アチュードとバラモンの恋 ~別れ~
――好きって何だろう?
最近よく疑問に思うようになった。
喜ばしいことに高校1年生の僕には付き合ってもう一年になる彼女がいる。僕の彼女は容姿端麗・性格良し・人脈広し・運動神経学業成績共に良しとパーフェクトと言う言葉が相応しいスーパー女子高生だ。
一方、僕は容姿・学業・運動神経共に平均以下・交友関係狭く浅く・クラスメイト達にフルネームを覚えられていないぐらい影が薄いぼっちだ。
――彼女を物語の主人公とするなら僕は村人D
――彼女を花とするなら僕は雑草
学校内カーストで彼女はバラモンの中でもトップクラス。僕はシュードラにすら劣るアチュードってとこだ。
何でこんな僕が高校という名の王国で王族に位置する彼女と付き合っているのか疑問に思う人がいるかもしれない。答えは簡単。なんてことない。彼女も高校生になるまでは僕と同じアチュードだったってだけだ。
僕と彼女は中学生までクラスメートにいじめを受けていた。まあいじめといっても暴力的なことは無く、主にやられたのは無視や悪口・持ち物を隠されるなど精神的にダメージが来るいじめばかりだったが。
僕はクラスの男子にいじめられ、彼女は女子にいじめられる。その生活はまさに人間扱いされないアチュード。アチュード同士お互いを慰め合っている内に相思相愛の関係になり僕と彼女は付き合うようになった。
中学までの彼女は今と違って地味だった。やぼったい三つ編み。まゆげも整えず基本的にノーメイク。性格だって今と違って内気で人見知り。容姿は当時から整っていたが瓶底眼鏡がそれを台無しにしていた。
だから高校に入学するまで彼女の美しさに気付いていたのは僕だけだった。彼女が笑うととても可愛らしいことも、彼女がとても優しい性格をしていることも全部僕だけの秘密だった。
僕は本当に彼女が好きだった。彼女が笑えば嬉しくなり、彼女が悲しめば僕も悲しくなった。彼女と一緒にすることは全部が楽しくて、彼女が傍にいるだけで心がとても安らいだ。彼女とキスをすれば心がはずみ、彼女と体を合わせればとても幸せな気持ちになれた。
――でもいつからだろう?彼女と一緒にいると安らげなくなったのは。
――いつからだろう?彼女の傍にいることが苦痛に感じるようになったのは。
きっかけは多分高校入学。僕といる時は平気な顔をしていた彼女だけれど、やはりアチュードの生活は彼女にとって酷だったのだろう。彼女は高校でもアチュードになることを良しとせず、カーストの枠組みに入るために努力を始めた。
瓶底眼鏡を止めてコンタクトにした彼女。今まで興味のなかったファッション雑誌を読み漁り流行のメイクとファッションを習得した彼女。三つ編みを止めていつの間にかストレートになっていた彼女。人見知りで内気だった性格を社交的に変えた彼女。
彼女の努力は実を結び、彼女の高校デビューは大成功を収めたと言えるだろう。アチュードからバラモンへの異例の大出世。誰もが彼女の顔と心の美しさを心底認め、誰もが彼女を慕い称える。中学までの彼女とは雲泥の差だった。
僕も最初は彼女がバラモンになったことが嬉しかった。彼女の頑張りを知っていたから。彼女がアチュードから脱出するためにどんなに努力をしたか知っていたから。彼女が皆から慕われ賞賛されることが我が事のように嬉しかった。
今思えばそこが僕と彼女の分岐点だったのかもしれない。僕は彼女がバラモンになったことを喜ぶばかりで、自らがアチュードから脱出することを微塵も考えなかったのがいけなかったのかもしれない。いや、正直に言ってしまおう。僕はアチュードの扱いにたいした不満を感じていなかった。それどころか煩わしい人間関係に悩まされることのないアチュードの位置に自ら望んでいた。アチュードを嫌がった彼女とアチュードを望んでいた僕。その差は僕が考えているより遥かに大きいものだったのだろう。
彼女がバラモンになって暫くしてから、人気者の彼女にはファンクラブが出来た。クラスの女子の大半と同学年の男子の殆どが彼女のファンクラブに入り、彼女はその名声をますます高めていった。
彼女はバラモンになっても僕との付き合い方を変えなかった。昼休みは当たり前のように一緒に昼食を食べ、放課後は当たり前のように手を繋ぎながら帰り、休日は当たり前のようにデートをして、時にはキスをしたり体を合わせたりとそれなりにカップルをやっていたと思う。
でもそんな幸せは長くは続かなかった。僕と彼女がお互いを好きでも、一緒にいたくても、社会が……身分が……そして周囲の人間がそれを許さなかった。バラモンとアチュードが対等な存在になるのを許すはずがなかったのだ。
アチュードたる僕とバラモンの彼女が付き合っているのを知ったファンクラブの面々は僕に嫌がらせを始めた。持ち物がボロボロになっているのは日常茶飯事。下駄箱には『彼女と別れろ』と書かれた怪文書。体育館裏に呼び出されて暴力を振るわれたこともある。
