最強の剣 ~模造品の女~
『フジモリ・ケーキ』はお菓子の家だ。
いつも甘い匂いが漂っていて、たくさんのケーキが置いてある。
店長もその奥さんも、いつだって甘い香りがした。
将来はフジモリケーキのお嫁さんになることが、夢だった。
PM10:00―――。
店じまいを終えた藤森 優治は凝った肩を揉みほぐしながら、自室の部屋の明かりをつけた。
直後、
「つけるなっ!!」
闇を切り裂く鋭い声に、一瞬動きが拘束される。が、すぐに正体を見て溜息を零した。
「沙絵…、何やってんだよ」
優治のベッドの隅で、小さい体をたたむように丸めた2歳年上の幼馴染み・沙絵。
会社帰りのまま来たのか、綺麗なワンピースを着ている。二軒隣の沙絵は、昔からフジモリ・ケーキの超がつくお得意様で、優治とは兄妹のように育ってきた。
今でこそ綿菓子みたいな姿だが、昔は細い四肢を晒して、優治と共に野球やサッカーに明け暮れた。木登りもクワガタ採りも誰よりも上手かった。
さっぱりした性格は同性からも異性からも好かれたが、「LOVE」ではなく「LIKE」。
沙絵の恋愛はどれも長くは続かない。
『沙絵は楽しいけれど、なんか違う』
別れた男は今の沙絵のような綿菓子女を選んでいった。
よほど悔しかったのだろう。
大学卒業後、入社した会社では渾身の猫を被り、"わんぱく沙絵ちゃん"から"おとなし沙絵ちゃん"になった。
ジーンズをスカートに履き替え、スニーカーをヒールに変えて、モンキーヘアーも今では肩にかかるほど伸びている。
一年前、やたらカッコいい彼氏が出来たとはしゃいでいたのに。
(なんだ、あのぐずぐず感は…)
優治は部屋を突っ切って、うずくまる沙絵の前にしゃがみ込んだ。首を傾げて俯いた顔を覗き込む。
「彼氏と喧嘩でもしたか?」
最近会っていないと愚痴っていたから、とうとうブチ切れたんだろうなと適当に見当をつけると、大きな目がカッと見開いて優治を睨みつけた。
「―――た」
「は?何て?」
「――振られた。振られたんだってば!!」
「え、え、えぇぇっ」
真っ赤に充血した目、泣き顔に涙が一滴もないのは、悔しさで埋め尽くされている証拠。
「――――――マジかよ…」
唖然とする優治を前に、沙絵は顔をくしゃくしゃに歪めている。
「今日、突然。いきなり、別れてくれって!!好きになれないんだって!あたしのこともう好きじゃないんだって!!」
涙声なのに、涙は出ない。
沙絵は優治の袖をぎゅっと握りしめた。
「好きだったのに…!今も全然好きなのに、なんでぇぇ…っ」
「なんでって…」
(それを俺に聞くなよ)
ぎゅっと目をつぶるも、零れてくるのは嗚咽だけ。
苦しげに何度もしゃくりあげる沙絵に見かねて、優治は立ち上がる。
「ちょっと待ってろ」
言って向かった先は、フジモリ・ケーキ。
売れ残ったケーキを入れた冷蔵庫を開けて、ありったけのケーキをトレイに乗せる。種類は問わない。
とにかくあるだけ全部だ。
それからティーポットに並々と紅茶を作る。ミルクポットも忘れずに乗せる。
洗面所から姉のクレンジングシートと化粧水を拝借し、それらを持って再び自室に戻る。
沙絵は優治が出ていった時のまま、同じ場所にうずくまっていた。
ドアが開く音で上げた顔が優治が抱えているケーキセットを捕らえると、ようやく防波堤が崩れた。
大粒の涙が滝のように溢れ出す。
昔からそうだ。沙絵は負けん気が強く、泣かない子供だった。悔し涙は絶対に流さない。
泣くのは悲しい時だけ。
大好きだった祖父が亡くなった時、車に轢かれた猫を土手に埋めた後。
ボロボロと大きな目から涙を流して泣いた。
泣けない沙絵を唯一泣かすことができるのが、フジモリ・ケーキだ。
どれだけ悔しくてもこれがあれば、涙が出る。
泣くだけ泣いて、ケーキを食べる。ミルクティをがぶ飲みする。
それが沙絵のストレス解消法だ。
そしてそれを知っているのは幼馴染みの優治だけ。
「う…っ、う…っ。あぁ―――っ」
豪快な泣き方はとても女らしくないけれど。
声を上げてわんわん泣く姿を見て、ほっと胸をなでおろす。
「なんでぇっ。なんで振られるのぉぉ」
「ちゃんと理由を聞いたのか」
沙絵の前にあぐらをかいた優治がたずねると、ふるふると首を振った。
「そんなの聞けないよぉ。なんて聞けばいいのよぉぉ」
「なんてって、普通にどうしてって聞けばいいんじゃねぇの?」
「ど…してって聞いても、"ごめん"としか言われなかったもん!"俺が悪い"って。そんなんじゃ納得できないぃ!」
