肉屋の電話
天井にはいく筋ものフラッシュライトが蛇のように這いまわっている。事故を起こした『居酒屋くいまくり亭・六号店』を取り囲んでわめいている『被害者同盟』のデモ隊は、午後8時をすぎたいまも帰る気配を見せない。マスコミの車両はデモ隊を取り巻くようにして店に光を浴びせている。
俺はいま、ドアを開けっぱなしにした厨房の奥で猟銃をひざのあいだに抱えている。携帯電話は目の前の事務机に放ったまま沈黙している。
今年36歳になる。何十店舗もの焼き肉店をまとめる社長だ。そんな俺が無精ひげもぼうぼうに、体育座りの姿勢で、凶暴にのたうつ天井の光蛇をじっと見つめ、店のウインドーの外にいるであろう暴徒たちの声に震えようとは。
やつらパパラッチは表向きには綺麗事を吐く。やつら曰く、法律に違反しなければ懲役刑にはならない、死刑にはならない、暴力は振るわれない。刑罰はもとの現実を回復するために行使されるのであり、復讐のためではない。悪いことをするから叩かれるのだ。叩かれてるからには悪いことしたんだろう。
だがそんな綺麗事は、パパラッチの連中に一週間でも追い回される日常をすごせばすべて吹っ飛ぶ。やつらはどう考えても、「合法的に暴力を振るう機会」「良心の呵責なくいたぶれる相手」を求めてこそ地の果てまで嗅ぎ回っている。
その餌食に俺はなってしまった。
水曜日の会見では土下座させられた。土下座を要求されたわけではないが、あの空気ではああするしか場を収める方法が無かった。ほんの数秒だったが、フラッシュの音がいつまでも聞こえている気がした。横から射すフラッシュで両方の耳が熱くなった。
土下座する前は、デスクの上で真摯に頭を下げた。それで済むと思っていた。その時「人を何人も殺しておいて、それで済むと思ってるのかお前」とヒゲ面の記者が怒声を上げ、俺の胸元のシャツに掴みかかってきた。
いかにもフリーランスの汚らしい格好で、しかし俺はそいつが怖いとは思わなかった。24歳で一号店を立ち上げてから10年以上もこの業界でやっていれば、もっと酷いやくざのような連中に関わることは珍しくもない。
俺を戦慄させたのは別の光景だ。うしろのほうでマイクを持って見ていたその女の表情は忘れない。若くて美しい女だった。
「もっとやれ」
その美しい女は、表情の奥でそう言っていた。もちろん深刻そうな顔を作ってはいる、しかし俺の肉をサイコロ状に切りとり、血管を1本1本剥がしていくこの人間狩りのステージに興奮を覚えているのは明白だった。そしてそれになんのやましさを抱いていないことも。
表の顔に透明に重なっているその「奥の顔」には目が無い。耳が無い。鼻が無い。ただのっぺらぼうの顔が口の端を斜めに釣り上げて暗闇に浮かんでいる。そんな映像が見えた気がする。そう思うとなぜか目の前にある無数の顔たちも恐ろしく感じてきた。俺はデスクに突っ伏して「すみません、すみません。許して下さい。助けて下さい」と声を絞り出す。
世間への反省の気持ちなどとっくに捻出し尽くしている。いましぼり出そうとしているのは、悪鬼を鎮めるためのお経のごとき、人知を超えた神仏へとひれ伏す信仰の心だ。
「助けて欲しいのは被害者のほうだよ!馬鹿野郎。お前ほんとうに反省しているのか?」
例のフリーランスのヒゲ男が怒りを爆発させた。言葉尻を捉えて、徹底的になぶり殺そうというのだろう。その男の正義面の奥にも、あの女とおなじ透明の顔が重なっている。この会場にいる誰もが、ふとした弾みにあの口の端のつり上がった「奥の顔」を見せるのではないか。
そう思うと目を合わせられず、テープレコーダーのような謝罪の言葉をそえて、ひたすら机上に頭をキツツキかししおどしのようにぶつけ続けるのが精いっぱいだった。本当に屈辱だ。くいまくりホールディングス全国36店舗を統べるこの俺が。
俺はほんとうは以前からこれの存在に気づいていて、見えていないふりをしていたのかもしれない。たしかに正しさや正義といったものは『ある』のだろう。しかし正義のその作り手、創造主とは、あの美しい顔の奥にあるなにか忌まわしい残虐性なのだ。
