだ。
「あたしはエミリオ。性別は男よ。この喋り方は生まれつき。他に質問は?」
突っ込みたいことは山ほどあったがそこはぐっと抑えて率直な質問をした。
「ここは一体何処だ?」
「まあ平たく言えばあたしの家よ」
「つまりエミリオ、お前さんが俺を助けたと」
「そうなるわね」
エミリオは腕を組み、物珍しそうに俺を見詰めていた。
決して女には見えないが、中性的な顔立ちの所為か自称「生まれつき」の喋り方にさほど違和感は感じなかった。
問題は髪の色。
オレンジだ。
生まれつきの赤毛、だとかそういった類のものではない。
あからさまに人工的な、人形のような髪の色をしていた。
恐らくは目の色に合わせて髪の色を染めたのだろう。
だが、自然な夕日色の瞳に人工的なオレンジ髪じゃ、かえってアンバランスだ。
「あなた、カタコンベから来たんでしょう」
僅かに間を置いて、俺はそうだと答えた。
「その質問から察するに、ここはカタコンベじゃないんだな?」
「ええ」
気の毒だけれど、とエミリオは付け足した。
「ーーだいたい予想はしていた。ここは何処かの島か?汚染はされていないのか」
「お察しの通り」
エミリオは俺から視線を逸らし、こぢんまりとした窓のカーテンをさっと引いた。だが、ベッドに寝たままの状態では窓の外は見えない。
かろうじて遠くの方に海のようなものが見えた。
「ここは島よ、名前も特にないわ。幸い汚染はされていないけど、カタコンベから比べたら文明水準は遥かに低いでしょうね」
「………だろうな」
俺はもう一度部屋の中を一瞥した。
妙な感じのするベッド、木製のドアや天井や壁でさえも違和感があるのはその所為なのだ。
俺の居た『カタコンベ』でも、趣味でこんなデザインの家を建てる奴は居る。
だたしそれはあくまで見せかけのものであり、実際は最高の化学技術を持って生活する上での便利さや、建物の耐久度等、何からなにまでとことん追求した非のうちどころのない家だ。
しかし、ここは違う。見たところ、科学的な要素は一切加えられていない。
自然の木を組み、石を積み上げ、窓や扉の部分に穴を空けただけのありのままの「家」の姿なのだ。
「ここまで文明水準の低い土地があったこと自体驚きだが」
窓の外を見詰めていたエミリオは振り向き、俺の方を見た。
「馬鹿にした訳じゃねェよ。気を悪くしたらすまなかったな」
「いいのよ」
肩を竦めたエミリオの様子は、さして気にしたふうではなかった。
「それに、あなたのようなカタコンベからの遭難者は時々この島にやってくるの」
その発言には驚いた。訝しげな俺の様子に、エミリオは続ける。
「五日前の晩、あたしはここの近くの海岸であなたが倒れているのを見つけた。
海から流されてきたんだとひと目でわかったわ。 まず一つは、あなたの身体が鉄のように硬かったから」
「ソムニウム起動の状態だな」
「そう、他に流されてきた遭難者も全て同じ状態で発見されている」
ーーソムニウム
自分の身に危険が及んだ時の、非常自己防衛機能だ。
俺たち人間は、母親の胎内から生まれたままの状態ではこの世界での生存確率が十%以下になる。
大気中には数えきれない程の有害物質が混じっており、数分間体内に取り込んだだけでも死に関わるからだ。
なので、殆どの人間は有害物質に耐えられるよう、生まれた直後に身体の一部を手術する。
その時にオプションでつけられるのが、ソムニウムと呼ばれる。生まれたばかりの赤ん坊の将来の為に開発された代物だ。
望めば、赤ん坊ではなくとも手術をすることによって何時でもつけることができるが、誰もがこの機能をつけられる訳じゃない。
手術に莫大な金がかかるので、余程の金持ちか、過保護な親の元に生まれた子供たちだけだ。
最も、俺の場合はそのどちらでもないのだが。
人は一旦ソムニウム起動の状態に入ると、全身が鉄のように固くなり体重は半分以下に減量する。
そうなると、おおよそ十日間は飲まず食わずの状態でどんな過酷な場所でも生きられるらしい。
「らしい」というのもおかしな話だ。実際俺はその状態を経験したのだから。
だが、不思議とその時の記憶はすっぽりと抜け落ちてしまっている。
「俺に関しては何も質問しないんだな」
え?とエミリオが不思議そうな顔をした。
やや間があって、言葉の意味を理解したように苦笑いを浮かべる。
「そうね、質問してもしょうがないというのが正直なところかしら。さっき話した他の遭
難者もそうだけれど、皆それぞれの理由を抱えてる。汚染覚悟でカタコンベから出なけ ればならない、特別な理由をね」
違う?と夕日色の瞳が尋ねていた。
「そんな人に、今まで何があったかなんてあれこれ詮索してもどうしようもないもの」
何もかも見透かしたような口調に、俺は少し苛立ちを覚える。その様子に気づいたの か、エミリオは取り繕うような笑顔を浮かべた。
「でも、名前くらい教えて欲しいわ」
「テオドールだ。
あと、最後に俺から質問だが、この匂いは何だ?」
鍋の中で、透明な液体がぐつぐつと煮えている。
とりあえず何か食べたほうがいいと言われ差し出されたスープ。
それが得体の知れない匂いの原因の元だった。
こんなものは食べられないと突っ返すと、エミリオは困った顔をした。
このなんともいえない不思議な匂い………エミリオにとってはむしろ良い香りなのだそうだ。
匂いの元を尋ねた時スープを煮ていると言われ、思わず俺は消毒液でも入れたのか、と尋ねた。
だが、島ではこのスープが主食だとエミリオは言う、信じられない。
「とても栄養があるのだけれどね」
鍋の中のスープをかき混ぜながら、エミリオ。
何か他に食べられそうなものを、と言われ、連れて来られた台所は個人の家にしては随分広々としたものだった。
少し色褪せたクリーム色の壁に使い込まれた調理器具が吊るされ、調理台の上には大小様々な銀色の鍋が並ぶ。
俺はそれらをひとつひとつ見て回った。まるで博物館にでもきた気分だ。
「それがそんなに珍しい?」
ハンマーに棘がついたような器具を手に取って見ていると、笑い混じりにエミリオが尋ねる。
「あぁ、これは何に使うんだ?………………なんとなく昔の拷問道具に似てんな」
俺の問いかけに、弾かれたように笑いながらエミリオは調理台の上に平たい皿を置いた。
口調だけでなく、笑い方までまるで女だ。
なんとも言えない心持ちになったが、あまり気にするのはやめることにする。
なにせ、世界は広いのだから
「物騒なこと言わないでよ、ちゃんとした調理器具よ。それより………さ、食べてみて」
薦められるままに、俺はスプーンを手に取る。
平たい皿に盛り付けられた、ドロドロとした液体。よく見ると小さな固体が中に混じっている。
「………ポリッジ?」
見たまま、率直な意見を言った。
エミリオは、あら、と呟いて微笑んだ。
「アナタの知ってるポリッジも、麦を潰して乾燥させたものに蜂蜜を加えた料理かしら?」
「蜂蜜を入れたヤツっつーのは初めてだな。だが………」
俺は液体をスプーンで掬ってひとくち、口の中にいれる。
「あぁ、懐かしいな、俺の知ってる味だ。子供の頃よく食った気がする」
「良かった、アタシの作ったものが全部食べれないだなんて言われたらどうしようかと思ったわ」
おどけたような口調だったが、エミリオの目は真剣だった。
改めて、調理器具が並んだ厨房を見回す。
これだけ調理器具が揃っているのだから、このエミリオという人物は料理に対してなにかしらの自信やプライドあるのだろう。