「じゃあ、なんでそれをそのまま言わないんだよ」
「だって、うざいって思われるの嫌だったんだもん。ずっと…ずっと"聞きわけのいい物分かりのいい彼女"やってきたのに、悔しいでしょう…っ!」
あぁ、なるほど。
こんなところで負けん気が出たな。
振られてもまだ好きな男。みっともない女と思われたくなかったんだろう。
普段から猫なんかかぶってるから、仇になるんだ。お前はそんな言いたいことも言えない女じゃないだろう。
溜息をついて、膝にのせた手に顎を乗せた。
「しゅうじぃぃ…」
振られてもまだ彼氏の名前を呼ぶのか。
めずらしく長く続いていると思っていたが、どうやら沙絵の一方的な踏ん張りだけで続いていたのだろう。
(好きだったんだろうな)
自分を偽ってまで、相手の傍にいたかった。
どんどん女らしくなる沙絵を誰よりも傍で見てきた優治だから分かることもある。
本気で惚れてたんだ。
だが、それも終わった。
相手の一方的な決別に納得できないのもわかる。
好きだから、本当の理由が知りたい。
そんなところだろうか。
「ほら、もっとちゃんと泣けよ。まだつっかえてるだろ?」
「う、ううぅぅ」
「ケーキもたくさん持ってきたからな。好きなだけ食え」
テーブルに乗せたトレイを指差すと、沙絵の視線が後を追いかけてきた。
が、ケーキを見てまた豪快に泣き始める。
「モンブランがないぃぃ…」
「仕方ないだろ。売れ残りなんだしさ。そもそもモンブランは秋だろ?文句言うな」
「優治の意地悪――っ。う、うあぁぁぁ、修司ぃぃ」
「あーーーもう、うぜぇな!」
髪に手を突っ込んで、かき回しながら悪態をつく。
「わかった!明日作ってやるから、なっ!これでいいだろ??」
「今食べたいのにぃぃ…」
「そのかわりお前の好きなロールケーキがあるぞ?今日はマンゴー入りだ」
「マンゴー…?」
一秒前まで泣いていたのが、うそのようにピタリと涙が止む。
「ほら。吐くほど食え」
フォークでロールケーキを一口取って、沙絵に差し出した。
するとまたくしゃりと泣き顔が歪む。
「吐かないもん…っ」
「いいから食えよ」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をもう片方の手に持ったタオルで拭いてやる。
泣きながら頬張ったケーキに、また涙が止まる。
「美味いか?」
尋ねると無言で頷いた。優治はまた一口差し出す。
半分くらいそれを繰り返すと、沙絵が優治の手からフォークを取り上げた。
「じ、自分で食べ…るっ」
まだまだしゃくり声の沙絵は、ロールケーキの皿を手に取った。
それを見届けて、持ってきたクレンジングシートで崩れきった化粧を丁寧に拭き取ってやる。
(ひでぇ顔だな)
どれだけホラーだと色の混じった顔を擦らないよう、優しくゆっくりと撫でる。
その間も沙絵はロールケーキを食べて「修司」と泣き、二個目、三個目を食べてはまた振られた男の名を呼んで泣いた。
持ってきたケーキがあらかた無くなる頃になって、ようやく涙もひと段落したようだ。
手当たり次第持ってきたが、トレイに乗ったケーキは20個はあった。それを一人で平らげる沙絵には、毎回驚かされる。
お得意様だとしても、限度があるだろう。
あの小さい体は胃しかないのか、と呆れるほど沙絵は大食いで底なしの酒豪だ。
「お前、彼氏の前でその大食い見せのか?」
「もう彼氏じゃない」
「…元彼は知ってんのかよ?」
ぬるくなった紅茶にミルクをたっぷり注いで、沙絵が首を振る。
「どうせ雀の涙くらいしか食べなかったんだろ?ほんっと馬鹿だよな、お前は」
イミテーションのダイヤにいかほどの価値があるのか。
そんなものに引っかかる男がどれだけいると思う。
宝石はダイヤだけじゃない。男がみんな綿菓子女を好きなわけじゃない。
どれだけ自分を偽っても、サファイアがダイヤになれるはずがないだろう。
結局、最後は自分の持っている武器で挑むしかないのに。
必要なのは無敵の剣じゃない。そいつにだけ効く最強の剣だっていうことにどうして気づかないのだろう。
少なくとも、優治にとって沙絵の持つ剣は最強だ。
それが他の男に効くわけがない。
(マジ、ムカつく…)
こんなにも近くにいるのに。
何が悲しくて惚れた女の惚れた腫れたと騒ぐ姿を見続けなくてはいけないのか。
同じ数だけ振られたと泣く女を部屋で介抱する身にもなってほしい。
(拷問だろ?)