俺はこの場では「良心の呵責なく、利益のために客を殺めた強欲な社長」というキャラクターを与えられていて、それに弁明し別のキャラを演じることはこの場の誰もが結託して絶対に許さない。俺は、5時間のあいだ見えない野獣たちになぶられ続けた。
電車はないし、もう何がなんでも早く帰りたかったのでタクシーに乗り時間を見ると、木曜日の午前1時をまわっている。俺は○○区の自宅へ飛ばした。
「腐肉田健一 香織 眞由」
タクシーに速度を落とさせて、ゆっくりと近づいた自宅。玄関の表札をみて安心する。香織と眞由、俺の妻と娘だ。大丈夫、誰に裏切られてもこの二人さえいれば…。小学校に通う眞由はもう寝ているだろう。家のなかは暗いため、香織が起きているのかは分からない。まわりを警戒したが、マスコミの車は見えない。さすがにこの時間は帰っているようだ。
3億6000万円で俺が建てたマイホームの塀には赤や黄色のペンキで「人殺し」だの「人でなし」だの「ろくでなし」だの(シャレか?)「死ね」だのといった日本語が書かれている。警察がこういう奴らを捕まえない国で、正義を語るのか。運転手が無口でなにも言わないのは救われた。料金を払い、下りて、念のためどこかに侵入者がいないか庭やガレージのほうの様子見をし、そっと勝手口から家に入った。
「香織、いないのか?」
リビングにもキッチンにも光はない。香織は起きて待ってくれていると思ったので、少し落胆したが、それでも家は安心する。ここは誰が罵声を浴びせても来ない、嘲るような視線が入ってくることもない防壁のなかの世界だ。
キッチンのコルクボードには眞由がピースしている姿が映っている。その横には夏休みの自由研究で、俺の肉屋の厨房を『見学』した何枚もの写真。注文から調理、配膳までの手順がかわいい文字で手際よくまとめられている。
香織と眞由につらい思いをさせていることが、俺は辛かった。だが二人のために俺が勝ち取ったこの家を手放すわけにはいかない。ここは眞由が生まれてから小学生になるまで三人で過ごした、思い出の詰まった世界なのだ。二人のためにも、何とかしてこの難局を切りぬけて、会社を安定させねばならない…。
俺はあの見えない野獣どもと最後の血の一滴まで戦いぬく決意を固めた。
階段を上がって、眞由の部屋のまえは暗いが、寝室のドアからは僅かに電気が漏れていることに気づいた。俺はようやく安堵して、ドアを開けて、香織を抱きしめようと思った。光は鏡台に据えられたランプから漏れており、そこには破った大学ノートになにかの書きおきが置いてあった。寝室のどこにも、人の姿も物音もしなかった。
「眞由が、学校でいじめられていると言われました。あなたに何度も相談しようとしましたが、眞由の勉強のこと、学校のことであなたがいつも私にどんな態度を取ってきたのかを考え、やめました。どうせ、なにかの結論を一方的に押しつけられるだけに決まっています。
私が求めていたのは、あなたが家庭の問題を一緒に考えてくれることでした。
眞由のことだけでなく、私とあなたは、もともと解決が難しいことがらは話さない関係でしたね。いつから、そうなってしまったのでしょう。あなたの今の様子では、余計に怒らせることになると考えて、黙っていました。
私も、近所の人に後ろ指をさされ、電話での脅迫や中傷、壁のあれを書いた連中におびえるこの家での生活が、限界にきました。眞由を連れて、しばらく両親の実家に帰ります。眞由はなるべく早いうちに名字を変えて、転校させたいと思っています。
離婚届を置いておきます。唐突で、すぐ同意してもらえるとは思っていません。ですが、これが長い間ほんとうの『対話』をしてこなかった私たち夫婦の、結末だとご理解ください。」
なんだ、これは。手紙をもつ両手に妙な震えが走り、読んでいる途中で紙の端が少し破けてしまった。やけに口のなかが渇く。確かにここ一週間は忙しくて家に帰っても香織とろくに話をしていないが、それだけの事でこんな冷たい仕打ちをするほど俺が何をしたのか。
