引きこもり
「さてと、それじゃお暇するさね」
「はい。また来てね!」
私たちは、弥生先生の車に向かうのだけれど、お兄ちゃんが助手席に乗り込もうとしたので無言で蹴っといた。
「いて~! 冗談だったのによ」
嘘だ。絶対に。
私たちは、後部座先に乗り込む。
車の中で弥生さんが、とても素敵な事を言ってくれた。
「そう言えば、洋介君。病院に来た時は、格好良い短髪だったよね!」
これでお兄ちゃんは、弥生さんと会う時も、まともな格好をするだろう。そして、弥生さんは申し訳なさそうに言った。
「さてと、悪いんだけど、『札幌の輪』事務所まで来てくれるかい? 順序が逆になってしまったけど、ちょっと書いて欲しい書類があるのさね」
へぇ~。そういうのを書くんだ。
「もちろんですよ!」
弥生さんと一緒に入られる時間が増えた事に喜ぶお兄ちゃんの顔は、優勝が決まった瞬間の甲子園児みたいな笑顔だった。
『札幌の輪』事務所は、普通のマンションの一室だった。遠慮を知らない、お兄ちゃんが聞いたおかげで、株で成り上がった金持ちの人が趣味で作った団体だとわかった。弥生先生は、その成金の人をこう評した。
「やっぱり、お金があっても人との接点が欲しいものさね」
事務所に入ると、寝室であろう部屋のドアには『応接室』の札が張ってあった。弥生さんに案内されリビングに向かうと、キッチンカウンターは受付カウンターに改造されいた。その受付カウンターから、事務員らしき三つ網のお姉さんが出迎えてくれた。
「あ、弥生さん。おかえりなさい」
本来はリビングであろう場所には、小さな机と小さな四つの椅子のセットが、三セットほどあった。
そして、急だったので手順が逆になったけど、『札幌の輪 会員登録カード』なる物を作成した。
カードも書き上げて、改めて机を見ると、先ほどはなかった何枚かの紙があった。私たちを待っていた弥生さんが、書類整理をしているみたいだった。
新しい案件の募集の紙のようで、上部に企画内容があり、下の方に参加者の名前がある。
一番上には、不思議な紙があった。
日時は明日なのに、参加者の名前が無かった。内容は引きこもりの自立支援だ。
「あの、これ。明日なのに、誰も居ないのですか?」
私は聞いてみた。ちょっと、今日のディケア訪問で気分がハイになっていたのかもしれない。誰も居ないなら、やってみようかな、なんて思ったり思わなかったり。
でも、こんな軽い気持ちで、やれる内容ではなさそうな気もする。
「そうなのさ。困ったよ。私が行く予定だったんだけど、急に行けなくなってしまってね」
弥生先生が困ってる! そう思った瞬間、思考は停止し反射的に答えてしまった。
「やりたいです」
同時におにいちゃんも答える。まだ、登録カードを書き終わらないみたいで静かにしてたのに、会話はしっかり聞いてたみたいだ。
やっぱり、気軽に出来ることじゃないらしい。
いつも微笑みがあるはずの弥生先生の顔は、滅多に見ることの出来ない真剣な表情だった。
それは、ほんの数秒で、もしかしたら、気のせいだったのかもしれない。
「悪いね。お願いできるかい?」
その時の弥生さんの顔は、いつもの優しい笑顔だった。
この笑顔に男の人は騙されるんだろうな。私だって快くOKしてしまうもの。
もちろん、となりの馬鹿男はやたらハイテンションで答えた。
「大船に乗ったつもりで、任せてください」
月並みのツッコミを入れておこう。お兄ちゃんのは泥船です!
それから、ミーティングが開かれた。
やっぱり、今日みたいに突撃訪問で出来る事じゃないのね。今更ながら不安になる。
お兄ちゃんも同じで、珍しく真面目な顔をしている。
「さてと、二人ともありがとうさね」
そして、弥生先生から説明を受ける。
引きこもり君のお母さんとの面談は終わってるみたい。
だけど、本人からの情報じゃないと正確なことはわからないらしい事。仕事としていくわけではないけれど、デリケートな問題だから、守秘義務(義務は生じないのだけど)や途中で投げ出さない責任感を持って欲しい事。
笑顔だけど真剣な口調で、わざわざノートパソコンで文章を作りながら説明してくれる。
心構えの次は方針だ。
方針と言っても、大体は個人采配に任せると言う。重大でデリケートじゃかったの?
私たちが信頼されているのかもしれないなんて、調子に乗りそうになる。
あ、一つ条件が合って自己紹介をする事。そして、出来れば自己紹介してもらえるように工夫してみてと言う課題が出された。
私は日曜日の担当と言う事になった。
閃きだけで生きているお兄ちゃんは、日曜日が仕事なのを忘れてたらしい。
どっちにしろ、押しかける方が、複数だと圧迫感を与えてしまうので良くないみたい。
お兄ちゃんは月曜日の担当で、弥生さんは土曜日担当になった。
そして、みんなの予定が空く土曜日の夜に、ミーティングをする事が決定した。
私たちが事務所を出る時、後ろで聞こえた、弥生先生が小さな声がが少し気になった。
「騙してゴメンよ」
だけれども、私たちには関係ないことだ。騙された人(多分事務員のお姉さん)には悪いけれども、人のプライベートに首を突っ込むべきでは無いわ。私は、気にしない事にした。
帰り道には、後悔の気持ちしか沸いてこなくて、凄く不安だった。私に出来るのかな。
お兄ちゃんは、これから毎週、弥生先生との時間が出来たと言うのに、嬉しくなさそうだ。
理由はわかるので黙っている事にした。
高校を辞めるきっかになった、あの事件の事を思い出しているのだろう。自分が、クラスメイトを自殺に追い込んだと思っているあの事件を。
当時、まだ幼かった私は噂でしか聞いてないのだけれど、お兄ちゃんのせいじゃないのに!
夜は、全然寝られなかった。
もちろん、明日のことで頭が一杯で寝られないというのもある。
でも、それだけじゃないわ。
寝る前にインターネットで調べた言葉のせいよ。
ギャップ萌えなんて狙ってないもん!




