8) 手にした切符
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『三千年くらい愛せるかもしれないしな?』
部屋を仕切ってある襖を取り払った、16畳ほどあるリビング兼ダイニング。
畳張りの床に二人掛けのソファと、一枚板の長机。壁に沿って置かれた32型薄型テレビと手作りのテレビラック。
部屋の隅には観葉植物。その脇に飾られている"××9"のフィギュア、ザ○のプラモデル。
すべて幸子が使っていた時のままだ。
夕飯を食べ終えた理子は、ソファの上で膝を抱えながらパソコンの画面を泳ぐスクリーンセイバーを眺めていた。
立ち上げたI○unesからはピアノの音色がジャズを奏でている。
理子の隣で夕飯を食べ終えた幸子の置き土産『シュウ』が、人間顔負けのいびきをかいて眠っている。
ようやく1歳になったばかりのキャバリア『シュウ』。
女の子なのに勇ましいネーミングは、幸子のセンスだ。そして理子がこの家に住むことになった要因。
海外勤務が決まった時、幸子はシュウも連れて行く予定だった。だが、会社が手配したマンションはペット禁止の物件で、日にちも差し迫っていたことから、急きょ理子に依頼が来た。
幸子の姉である母も二つ返事で快諾し、次の日には身の回りのものだけ持たされてこの家にやってきた。
実家から車で15分ほどの距離ということもあり、必要なものはその都度取りに行っている。
羽根のように柔らかい毛並み。茶色と白の割合が1:9のそれをゆっくりと梳きながらも、さっきから心ここにあらずだ。厳密にはお昼の社員食堂からだが。
『沙絵との事が解決したら、白雪 理子に行っていいんだろ』
そう言ったのは、企画開発部の課長補佐 浅野 修司。
はっきりとした顔立ちをした彼は、女子達の間ではちょっとした人気者だ。陰で『王子』と呼ばれている。
付き合っていた受付嬢の高木 沙絵と別れたらしいという噂話は、沙絵の変貌で肯定された。
スウィート路線を降りて別人になった沙絵には驚いたが、予告なしの爆弾発言をかました修司にはさらに度肝を抜かれた。
(聞き間違いじゃないよね?)
『三千年くらい愛せるかもしれないしな?』
「にゃぁぁぁぁ―――っ!」
手近にあるクッションを掴んで思いきり放り投げる。廊下へ続く襖にぶつかった音ではっと我に返り、慌てて駆け寄る。破れていないことを手で確認すると、自己嫌悪に落ちた。
(駄目だ…。ぜんっぜん消えてくれない)
修司の事は入社当時から知っていた。容姿の豪華さに目を惹かれたのもあるが、理子はずっと以前に修司に会っている。
子供の頃に一度会っただけの人間を、いったいどれだけの人が記憶しているだろう。
さして印象的な容姿でないなら、なおのこと記憶に留まりはしない。
廊下ですれ違っても、食堂で近くの席になっても、修司は一度も理子に気づかなかった。
だからと言ってこちらから声をかける勇気もなくて、時間だけが流れた。
それが一転したのが、今日のお昼。
修司の口ぶりは理子を知っているようにも聞こえた。
(もしかして思い出してくれた?)
一瞬淡い期待が膨らんだが、修司は理子の存在は知っていても顔を知らないということもわかった。
だが理子の歌う鼻歌は知っている。
修司が言っていた言葉は、アニメソングのワンフレーズだ。
昔大好きだったアニメの曲は、大人になっても忘れない。最近はインターネットで簡単にダウンロードできるので聞きたい時に聞けるのが便利だ。
ひとりでいる寂しさを紛らわせようと歌った鼻歌。
聞かれているとは思わなかった。
ここに越して来た時、修司が家を出ていることを聞いたときはがっかりした。
会社では接点がなくても、家が隣なら話す機会もあるだろう。そんな浅はかで邪な思いがあった。
その時、修司には沙絵という可愛い彼女がいたのも知っていた。
奪いたいわけじゃない。お隣さんとして理子の存在を修司に植えつけられるだけで満足だった。
だがふたを開けてみれば、すでに修司の姿は無く、全ては理子の妄想で終わった。
(いつの間に帰ってきたんだろう)
悶々としていると、来客を知らせるインターフォンが鳴った。
途端、寝ていたはずのシュウが遠吠えを上げる。
「こら、ダメよ」
縄張り意識の強い性格なのか、知らない人がくるといつもこれだ。
内弁慶のくせにと、視線で窘めて玄関に向かう。
「はい…」
引き戸向こうに見える人影が「浅野です」と答える。
(浅野のおじさんかな?)
