病室
私が盲腸で入院していた時の話なんですけどね。
私はなんとなく、盲腸って子供がなるものだと思ってましたけど、誰でもなるものなんですね。で、まあ、それで地方の病院に、小さい病院なんですけど、入院することになったんですよ。
私は今まで入院も手術もしたことがなかったんで、不安だったんですけど、仕事も休めるし、せっかくだからこの体験を楽しもうみたいな、そういうポジティブシンキングな感じで、病室に入ったんですよね。
病室の中にはベッドが4つあって、相部屋なんですけど、私が入って来た時には、一人の少年が寝ているだけでした。少年といっても、何歳くらいかわかりませんし、もしかしたらもっと歳いってるのかもしれませんけど、見た目は若そうで、でもずいぶんやつれてる感じだったんですよね。
で、私はその彼の隣のベッドに寝ていたんですよ。窓際のベッドでね、隣と言ってもベッドとベッドの間はカーテンで仕切られていて、隣は見えないんですけどね。
それで夜になって、私が来たときはもう夕方くらいだったんですけど、夜になって、私はなかなか寝れないわけですよ。緊張しててね。それで何時頃かわかりませんけど、隣の、カーテンの向こうから、突然声がしたんです。
「あんたは、何で入院することになったんだい」
って。
私は、彼の言い方がやけに馴れ馴れしかったんで、なんだこいつはってちょっと思ったんですけど、少年のように見えてやっぱり歳いってるのかもと思って、病室には私達だけしかいないわけですから、独り言でもないだろうし、
「盲腸ですけど」
って言いました。
「じゃあ、手術して治ったら出ていくんだね?」
「はあ」
「盲腸の手術なんて簡単だから、すぐ退院できるだろうね」
「まあ、そうでしょうね」
と言って、しばらく黙ってたんで、もう寝たのかと思ってたら、
「妬ましい」
って言うんですよね。「え?」って思うんですけど、
「僕はあんたが妬ましい」
って言うんですよね。なんだこいつはってますます思って、なんか嫌なやつと隣になっちゃったなーとか思ったんですけど、彼が続けて言うには、
「僕も昔はずっと思ってたんだ。僕もいつかはこの病気が治って、普通の当たり前の人生、普通とか平和とか言われるような、少なくともこの病気に苦しめられることのない人生を送れるようになるんだってね。」
「はあ」
「今はまだ駄目だ。年は過ぎていって、だんだん失われていくけど、でもいつかはそういう人生が送れるはずだ。この苦痛から逃れられる日が来るはずだって思ってたんだ。この苦界から脱け出して、普通の人達のように、普通の人生を…
だけど、それは来なかった。永遠に、来なかったんだ」
「…」
私はもう、何も言えないんですよね。どうやら彼は不治の病にでもかかってるらしいですが、何の病気かはわかりませんけど、私には何とも言えませんよね。
で、またしばらく黙ってたんで、もう終わったのかと思ったら、また言うわけですよ。
「あんた、マンボウの産卵のこと知ってるかい」
え?って思ってると、彼が言うには、
「マンボウって、一度の産卵で数百だか数千だか、とにかくすごい数の卵を産むらしいんだよ。魚類って大抵そうらしいけどね。で、それが何故かっていうと、そうすればほとんどの卵が外敵に喰われてしまっても、少しは卵が残るだろうから、マンボウはその種族を保っていけるからなんだってさ。
他の生物でも、多様な遺伝子があって、多様な形質が発現するのは、一つの種族の中にいろんな形質を持った奴らがいれば、外の環境から危険があって、そのうちのほとんどは死んでしまっても、何体かは生き残れる確率が高まるからなんだってさ。
つまり、自然は最初から捨て弾を撃ってるんだよ。全員が生き残れなくても、その内の何体かが生き残れば良いっていう、そういう考えなんだ。