家庭のために身を粉にして働き、時には会社に泊まり込んだ。その見返りがこの切れ端だというのか。ふざけやがって、あの女。もしかして、二年前の男と、俺に内緒でまだ関わりを持っているのか。そうでなければこんな一方的な通告があるものか。そうか、やはりあのとき香織の電話のうしろにいた男の声は、そういうことなのだ。
香織とあの男は不倫をしていたのだ。
あの冬の日はあれ以上聞かずに、けっきょく互いにこの話題には触れないことになったが、寛大さで香織の弁明を認めたことが間違いだったのか。俺の稼いだ金で服も化粧品もなんでも自由に買って、眞由の教育をしないことをそれとなく何度か咎めたことは俺が悪いのか。断じて違う。悪いのはあの女だ。
一階に降りてウィスキーを手に入れて飲みながら、銀行通帳、クレジットカード、現金、そしてあの女の宝石類など、目につく俺の財産をゼロハリバートンのアタッシュケースにしまう作業をはじめる。金目のものは地下一階の金庫に入れており、特に散らばっているわけではないので作業は10分ほどで終わった。
最後に一枚だけ、眞由がこちらにピースしている写真をすべり込ませてアタッシュに鍵をかける。もうこの家にはいられない。しばらく家を離れて暮らし、この家もいずれ売らなければならないのだろう。
もうひとつ地下室には大事なものがしまってある。ねずみ色のロッカーを寝室に隠した鍵で開けて、その縦に長く、ずっしりと重みのあるブツを取りだす。
――猟銃。レミントンM1100。広範囲に打撃を与える散弾銃で、七連射が可能。
もともと狩猟などに興味はないが、事業がうまいように拡大していったことで、家にいる家族を守ることへの不安は増していった。そんなとき、知り合いの老企業人からの紹介で、裏ルートから購入を勧められた。物騒な世の中だ、無免許でひそかにこの類のものを所持している同業は多いという。
なに、使いかたは簡単だ。弾を銃の下から七発こめて、あとは引き金を引くだけだ。銃が自動で薬きょうの処理をしてくれるので、引き金をひくだけで七発の散弾を連射することができる。その老企業人から、とある山のなかで同じモデルを使って撃ちかたは習ってある。この銃を持ってきたとき妻は不安がり、俺は資産を持つということの怖さを理解しない彼女を怒鳴った。
しかし、それももう過ぎた話だ。
あの女が出ていくならば、好きにすればいいさ。あの女への復讐などという、メリットのまるでない愚かな行為をするつもりもない。この業界、羽振りのいい男には女がいくらでもついてくることは経験済だ。代わりはいくらでもいるのだ。もちろん、眞由だけはあとから弁護士に何億つぎ込んでも取り戻すが。いまはあの女の元にいるほうが安全だろう。
それよりも、俺が何よりも恐れていて、何よりも憎んでいるもの。それは…。
ともかく、俺はいずれ逮捕されるかもしれない。あるいは逮捕されないかもしれない。確率は二分の一だ。もしも神様や仏がいるならば、法律に従って企業経営をしていただけの俺を不幸に突き落とすことなど起こるわけがない。だから俺は賭けをしようと思う。そう考えて俺はこの『居酒屋くいまくり亭・六号店』にひき篭っている。
この店で食中毒が出て、結果的に何人もの客が死んだ。しかし原因となった生肉の保存にも調理にも特に問題はなかったと六号店チーフらがいっている。外部からの調査でこれ以上なにが分かるというのか。おそらく原因は食肉業者のずさんな扱いだろう。やつら田舎者は、グローバルな経営視点で食べ物を扱うということの意味が分かっていない。死んだ客は運が悪かったとしかいいようがない。しかしむしろ死んだ客以上に我が社『くいまくりホールディングス』は風評被害を受けている。法律でなにも問題がないことをしただけなのに、なぜ「人殺し」などと言われなければならないのか?
いいだろう。すべては公平な裁きをする者がこの世界にいるかどうかの問題だ。このまま逮捕されなければそれでよし。しかし、出頭しろだの事情が聞きたいだのの電話が鳴ったならば、俺は外にいるマスコミとデモ隊連中を殺す。レミントンM1100と50個の弾で、何人殺せるのかは分からない。
しかし、俺はできる限りの正義を成すだろう。
運命を伝える携帯電話は、目の前にある事務机のうえで今のところ沈黙している。