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挫折

 十二月十七日。土曜日。

 時計を見ると正午になっていた。本当ならば、職員さんと利用者さんの食事を眺めながら、早く資格を取って、この時間も利用者さんの手助けを出来る様に成れると良いな。

 なんて思っていたはずだった。

 だけれども、私は家にいた。

 いつまでも落ち込んでてはいけない。

 洗面所に顔洗いに行くと、ウサギのような目をした私が映った。

 やっぱり気持ちは落ち着かなくて、直ぐにベッドに潜り込んでしまう。

 今の私は、まるで直人君みたい。

 

 事件は突然だった。

 施設に着くと、明子さんが出迎えてくれた。

「本当に毎週ありがとうね」

 もう、お礼なんて良いのに。私は楽しんでるよ。

 私なんかで、役に立っているらしい事が本当に嬉しかった。

 それに、土曜日なら、学校に行けるようになっても休みだ。

 これからずっと、来るなと言われるまで来たいと思っていた。

 午前中は、みんなで一緒に遊ぶ事になっている。

 私の予想を裏切って、トランプが定例行事という事は無かった。

 今日はサンタクロースのボールを模した赤いボールを投げるゲームをした。

 煙突の形をした筒の中に入れると得点になる。煙突は大小様々で、小さくて遠い方が高得点になるのだ。

 キクさんが苦戦している。頑張れ! と心の中で応援する。声に出せるようになりたいな。

 タケゾーさんは運動神経が良いみたいで、二位と大差をつけて優勝だった。

 シズカさんも嬉しそうに褒めている。

 なんだか、見ているとほのぼのするな。

 だけれども、歌の時間になるとタケゾーさんが険しい顔になる。私は、タケゾーさんに近寄った。

 私も音楽は好き、だけれども、人前で歌うのは抵抗がある。だから、タケゾーさんの気持ちもわかった。

「みんなと歌うのは緊張しますよね。でも、タケゾーさんが一緒だと私も歌えるかも」

 普段の私は、距離を人一倍とる癖がある。心の距離もそうだけど、物理的な意味でも距離を取っている。人とくっつくのが苦手だった。

 だけど、そう言った距離を無くすのは簡単で、ただ相手を信頼していれば良いのだ。そして、相手も私を嫌いじゃないと言う自信があれば。

 私はタケゾーさんが男だという事も忘れていた。

 タケゾーさんが突然抱きしめてきた。

 一瞬何が起こったかわからなかった。

 胸に嫌な感触が走る。はっきりと分る手のひらの感触。

 直ぐに職員さんが駆けつけてくれて、私とタケゾーさんを引き離した。

 だけれども、私はその場で動けなかった。タケゾーさんに、激しい憎悪を覚えてしまった。

「すまん。もうしない。すまん……」

 いつも強気なタケゾーさんが、うずくまり、頭を抑えながら、何度も謝罪していた。

 でも、謝ってすむ問題じゃないの! 

 昨日、病院でも我慢できたのに、涙が次から次へと落ちてくる。

 明子さんに抱えられるように、玄関ロビーのベンチまで移動した。

「ごめんね。大丈夫? 大丈夫じゃないわよね。十七歳だもの」

 私は答える事はもちろん、反応することすら出来ない。

「今日は帰ったほうが良いよね。あ、リーダー。私は斉藤さんを送ってきます」

「そうね。お願いするわ」

 またしても、抱えられるように車に乗せてもらい、家に送ってもらった。

「本当は、お話したいのだけど。すぐに戻らなくちゃいけないの。夜に電話してもいいかな?」

 少し落ち着いてきた。やっぱり、言葉は出なかったけど、なんとか、うなずくことが出来た。

「今日はゴメンね」

 予定もなく、リビングで映画を見ていたお兄ちゃんが、心配そうに見ていた。

「大丈夫か?」

 その呼びかけに、答える事も出来ずに『大丈夫』と手だけを上げ、部屋へ直行してしまった。

 涙をこらえられずに、声も出せない私が大丈夫なわけが無い事もわかっていたのに……。

 私は、本当に嫌な人間だ。

   