これがそうでなくて、何だと言うんだ。
しかも、沙絵は優治の気持ちなど知りもしないで、相変わらず振られた男の名前を呼んでいる。
(俺を呼べよ)
泣くなら、俺のことで泣け。
俺の部屋で、俺の傍で他の男の名前を言うな。
「ごちそうさま」
紅茶も綺麗に飲み干して、沙絵はほっと息をついた。
まだ濡れた目で優治を見る。
「美味しかった。…ありがと」
気恥ずかしいのか、最後は口ごもりながらだったが、優治には十分だった。
「もう良いのか?」
「まだわかんない。…でも、きっとまた泣くと思う」
それはそうだろう。好きの気持ちがそんなに簡単に消せるなら、誰だって苦労はしない。
どうにもならないから、苦しい。
「その時はまたうちのケーキ、食いに来い」
「うん」
ぐいっと手の平で涙を拭う姿は男らしい。
「今日のロールケーキ、優治が作ったやつでしょう」
「なんだ、分かったのか」
「わかるよ。どれだけ食べてると思ってるの」
「だよな。俺は絶対沙絵にだけは奢りたくない」
間違いなく破産する。
「ふふ…、じゃあ。罪滅ぼしに今度修司に奢らせようかな」
「おお、やれやれ。そいつの財布を食いつぶしてやれ」
沙絵ならやりかねない。
元彼の前でこの食欲が出せるなら、結構なことだ。飾らない沙絵を見せてやれ。
加勢すると、やっと沙絵が笑った。
化粧を落とした顔は、年齢よりもずっとあどけない。
目を強調したメイクや、果物みたいな唇よりも、こっちの沙絵の方がずっと"らしい"。
思わず腕を伸ばして抱きしめたくなるほどだ。
優治は伸びた手の方向を理性だけでその頭へと転換させた。
柔らかい髪をくしゃくしゃにかき回すと、途端に沙絵からブーイングが上がる。
「ちょっと!やめてよ!」
「ほら。もう食ったんなら帰れよ。明日も仕事なんだろ?」
これ以上はいろいろとまずい。
傷心の女に手を出すほど飢えてないが、相手が沙絵なら話は別だ。
よろこんで狼になるだろう。
だが沙絵は優治の葛藤も知らず、とんでもないことを言いだした。
「嫌。今日はここに泊まるの」
「なっ…!」
「帰るの面倒くさいし、こんな顔見られたくないもの。仕事も休むから」
「沙絵っ!」
「優治、なんかTシャツ貸して?」
言って、勝手にクローゼットを物色し始める。
「沙絵!」
「あ、これでいいか」
しかも、その場でワンピースのファスナーを降ろしだすのだから始末が悪い。
優治は光よりも早く飛びついて、その手を押しとどめた。
「頼むから帰れよ!」
「なんでよ?いいじゃん」
「せめて着替えはよそでやれっ!」
「今さら何言ってるの?バカじゃない?」
「バカはお前だろっ!」
最悪だ。
沙絵は惜しげもなく最強の剣を振りおろす。何度も何度も。
こっちは瀕死だというのに、無自覚は罪だ。
「…手ぇ出すぞ」
これが最後通告だ。
頼むから帰ると言ってくれ。
祈る気持ちで、沙絵を見下ろす。
すぐ傍にある体温にどうしようもないくらい愛しさがこみ上げてくる。
「…いいよ」
沙絵は優治の視線から逃れるように横を向いた。
「こんな日にひとりになりたくない。優治がしたいなら、いいよ?」
簡単に投げ出そうとする沙絵に無性に腹が経つ。
もし今目の前にいるのが他の男でも、同じ台詞を言うのか。
「お前なっ」
いい加減にしろ、と続くはずだった言葉が、途中で途切れる。目の前の体が小刻みに震えていることに気がついたからだ。
めいいっぱいの虚勢。
本当は全然良くないくせに、悪ぶろうとする姿に怒りもかき消される。
おそらく沙絵が口にした言葉のほとんどが本当だろう。でも、最後だけは嘘。
沙絵は投げやりで寝るような女ではない。
(毒されてるな)
甘いと分かっていながらも、結局は沙絵を許してしまう。
はぁっと腹の底から息をついて、いじっぱりな幼馴染の頭を撫でた。
「俺は明日も仕事だから。目ぇ覚めてもひとりだぞ」
沙絵の性格を分かってやれるのは、世界中できっと優治だけ。
「朝飯は母さんに言っておくから。ゆっくり寝ろ。そして一刻も早く忘れてくれ」
優治の気持ちに気づくのは、その後でもいい。
22年の片想い。いまさら一日二日伸びたからなんだと言うんだ。
「明日になったら最高に美味いモンブランを食わしてやるよ」
だから、もう他の男で泣くな。
前途多難の片想いを抱える男に、沙絵はとびきりの笑顔で頷いた。