夏目漱石さん
十二月十日。土曜日。
ディケア施設に行くのが楽しみすぎて、ついつい早く家を出てしまった。
三十分程、余裕を持って家を出たのだけど、見知らぬ街で迷ってしまい、結局到着したのは十分前だった。
時間的には、丁度良かったのかもしれないわね。
玄関ロビーにある、『御用の方はこのボタンを押してください』と書かれたボタンを押すと、先週と同じく明子さんが出迎えてくれた。
「おはよう。今日はよろしくね」
「おはようございます」
今日からは、レクリエーションの準備も出来るのだけれど、私が来た時には殆ど終わってしまっていて、食堂までトランプや折り紙を持って行ったり、机を並び替えたりするぐらいだった。
そして、この一週間、私なりに考えたのだ。
この前、タケゾーさんが少し照れくさそうにしていた事が、どうしても気がかりだった。
それは、子供の遊びをやる事に抵抗を覚えているように見えたのだ。やってみれば楽しんでくれてたみたいだけど、そのスタートにためらいを見せていたように思う。
そこで、音読なんてどうだろうかと思ったのだ。著作権の切れた昔の偉人さんの文章が『青空文庫』さんというホームページに載っていた。
私だって、名前ぐらいは知っている、『夏目漱石』さんである。百年程しか経ってない、つい最近の本なのに、私には読むのに凄く手間取るような本だった。
きっと、タケゾーさんなら好きなんじゃないかな。
それを、大きめの文字で印刷してきたのだ。
「これなんですが、グループ活動の時に駄目ですか」
私は、そのプリントを見せてみた。
言葉が足りないせいか、明子さんは少し考えている様子だわ。
「みんなで回しながら読んだりしたいです。音読は頭の体操にもなると思うので」
「なるほどね~。でも、大丈夫かな。う~ん、とりあえず、様子を見てみましょう」
あんまり良くない反応だった。
良いアイディアだと思ったのだけど、素人が考える案は駄目ね。
そして、利用者さんが集まってきた所でレクリエーションは始まった。
トランプは定例行事の位置づけみたいで、やるにやるのだけど、今日はババヌキ一回で終わりだった。
その後は、みんなで歌を歌った。ず~っと昔から人間に根付く文化だもの。やっぱり音楽は良いものね。
ただ、タケゾーさんが恥ずかしそうなのが気になる。
昼食後のグループ活動の時間は、前回と同じメンバーだった。信頼感を築くためかな?
私たちは前回と同く、折り紙から遊んだ。折り紙も予習と復習はしてきたので、鶴ぐらいは折れたのだけど……。
「また、折り紙か! ここはいつから幼稚園になったんだ!」
タケゾーさんは、前回よりも怒っている様子だった。やっぱり、歌の時間が楽しめなかったんだわ。
「あらあら。そう言うなら、前回教えた鶴ぐらいは折れるんでしょうね? 幼稚園児が出来るのに出来ないわけないよね?」
「ふん! ちょっと待っておれ。ほえ面かかしてやる」
シズカさんの挑発に、なんだか険悪なムードを感じ取ったのだけれども。
「どうじゃ。このぐらいの事、簡単すぎるから怒っておるんだぞ」
「まぁ! 凄いわ。私なんて、何度も練習したのに。お前さんは才能あるわよ!」
私も、何度か練習して、やっとスラスラ折れるようにになった。
だけど、タケゾーさんの折り紙技術は、私よりもずっと早いスピードと綺麗さだった。
タケゾーさんは、少し嬉しそうにしている。前回と同じく、シズカさんによって、あっという間に丸め込まれてしまった。
いくつになっても女の人って凄いのね。
ふと時計を見ると、残り時間は三十分ぐらいしかなかった。楽しい時間が過ぎるのは、早いものね。
時計から机に視線を戻す時、明子さんと目が合った。
それが合図になったのかもしれない。
「今日は、由紀ちゃんからのお土産があるの。じゃん! かの有名な夏目漱石さんの『吾輩は猫である』よ!」
試験的に残り三十分の所で試してくれるみたい。気になるのは明子さんの表情が、いつも明るすぎる笑顔なのに、今は少し暗らかった。
私にも、その理由が直ぐにわかった。
「あら。大きい文字はありがたいのだけど、ちょっと複雑な漢字は見えないわ」とキクさん。
「私は読めるけど、意味がわからない言葉がいくつかあるわね~。これを読むのは辛いわ」とシズカさんが、難色を示したのだ。
ただ、タケゾーさんは嬉しそうだった。初めて、本当に喜んでくれているタケゾーさんを見た気がする。
「なんじゃ、お前ら。由紀が読むのに、年長者の我々がしっかりせんでどうする。どれ。わしが読んでやる」
タケゾーさんは明子さんから、奪い取るようにプリントを受け取ると、得意げに読み始める。
ただ、タケゾーさんごめんね。私も辞書を片手に何とか読める程度よ。一ページ読むのに普通の小説の二倍位かかったわ。そして、この本を持ってきたのは、ネコさんが好きだからと言う理由だけなの。