その中の一人一人の幸福とか、不幸とか、そんな事は全く気に掛けてないんだ。百発百中なんて端から狙ってない。百発撃って、その内一発的に当たればいいんだ。
そして僕はその中の、的に当たらずに落ちていった無数の無駄弾の中の一発でしかないんだ。」
「…」
「古代ギリシャの、スパルタの事知ってるかい。スパルタでは、子供が産まれた時に長老が調べて、健康で強く生きられないと判断された子供は殺されたってのは有名な話だよね。日本でも、昔は、食いぶちを減らすために間引きされてたらしいけどね。
僕は、昔はスパルタ人を非道い奴らだと思ってたけど、そうじゃなかったんだ。それが彼らの慈悲だったんだよ。どの道まっとうに生きていけない人間なんて、自分自身にとっても、他人にとっても、苦痛の種でしかないんだ。いや、そもそも、苦痛でない人生なんてあり得ないんだ。生きとし生けるものは皆、自分で望んで生まれてくるものは無いけど、もし、自分で生まれてくるかどうか選べるとしたら、一体誰が生まれてくるものか。誰も生まれては来ないだろうよ。
そしたら地球上から人類は絶えてしまうだろうけど…ああ、もしそうだったら、この世界はどんなにか素晴らしいことか!!」
「…」
私は相変わらず黙ってましたけど、今度こそ彼も黙ってしまって、もう寝たみたいなんですよね。私の方は、そういう話を聞かされて暗い気持ちになったりして、厄介な人の隣になっちゃったなーとか思いながら、そのうち寝ちゃったんです。
それで翌朝になって、窓から日が射してくるのを見て、ああ俺は今病院にいるんだっけとか思いながら、ベッドから起きていくとね、隣のベッドに誰もいないんですよ。どこか行ってるのかと思ったんですけど、ずっと帰って来ないんで、ひょっとしてあの人死んじゃったのか、とか思ってちょっとショックを受けたりしまして、看護師さんにあの人どうしたんですかって聞いたら、
「この病室にはあなたしかいませんけど」
とか言うわけですよ。それを聞いて私はゾーッとしまして、そんなはずはない、昨日私がここに来たとき、ここにもう一人寝てたじゃないかと言ったら、
「私は誰も見ませんでしたよ」
って言うんですよ。で、病室の入り口を見てみたら、病室の入り口には、そこに入院してる人の名前が書かれた名札がかかってるんですけど、私の名札しかないんですよね。
じゃあ昨日の人はなんだったんだと、私は恐ろしくなって、幽霊が出る病室なんて冗談じゃない、替えてくれと言ったんですけど、それは無理だって言われるんですよね。
小さな病院ですから、他の病室はもう埋まってるし、そういう要望には答えられません、規則ですからと、そう言うわけですよ。
で、その日は夜が来るのが怖くて、神様仏様、助けてください、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と言う感じで、隣の閉まったままのカーテンの向こうから突然声がしたら怖いから、わざとカーテンを開けたままにして寝たりしましてね(笑)
でも結局、その夜は何もなかったんですよ。その次の夜も何事もなくて、手術も無事終わりましてね、盲腸の手術って、古典的な手術で、失敗したりとかいうことはほとんど無いみたいですね。
で、まあ、明日には退院できるだろうということになって、今夜を乗りきれば大丈夫だということになったんですよね。
私の方は、明日には退院できると思ったら気も楽になって、意外とすぐ眠れたんですよ。
それで、夜中に目が覚めたんですよね。しまった、目が覚めちゃったよと思ってたら、
「明日には退院できるんだね」
隣から声がして、出たーっ!!って私は思って、隣を見ようとしたら、動けないんですよね。金縛りですよ。そしたら、足音がしまして、病院のスリッパで歩いてるみたいな足音が、隣から私の寝てるベッドに近付いて来て、そうしながら声がして、
「僕はね、憧れていたんだ。愛していたと言ってもいい。「普通の」とか、「健全な」とか、何であれそう言われる類いの人生に。