俺は飯を食っている間の話題づくりの為にも、少しそのことをほのめかしてみた。
「当たり前じゃない、ここを何処だと思ってるの?」
「どこって………島だろ?」
さっきおめェがそう話しただろ、と俺が訝しげに尋ねる最中、エミリオは立ち上がって厨房の一角に備え付けられた両開きの大きな窓に手をかける。
「お馬鹿。アナタが今居るここのことよ」
立ち上がり、今しがた開け放たれた窓から外を見る。
外ではない、まだ建物の中だ。
よく見ると窓の下に小さなカウンターがあった。それを隔ててこぢんまりとした部屋が続いている。
部屋の中には所狭しと並べられた机と椅子、そして厨房と同じクリーム色に塗られた壁に飾り付けられた花々。
「あー」
「わかった?」
「いや、わかんねェ」
エミリオは些か疲れた表情を見せた。
「あッ、でも見たことはあるぜこういうの。なんていったかな、ホラ」
取り繕った訳ではない、本当だ。
「知って」はいるのだ、ただし名前がでてこない。
俺の代わりに答えるように、エミリオが言う。
「レストランよ、この島で唯一のね」
「さしずめあたしはオーナー兼料理長ってトコね」
「エミリオは いますか」
「!?」
耳の側で囁くような声に、驚いて飛び起きた。
ポリッジを平らげた後、急に睡魔が襲ってそのままテーブルで突っ伏して寝てしまったのだ。
どうやらまだ身体が本調子ではないらしい。
エミリオは夕方からの営業の仕込みの準備があると言ってついさっき出掛けてしまった。
今このレストランには俺一人しか居ない筈だ。
だが、慌てる俺の様子を観察するように眺める小さな人影があった。
ずり落ちそうになった椅子に座りなおし、改めて俺の横に立っている人物を見る。
五歳くらいの女の子だ。
どこから入ったのだろう、鍵はかかっていなかったのだろうか。
ふと、考えてからそれは愚問であることに気付く。
ここはレストランだ、客を招き入れるのに扉に鍵をかけてどうする。
「エミリオは いますか」
少女は同じ言葉を反芻する。
まるで壊れた蓄音機だ。
そう思ったのは、彼女の外見のせいもあった。
お下げに結った肩まであるプラチナブロンドに、薄い水色の瞳。
上品なフリルのついた白色のワンピースがよく似合っているが、何かこう、人形めいてミステリアスな………悪く言えば生気のない雰囲気が少女から 感じられる。
そしていやでも目につくのは、首からかけた大きな
ーーーーこれはなんだ?
ーーティーポット?
「エミリオなら今はいねェよ。出掛けてる」
素っ気なく言った。
子供は苦手だ。
「そうですか」
少女は首を傾げたが、少しも困った様子はない、一体何しに来たんだ。だいいちここは俺の家ではないし、エミリオの客ならば邪険に追い払うこともできない。
言葉に詰まり、暫く黙っているとリン、という鈴の音がした。
表口の扉が開き、誰かが店に入ってくる気配がする。
エミリオが帰ってきたならば有り難いが、また他の客だったらますます面倒なことになる。
だが、危惧していたことは起こらなかった。
「あら、トスカ!来てたの?」
「エミリオ」
少女が少し表情を動かして振り向いた。
初対面の俺の前では緊張していたのだろうか、その笑顔は先程とはうって変わって年相応の子供らしいものだった。
「テディに変なことされなかった?」
からかうような口調でエミリオが言う。
手に持っている芋の入った籠を調理台に置くと、その下の戸棚を開けて奥の方を探っている。
「あれを取りにきたんでしょう」
「おい、もしかしてテディっつーのは俺のことか?」
「そうよ、愛称。そう呼ばれてなかった?」
「ねェよ」
俺が即答すると、あっそ、と短く答えただけでエミリオはまた探し物に没頭してしまった。
ちらりと、横に立っているトスカと呼ばれた少女の方を見る。
エミリオの様子をぼんやり見つめながら、首から下げた大きなティーポットの蓋を、手持ち無沙汰に開けたり閉めたりする動作を繰り返していた。
「なぁ、それは一体」
「あったわ」
俺が尋ねかけると同時に、エミリオが大きな鍋を両手に抱えてこちらへやってきた。
「イアンの薬よね?」
「そうです」
トスカは頷くと、首にかけたティーポットをエミリオに差し出した。
「これに」
「あら、またこれを持ってきたの。アタシがあげた水筒は?」
「おいてあります イアンのまくらもとに すぐのめます これは 水筒よりたくさんはいります」
そう、とエミリオは苦笑するとトスカからティーポットを受け取り、大きな鍋の中の透明な液体を中に注いだ。
「はい、確かに沢山入るわ。でも帰りに溢さないようにね」
「きをつけます ありがとう」
トスカはエミリオからティーポットを受け取ると、取っ手の部分を慎重に首へかけた。
だが、やはり重いのか少し後ろへよろめく。
「おっと、大丈夫かしら。あ、そうよテディ、散歩がてらトスカを家まで送っていってあげて頂戴」
「は?」
急にこちらへ話を振られ、ぎょっとする。
「ついでに帰りに島を案内してもらうといいわ。トスカ、お願いできる?」
ティーポットを抱えなおしながら、トスカが頷く。
おいおい、そんな急に話を決められてもな………だいいちまだ身体も本調子ではない。
俺が渋い顔をしていると、その心中を察したのか「身体は動かしたほうがリハビリになるわよ」とエミリオは言って
何時の間にかトスカから取り上げたのか、大きなティーポットを俺の手に無理矢理持たせた。
「おも………」
「だらしないわねえ。まったく、カタコンベの人間はひ弱なんだから」
カタコンベとこの島の環境の違いによるものだろうか。
確かにこの重さのものを子供の力で抱えることができただけでも、俺にとってそれは凄いことだと思う。
トスカは、大丈夫かといわんばかりに小首を傾げてこちらを見ている。
生活水準が低いということは、それだけものに頼らないで生きているということだ。
生まれた時から”もの”に囲まれ、頼り切った生活をし、身体の中にまで”もの”を入れて生命を維持している人間にとって、この島の人間はきっと尊敬に値すべき者だろう。
ーーそうだ、俺はこういう者に憧れていた。ずっと。
「ほら、ぼっとしてないでとっとと行く!アタシはこれからディナーの仕込みがあるからそこに突っ立ってられると邪魔なの」
夕日色の瞳を細め、エミリオ。
俺の肩に手を置くと店の出口まで誘導し、文字通りそこから追い出された。
ポットの重みで少し前のめりふらつくと同時に、背後で扉の閉まる音がする。
「だいじょうぶ ですか」
トスカの心配そうな声に、顔を上げる。
ああ、本物の塩の香りがする。
久しぶりに吸った外の空気がカタコンベに居た時よりおいしく感じられるのは、きっとこの島が汚染されていない所為だろう。
「あぁ………だいじょう………」
急に言葉を詰まらせた俺の様子に、トスカは不思議そうに目を瞬かせた。
少女の肩越しに見たのは、なんとも奇妙な極彩色の町並みだった。
「この島は ”ごらくしせつ” だったと ききました もともと まるごと」
色あせた金色の石畳を踏み、俺は先導するトスカの後に続いた。
手にはずっしりと、例のティーポット。
時折重みで遅れをとるが、歩くのに不自由する程ではない。
「娯楽施設………?あァー………遊園地ってヤツか。通りで………」
「レストラン」そして「遊園地」。俺の頭の中で次々と知っている筈の単語が浮かんでくる。
脳の方は序々に調子を取り戻しているようだ。
少し足を止め、俺は改めて辺りを見渡した。