タケゾーさんは説明を加えながら読んでいく。今はあまり見ない名詞は他のに例えて、動詞は辞書のように丁寧で、そして何より、演技調に読むのが上手だった。
気がつけば、三十分はあっという間だった。時間切れを告げるベルが鳴ると、最初は不安そうだった、キクさんとシズカさんが二人揃って声を上げる。
「そんな~、続きが知りたいわ」
「そうじゃろ、そうじゃろ。来週も絶対来るんだな。他の日でも良いが、お前ら五人が揃うのは土曜日だけじゃろ」
タケゾーさんの優しい台詞も初めて聞いた気がする。
それにしても、五人揃ってか。すっかり、聞き入ってた私の事もバレているみたい。
「そうね。それじゃ、来週もこのグループになるようにお願いするわ」
明子さんが曖昧な約束をする。
「そうしなさい。ただ、折り紙の時間を忘れるなよ」
恥ずかしそうに、タケゾーさんが釘を刺したのを見て、私も含めた読書会に誘われた女性四人は小さく笑った。
来週も会えるのに、別れの時は凄く切ない。
シズカさんは、娘さんらしき人が迎えに来てくれる。
だけれども、タケゾーさんもキクさんも一人で帰るみたい。それが切なさの原因なのかな。
片付けも順調に終わり、明子さんに挨拶をして帰ろうとした時だ。
レクリエーションの事について教わった。
自分が出来ない遊びや理解できないルールは良くない。これは利用者さんには、本当に辛いのだと言う。『昔なら出来たのに』そう言う、悔しさや悲しみは私にも想像できる。
それで小難しい本の『読書』は、心配の要素だったと言っていた。
そして、『怪我をさせてはいけない』これが最も重要だと言っていた。この施設に来る利用者さんは、割と元気な人が多いのだけど。
「小さな事故が、大きな怪我につながるの」
明子さんは、真剣な表情で言った。それに付け加えて。
「本当は出来るギリギリの事をしたいのだけどね。ゲートボールとか喜ぶと思うわ。歩いたり身体を動かすことは本当に大事なの。だけど、施設でやるには安全面の保障が一番大事なの」
そう言った、明子さんの表情は切なそうだった。
「それじゃ、来週も来てもらえるかしら? さっきは、流れ的に約束しちゃったけど。無理はしなくて良いからね」
読書会に対しての曖昧な約束の原因はこれか。
大丈夫です。
だって、予定なんて無いもの。
それに、本当に凄く楽しいの!
「大丈夫です」
我ながら、感情表現が乏しい言葉だわ。
西洋人の子供たちみたいに、飛び跳ねるぐらい喜べたら良いのにな。
私は家には帰らず、真っ直ぐ『札幌の輪』に向かった。
受付のお姉さんは、私のことを覚えてなかった。
こちらから見れば数少ない新しい知人なのだけど、受付の人には一杯知り合う内の一人なんだな、そう思うと寂しかった。
直人君についてのミーティングまで、二十分程時間に余裕があったのだけれど……。
案内された先には、弥生先生さんがすでに待っていた。そして、『時間ギリギリ』を人生の教訓としているはずの、我が愚兄と談笑している。
私が二人が話している机の前に来ると、弥生さんの言葉を合図にミーティングが始まった。
「みんな揃ったね。時間は早いけど始めちゃおうかね」
私は、お兄ちゃんの恨めしい視線を無視して返事をする。
ミーティングと言っても、あまり報告する事は無かった。
各々が、書いた『札幌の輪』の報告書も簡単なものだった。
開始時刻と終了時刻を記載し、報告内容に一文『自己紹介をしてくれた』とだけ書いてあるだけだ。
それでも、弥生先生は満足そうに微笑む。
「うん。みんな順調だね。良かったさね。よし! 直人君も我々もステップアップさ。次回は宿題をやってみようか」
弥生先生が得意とする宿題作戦だ。
実はフライングして弥生先生は、初日の今日から始めたみたいだ。
お兄ちゃんは状況を飲み込めてないみたいで、先生が追加の説明をしてくれる。
「なるほどッス。つまり、熱血青春作戦って所ッスね!」
「そうだね。引きこもりにも色々なタイプがあるんだけれど、今日実際に会ってみて、直人君は前へ進むのが怖くなったタイプだと判断したさね。もしかしたら、自分みたいな人間は頑張れば頑張るほど周りに迷惑をかける、なんて間違った認識すら持ってる可能性がある。だから、今は高すぎる目標は駄目さね。今回の目的は、直人君でも達成できる目標提示をして、それを達成してもらう事で自信をつけてもらうのさね。出来れば、彼の世界が広がる方向で示してくれると助かるよ」
なんだか、自分の宿題の意味も考えてみる。
私の場合は、どういう意味で宿題が出されたのだろう?
宿題を出すと言う宿題を背負ったのだけれど、答えは直ぐに見つかった。
きっと、明日も私は話せない。
だけれども、直人君の力になるためには、お互いに理解を深めないとね。
夜。
意識が途絶える間際に思い出した。
そう言えば、先週は殆ど寝られなかったのよね。
今回は、不安は無いわ。