 ベッドの中で、どれぐらいの時間を過ごしただろうか。突然、部屋のドアの外から声が聞こえた。

「由紀。大丈夫か? 『札幌の輪』のミーティングの時間だけど休むか?」

 気がつけば、ミーティングの待ち合わせ時間になっていた。

 本当は早く行って、弥生先生との談笑をしたかったはずなのに、待ってくれててたんだ。

 本当に馬鹿兄貴なんだから。

「もう、遅刻じゃない! 馬鹿なんだから」

「だってよぉ……」

 ありがとう、おにいちゃん。私は、コートを羽織りドアを開けた。

「急がないと。レディを待たせるなんて、男としてどうなの?」

「大丈夫か? 無理しなくても良いんだぞ」

「大丈夫だから、ほら。走るよ!」

「おぉ」

 『札幌の輪』事務所に着いた時には、一時間も遅刻してしまった。 

 弥生先生は、私たちの様子を見て何か大変な事が起きたと察したようで、学校へ行けない理由を話した時と同じく、優しく私の頭を撫でてくれた。

 そして、お兄ちゃんを指差して。

「洋介君! レディを待たせるなんて。全く、近頃の男は駄目さね!」

 変わりにお兄ちゃんが責められた。

「すみません。もう、絶対に弥生さんを待たせたりしないッス。ずっと先まで!」

 兄は強かった。プチ告白のような事をサラッと言っていた。

 罪をなすり付けてゴメンね。

「冗談さね。よく来てくれたね」

 弥生先生も笑って許してくれた。ゴメンなさい。

 だけれども、私はミーティングに集中できなかった。

 元々この会議では他者の情報も入ってこないし、最後の弥生先生の方針を聞けば良いのかもしれない。

「今週は宿題の経過観察が目的さね。だけど、達成できなくても、ちゃんと悩んで考えてくれてるはずさね。気を落とさずにね」

 お兄ちゃんはミーティングが終わった後も直ぐに帰宅するみたいだ。

 弥生先生や『札幌の輪』の人たちに迷惑がかからない程度に残って良いよ、と耳打ちするしたのだけれど、それでも、一緒に帰ってくれた。

 正直、今日は一人で夜道を歩くのが怖かった。

 私は、家に着くと再びベッドに倒れこむ。だけど、さっきまでとは違う。

 結局、私は大人たちに甘やかされて元気になっていた。

 気分は落ち込んだままだけど、普通のフリを出来るまでには回復した。

 そんな時、約束だった明子さんからの電話が鳴った。

 そう言えば車で送ってもらう時も、家の住所も知ってたし、なんでかしら。

 理由は直ぐに思い当たった。『札幌の輪』の登録カードに書いた記憶がある。『身分の確認のため以外にはこの個人情報は使いません』って書いていたのに……。軽く規約違反よね。

「元気? じゃないよね。今日は本当にごめんなさいね」

「いえ」

 これじゃ、怒ってるみたい。ジェスチャーも伝わらないし、電話って苦手だ。

 うまく話せない自分自身はもっと苦手。

「ごめんなさい。タケゾーさんってしっかりしているから。私たちも油断したの」

「はい」

「きっと、由紀ちゃんがすごく魅力的だから、恋に近い感情を抱いてしまったの」

「はい」

 納得できないわ。好きならこそ、相手の嫌がるような事をするもんじゃないはずよ。 

「あのね。歳をとると、いろんな機能が弱ってくるのは想像つくでしょ。だからね。そう。理性的な部分も弱ってしまうのよ」

「はい」

 そうなのかな。だけど……。

「私たちだって思わず叫んでしまったり怒鳴ってしまったりするでしょ? それに近い感覚だったのよ」

「はい」

「きっと、チラッと思ってしまったのよ。かわいい由紀ちゃんを抱きしめたいってね。男の人って、いくつになっても少しエッチだから……。普通の人は我慢できるの。だけどね……」

 そこで、明子さんは少し黙ってしまった。

「どうしても、うまく感情がコントロールできなくなってしまう事があるの。歳を重ねるとどうしてもね。だからってセクハラを許しちゃ駄目よ。私たちにだって人権があるんだから!」

 そうなのかもしれない。

 私の脳裏に、うずくまったタケゾーさんが映し出された。

「こう言うときに言う事じゃないのはわかっているけど、セクハラを回避するのも教科書に書いてない必要な技術かもしれないわ」

「はい」

「あとね。今日の事は許せないと思う。だけど、罪を憎んで人を憎まずって言うでしょ? どうかタケゾーさんを許してあげて」

「はい」

「私たちが強く怒れないと知ってて、わざとセクハラする人もいる。だけど、タケゾーさんは違うと思うでしょ?」

「はい」

「それじゃあ、今日はごめんね」

「いえ。電話してくれてありがとうございます」

 明子さんの話を聞くまで、怒りと悲しみしか沸いて来なかった。絶対に許せないと思った。 

 だけれども、あの丸まったタケゾーさんが頭をよぎる。

 強気のかけらも無い、弱々しくなってしまったタケゾーさんを。


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