10年後
しばらくすると、私の名前が呼ばれた。
返事をして、診察室に入る。
私に気がつくまで、先生は真剣な表情でカルテを眺めていた。その横顔は、女の私でもドキドキしてしまう程に整っていた。
「やぁ。おはようさ~」
弥生先生は私に気がつくと、メガネの位置を直しながら振り返り、挨拶をしてくれた。
女の私が見とれるほど綺麗な人なのに、微笑むだけで可愛らしい印象へと変わった。
不思議な人だな。
「おはようございます」
私は意識しないでも、リラックスして、自然に笑顔で挨拶できた。
弥生先生って本当に不思議な人ね。
彼女は高科 弥生先生。
お医者さんって事は、どんなに若く見積もっても二十代中盤で、もしかしたら、三十路以上なのかもしれないのだけれど、同級生にも見えるぐらい若々しい人だ。
弥生先生は微笑ながら聞いてきた。
「さて、どうだい? 元気かい?」
元気です。
でも、学校には行ってないです。
元気なのに行かない……。
これって凄く親不孝なのよね。
正直に『元気です』って言って良いのかな。
良いよね?
「はい。元気です」
「いや~! 良かった良かった。睡眠不足は乙女の敵さね」
なんだ。
質問の意図は、そういう事だったのかか。
そう言えば、最初の頃には眠れないって言ったけな。
あ、そうだ。言わなくちゃ。
学校に行か無い代わりになるかはわからないけど、目指すことが出来たの。
どんな反応するかな。怖いな。怒られるかな。
「元気ですけど……、学校にはまだ行けません」
言い出せなかった。
弥生先生は「そうかいと」だけ言って微笑んでくれた。
最初にこの病院に来た日も、学校に行かない理由を聞かれたのだけれど、私は答えられなかった。
弥生先生は、優しく笑顔でこう言ってくれた。
「待ってるからね。慌てなくて良いさね。言いたい時がくれば話してくれればいいよ」
結局、私は何も言えなかった。
それから、私たちはテレビドラマの事やニュースの事とか、診察らしからぬ事を十分ぐらい話した。
問題の張本人が言うのも変だけど、これで良いのかしら。
「さてと、そろそろ時間だね。宿題はやってきたかい?」
弥生先生は、受身で聞いてくれる。
急かすことなく、こちらのペースで治療を進めてくれるとインターネットでは評判だった。
それについての、賛否は極端に分かれていたのだけれど。
そして、風変わりな『宿題』を出す医者としても有名だった。
この『宿題』が、インターネットでは『美人の医者』とだけ書かれていた噂の人を、私が高科弥生先生なののだと看破させる原因となった。
実は、さっき言おうとした目標も宿題がらみだ。
今回私が出された宿題は、10年後に何をやっていたいのか想像してみる事だった。
「人の役に立ちたい」
だから、ホームヘルパー二級を目指そうと思います。まで言いたかったのだけれど、やっぱり恥ずかしい。
「なるほどね。私も、それが理由で、この仕事を選んだのさ~。だけど、うまくいかないものでね」
照れ隠しの笑顔で答えた先生は、落ち込んでいるようにも見えた。
弥生先生は、うまくいかないなんて言ってたのだけど、私は弥生先生に救われてるよ。
さっきの印象は、気のせいだったのかもしれない。
今は、嬉しそうにクスクスと笑っている。
「人の役に立ちたいか。由紀ちゃんらしいさね。ところで、具体的に何をやって夢を実現したいか想像できたかい?」
「はい。ホーム……。あ、介護関係とかいいかな」
弥生先生は勘が良い。
ホームヘルパー二級を目指す理由が、高校に行かなくても良いから、専門学校や大学に進学しなくても、高校を辞めたとしても目指せるから、と言う事実に気がつくかもしれないと思った。
ホームヘルパーを目指す理由は、ネガティブな発想が殆どだった。
だから『ホームヘルパーを目指します』と言ってしまうと、それに感づかれる気がした。
「うんうん。なるほどね。それが、夢になるといいね。だけどね。由紀ちゃんは、十七歳さね。常に考える事が大事さ。あれはどうかな? これもいいかも? なんてね」
「はい」
「よし! せっかく出来た目標さね。一足先に、体験してみるかい?」
「体験ですか?」
予想だにしていなかった。
体験できるの?
