認められない矛盾
十二月十七日。土曜日。
月曜日から、僕は宿題だから仕方ないと自分に言い訳し、封印したはずの快楽に溺れていた。
だけど、今日は駄目だ。土曜日だから、弥生さんが来る日だ。多分……。
僕は朝の儀式を済ませた。
そして、ついに呼び鈴がなる。どうやら、彼らは九時に来るみたいだ。今の時刻は、八時五十七分だった。
僕は、玄関まで出迎えに行く。
弥生さんは黒いコートを着ていた。首や腕口についている、白い綿が温かそうだった。
「やぁやぁ。おはようございますさね」
「おはようございます」
「うんうん。立派な挨拶だ! しばらく見ない間に大きくなったね~」
相変わらず、赤ん坊をあやすような褒め方をする人だ。それでも、腹が立つどころか、照れくさくて嬉しい気持ちで、僕は弥生さんを部屋に案内した。
そして、部屋に入り、椅子を指差そうと思ったのだが、指を向けられたのは僕だった。
「今日は何月何日?」
姉さん。
そいつは、完璧ですぜ。
えっと。
あれ?
もう! 驚かすから忘れそうだ。
軽くパニックになりながら、記憶の糸をたどるも……。
「ブッブー! 時間切れ! 私との約束を忘れちゃったの?」
弥生さんは、大げさな動作で座り込み、手で顔を隠して泣くフリをする。
「ち、ちがう!」
弥生さんは、クスクスと笑いながら、指の間から僕を覗き込む。
「ゴメンよ~。ちゃんと確認済みさね。バツが一杯書かれている、カレンダーをね」
カレンダーを指差しながら、べろを出して微笑みかけてくる。
何故だろう。この時僕の頭は、昔読んだ本を思い出した。
同じ事件の裁判のシミュレーション。
被告だけ違う。
美人とそうでない人の二パターンだ。
愚かな男モルモットの陪審員は、美人の罪を軽くしたそうな。
弥生さんは、まだクスクスと笑っている。
「お姉さんは美人だから、許してね」
この人は、優しく知性的な外見とは違い、美人を自称する肉食系だ。
確かに、美人だけどさ。
それにしても、派手なファッションは、あの日だけと言っていたが、確かにコートは常識内に収まっているね。
だけど、コートを脱いだ弥生さんは疑い用のないゴスロリファッションだった。
弥生さんは、髪を切ったんだねとか、もう外は雪が積もっているよとか、部屋の中にテレビとゲームが増えたねとか、他愛も無い話をしていたのだが、僕の緊張が解けたのを見計らうように、ある質問をしてきた。
「さてと、君は何で引きこもったのかな?」
先週と同じ質問だ。
今度は答えた。
弥生さんと会うのは、二度目だけど、ボランティアの三人は一つの塊の様で、僕は親しみを覚え心を開きつつあった。
うまく役割分担が出来ているのかもしれない。由紀ちゃんは心地よく自然体で入られる時間を、洋介は暖かくて遠慮を忘れさせてくれる友達と遊んでいるような時間を感じさせてくれる。
そして、弥生さんは秘密を打ち明けやすい存在に感じた。これは、メガネから感じる母性のせいなのだろか、それとも変人である弥生さんの風貌や性格のせいだろうか。
僕は、自分の弱いところを、情け無いところを、引きこもった理由を、言葉にしようとした。
「いつも駄目だから。人が怖い。努力しなくちゃ。でも、出来なくて。逃げることばかり頑張って。でも頑張ってないのと同じだから。わかっているけど怖い」
僕は思いつくまま単語を並べた。母ちゃんにも言えない。誰にも言えなかった引きこもった理由。
娯楽を我慢したり、人は醜いんだと思ってみたり、引きこもりを正当化しようと理論つけたりもした。
でも、多分、『怖いから逃げた』
それだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「そうか。怖いか~。私は怖い?」
美人。
心の中で的外れな即答をした。
もちろん、美人に美人とは中々言いづらいものなので、僕は別の答えを探す。
弥生さんは悩む僕を、嬉しそうに小さく笑って見ていた。待ってくていたれた。
僕はそんな微笑みに安心しつつ、悩むような質問じゃない事に気がついた。
「怖くない」
「そっか。ありがとうさね! それじゃあ、直人君は何で外が怖いのかな?」
多分、全て劣っているから。
だけど、僕は自分でも認めている駄目人間認定を、言葉に出来なかった。