色褪せ、廃墟と化しているはものの、そのかたちは依然元のままであり続けた乗り物たち。
それらの多くは旧世代のもので、大昔の資料でしかお目にかかったことがないものばかりだ。
考古学者の連中がこれらを見たら、大泣きして喜ぶだろう。
金色の石畳の上に立ち並ぶ、ピンク、イエロー、グリーン………と様々な色に塗られた建物は遊園地の関係者用の施設だったのだろうか。
この島の住人はそれらの使えそうな建物を改造して住まいにしているらしい。
実際、エミリオの住まい兼レストランもそうだった。
中からはまったく気づきもしなかったが、外から見るとなんと建物がカボチャの形をしていたのだ。
あの、橙色でゴツゴツとした………野菜のカボチャだぞ。
俺が建物の外観を見て絶句していると、ちょうどカボチャの丸いでっぱりの部分にある窓からエミリオが顔を覗かせた。
「なかなかいい家でしょう」
「なんつーか………コメントしにくいんだが」
「あら、レストランぽいじゃない。それにカボチャに含まれる成分は老化防止にも役立つのよ」
その上、聞いてもいないことを説明された。
「エミリオのいえも ”ごらくしせつ”だったそうです カボチャのおばけがでる」
先導していたトスカは、俺が足を止めると同時に振り向いてそう言った。
東の方から海風が吹き、少女の白いワンピースをはためかせる。
「………………成程な」
元お化け屋敷だったという訳だ。それも、出るお化けはカボチャの怪物らしい。
「なぜ ”ごらくしせつ”ですか おばけがでるのに ”ごらくしせつ”は楽しむためのものだと」
「もう少し大人になればお前さんにもわかると思うぜ。
怖かったり、驚いたりすることもれっきとした娯楽さ。人生たまにはそういう刺激も必要だッつーコトだ」
「よく わかりません」
トスカは困ったように首を傾げる。
まあ、こんな小さな子供にわかれという方が無理な話だ。
こういう「やりにくさ」が子供に対する苦手要素でもあるのだが。
「たのしいとおもいませんでした おばけは」
足を止めたまま、俯いてしまった少女に俺は眉根を寄せる。
「見たことがあるのか?」
「はい ”かれきのもうじゃ”です」
「枯れ木の………亡者?」
「います このしまに」 枯れ木の亡者だなんて、おかしな名前だ。木は人ではないから”亡者”にはなる筈がない。
何かの見間違いだろう、と言えばそれまでかもしれない。
トスカの真剣な表情を見て、俺はあえて何も言わなかった。
噂というのはどこの世界でもつきものだ。まして、狭い島の中だったら尚更だろう。大人が話しているのをそのまま鵜呑みにして信じている場合だってある。
「おばけは いませんか カタコンベには」
「お前さん、よく俺がカタコンベ出身だって知ってるな」
俺が再び歩き出したのを見て、トスカは慌てて早足で前を歩き出した。
「はい あの晩 流れてきたとき みていました かいがんに」
「見てたのか?俺がここへ来た時?」
「エミリオと イアンと みんなとみてました すぐうわさになります このしまは だれかがくると」
イアンという人物はさっきも話に出ていたな。
確か、ティーポットの中身の届け主だ。
だが、皆というのは?島の住人総出で俺の遭難現場を見ていたというのか。
「どうもわからんな………この島の感覚ッつーのは」
考え事をすると同時に、歩みも遅くなってしまったのだろう。
トスカの白い姿は、もう、遠くの方にぼんやりと見えるだけになってしまった。
その姿から、先程彼女から聞いた「亡霊」とやらを連想しながら、足早に後を追った
先程の派手な色合いの遊園地とは少し外れたところにトスカの家はあった。
遊具らしきものの名残がところどころに見えるということはここもれっきとした遊園地だったのだろうが、辺り一面には木々や草花が生い茂り、金色の石畳は柔らかい土へと変わっていた。
「つきました」
トスカが案内してくれた先は、段差のある地層の間に穴を掘ったようなつくりの家だった。
家の周りは白い柵で取り囲まれ、柵の内側にはネオンベリーやムラサキイチゴのなる小さな菜園と、手入れのゆきとどいた花壇があった。
「ガキの頃に読んだ絵本にあったな、こういう家」
「ほんにあった? ここがですか」
「あぁ、似たようなやつがな。それだけ綺麗だッつーことだよ」
トスカはよく理解できていないのか不思議そうな顔をしていたが、褒められるとわかると嬉しそうだった。
柵を越え、菜園や花壇を踏まないようにヒヤヒヤしながら家の入り口まで歩いた。
俺の居たカタコンベでは、花や植物は一部の金持ちしか愛でることのできない高級嗜好品だ。
ここでは違うと頭ではわかりつつも、つい本能で身体が慎重に動いてしまう。
トスカが「かえりました」と囁くように言って扉をノックする。
この「ノックをする」という動作はやはり滑稽だ。
島では普通のことなのかもしれないが、俺から見たら偏執的、というか何か小芝居を見ているような、そんな感覚になる。
丸みがかった扉を開け、トスカの後に続くように室内へ入ると外とはうって変わってひんやりとしていた。
小さな窓から光が差し込み、木製のよく磨き上げられた床を照らしている。
外観と同様、どこか幻想的な雰囲気の家だ。
「これ、何処に置けばいいんだ?」
両手で抱えるようにして持っていたポットを顎で示し、尋ねる。
持ってるうちに重さには慣れたが、一刻も早く置いてしまいたい気持ちは変わらない。
「こちらに」
言いかけ、トスカははっとしたように顔を上げた。
キィ………と軋むような音が室内に響き、音がした方からゆっくりと人影が近づいてくる。
クソ重いポットの中身の届け主であり、この家の主の登場といったところか。
「イアン かえりました」
「行くなと言った筈だろう」
車椅子に乗った男が、重々しく言った。
年齢は三十代前半といったところか。
栗色の髪は小ざっぱりとしていたが、ところどころ白いものが混じっている。若白髪というヤツだろうか。
顎には髪と同じ色の鬚を蓄え、車椅子でこちらにやって来る姿は妙に威厳があった。
よく見ると男の腕や太ももに程よく筋肉がつき、均整の取れた体つきだということが服の上からでもわかる。
だが、その脚の片方は膝から先がなかった。おそらく、これが車椅子に乗っている理由だろう。
「お前は………」
イアンと呼ばれた男はこちらを見た後、視線をちらりと俺の手元に向けた。珍しい、銀色の瞳だ。
「カタコンベから来た遭難者だな」
「あぁ、そうだ」
「名は?」
男のぶしつけな態度に少々腹が立ったが、いちいち取り合うのも面倒だ。
俺は肩を竦めて、わざとらしく呆れたような態度を取る。
「テオドール」
そうか………と男は呟き、次にトスカを見た。
「あのティーポットは………やはりエミリオの処へ行ったんだな」
「はい」
トスカが頷くと、イアンは声を荒立てた。
「何故いいつけが守れない?」
「イアンのびょうきがわるくなります 薬がないと」
「俺のことは心配しなくていい。いいか、もう二度と行くんじゃない」
トスカは何か言いかけたが、イアンに睨まれると俯いて口を閉ざしてしまった。
「お前………テオドールと言ったか。それは持ち帰ってくれ」
冗談じゃない、折角運んでやったのにまたこのクソ重いティーポットを持ち帰れというのか。
それに、事情はよくわからないがこの男の態度は気に入らなかった。
「やなこった。娘が心配してンだからどんな事情があろうと好意ぐらいは受け取ってやれよ」
「娘………?」
イアンは肩眉を上げ、いかにも心外だという顔をした。
