プロローグ はじまりは灰色
一、「形」になってもそれを無闇に太陽の下に出してはならない。
二、それに見かえりを求めてはいけない。
それは決して育てた人間に恩を返さない。
三、それが何処へ行こうとも後を追ってはならない。
それの好きなようにさせること。
四、それを生物学上のカテゴリに当てはめてはならない。
それには人権もないし、また法律も関与しない。
五、それに名前をつけてはならない。
名前を与えることにより、情が移るからである。
電気のブレーカーが落ちた時のような音が頭の奥で鳴り響いた。意識は遠くなり、指先から序々に感覚が失われてゆく。
不思議なことに、完全にソムニウムに入っても微かに意識は残っていた。
穏やかな水の流れに身を任せ、さざ波の音を聞いているとなんだかとても懐かしい気持ちになる。
そういえば、波の音は母親の胎内に居た時の音に似ていると何処かで聞いたことがある。
もしかしたら、私の中の、目覚めかけているほんの僅かな遺伝子がその記憶を呼び起こしてくれているのかもしれない。
ああ
このまま死ぬことができたらどんなに幸せだろう。
何時もは静かな海岸が、その夜はやけに騒がしかった。
「エミリオ、どうしたんですか」
幼い少女、トスカは眠い目を擦りながら裸足のまま砂浜を歩いてきた。
エミリオと声を掛けられた人物は振り向き、おぼつかない足取りでこちらにやってくる少女をそっと抱き上げた。
「寝ていなきゃ駄目じゃない」
「でも」
重い目蓋を上げながらトスカが指を指した先に車椅子に乗った人物が見えた。
車輪に砂が絡み、車椅子で海岸を進むのは困難なのだろう。
なかなかこちらへ来ない彼の様子に、エミリオは抱いていた少女を砂浜に下ろすと車椅子を押すのを手伝った。
一瞬、車椅子の男はもの言いたげに顔を上げるが、ややあって諦めたように息を吐くと海の方を見やる。
「来たか」
誰ともなしに呟く。
エミリオは何も答えなかった。
じっと、海の方向を見詰めている。
「こわい」
夜の海は、まるで暗がりに潜む怪物のようだった。
波が白い牙をこちらへ向ける度に、トスカは恐ろしげに首を振った。
ひとり、ふたりと。
海岸には序々に人が集まり出していた。
それらのぼんやりとした影は、人というよりはまるで生気の宿らない人形のようだった。
誰もが口を閉ざし、海の方を見詰めている。
大勢の人々が佇む中、ふいにエミリオは海へ向かって歩を進めた。
波打ち際の柔らかい砂を踏み、怪物の口の中へと身を躍らせる。
白い牙の間から吐き出された、固く、冷たい、鉄の塊。
それはゆっくりと、しかし確実にこちらへと運ばれてゆく。
エミリオは手を差し伸べ、抱擁するようにそれを腕の中へ招き入れた。
「古の遊園地へようこそ………」
海岸の上に佇んでいた影たちは、空へ向かって咽び泣いた。