浅野家とは、挨拶に伺ったのをきっかけに、時々物のやり取りをする間柄になっていた。
ひとり暮らしの理子を気にかけてくれ、なにかと力になってくれる。
地区の社会奉仕やごみステーションの掃除の仕方を教えてくれたのも、修司の母・美由紀だ。
「はぁい、今開けます」
サンダルを履いて戸を引くと、立っていたのは理子を悩ませている人物だった。
「あ…」
「こんばんは」
☆★☆
一瞬にして棒立ちになった理子に、修司は人畜無害な笑顔を浮かべていた。
「隣の浅野です。いつも美味しいトマトを頂いているので、今日はお礼を込めて、コレ持ってきました」
言って抱えていたスイカを持ち上げて見せた。
「親戚から送ってきたものです。良かったらどうぞ」
丸々としたスイカ。それを持つ修司とを交互に見やり、またスイカに視線を戻す。
これが修司の言っていた『行く』ということなのか。
食堂での宣言。その夜の来訪。しかも手の中にはおいしそうなスイカを持っている。
有言実行。
行動に移すまでの速さに舌をまきつつも、行動派の修司が眩しく思う。手にした切符が"修司行き"なのか分からなくて、改札口さえ通り抜けられずにいた理子とは対照的だ。
じっとスイカを凝視したままの理子に、修司は怪訝な顔になる。
「あの…」
「あ、すいません!いただきますっ」
慌てて修司の手からスイカを受け取る。ずっしりとした質量に中身が詰まっていることを確信する。手で叩くと良い音がした。
「さっき家で割ってみたけど、うまそうだったよ」
理子の心を代弁したかのような修司に、理子ははっとして俯いた。
頂き物なのにくれた相手の前でなんて失礼な事をしたのだろう。
恥ずかしさに顔が熱くなった。
「す、すいません…っ」
「いいよ。やっぱり気になるよね」
理子の失態を修司は笑って許す。
「それじゃあ」
「あのっ」
呼び止めた時だ。
突然バァァンと襖にぶつかる音に、二人して瞠目した。
振り返ると、僅かな隙間からシュウの鼻先が出ている。
強引に顔を出したと思ったら、あっと言う間に修司の足下をすり抜けて夜の外へと飛び出した。
「あっ、こら!駄目よっ!シュウちゃんっ!!」
「えっ、シュウちゃん?」
驚いた顔をする修司の脇を、下駄箱の飾り棚にスイカを置いて同じように理子が駆け抜ける。が、修司の腕がそれを押し留めた。
「は、離してっ!」
「俺も探す」
言うや否や修司が矢のごとく駈け出した。二拍遅れで理子も後を追いかける。
敷地を出たところで「俺はこっち行くから。君は向こうね」と言い残した。
頷いて、理子は夜の闇に眼を凝らす。
暗いとはいえ、街灯がある。家の明かりもある。
後はシュウの行きそうな場所をしらみつぶしで探すだけだ。
まだそんなに遠くに行っていないはず。名前を呼べば振り向くし、ちゃんと自分が『シュウ』だということも理解している。
「シュウ――っ、シュウちゃ――ん!!」
近所迷惑を承知で声を張り上げる。
シュウはとにかく匂いを嗅ぎたがる。
他の犬がマーキングした匂いや猫の匂いを見つけては、自分の匂いで上書きして歩くのだ。
散歩コースでも特にシュウが気になっている場所が、家の裏手にある細道。
あそこは猫がたくさん集まっていて、シュウを刺激するらしい。
猫とカラスに異常な敵対心を見せるシュウは、姿を見るだけで狂ったように吠えまくる。
そのくせ、反撃の狼煙を上げられたら速攻で逃げ帰ってくるヘタレ。
隙あらば脱走してやろうと目論んでいるのは見え見えだったし、その機会を虎視眈々と狙っていたのも知っている。
(でも、本当に脱走するなんて思わなかった!)