俺は何か変なことを言っただろうか。
「成程………そうか、娘か」
トスカは俯いたまま、顔を上げようとしなかった。
さて、どうしたものか………
「まぁ、お前さん達がどういう関係だろうと俺には関係ねェけどよ、こんな重いもン持ち歩くのは二度とごめんだ」
俺はティーポットをわざとらしく音をたて目の前の床に置いてやると、こんな家からはとっとと出て行くことにした。
「待て」
イアンが呼び止める声を無視し、木製のドアを開けて早足で外へ飛び出す。
背後で扉が閉まる途中、トスカが何か言ったようだったが聞こえなかった。
エミリオの店へ帰る道順はよく覚えていない。
だがどうやら俺は有名人らしいし、島の人間にきけばなんとかなるだろう。
ネオンベリーのなる庭を抜け、夕日に照らされた廃墟を俺は駆け出した。
激しく咳き込み、脚を止める。
島の人間に確かに道を聞いたのだが、何時の間にか海岸まで来てしまった。
どこかで道を間違えたのだろうか。
歩く度に砂が靴の中に入って気持ちが悪い。
「げほっ………………はぁ………はぁ………」
まだ身体が本調子ではないのに、急に走ったせいだろう、頭がクラクラする。
俺は砂浜に腰を下ろし、少し休むことにした。
「はぁ………そういえば俺は海岸で拾われたんだよな」
寄せては返す規則的な波の運動を、ぼんやり見つめる。
本物の海を見たのはこれで二度目だが、以前見たものとはまったく違っていた。
初めて見たのは、白い波の牙を剥き、空を呪うかのような夜の海。その圧倒的な光景に、思わず足が竦んだ。
だが、今見ているこれは違う。
海面は夕日で照らされ、キラキラと反射しながらオレンジ色に染まっていた。
ふとエミリオの瞳の色を思い出す。
そう、丁度こんな色だ。
エミリオから連想し、また別の考えが俺の頭に過ぎる。
イアンと呼ばれたあの男の態度についてだ。
一方的にエミリオを嫌悪しているかのように見えたが、たとえ大人の事情で人間関係に支障をきたしたとしても、それに子供まで巻き込むのは感心できることではない。
だが、逆にそこまでしてエミリオを毛嫌いする理由とはなんだろうか。
「娘」と言った時のイアンの態度もなんとなく引っかかっていた。
実の子供ではないのか………それとも………
「て テディ!」
急に背後から声をかけられ、俺は竦みあがった。
「さがしました」
振り向くと、息を切らせてトスカが立っていた。
白いワンピースの裾が夕方の冷たい海風にはためく。
「お前さんか………びっくりさせンなよ」
「あやまりたかったです テディに………」
捜したと言っていたが、俺のことを追いかけてきたのだろうか?
やれやれ、しつこいようだが子供はほんとうに苦手だ。
乱暴な仕草で頬を掻き、どうしたものかと考えたが、まあ座れと自分の横を示した。
トスカは一瞬戸惑ったようだが、やがて砂浜の上にぺたんと腰を下ろす。
「ごめんなさい さっきは そして テディにあんないをしないと 島の やくそくです エミリオとの」
「あァーー、島の案内は今度でいい。今日はもう遅いだろ?」
「でも」
「その代わり少し話を聞かせてくれないか」
数回目を瞬かせ、やがてトスカははい、と返事をする。
「わかりました こんどにします あんないは お話します かわりに」
そうしてくれと頷くと、やや間を置いてから俺は話を切りだす。
「イアンのことを聞かせてくれ。あれはお前さんの父親じゃないのか?」
いいえ、とトスカ。
「ちがいます でも むかしから すんでます いっしょに」
………血は繋がっていないが育ての親ということだろうか。
トスカが伏せ目がちに視線を彷徨わせたのを見て、これに関してはそれ以上詮索するのをやめた。
「エミリオと仲が悪いのか?」
「よかったです すこしまえまでは」
「喧嘩した、とかか?」
「そうだとおもいます たぶん とつぜん もうエミリオには会うなと でも そうすると 薬がきれて」
一瞬、聞こうか聞くまいか迷ったが遠慮がちに尋ねてみる。
「あァ、その………イアンは何の病気なんだ?」
「くさる びょうきだそうです からだが………」
ふと、車椅子に乗った男の姿を思い出す。
一見体格が良く健康的であるのに、一方の脚の膝から下が失われていた。
服の上からは見えないだけで、体の他の部分にも病気は進行している可能性もある。
そして、それはこの島もすでに汚染の傾向があるという証拠だ。
壊死は、汚染によってもたらされる代表的な病例のひとつでもあった。
思わず黙り込む俺の様子に、空気を察したトスカが不安そうな顔をする。
ここは話題を逸らすことにした。
「に、してもだ。エミリオは薬も作れるんだな?レストランのオーナー兼料理長じゃねェのかよ」
「すごいです げんきになります エミリオの作ったスープを飲むと だからたのんだのです イアンの薬をつくってほしいと」
………………………そうか。
スープとはおそらく俺が今朝飲まされそうになった、あの奇妙な匂いのスープのことだろう。
栄養があると言っていたが、薬膳の一種かなにかではないかと俺は考える。
エミリオがトスカに渡した「薬」とはあのスープと効能は大差ないものなのではないだろうか。
つまりは、気休めなのだ。
気長に考えれば、薬膳で壊死も治るかもしれない。
だが、原因は紛れもなくこの島………いや地上全体を取り巻く汚染なのだ。
それにはエミリオも薄々勘付いているのかもしれない。だが、トスカの気休めの為にもスープを作る………
これでイアンが薬を拒絶したのにも合点がゆく。
ほかならない自分の身体のことだ、普通なら治るものなら治そうという努力をするだろう。
だが、薬を飲んでも病気が治らないことを知っているのだ。
ただエミリオと関係が気まずくなったという理由だけではない。
幸いこの島は汚染されていない、とエミリオは言った。
だが、もはや世界中の何処を捜してもそんな場所はありえないのだ。
判りきっていたことだが、改めて目の前に突きつけられた事実に俺は落胆の色を隠せなかった。
「病気、はやく治るといいな」
自分に対する気休めだったのか、心にもないことを口にした。
「はい のんでくれると いいんですけど 薬を」
「………………俺は………」
「はい」
「いや、なんでもない」
トスカが首を傾げ、そしてふっと笑った。
「テッド みてください あれを」
少女が指で示した先に視線を向けると、海岸から少し離れた場所にある木で覆われた一角に、巨大な車輪のようなものがそびえ建っていた。
白い輪が夕日で反射して、茜色に染まり光っている。
よく見れば、輪に沿って色とりどりのカプセルのようなものが規則的に並んでぶら下がっていた。
「あれは………」
「”かんらんしゃ” といいます」
しっていますか?とトスカが瞳を輝かせて俺に尋ねる。
「いいや、知らねェ」
形状から察するに何をするものなのかだいたいは想像がつくが、トスカの話したそうな様子を見て俺は皆目わからないといった風に首を振った。
「あのまるいところにのります しばらくするとぐんぐん上がって とおくのとおくのほうまでみわたせるのです」
何時になく流暢な口ぶりでトスカは言った。
些か興奮している様子だ。
「上がる………?アレ、動くのか?」
あれが動くということは、動かす原動力となるものがまだこの島に残っているということだ。
それは俺にとって極めて重要な情報だった。
「うごきません いまは」
予想はしていたが、俺の僅かな期待を裏切る答えが返ってくる。
待てよ、「今は」と言ったか?