そして、屈辱の毎日を思い出す。
黙り続ける。
弥生さんは、不思議な人だった。
僕が待って欲しい時には待ってくれるのに、答えたくないと思った時は待たないでくれる。
僕の答えを待たずに、話し始めた。
「う~んと、そうだね。例え話をしようか」
「うん」
「スーパーで、凄い美人なレジのお姉さんがいる。隣には親しみやすそうなおばさんがレジを担当している。直人君はどっちのレジに向かう?」
僕なら、絶対に美人のレジには並ばない。
「えっと、優しそうなおばさんの方かな」
「なるほど」
「うん」
「じゃあ、今度は、直人君がレジ担当さね。なんでだろう。混んでいない時は、みんな隣のおばさんの方に行ってしまうよ」
「僕は、見た目も駄目だから」
「あらあら。さっき直人君は、美人のお姉さんのレジを避けた理由はなんだい?」
「綺麗な人は……。僕は怖い」
僕はなんだか、不思議な矛盾を感じた。
「そう。それは、直人君が怖がっているだけだね。相手に対して悪い感情を持ってはいないだろう? むしろ褒めてるとも言えるさね。綺麗だからこそ、怖いと」
「うん」
「それなのに、自分のレジが避けられた時は、自分の外見は悪いと思うと」
「うん」
「不思議だね~」
初めて数字の世界に触れる我が子に、足し算を教えるお母さんのような、優しい笑顔だった。
確かに、矛盾のようなものを感じなくはない。
だけど、僕の外見が悪い。
それは、確かな事実だ。
「だって、僕の外見は悪いんだ!」
つい、椅子から立ち上がり、大声を上げてしまった。
それでも、弥生さんは優しく微笑みながら答える。
「そうかもしれないね。でも、そうじゃないかもしれないよ?」
僕は、何も答えられない。
「ふふ。事実は、いつだって不確かさね。私たちは、あまりにも事実を確かめる術を持ってないのさ。だからね。どうせわからない事実なら、明るく考えたほうが楽しいさね」
弥生さんは一度間を取り、様子を伺うように僕の顔を見てくる。
僕は弥生さんの話に納得できないでいた。
だって、誰がどう考えても僕は駄目で醜い人間なんだ。
僕が納得してないことを読み取ったからか、弥生さんは話を続けた。
「もちろん変に自己正当かしちゃって犯罪行為とかの間違った方向に進むのは良くないけれどね。今の君に圧倒的に足りないのは、わからない事をポジティブに解釈する能力さね」
そんな事が出来るはずがない。僕は、あまりにも劣等な人間だ。
僕は無言で俯いた。無言を、拒絶だと受け取ったらしい弥生さんは、
「それは、きっとね。自信がないんだよ」
そう言って、少し考え込んでいた。
「お姉さんが家庭教師になってあげる」
『家庭教師』と言う動労の名前が出て気がついた。
そう、甘えていた。
弥生さんたちは、僕のために時間を費やしてくれていた。
ついつい、僕は久しぶりに友達と遊んでいる気分だった。
でも違うんだ。
明らかに、気を使わせて接待を受けるような状態で、時間を共にしていたんだ。
どうしよう。
最低な自分に気がついて、なんだか泣いてしまいそうだ。
僕は無言のまま、涙をこらえるために、膝の上の拳を強く強く握り締めた。
涙を押さえ込み、僕は顔を上げた。
断るためだ。
「安心して、本格的じゃないよ。……べ、別に直人のためなんだからね!」
弥生さんは、断ろうとした僕に、先制攻撃をしかけてくる。赤くなる様子は微塵も無い余裕の顔を、芝居調に横に向けながら……。
弥生さん。多分、その態度はツンデレのつもりなんだろうけれど、そのツンデレはなんか違うよ。
僕は思わず笑ってしまった。
笑ってる場合じゃないので、慌てて顔を隠すように俯いた。
弥生さんは僕の失礼な態度に気がついたのか、
「ちょっと、失礼。お母様に聞いてくるよ」
チョップを繰り返すような親父動作で、道を確保しながら部屋を出て行った。
怒らしてしまったかもしれない……。
なんて思ってたけれど、直ぐに戻ってきた。
戻ってきた弥生さんは、なにやら段ボール箱を持っていた。
「教科書貰ってきたよ。中学生の時のだね」
まだ、あったんだ。