周りに注意を向けながら、理子はそこに向かっていた。
遠くでシュウではない犬の鳴き声が聞こえる。おそらく理子の声に反応して鳴いているのだろう。
駆け足でその場所まで行くが、予想は外れていた。
シュウの姿がない。
どんどん不安が膨らんでいく。
(車道に飛び出して轢かれでもしたら…っ)
道端に横たわるシュウの姿を想像して、背筋が凍った。
妄想に鷲掴みにされた心臓が縮みあがる。
(駄目だっ!しっかりしろっ!!)
震え出した体を叱咤して、理子は自分に喝を入れた。
再び走り出した時、道向こうからこちらに歩いてくる人影が見えた。
薄暗がりの中でぼんやりと浮かび上がる白い物体。
目を凝らす間もなく、理子は駈け出した。
「シュウっ!」
☆★☆
腕に抱えてきたのは修司だった。
大人しく抱かれていたシュウは、理子の声に反応して尻尾を振っている。
「ど、ど、どこにいましたっ!?」
「俺の家」
「へ………?」
「うちも犬飼ってるんだけど、そいつの前でにらみ合ってた」
「じゃあ、さっき聞こえた犬の声は」
「うちの犬だ」
「よかったぁぁぁ……」
ため息と共に理子は安堵の声を零した。修司の腕にいるシュウに抱きついて、「も~、心配させないで」と柔らかい毛並みに顔をすり寄せた。
「すみません。ありがとうございました」
ほっとした表情で礼を述べて、シュウを腕の中から抱き上げた。腕に戻った5キロ弱の重みに、無事を実感する。長い耳を後ろに流すように何度も顔を撫でてシュウの存在を確認した。
修司はそんな理子を見て、申し訳なさそうに「こっちこそごめん」と謝る。
「俺がちゃんと閉めてれば良かったのに」
「いいんです。あたしもちゃんと襖閉めとかなかったのがいけないんだし。無事に見つかって良かった」
シュウも大きな目で理子を見上げて「ごめんね」と唇を舐めた。
そんなシュウの頭を修司が撫でた。
向ける視線の優しさに、釘づけになる。
綺麗な顔立ちをしているのに、少しも気どったところがない。誰にでも優しいけれど、誰も特別ではない。それが修司を『王子』と呼ぶ所以。
腕の長さ分もない距離にようやく気がついて、理子の鼓動が跳ねる。
今まで遠くから見ているだけだった人がこんなにもそばにいることが、どうしようもなく嬉しい。
『三千年くらい愛せるかもしれないしな?』
あれは理子が思っているような意味でいいのだろうか。
(それって、あたしのこと恋愛対象として見るかもってこと?)
そうだったらいいのに。
別れたばかりの人にそんな思いを抱くのは不謹慎だろうか。
「白雪さん、犬飼ってたんだな。母からは一人暮らしだって聞いてたから」
「この子は幸子さん…、あたしの叔母の犬なんです。どうしても連れて行けなくなったからって、うちにこの子の世話を頼んで来て」
「それでひとり暮らしか」
「はい。あたしももういい年だし、一回実家を離れてみなさいって母が」
「そう」
理子の話を修司は真面目に聞いている。さして面白くないはずなのにと思いながらも、こうして修司と話せることが嬉しかった。
「あのさ…。今更だけど、俺、浅野 修司って言うから」
「―――同じ会社ですから、課長補佐の事は知っていました」
急に口調が変わった理子に、修司は微妙な顔をした。
改めて名乗られて、やはり覚えていないのだと知らされる。弾んだ気持ちが少しだけしぼんで落ちた。
「いきなりそれ?俺ら同じ年だと思うんだけど」
あえて役職で呼んだのは、修司との壁を感じたからだ。会社用の仮面をつけた理子だが、修司は気に入らなかったらしい。
『課長補佐』と言われても、フランクな修司の口調は変わらなかった。
「あ…の、じゃあ"浅野さん"」
言い直すと、笑われる。
「だから同じ年だって」
「それじゃあ…、"浅野"?」
「………」
「すみません。"浅野君"でお願いします」
いきなり呼び捨てはまずかったのだと反省し、妥協案を提示した。
「まあ、いいか」
修司はジーンズの後ろポケットに手を突っ込んではにかんだ。
そして食堂で見せたあの不敵な笑みを浮かべた。
「よろしく、"理子ちゃん"」