「うごいていました むかしは さんにんでのったのです」
「三人………」
「「エミリオ、イアン………」」
二人の声が見事に重なる。
「そして、お前さん、と」
トスカを指差すと、はい、と呟いて照れたように笑った。
「でも うごかなくなってしまって」
「動かなくなった………?その、原因はわかっているのか?」
「ききました うごかなくなったと それだけです」
観覧車を眺めるふりをして、数々の思考を巡らせる。
昔は動いていたものが動かなくなった………ということは動かしていた原動力となるものが尽きたのだろうか。
もしくは、あの「観覧車」自体にガタがきたというのが一番筋が通るが、どうも何かが引っかかる。
気はすすまないが、ここらへんはエミリオに詳しく聞くのが一番はやそうだ。
「サンキューな、色々話してくれて」
振り向き様にトスカに声をかけると、最初に会った時見たような、あの人形のように無表情な顔で俺を見ていた。
「もし」
ふいに口を開いた彼女の様子に、何故だか俺は「綺麗だ」と感じた。
普段なら見ることすら叶わない貴重な何かを偶然見つけてしまった、そんな気持ちだった。
「もし うごいたら のりたいです よにんで」
「四人………もしかして、俺も入れてくれてンのか?」
頷く彼女の頭を、軽く撫でてやる。
「ンじゃ、その前にまずエミリオとイアンを仲直りさせねェと」
軽く言ったつもりだったが、トスカにとっては極めてデリケートな問題だったかもしれない。
失言したかと危惧したが、トスカは相変わらずの無表情ではい、と答えただけだった。
「まってます いつか」
すっかり日の落ちた海岸には俺達ふたり以外の人影はなく、波の音が何故だか妙にもの悲しく聞こえた。
エミリオのレストランの窓からは、遠くからもはっきりとわかるくらいあかあかとした光が漏れていた。
いやでも目立つカボチャの形をしたその建物から、ひっきりなしに賑やかな談笑が聞こえてくる。
長い人生、めったにお目にかかれないような説話的な情景に俺は少々眩暈を覚えながらも、レストランの入り口のドアを開ける。
なんてこった、今朝は気づかなかったが取っ手の形までカボチャだ。
「いらっしゃいませ!」
威勢のいいエミリオの声と共に、店の喧騒に混じって料理や酒の匂いがどっと押し寄せる。
こぢんまりとした円卓を酒を片手に囲む日に焼けた男たち、若い男女のカップルや、カウンター席の方には物静かに一人で酒を飲む者も居た。
その雰囲気に圧倒され店の入り口にぼんやり突っ立っていると、今まさに注文を取ったばかりのウェトレスがこちらに気き、その足でつかつかと歩み寄ってきた。
「一人?」
「あァ………いや、俺は客じゃなくて………」
ウェトレスは怪訝そうな顔をした。
だが、俺の視線は相手の表情ではなくすぐさま胸元に向けられる。
黒いレースの刺繍が施された胸元の大きく開いたドレスの上に、気休め程度の小さなエプロンが乗っている。
そう、まさにその豊満な胸の上に「乗っている」と言った方がふさわしかった。
カボチャの形をした建物に、ドレス姿のウェトレス………それらをいちいち「珍しい」とか「似つかわしくない」といった類の言葉で表現していたらそろそろきりがない気がしてきた。
「エミリオ、変な客にセクハラされている。こんな場合どうしたらいいんだ?殴るか?」
その挙句、何時までも胸元から視線を外さない俺のことを痴漢呼ばわりする始末。
まあ………この状況では俺が悪いか。
「殴っていいわよー」
奥の厨房から能天気なエミリオの声が返ってくる。
よし、と小さく呟いて拳を振り上げるドレス姿のウェトレス。
「待て!俺だエミリオ!」
この時初めて自分の身の危険に気付いた俺は、奥の厨房に向かって叫んだ。
「あらテディ、おかえりなさい」
エミリオが顔を出したのとほぼ同時に、ウェトレスの拳は俺の顔面に振り下ろされた。
「目を覚まさないぞ。大丈夫なのか?」
「………………じょうぶ………とは………違うみたい………」
ふたつの話し声が聞こえる。
薄く開いた瞼の隙間から、天井にかかったガスランプがぼんやりと見える。
身体が重くて、耳の奥がジンジンした。
いわゆる、「脳は起きてるが身体が寝ている状態」だ。
「どういうことだ?」
二人の会話は続く。
どうやら、先程のウェトレスとエミリオが話しているようだ。
耳鳴りが酷くてうまく聞き取れない。
「それは………本当か?」
ウェトレスの方が何かに驚いてるようだった。
しかしこの女、まるで軍人かなにかのような喋り方だな。
「アナタ、あの晩居なかったでしょう」
「あぁ、そういえば寝ていたな」
あの晩………?
