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自己紹介

「斉藤由紀です」

 もう一度の自己紹介……。

「緊張するね。大人がいると」

 僕はあなたの存在の方が辛い。

 そして、僕の部屋は、また無音の世界に包まれる。

 トイレ行きたいな。

 早く帰らないかな。

 一時間程あと、母親はお菓子を持ってきた。ボランティアの女は、二人きりの方が良いかもしれないと提案していた。

 そして…、またも無言無音の時間だけが過ぎていく。

 僕にとって、壁を見つめながら時間を捨てるのは、いつものことだった。

 ただ、いつもと違って他人の気配がある。

 それは強い苦痛だった。

 パンツのおかげで退屈ではないけれど……。

 無音の世界を破ったのは、ボランティアの女だった。意心地が悪いのは、彼女も同じなのだろう。そして、僕より先に根を上げたのだ。

 そう思ったのだが、彼女は一つの譲歩案を持ち出してきた。小さく落ち着いて声で。

「顔見せて。自己紹介だけしてくれないかな? 今日はそれで帰るよ」

 これは、譲歩に見せかけて『あなたが挨拶してくれるまで帰らない』と言う脅迫だ。本当は自分も帰りたいくせに、この腹黒パンツウーマンめ。

 無言のまま、数時間も居続けるる彼女だ。時間によるタイムリミットは無いのかもしれないと思った。

 

 さらに、一時間ぐらいが経っただろうか?

 僕はついに脅迫に屈する事にした。この意心地の悪い空気が支配する僕の部屋で、ひっそりと行われていた我慢大会に負けたのは、部屋の主の僕だった。

 彼女は綺麗な声とは裏腹に、とんでもない頑固者だ。

 それに、この部屋の意心地が悪いだけじゃないんだ。僕の膀胱は限界を告げている。おしっこしたい。

 僕は上半身だけを起こし振り返った。

 彼女は先ほどと同じ位置に椅子を構え、ジッと僕を見つめている。

 予想外の事態に、頭に血が上り、顔が熱くなった……。

 ボランティアの女は、声から想像していた以上に美人だった。綺麗な黒髪は、長く腰まで届いていた。それが、日本女性らしい慎ましさを感じさせる。そして、座っていても身長は低いのだろうな、と予想できる程ミニサイズだった。

 いや、そんな事はどうだって良いのだ。

 何より、目が合った瞬間に、僕にくれた笑顔が眩しかった。

 静かだった口調の印象とは真逆で、手で隠すことなく口を大きく開けて、整った顔が崩れるのを恐れない、そんな大胆な笑顔だった。

 笑顔の次に印象的だったのは、怯えた大きな目だった。  

 怯えた? 何故彼女は怯えている?

 多分、この時僕は、彼女の弱さを嗅ぎ取った。

 ただ、不思議なのは彼女が朝から来てると言う事実は、今日は学校が休みだと言う事実を示しているはずなのに、制服を着ていたのだ。

 僕は、パンツは別として、唯の美人になびかないぐらいは、感情が死んでいる自信はあった。

 それでも、彼女の笑顔には見とれてしまった……。

 あまりに緊張して、うまく心の中にある言葉を、口から出力する事が出来ない。

「た、高橋 なお……」

 なんとか、名前だけは告げることが出来た。

 だけど、直人の『と』言えなかった。正確には、口だけが動き、音は出なかったのだ。

 いち早く『喋る』と言う行為から開放されたい、そういった気持ちだけが先走った。

 それでも、彼女は笑顔で答えてくれた。これは嘲笑ではないと確信を持って言える。

 僕は、この人を憎みながらトイレに行きたくて頑張ったのに、それでも、彼女はその小さく愚かな努力すら認めて喜んでくれている。

 そんな勘違いをさせてくれる程に、眩しい笑顔だったからだ。

「斉藤由紀です。よろしくね」

 彼女は、三度目の自己紹介をしてくれると部屋から去っていった。

 僕は、彼女が椅子から立ち上がる前に、いつもの壁を見つめるポジションに戻ってしまった。

そのため、ミニマムだろう、彼女の身長を確認できなかった。


 突然の侵入者から開放された僕は、すぐに時計を確認する。

 時間は十六時だった。母親が朝ごはんを持ってくるのは毎日七時で、それを片付けに来るのは九時頃だ。

 つまり、九時近くから、彼女はずっと隣で座っていたらしい。昼飯も食べずに……。

 正直に言うと、長く続いた僕の変わらない生活に、突然踏み込んできた斉藤由紀に、少しの怒りはあった。

 だけど、彼女の眩しい笑顔がとても嬉しくて、僕は幸せな気分だった。

 そして、パンツ……。

 僕はその日、彼女の笑顔とパンツの残像に胸が圧迫されていた。これは、幸せな苦しみだ。

 その残像を見ながら、僕は決して忘れないように、何度も何度も暗誦した。『斉藤由紀』と何度も繰り返した。

 由紀ちゃんか……。

 永遠に続いてしまうのではないかと不安だった、変化も無く無気力な毎日、壁の模様を見つめるだけの毎日、今日はそんな昨日までとは違っていた。

 そして、僕は『食う。寝る。性欲』人間の三大欲求が揃ってしまった。

 僕は人になれた気がした。

 でも、性欲が蘇った事は実に情けない事だ。

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