この苦痛から脱け出して、「向こう側」に渡ろうとして、僕はどんなにか闘ってきたことか。でも、いくら僕が馬鹿でも、遂には思い知らされたよ。それが絶対に叶わない願いだということに。そうしたら、今まで持っていた、そういう「普通」というものに対する愛が、憎しみに変わってしまったんだ」
とか言って、彼は私の枕元まで歩いてやって来ると、私を見下ろして立って、しかも、かがんで、私の顔に顔を近付けて来るんですよ。ガン見ですよ。私は内心絶叫してますけど、声も出ないし、目もそらせない、瞬きさえできないわけで、目を見開いて彼の顔を見ているしかない。彼の顔は、やっぱり少年のようで、でもやっぱり、ずいぶんやつれた顔でしたね。で、また言うんです。
「解ってるんだよ。自分でもね。これが妬み僻み、逆恨みだっていうことはね。でも、どうしようもないんだ。こんな人間失格のような僕でも、中途半端に人間的な感情を持ってしまっているから、どうしても怨んでしまうんだ。そしてそうやって怨む自分自身を怨み、そんな風にできている人類を怨み、世界の全てが呪わしく思えてしまうんだ。
何かが少しだけ違っていれば、僕もこんな風にならなくて済んだかもしれないのに、自分ではどうする事も出来ない、自分の力の及ばないその事が、自分では永遠に取り返しがつかないというその現実が。
それでも、僕は今でも、ここから解放されたいと願ってしまうし、どうしても願わずにはいられないんだよ。」
そう言っているうちに、彼の目に何かが浮かんで来まして、涙なんですよね。涙が彼の目にたまって、私の顔の上に落ちてきまして、それが顔に落ちた時に鋭い痛みを感じて、そこから先は記憶がないんです。
で、気が付いたら翌朝になってて、私はガバッと起きて辺りを見回しますが、周囲には誰もいませんし、窓からは日が射しこんで、明るい病室ですよ。
私はホッとして、またベッドに倒れこんで、良かった、俺は無事だ。今日で退院できるしこの幽霊病室ともおさらばだとか思いまして、でも、なんか顔に痛みが残ってるんですよね。
それで、起きて、鏡を見ますとね、傷痕が残ってるんですよ。
私の顔の、彼の涙が落ちてきたところ、ほらここが、火傷の痕みたいになってましてね、
「根性焼き」ってあるじゃないですか。タバコの火を皮膚に押し付けるあれですけど、ちょうどあれの痕みたいになってるんですよ。皮が膨れて、破れてましてね。ああ、やっぱりあれは夢じゃなかったんだ、と。
で、私は退院しまして、それからは毎晩寝るのが怖かったんですけど、親戚の、お寺の方に供養してもらったりしまして、それのおかげか、結局それ以来一度もあの彼は出て来なかったんですけど、この、顔に残った根性焼きみたいな傷痕は、ずっとそのまま残ってて、
消えないんですよね。これ、普通の火傷の痕とか、刺青とかもそうらしいんですけど、手術して消したりしても、やっぱり痕が残っちゃって、完全に元通りって訳にはいかないんですね。私も、顔の目立つところにありますから、消そうと思ったりもしたんですけど、やっぱり完全には消えないってことで、そのままにしてるんですけど、
そう思ったらね、彼の言ってた、
「自分ではどうしようもない事が、自分では取り返しがつかない」
っていうことが、ちょっと解ったような気もしまして、まあ、彼の方は結構な病気だったみたいですから、本当にちょっとなんですけど、ああ、こういう事かなあと、ちょっと解ったような気もしましてね。
もう今では、彼の事を思い出すこともあんまり無いんですけど、鏡で自分の顔を見て、火傷の痕を見た時には、時々思い出す事もありますね。あの病院はまだあるのかな、あの病室はまだあって、彼はまだあそこにいるのかなとか、思ったりしましてね。まあ、ああいう境遇からは脱け出して、安らかに眠っていてくれればと、思うんですけどね。