「あの晩」
同じような会話を昼間誰かとした気がする。
「はい あの晩 流れてきたとき みていました かいがんに」
トスカの言葉がゆっくりと脳内で再生される。
その途端、俺は勢い良く飛び起きた。
「テディ?」
驚いたように、意外と俺のすぐ側で会話をしていた二人が振り返る。
「大丈夫………?アナタ………」
エミリオが心配そうに俺の側に寄り、顔を覗き込んだ。
「………………なんとかな」
酸欠でクラクラする頭を押さえ、喉の奥から声を絞り出す。
ひどく擦れた様子に自分でも驚いた。
どうやら、レストランの隅にある客用ソファの上に俺は寝かされているらしかった。
店はもうとっくに閉店したのか、周りに客の姿は見えない。
「さっきはすまなかったな」
抑揚のない声で言ったのは、俺を殴ったウェトレスだ。
顔を上げ、改めて相手の姿を観察する。
胸元の大きく開いた、まるで喪服のような黒いドレス。
スカートの裾には銀色の糸で大胆な刺繍が施され、よく見るとその模様ひとつひとつはボタンの模様をしていた。
わざわざ刺繍をしなくとも、本物のボタンをつければいいのに………というのが俺の感想だがドレスのことなどはよくわからない為ここは黙っておく。
豊かな蜜色の巻き毛を肩まで垂らし、その明るい髪の色や顔立ちとは対極の暗い色の化粧をしていた。
シャドウやルージュ、マニキュアの色に至るまで徹底して黒か、銀を使っている。
そのアンバランスさがなんとも不思議な、年齢不詳の女性だった。
「エミリオの客人とは知らなんだ」
「まァ、なんつーかあれは俺も悪かったっつーか」
俺が素直に謝ると、エミリオが明るく笑って
「ちょっとふざけただけなのよねえ」とウェトレスに目配せする。
「ほんの挨拶代わりだったんだが………カタコンベの人間は思った以上に打たれ弱いな」
ウェトレスは哀れむような目つきで俺を見た。
とりあえず、この島の人間の「挨拶」の基準はどうやら俺が知っている常識からかけ離れているらしいことだけはよくわかった。
「自己紹介が遅れたが、私はヴァージニア=リィ。貴様のことはエミリオから聞いておる、テオドール………」
だったか?と確認を取るようにウェトレスーーヴァージニアは視線を彷徨わせる。
そうだ、とエミリオは相槌をうち、
「彼女はこの島の数少ない頭脳担当なの。食物がよく育つ土地開発から、発電所の開発まで幅広く研究しているのよ」
「へェ、そいつは興味深い」
俺は思わず身を乗り出す。
この島のことをもっと知りたかった。
トスカが話していた”観覧車”を動かしていたものは一体何なのか、
汚染の状況はどこまで進んでいるのか、
そして、それは現在のカタコンベの技術で「清浄化」は可能な範囲なのか。
もし可能ならば、取り返しのつかないことになる前に早急に手を打つべきだ。
まず、優秀な人材を十人は派遣させよう。
はやく連絡を取らなくては………はやく………
「………で、手伝ってもらってるワケ。………………………聞いてる?」
エミリオの声に、ぼんやりとしていた頭が冷水を浴びせられたかのように急速に冴えていく。
ーーなんだ?一体どうした。
右手の指を動かして、それが、自分の意思で行った動作であることを思わず確認する。
「ちょっと、アナタ大丈夫?」
「強く殴りすぎたか」
ヴァージニアの声は、心配そうな様子をはらんでいた。
「すまねェ、なんかぼんやりしちまってる。で、なんだッて?」
二人は一瞬顔を見合わせたが、仕切りなおすように先程話しただろうことをもう一度説明しだす。
「エミリオには土地開発の面で色々と協力を仰いでいる。何せ、このレストランの食材は全て彼の自家栽培によるものだからな」
そうなのよ、と少し得意気な様子でエミリオ。
「その代わり、あたしが忙しい時はリィにウェトレスとして手伝ってもらっているの」
「それくらいしか、返すものがない」
私には料理ができん、と憮然とした態度でヴァージニアは言った。
料理が得意な男ーいや、女のような男というべきなのかもしれないが、そして料理ができない女………この奇妙な二人組みをまじまじと見詰め、ふと重大なことに気付く。
こう並ぶとエミリオの方が遥かにがたいもいいし、背も高いから何も喋らなければ美男美女カップルで通る………等というそんな下らないことではない。
「ッてか、金は?普通にお互いを必要な時に金で雇ったらどうだ?」
ヴァージニアはやや眉を顰め、飽き飽きとした様子を露にする。
エミリオは苦笑いを浮かべ、それはね、と言葉を紡ぐ。
成程、予想通りの反応だ。つまりは………
「ここにはそういった通貨観念がないの」
………………………だろうな。
古代人の残した遺跡に住み、自ら土地を耕して生きる不思議な人間達。
ここに住む彼らでさえもまだ未開の地であろうこの島では、生活をする為にまず協力し、助け合うことが必要不可欠だろう。
通貨という観念が生まれるのは、まだまだ先のことのような気がする。
「カタコンベから来た人間は必ずそれを尋ねるな。金とはそんなに大事なものなのか?」
ヴァージニアが、素朴な疑問を口にした。
俺に尋ねるというより、自問しているかのような口ぶりだ。
「どッちかっつーと、金より名誉の方が大事かもな。俺の居た場所では、時に金より名誉で大きな物事が動く場合がある」
勿論、金も大事だが、と後からつけくわえておく。
「不思議ねえ、そんなものがなくてもあたし達はこうやって暮らしていけるのに」
「理解できん」
ヴァージニアが肩を竦める。
その様子に俺は思わず口の端を上げて笑って見せる。
「行為に返す礼は行為か………なかなか立派じゃねェか。でもお前さん、さっき自分が言ったことを覚えているか?」
「何だ」
怪訝そうに俺を見るヴァージニアの声には、急に何を言い出すんだ、と言った意味合いのものが含まれていた。
「エミリオに対して、「それくらいしか返すものがない」っつーアレだよ。
もし、「それくらい」ですら返すものが居ない奴が居たら?」
「物で返せばよかろう。例えば、食べ物や………」
「そこだよ」
その言葉を遮るように、俺。
「全員が共通の「物」を使って返す方針………それが通貨観念さ。対象が行為であれ、他の「物」であっても適用される。こうすれば、一切の私情を挟まずとも物事が穏便に進められる場合があるだろ」
ふむ、とヴァージニアが唸る。
その横でエミリオはわかっているのかわかっていないのか、なるほどねえ、としきにり頷いていた。
「つまり偉業を成せば、その行為に見合った分の名誉と金が与えられる。
名誉があるっつーことは金もあるっつーことだよ。
名誉によって得た人望プラス金。
カタコンベにはこれに勝るものはねェ」
「でもそれって、結局は私情が絡むってことじゃないのかしら」
「まァ、強く絡むかまったく絡まないかのどちらかだな」
「とんだ綱渡りだ。私にはやはり行為には行為で返す方が性にあっている」
だが、とヴァージニア。
「テオドール、貴様なかなか面白いな。今度私の家に来てみないか」
「………………随分大胆なお誘いだな。いいのか?」
ちらりとエミリオの方を見た。
ーーー何だ?
夕日色の瞳には、緊張と恐怖の色が浮かんでいた。
なにか恐ろしいものでも見るかのように、ヴァージニアに視線を向けている。
決して恋慕の情を挟んだ嫉妬や、怒りなどではない。
はっきりとした「恐怖」の色だ。
「構わない。カタコンベの文明の足元にも及ばないだろうが、関心があるならこの島に関する研究でも見ていくといい」
「………ああ………そいつは有り難てェ」
それは願ってもいないことだったが、今はエミリオの様子が気になった。
もう一度、彼の方を見る。
「リィもやるわねぇ………テディ、行ってくるといいわよ。きっと面白いものが沢山見られるわ」
夕日色の瞳を細め、何時ものおどけたような笑顔を俺に向けた。
思い過ごしだったのか………。
一瞬過ぎった考えを、心の中で違うかもしれないと否定する。
イアンの病気やエミリオとの決別、そして説明のつかないエミリオの態度。