「十七歳の直人君は、来年にも大検経由で大学生になれる。再来年でも良い。それでも、年齢的には一年浪人した子と一緒さ。全然、社会的にも許容範囲! もちろんならなくても良いさ。そこは君の自由さね。ただね。義務教育はきっと必要だよ。だから、中学生から始めようさね」
そうして、宿題ゲームとは、別に宿題が出来てしまった。
弥生さんは、「家庭教師と言っても、宿題として勉強の方向を示すだけだから、無用な遠慮は要らないからね」と強く主張してくれた。
弥生さん、それは無理だよ……。
最初と言うことで、出された宿題は、来週の土曜日までに、英単語七十個の暗記と漢字七十個の暗記だった。一日十個ずつの計算だ。だけど、僕は暗記の仕方もわからなかった。
「覚えてみるけれど、何度も忘れてしまって、だから何度も覚え直す。そのうち脳に染み込んでくるよ。頑張って」
弥生さんは、そう言って応援してくれた。
「さて、宿題はまだあるよ! 直人君は朝と夜どっちが好き?」
「よ、夜かな」
まだ、かろうじて外に出ていた頃、夜の闇が姿を隠してくれそうで好きだった。
「そうかそうか。スタンプラリーゲーム! 説明しよう。このゲームのルールは、毎日決められた時間に、札幌公園までスタンプカードを持って行かなくてはならないのだ!」
手をばたばたさせながら、嬉しそうに説明する弥生さんを他所に、僕は忘れたはずの記憶を思い出してしまった。
外……。
その単語は、僕の記憶を呼び覚ます。
僕が引きこもった、誰にも言えないもう一つの理由。
それは、キモイから。
いつからだろうか。
バス停で待っている高校生からも、すれ違うおばさんからも、公園で遊んでいる幼稚園児からも、年齢性別関係なく言われた言葉。
みんなは慣れているのかもしれない。
だけど、友達の殆どいなかった、僕には強烈だった。
キモイ。
理由の提示なしに、全否定されたような言葉だった。
それでも、なんとか外に出ていた。
でも、その努力がより、絶望の結果を生み出してしまった。
気がつけば、学校でも言われ続けるようになった。
そう。全ての人間が、僕のために貴重な時間を割いてでも、キモイと言ってくるのだ。
すれ違うたびに、僕を見かけるたびに、律儀にも毎回毎度……。
僕は悪い意味で、この街の、人口百万を超える札幌市で、確かな有名人となってしまったのだ。
忘れたかった。いや、忘れていた。
僕は気がつけば、涙を流しながら震えていた。
そんな時、ふと暖かい温もりが両肩に伝わった。弥生さんの手だった。
「大丈夫! 私が待っている。敵もいるかもしれないね。それは勘違いかもしれないよ。それに、世界中が敵だとしても私は味方さね」
そのまま、部屋は凍ったように変化無く、それでも時間だけは過ぎていく。
そして、響くすすり泣きの音と、暖かい両肩のぬくもり。
「な、何時?」
「二十時にしよう。もっと、遅い方が人も居ないだろうけど、危険も一杯さ。お姉さんも夜が怖いからね」
「……うん」
「中止の時は、十九時までに電話するさね」
携帯電話の有無を聞かれなくて良かった。僕には名前しか知らない未知の機械だ。
弥生さんは鞄の中から何かを探し、
「スタンプカードの進呈だ」
とカードと言う名の、新品の大学ノートをプレゼントしてくれた。
「このノートに、日記を書いてきてね」
日記?
僕の日記なんて、『起きた、ゲームした、寝た』これしかないよ。あ、今日から勉強とスタンプラリーもか。
でも、少し前までは、『起きた、寝た』これだけだったんだよな……。
う~ん、と僕は唸る。
唸り続けていると、唸り続けてる僕を嬉しそうに眺める弥生さんと目が合った。
弥生さんの存在を忘れて考え込んでいた自分が恥ずかしくて、僕は照れ笑いをした。
そんな僕を見て、弥生さんは嬉しそうにクスクスと笑った。
「それじゃ、そろそろ帰るよ。またね」
「さようなら」
弥生さんが帰っていった。
僕は、部屋のドアをしばらく見つめていた。
ぼ~っと見つめていた。
今終わった楽しかった時間を惜しむように。
ぼ~っと見つめていた。
ず~っと見つめていると、ドアが突然開いた。
「そうだ! 約束忘れちゃ嫌よ。札幌公園に二十時さね!」
洋介に続き、弥生さんも帰ったよ詐欺だ。いや、ドッキリだ。心臓が無理させるなよと必死に訴えている。
そして、いつの間にか、部屋に響いていた僕のすすり泣きは止まっていた。