基本的に人間が嫌いな僕は精神的ないじめならなんとも思わなかった。むしろ周囲から無視されることは望んでいることだった。でも、さすがに暴力的ないじめはきつかった。いじめっこに恐怖し、暴力に屈して泣きそうになったこともある。
そんな状態になってもぼくは誰にも相談しなかった。両親や教師には勿論、彼女にも絶対に知られないようにした。暴力に屈しそうになったという事実を誰かに知られることを、僕のちっぽけなプライドが絶対に許さなかったのだ。
僕がそんな状態に陥っていることを知らない彼女は、いつも通り僕との付き合い方を変えない。それを見て不満をためるファンクラブの面々。そしてその不満のはけ口となる僕。最悪だった。負のスパイラルに陥った。彼女の事はとても好きだけれど、同時に彼女と付き合うことに疲れてしまった。
――一緒にいて楽しいから好きなのか
――好きだから一緒にいて楽しいのか
どちらが正しいのかはわからない。でも最近の僕は彼女と一緒にいることに楽しさを感じるよりも憂鬱を感じてしまう。彼女と一緒にいて安らぎを感じるよりも、この後に待ち受ける暴力を憂いてしまう。
最近嫌な考えがよく頭に浮かぶ。僕の嫌な部分が囁きかける。
『彼女と別れたほうがいいのではないか?』
『周囲に迫害されてまで彼女と付き合う意味はあるのか?』
彼女は何も悪くないと言うことはわかっている。ファンクラブの連中が彼女に内緒で僕をいじめているということも全部わかっているんだ。
でも能天気に笑顔を見せる彼女にもイラッとしてしまうことがある。
『何でお前は笑っていられるんだ?』
『お前のせいで僕は暴力を受けているんだぞ』
そんな風に考えてしまう自分が確かにいて、何も悪くない彼女に不満を抱いてしまう自分に自己嫌悪する。自分のことが心底大嫌いになった。最悪だった。
最悪な自分を表に出さないようにはしているんだけど、賢い彼女は僕の気持ちを感じ取っているみたいで最近では気を使われている気がする。
僕と彼女はお互いに気を使っていて、お互いの気遣いが気持ちを離れさせる。
今思えば彼女がバラモンになった時点で僕と彼女の気持ちはすれ違っていたのだと思う。今まではそのズレを無視してきた。無視出来る範囲のズレだった。でもそろそろ無視できないほどの大きいズレになってきた。
彼女もそのズレを感じているのだろう。最近ではデートの数も減ったし、メールの数も減ってきた。
決定的なのは先週の日曜日。僕は彼女が僕以外の男とデートしている現場を目撃してしまった。相手は彼女と同じバラモン。カーストのトップに位置するクラスメート。
クラスの中心グループに所属する男で、サッカー部のエースで成績優秀。確かモデル事務所に所属していてファッション雑誌の表紙を飾ったことがあるとクラスの女子が騒いでいたの覚えている。
まさに彼女の男バージョン。バラモンの中でもトップに位置する男。彼女と対をなす存在。誰もが彼女と彼の――バラモン同士のカップルを祝福するだろう。彼と彼女の――美男美女のカップルを誰もが「お似合いだ」と称賛するだろう。それに彼ならばアチュードの僕のようにファンクラブの面々にいじめられることはないはずだ。
ファンクラブの面々が僕に嫌がらせをするのはつまるところ嫉妬が原因だ。彼等・彼女達は僕のことを自分達より格下の存在だと見なしている。
『格下の僕が上位の彼女と付き合っているなら、僕よりも上位に位置する自分達にも可能性はあったはず』
『僕がいるから彼女と付き合えないんだ』
そういう発想になるから僕に嫌がらせをする。彼女と付き合える可能性を上げるために僕を排除しようとする。
でも彼ならば……彼等・彼女等が自分達より格上と認めている彼ならば嫌がらせを受けるようなこともないはずだ。それに彼自身にもファンクラブがある。それらのことを考えれば彼がファンクラブの面々――ヴァイシャの連中に害されることはないだろう。元よりバラモンたる彼はヴァイシャを支配下に置く人間なのだから。
勿論彼女を彼にとられて悔しいという気持ちはある。彼と彼女が仲よく歩いている姿に嫉妬を覚えなかったといえば嘘になる。でも何より、嫉妬や悔しさを感じるよりも僕は彼等が一緒にいる姿を見て安堵してしまった。
――ああ、これでヴァイシャの連中に嫌がらせを受けなくてすむ
――きっと彼ならば僕よりも彼女を幸せに出来るだろう
そう思ってしまったのだ。僕は彼女のことは好きだけれど、自分が傷ついてまで一緒にいたいとは思えない。中学時代は彼女のためならば自分の命すら簡単に捨てることが出来たけど、現在は彼女のために命を捨てる気にはなれない。これは僕の気持ちが彼女から離れてしまったからなのだろうか?