トスカの言っていた様々なことが、頭を過ぎる。
まだまだ、ここには俺の知らないことが沢山あるのかもしれない。
それから、俺とヴァージニアはディナーの余り分の料理をもらい、他愛もない話題に花を咲かせた。
エミリオは作るついでに味見しながら食べたと言い、何も口にしなかったが、俺たちの話には勧んで参加してきた。
今日のディナーメニューはマッシュルームがまるごとはいったガーリックライス、それにレンズ豆のスープだ。
お世辞にも豪華とはいえないが、素朴な味がまたいい。
ちなみに例の不味そうなスープも同じ食卓に並んでいたが、それだけは口をつけず残した。
食べている間も時々エミリオの様子が気にしていたが、あれからとくに変わった様子はない。
思い過ごしで片付けてしまうのは簡単だが、今後の自分の身の振り方を考えるとそうもいっていられないだろう。
何しろ、この島に俺が頼れる人間は少ない。
その一人一人を見極めることは大切なことだ。
デザートのクリーム・ブリュレを食べた後、ヴァージニアは自宅へと帰って行った。
後に残された俺とエミリオになんとなく気まずい空気が流れる。
エミリオに聞きたいことは沢山あったが、また日を改めてからの方が良いかもしれない。
休もうかと告げようとしたところ、ふいに呼び止められた。
「あ、そういえばどうだったの?トスカの家へ行ったんでしょう」
その時、この極めて単純なエミリオの思惑に気付く。
ようは俺に薬を届けさせることで決別中のイアンの様子をそれとなく観に行かせたのだ。
やれやれ、印象に似合わずなかなか策士のようだ。
「あァー………薬は受け取り主に拒否されたが、置いて逃げてきた。っつーか、お前さん方喧嘩でもしてンのか?トスカが心配してたぞ」
「お前さん方………って、イアンのことね」
エミリオは苦笑して、まあ座って、と食卓の椅子から立ち上がりかけた俺にもう一度座るよう促した。
俺は素直にそれに従う。詳しいことを聞けるチャンスかもしれない。
「そう、まだイアンはあたしのことを………」
「何かあったのか?」
そうね、とエミリオは目を伏せ、言葉を選んでいるようだった。
「トスカはこのことを知らないのだけれど、一度だけ、トスカをあたしが引き取るってイアンに言ったの」
「その前にひとつ確認させてくれ。トスカはイアンの子供じゃないのか?」
エミリオは首を振る。
少し気おくれしたように口篭り、どう切り出そうか考えてる様子だった。
ややあって、ゆっくり口を開く。
「トスカは、カタコンベの人間の子供………つまり遭難者なのよ」
「それは………初耳だな」
まったく、気付かなかった。
気付けという方が無理な話かもしれないが、それほど彼女はこの島に馴染んでいるように見えたのだ。
それは、彼女の醸し出す雰囲気が、不思議とこの島の不可解な部分と合致するせいなのかもしれない。
「あの子、あまり人に懐かないのよ。あんなに小さな子がカタコンベからここまできた理由………少し考えれば穏やかものではないってわかるでしょう?そのせいもあるのかも」
そもそも、この島へ来る手段はひとつしか思い当たらない。
汚染を避け、生き永らえる為に空路も海路も閉鎖されている俺の故郷、カタコンベ。
人類の殆どが地底に住み、地底で死んでゆくさまを誰かが皮肉を込めて『カタコンベ』(地下墓所)と名づけた。
厳しい階級制度に縛られる管理社会であり、位の高い者程下の階層に住み、贅沢な暮らしが許された。
だが、逆も然りである。
地位や名誉、金のないものは最も汚染状況の酷い地上、もしくは上の方の階層にしか住むことを許されず、飢えと病気に苦しめられる。
延命手術もろくに受けられないそれらの貧しい人々は、深い階層に住む人間の寿命の半分も生きられないと言われている。
地下と地上を例えて言うならば、天地の逆転した天国と地獄なのだ。
ところで、俺がどのような状態でこの島へ来たかは覚えているだろうか。
カタコンベの最下層、つまり最も位の高い者………世間では『イシュタム』と呼ばれている人間が住む地下五十五階で生まれた俺は、延命手術のすぐ後に自分の身に危険が迫った時に起動する自己防衛機能をつけられた。
自己防衛といっても、身体に一定以上の外傷的なダメージを受けた際に肉体機能を一時的に停止させるだけの代物であり、停止している間に手を施さなければどのみち死ぬことになる。
そして、俺はその些か頼りない「自己防衛機能」に見事命を救われてしまったことになる。
汚染で汚れた海に投げ出された俺に待っていたのは、安らかな死ではなく自己防衛機能『ソムニウム』によってもたらされた肉体の停止だった。
停止してる間に汚染のない(と、エミリオは言っていたがイアンの例があるのでいちがいにそうも言えないが)の島に運び込まれ、何事もなかったように一命を取り留めた。
エミリオによれば、カタコンベからの遭難者は必ず俺のような肉体停止状態のまま発見されているそうだ。
カタコンベ出身らしい、トスカのことを考える。
この島に遭難してきたということは、必ず自己防衛機能『ソムニウム』を身体のどこかに埋め込んでいるはずだ。
そして、『ソムニウム』はカタコンベ地下五十三階以下の人間にのみにしかつけることが許されていない上、手術にも莫大な費用もかかる。
これらのことを総合するとトスカは間違いなく上流階層の人間、『イシュタム』だ。
『イシュタム』の子供がわざわざ地上まで連れて行かれ、海に捨てられる理由………
考えれば幾つか思い当たるが、どれも穏やかなものではないことだけは確かだ。
「何か思い当たることでもあるの?」
急に黙した俺に、エミリオが遠慮がちに尋ねる。
「あるっちゃあるが、ないと言えばない」
「そう」
詳しくは聞かないわ、と言い、彼なりに何か考えている様子だった。
「しかしだ、どうしてトスカをお前さんが引き取るとイアンが怒るんだ?」
「イアンは、人にあまり懐かないトスカが数少ない心を許した相手なの。彼は元来優しい性格だから、情が移ったんでしょうね」
「………それだけか?」
「いいえ、あたしのことを嫌っている理由があるわ」
もったいぶった口調で話すエミリオに、少し苛立ちを感じた。
「この島を開拓する為に研究している主だった人間は、手伝いのあたしを含めて三人だったの」
「………だった?」
「ええ、リィとあたしと………イアンもそうだった。さしずめ、リィは頭脳、あたしは知識、イアンは肉体労働といったところかしら。リィが考えたことにあたしが助言する、そしてそれを最終的に行動に起こすのがイアンの仕事」
「それで?」
俺は続きを促す。
「初めはうまくやっていたのだけれど、意見が対立するようになってね………。リィはあの通りの性格だから、完全に傍観を決め込んでいたけれど、あたしとイアンの考えはまったく異なるものだった。そのうち、彼は島の開発について完全に降りると言い出して………」
それからよ、とエミリオが困ったように眉根を寄せる。
「あたしとイアンが気まずくなったのは」
「待てよ、お前さんはあくまで手伝いだったんだろ?」
「そのつもりだったわ、でも………どうやらあの時は口出ししすぎたみたいね」
苦味を含んだエミリオの口調から当時ひと悶着あったことが伺えるが、このおっとりした青年がイアンと真っ向から揉めている姿はちょっと想像がつかない。
「会ったならわかると思うけれど、イアンは………病気よ」
ああ、と俺は短く返す。
考えていることをなるべく、顔に出さないように。
「あの身体ではもうトスカの面倒を見るのは無理だと思ったの。
だからあたしがトスカを引き取る代わりに、自分の身体の療養に専念してほしい、と」
「イアンは………その、何の病気なんだ?」
わからない、とエミリオ。
「この島にまともに医者と呼べる人は居ないわ。せいぜい、あたしが栄養のあるものを作って皆に食べさせることくらいが関の山」
「まさか、それでレストランを?」
「ええ、でも、それでも死者は大勢出る。身体の至る場所が序々に腐り始め、最終的には死に至る………全員、同じ死に方よ」