「『札幌の輪』って知っているかな。まぁ、ボランティアの活動をする団体さね。私はそこの会員で、毎週土曜日にフラフラとお邪魔させていただいてるのさ。確か、ディケア施設のクリスマス会の募集があったよ。あ、心配しなくても大丈夫。由紀ちゃんは、お爺ちゃんやおばあちゃんと一緒に遊ぼうぐらいの気構えで良いのさ。あとは、準備と掃除もあるけどね」
行きたい!
呆然と目指すと決めたのだけど、全く謎の世界なの。
それに、私なんかでも本当に役に立てるか、わかるかもしれない。
「行きたいです」
「そうかい。良し。えっと、プライベートな時間に悪いのだけど、土曜日に会えないかな? 色々と手続きなんかがあるのさね。その後は、イベント当日の二十四日にお邪魔する予定さ」
「良かったら、もっと早く行きたいです」
自分でもビックリした。
学校に行かなくなってから、やっと出来た目標だ。宿題だからとぼんやり考えた目標だったのだけど、少し形が出来てくると抑えられない衝動に駆られた。
「積極的だねぃ。ギャップ萌えかい?」
私は、小学生の頃を思い出した。
弥生先生の笑顔は、初めて好きな人を教えた友人と、同じ笑顔じだった。
ところで、ギャップ萌えってなにかしら?
私はキョトンとしていたのかもしれない。
弥生先生は、質問の答えを待つ事無く、話を進めた。
「う~ん。そうだね。善は急げさね。ちょっと、失礼するよ」
弥生先生は、嬉しそうにうなずきながら、部屋を出て行った。どうやら、電話をしているらしく、二分ほどで戻ってきた。
「よし! 毎週土曜日にレクリエーションがあるみたいさ。そこに良かったらどうぞ、と言ってくれたよ。どうだい? 行ってみるかい?」
「はい!」
自分でもビックリするぐらい、大きな声で返事をした。
私はディケア施設の行き方もわからないので、病院の前で待ち合わせする事になった。初日は、弥生先生も一緒に来てくれるみたいだ。
なんだか、弥生先生とデートみたい。
お兄ちゃんが知ったら羨ましがるだろうな。
最初の一ヶ月は病院に行くのも、親が同伴してくれた。やっぱり、こういう病院って抵抗があるものなの。
一度だけ、お兄ちゃんが同伴してくれたのだけれど、先生の事をかなり気に入ったみたいだった。
「次も俺が一緒に行く」と五月蝿かったわ。
皮肉にも、あまりの五月蝿さが、一人で病院に行けるキッカケになったのだけど……。
そして、弥生先生は診察の最後には、いつもこの質問をしてくれる。
「そろそろ時間だね。どうだい? 何か言い残したことはないかい?」
私がうまく話せないと見越してだろうか?
いつもその質問をしてくれる。私も緊張で言いたい事を忘れないようにメモ書きしてくるのだ。
メモ帳を確認してみた。不思議な事に、世間話をしていたつもりだったのに伝えたい事は全て話していた。
先生は言いたい事を全部聞き出す術が上手いようで、このメモ帳は殆ど役に立ったことが無い。
「大丈夫です」
「そうかい。それじゃ、土曜日楽しみだね」
「はい。今日は、ありがとうございました」
「あ、そうだ。宿題さね。今回の課題を継続でお願いするよ。介護のことを調べても良いし、別の興味ありそうな分野を探してきても良いさね。若いうちは一杯悩むのが仕事さ」
さりげなく『学生のうち』を『若いうち』と言い換えてくれる所に尊敬する。
私は、そんな気遣い出来ないわ。
大人の女性って凄いなぁ。
病院を出た後は、いつも気持ちが軽い。
次の日には、学校に行けない罪悪感で潰されそうになるのだけど……。
帰り道、ホームヘルパーの手引書を買ってみた。教科書でも良かったのだけど、それは資格取得には講習を受けなくてはいけなくて、その時に買えば良いだろうし。
手引書には、夢が膨らむ事が書いてあった。人に感謝されるって嬉しそうだな。私は、今までそんなこと無かったから……。
それにしても、今日のボランティアの提案は、弥生先生らしくなかった。
インターネットで噂されるほどに、スローテンポな治療方針の先生だったはずなのに。
ご迷惑おかけします。
このお話は、二年前に執筆したものです。
ホームヘルパー二級は今年に廃止されます。
介護職員初任者研修課程というものに変わるようです。