ううん。はっきりと認めよう。僕は自分が傷つくのが怖いのだ。彼女と平穏な生活を天秤にかけ、平穏な生活の方をとった。何という自分勝手。何という自己中心思考。彼女は何も悪くないのに……
こんな選択をしてしまう自分がまた嫌いになった。心底自分のことを軽蔑する。
昨日の昼休み、学食で1人食事をしていると突然声をかけられた。振り向くとそこにいたのは件の彼。確か来栖とかいう苗字だった気がする。
「隣に座っていいかい?」
そう聞かれたので、僕がどうぞと言うと彼は黙って僕の隣に座った。しばらく無言の状態が続いた。僕は黙って注文したきつねうどんをすすり、彼は黙って僕のことを見ていた。
勿論僕の頭の中では疑問で一杯だった。彼は何をしにきたのか。僕に何の用なのか。
でも自分から彼に問いかけることはしなかった。自分から彼に話しかけたら僕の負けのような気がしたのだ。これもちっぽけなプライドなのだろう。
その内彼の方が焦れたのか、彼の方から唐突に話しかけてきた。
「君は山野辺さんと付き合っているんだよね?」
不躾な質問に少し驚いたけれど、嫌な気持ちはしなかった。
「……一応付き合っているよ」
「そうか。……単刀直入に言うよ。俺は山野辺さんのことが好きなんだ。だから彼女と別れてくれないか?」
彼氏ならばこんなことを言われた時点で怒るべきなのかもしれない。でも怒りの言葉は浮かんでこなかった。やっぱりかという言葉しか浮かんでこなかった。
僕は黙って彼のことを見つめた。あえて何も言わなかったのではない。本当に言うべき言葉が思い浮かばなかったのだ。でも彼にとって無言の圧力に感じられたのだろう。気まずそうに僕から目を逸らした後、椅子から立ち上がった。
「俺が言いたいのはそれだけだから。君にはすまないと思っている。彼氏持ちの相手を好きになってしまった俺が全部悪いのも理解している。だから俺を恨んでもいい。君が望むなら殴られたって構わない。でも、これが俺の正直な気持ちなんだ」
そう言って彼は立ち去っていった。彼との会話で怒りや不快な気持ちは一度も浮かばなかった。それどころか彼に対して好印象を持った。自分が悪いのを素直に認めて僕――恋敵に謝罪する。中々出来ることではない。2、3回しか言葉を交わしてはいないけれど、いい奴だってことがすぐにわかった。
――彼ならば彼女のことを幸せにできるんじゃないかな
――僕よりは彼と付き合った方が彼女のためになるんじゃないか
一方的な決め付け。そこに彼女の意思は存在しない。だけれども、僕にとってはこのことが真実だと思えた。正しいことだと思ったのだ。
昨日一晩考えた。僕はどうするべきなのか。彼女と別れるべきなのか。このまま付き合っていてもお互いのためになるのか。
ずっと、ずっと悩んでいた。妹にも心配されるぐらい真剣に考えた。でも答えはでない。僕は悩むことに、現状に、全てに疲れてしまった。
だから全てを終わらせようと思う。放課後に彼女をメールで空き教室に呼び出した。今僕は誰もいない教室で彼女のことを待っている。窓からは半分沈んでいる夕日が見えた。僕や教室を真っ赤に染める大きな夕日。
――綺麗だ。
久しぶりに感動した。僕の中から疲れが消えた気がした。椅子や机が真っ赤に染まる光景が僕のことを安堵させてくれた。でもその安堵は一瞬で崩れ去る。
「そんなところで何をしているの?」
振り向くとそこにいたのは彼女。僕が夕日に見惚れている内に彼女は教室にやってきたみたいだ。
「それで?話って何かな?2人で話すのって久しぶりだね。何だか緊張しちゃう。もしかして嬉しい話かな?」