イアンは、長くないわ
エミリオの言葉が俺の心に重くのしかかった。
塩の香りの入り混じった夜風に凪ぐカーテンを引く。
風が吹き込む窓辺の片隅に、小さな鉢植えが置いてあった。
エミリオが飾ってくれたものだろうか………
土の上に顔を出したばかりの小さな芽が、月明かりを受けてきらきらと光っていた。
今朝寝かされていた部屋を自由に使っていいと言われたので、俺はお言葉に甘えてエミリオのレストラン兼自宅に暫く留まることにした。
先程エミリオが語ってくれたことについてはまだ詳しく聞きたいことがあったが、とりあえず今日はお開きということで互いに自室に篭った。
最後に、おやすみと告げたエミリオの少し悲しげな表情を頭の中で反芻しながら、俺は故郷の『カタコンベ』のことを考える。
便利さを手に入れる代わりに、人として、ありのままの姿を失った地下世界『カタコンベ』。
そうなるまでの過程は色々あった。
例えば、犯罪防止対策の為に世に出回った電脳機器「トラッド」。
当時、一般家庭で使われている殆どの生活用品を形成していた有害鉱石、「ローチャコ」。
何より決定的なのは、世界中にありとあらゆるエネルギー源を供給していた人工生命体「エンブロイド」。
役目を終えたエンブロイド達の死体から発せられる瘴気は、人体に数え切れないほどの悪影響を及ぼした。
やがて「汚染」というひとくくりの具体的な社会問題となり、便利さに甘んじてそれらを長い間見て見ぬふりをしてきた人間達に与られた罰はあまりにも大きなものだった。
生命力の低下を初め、知らぬ間に生み出される病原体の数々………
対抗策を出す前に、次々と命を絶ってゆく人々。
事を重大にみた政府はやがて重い腰を上げ、汚染対策専用の医療チームを結成した。
環境生活部第一級環境保全対策課『イシュタム』
後に絶大な地位と名誉を得ることになる俺たちの祖先、第一号だ。
医者や科学者は勿論、自然保護研究家までをも加えた大規模な医療団体は地下に施設を作り、朝から晩まで研究に明け暮れた。
数年後、多くの犠牲者を出しつつも彼らの努力は実り「生まれた直後に汚染に耐えられるよう身体の構造を作り変える技術」が発表された。
この時すでに『イシュタム』は世界中の権力者から直接的な支持を受けており、先の技術が年々向上するにつれ、彼らの地位はもはや国内屈指の政治家達の上をもゆくようになっていた。
更に数年後、団体から国家レベルまでの人数に膨れ上がった医療集団は世界随一の権力を誇るようになる。
彼らが湯水のように金を使い生命に関するありとあらゆる研究を行う一方、序々に貧富の差は激しくなり、やがて世界は難民で溢れかえった。
それでも「研究」は留まることを知らず、当初の目的だった「人間の生命維持と環境保護」はいつの間にか「人体の不老不死への到達」へとすりかえられ、世はますます混沌への一途を辿った。
そもそも、事の問題だった「汚染」とはなんだったのだろうか。
そのひとつひとつを紐解き、環境改善には望まなかった『イシュタム』。
彼らが自らの肉体の改造に異様なまでに固執したのは、環境改善をするに至るにはすでに遅すぎたせいもあるのかもしれないと言われている。
ここで『イシュタム』結成時の話まで戻るが、当時彼らの中には自然保護研究家をはじめ、さまざまな環境科学を生業とする者たちが含まれていた。
「人体の不老不死への到達」という目的が見え隠れしていた時、これは当然のように用済みになるはずであったが、環境科学者たちはそんな瀬戸際のタイミングで秘密裏に動いていたプロジェクトを発表したのだ。
地底世界への完全移住。
瀬戸際まで追い詰められた彼らの苦肉の策だったのかもしれない。
ともあれ、長い間地下施設で暮らしていたイシュタム達にとって地底は至極居心地の良いものになっていたし、汚染の感染力も軽減できるということもあって、幸か不幸かこのプロジェクトは絶大な支持を受けた。
当時まだ生まれてもいない俺には詳しいことはわからないが、未だ『カタコンベ』が存在し、そこで大勢の人間が暮らしているということは事実上の成功だったといえよう。
あくまで、『イシュタム』にとってはだが。
『カタコンベ』が地下五十五階まで存在し、階層ごとに区切られ厳しい階級制度の下に敷かれているのは先に話した通りだ。
俺は最高の地位を持つ者たちだけが住むのを許される五十五階、層にして八階層で生まれ、二十年の時を過ごした。
もし、俺が最下層に住む『イシュタム』の中でも医者や研究員の立場であったなら何も不 自由のない二十年間を今まで送ってこれたことだろう。
だが、俺が生まれてきた理由自体がイシュタムたちの望みを叶える為のものであったため、最高の地位を約束させられながら、日々最低な生活を強いられた。
多くは知られていないが、世の中にはそのような人間も存在するのだ。
ふと思考を停止させ、鉢植えの飾られた窓辺から離れる。
とても疲れているがすぐにでもやらなければならないことがあった。
この部屋には確か大きな鏡があったはず。
今朝の記憶を掘り起こし、やがて部屋の隅で埃の被ったドレッサーを見つける。
これも古代人の残した遺産のひとつなのだろうか………随分と長い間使われていないようで、化粧台には埃が分厚く積もり、肝心の鏡は白く曇っていた。
気休めに鏡の表面を指先で擦りつつ、先程キッチンから取ってきたくだものナイフをポケットから取り出す。
磨き上げられた他の食器とは別にやけに古びたナイフがキッチンの引き出しの隅で見つかったのでこれならば汚しても怒られないだろうと思い、拝借したのだ。
擦ったことで先程よりは若干映りがよくなった鏡を覗き込むと、目つきのわるい自分の顔が見えた。
随分手を加えられてしまったが、元は遺伝子操作によって人の手で生み出された肉体なのだから、もう少し人柄の良さそうな外見にしてくれてもよかっただろうに、と今更ながらも思う。
まあ、根がお世辞にも柄のいい性格ではないから、多少諦めもつくってモンだが。
俺は曇った鏡を覗き込みながら上着の襟首をまくり、首の付け根をさらけ出す。
右の鎖骨の下あたりにくだものナイフをあて、躊躇いもなく肉を一気に切り裂いた。
裂けた肉の隙間からどろりとした透明な体液があふれ出し、それと共に俺の身体から小石ほどの大きさのものが勢いよく飛び出した。
カラン、と音をたてて床に転がり落ちたそれを拾い上げ、ほっとため息をついた。
暖かいーー
微かに、脈打つように震えるそれを丁寧に布に包みベッドの横のサイドテーブルの上に置く。
一瞬ナイフをキッチンへ返そうと思ったが、流石に疲れていたので同じくサイドテーブルの上へ。
今日中にどうしてもやらなければならなかったことはこれで終わった。
雪崩れるようにベッドに倒れ込み、後は泥のような眠りが俺の身体を支配するのを待った。
自ら切り裂いた傷口は、今は跡ひとつ残さず塞がっている。ほんの、数分の出来事だった。
これは、俺が『カルティキプロジェクト』の被験者であるが所以。
医者や研究者の知識を補完しておく「容れ物」ーーそれが俺だ。
カルティキプロジェクト
イシュタムの間でそう呼ばれている、古くからある重要な研究機関だ。
功績を残した医者や研究者の遺伝子パターンを、別の丈夫な素体に移し変えてゆく。
ある意味、「人体の不老不死への到達」が大成功を収めている唯一の例といえよう。
俺は、とある決められた研究者の素体が古くなった時に移し変える「次の素体」として普通の人の何倍も丈夫に作られた存在。他のものになりかわる為に人の手で生み出された容れ物だ。
カルティキのこどもたち、と俺達は呼ばれた。大人になってからも、そう呼ばれ続けた。
なぜなら、彼らにとって俺らが「大人」になるのは容れ物としての役割を果たした時なのだから。
眠りに落ちる直前、俺の目の奥ではチカチカと星のようなものが瞬いていた。
それは、まだ自分の存在の意味も知らない頃、カタコンベで見た人工の星空の思い出だったのかもしれない。