僕に笑顔を向ける彼女。でもどうしてだろう?僕が見慣れている笑顔のはずなのに、どこかぎこちないように感じる。無理をしているように感じてしまう。
「ねえ、美里。先週の日曜日、どこで何をしていた?」
僕の突然の質問に、彼女は少し面食らったようだけどすらすらと答えてくれた。
「えっと……先週の日曜日は家にいたよ?部屋の掃除をしていたの」
心なしか目が泳いでいる気がする。賢い彼女には似つかわしくないミスだ。普段の彼女なら嘘が見破られるような兆候を表に出すはずがない。動揺しているのだろうか。
「……先週の日曜日、僕は見たんだ」
「え?」
「美里はクラスの男子と一緒に出かけていたよね?確か来栖って名前だと思ったけど」
僕が指摘すると彼女は顔を真っ青にして必死の形相で弁解してきた。
「ち、違うの!礼君とは何でもないの!!ちょっと相談に乗ってもらっただけで!!」
礼君、か。彼女が来栖のことを名前で呼んでいるという事実に少しだけ胸が痛んだ。僕以外の男子を下の名前で呼ぶなんて、中学時代の彼女からは考えられないことだったから。
「本当に何でもないの!!……嘘をついたのは謝る。でも本当に礼君とは何でもないんだよ。君と最近すれ違うことが多いから、どうすれば昔みたいに仲良くできるのか相談にのってもらってただけなの。嘘をついたのは余計な心配をかけたくなくて……」
必死で弁解する彼女からは嘘を吐いている雰囲気は感じられない。もしかしたら本当に彼女は来栖に相談にのってもらっていただけなのかもしれない。来栖の一方的な片思いなだけなのかもしれない。
でも僕は全てに疲れてしまった。こうして彼女のことに悩むことも。生きるということにも。僕は今日全てを終わらせるために彼女を呼び出した。だから本来の目的を果たそうと思う。
「……ねえ、美里。僕達、別れよう?」
「え?何冗談言っているの?」
彼女は何を言われたのかわからないような顔をした。僕の言葉が冗談だと思ったみたいで、半分笑いながら僕の顔を見つめてきた。でも、僕が真剣だとわかると顔を真っ青を通りこして白くしながら涙ながらに問いかけてきた。
「何で!?何でそんなこというの!?礼君のことは私が全部悪いと思う!黙っていたのはごめんなさい!!謝るから!!私が全部悪いから別れるなんで言わないで!!」
「僕はその件で怒ってないから謝る必要はないよ」
「じゃあ何で別れるなんていうの!?謝るから!!私の悪いところは全部直すから!!お願いだから別れるなんていわないでよ……」
「美里。僕は……」
「ごめんなさい、ごめんさない、ごめんなさい……」
「美里!!……謝るなよ。美里は何も悪くないんだ。美里が謝る必要なんかどこにもない。僕が断言する。君は何も悪くないんだ。全部悪いのは僕だけだ。それだけは自信を持って言える」
「……じゃあ、何で?」
「あえていうなら僕の弱さが原因なんだ。これ以上君といたら、僕は僕のことをますます嫌いになってしまう。君のことを嫌いになってしまう。僕はそれが嫌なんだ。それに何より僕は疲れてしまった。それが君と別れる理由だよ」
「何よそれ!?意味がわからない!!」
「美里がわかる必要はないよ。出来ることなら僕は美里に理解して欲しくない。君には綺麗なままでいて欲しいから」
僕はそれだけ言うと美里を置いて教室から去った。泣きじゃくる美里に小さな声で「さよなら」と呟きこの場を去った。
これでファンクラブの連中の嫌がらせもなくなるだろう。そしてバラモンの美里とアチュードの僕の交流もなくなるだろう。これは僕が望んだ事。美里を捨てて平穏を選んだのは僕。
でもどうしてだろう。自然と涙が出た。涙が止まらなかったんだ。