7) スタートライン
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食堂で竜田揚げ定食を食べていると、眼の前に影が落ちた。
「噂になってるぞ」
大盛りラーメンと大盛り炒飯で両手がふさがった山下がしたり顔で笑う。
「お、修司は竜田揚げかぁ。やっぱりそっちにすれば良かったかなぁ」
「失敗した」とぼやく姿に、軽く呆れる。
無言で足を伸ばして山下の椅子を押しやると、「サンキュな」と弾んだ声が返ってきた。
見かけによらず大食漢な山下は、今日も健啖ぶりを披露する気らしい。
よくそれだけ食べて仕事ができるものだと感心する。
午後から眠くなったりしないのだろうか。
修司の疑問をよそに、山下は鼻歌を歌いながら慎重に抱えたメニューをテーブルに置く。
と、動きが一瞬鈍った。
「どうした?座れよ」
怪訝な顔をする修司に、なぜか視線を泳がせる。
何か言いたげな顔に「なんだよ」ともう一度問いかけるが、
「いや。なんでもない。それより、噂になってるぞ」
と、はぐらかされた。
ごまかしたのが何だったのか。気になったが振られたネタの威力に吹き飛んだ。
少なくとも今日だけは外で食べれば良かったと後悔するほどに。
「だから知ってるって。二度も言うな。朝から視線が痛くてうんざりしてるんだ」
かくゆう今だってこちらを窺いながら、ひそひそと囁き合う女子社員の姿が目に付く。
今朝から遠慮がちに様子をうかがう者、興味津津で話を広げる者。
(いい加減にしてくれ)
そんなに別れ話がおもしろいのか。
突然の沙絵の豹変ぶりが、噂に尾ひれをつけた。今では社内中を縦横無尽に泳いでいる。
うんざりしてため息を漏らすと、ちょっとだけ同情めいた顔をされる。
「そりゃそうだろうよ。あれはさすがに度肝抜かれるぞ」
「俺もびっくりだよ。声かけられても誰かわからなかった」
「だろうな~。ふわふわして可愛いのが売りだったのに、あんなになっちゃって。いや、もともと可愛い顔立ちだったけど、あそこまでベリーショートにしたもんだから。なぁ?」
「なぁ、って何だよ」
豪快にラーメンをすすった山下をじろりとねめつける。
「いやね、一皮むけて可愛くなったって言ってるの。俺は今の沙絵ちゃんの方が好きかな」
「美咲ちゃんに言っとくよ。旦那が妄想浮気してるって」
「ばっ!バカ野郎!そんなこと言ってないだろっ!!」
いつにない慌てようにいよいよ怪しさが増す。訝しげな視線を向けると、山下は急いで視線をそらせた。
わざとらしい態度が、不信を煽ることを知らないのか。
今の山下は、まるで美咲に知られたと言わんばかりだ。
(言うわけないだろ)
冗談と本気の区別がつかないほど子供ではない。
第一、美咲を愛してやまない姿を嫌というほど見ているのだから、今さら誰かに目移りするなど本気で思うわけがないのに。
(ほんと、憎めないやつだな)
午前中の鬱憤が少し和らいだせいか、修司の顔に笑顔が浮かんだ。
途端、思い出すのは『あの事』。
心に余裕ができたそばから、どうして次から次と悩みを探してくるんだ。
休む間もなく活動する脳を恨む。
忘れていたわけではない。噂話で隅に追いやられていただけの『あの事』。
隣人の白雪 理子の事だ。
別れてから一週間。修司は未だに同じ場所で足ふみ状態を続けている。
沙絵との事が消化しきれていないせいもある。胸に刺さった棘は繁忙さも手伝って薄れているが、だからと言って踏ん切りがついたわけではない。
傷つけた沙絵がどんな答えを出したのか。
それが今も修司を踏みとどまらせている理由だ。
そこに追い打ちをかけたのが"あの事"。
昨日、修司は風呂場で衝撃の会話を耳にしていた。
『シュウちゃん、こんなとこでじゃれつかないで!』
理子がはなった一言は、修司を愕然とさせるには十分すぎる破壊力を備えていた。
思わず窓から隣を覗き見たが、ガラスに映る人影は理子ひとりだけ。
(シュウちゃんって、誰だよ)
自分じゃないことは知っている。が、理子が他の男の名前を呼ぶのは気に入らない。しかもそれが自分と同じ『シュウちゃん』ときた。
(俺だって"シュウちゃん"だろ?)
どうせ呼ぶなら俺に向かって言えばいいのに。
そうしたら―――。そうしたら?
そうしたら何だ。
よぎった思考に、竜田揚げを掴む箸が止まる。
(俺、今なに考えてた?)
隣の家の会話に耳をそばだてて、その一言一句に目くじらを立てるなんて、立派に変質者じゃないか。
「……い、おい。修司」
「………あ?」
「あ?じゃねぇぞ。お前、俺の話聞いて無かっただろ」
ひとりで煩悶しているところを、強引に引き戻される。
「悪い…。なんだっけ?」
「ったく。だから、沙絵ちゃんのイメチェンの理由だって。何か聞いてないのか?」
「俺が知るかよ。気になるなら本人に聞けばいいだろ」
何度も言うが、沙絵とは終わっている。
次の日は休んでいたようだが、二日目からは普段通りに受付に立っていた。
今までは、大勢の社員の中に紛れていても沙絵の笑顔は修司に向けられていた。
だが、もうそれもない。
恋人からただの同僚になったことに、安堵と少しばかりの寂しさを覚える。
あれから一度も話をしていない。
何も言ってこないのは、沙絵なりに納得したからだろうと勝手に解釈している。
「聞いたさ。もう吹っ切れたのって聞いたら"はい!"だって。すっげぇ笑顔だったぞ。女の子はいくつになってもたくましいね」
「そっか」
それが今朝、状況は一変した。
後ろから声をかけてきた沙絵はそれまでのイメージをぶち壊して別人になっていた。
憑き物がとれたようにすっきりした顔、頭の形がわかるほどのベリーショート。ワンピースを脱いで、パンツにスニーカー、ジャケットを羽織り自転車に跨っていた姿には、さすがに驚いた。
『復活したけど、まだ許したわけじゃないから。悪いと思ってんなら今度奢ってよね!修司の財布まるごと飲み干してやるわ!』
ついでに性格までも変わっていた。
だが、真っ直ぐ修司を見て笑う沙絵はとても清々しかった。
答えが出たのだ。
新しい沙絵に、おこがましくも違う関係の入口を見た。
ただの綿菓子だったのに、今はパチパチキャンディーが入っている。
太陽の光を浴びた沙絵は、眩いほど綺麗だった。
「あ、やっぱりなんか知ってるんだろ」
これで俺も次に行ける。
一回り大きく見えた沙絵は置いておいて、「そんなことより…」と山下を見た。
「お前こそ、あの時の言葉忘れてないだろうな」
「―――あの時?」
「とぼけるな。沙絵との事が解決したら、白雪 理子に行っていいんだろ」
「え…、おいっ。修司?」
そうだ。やっと会いに行けるんだ。
にやりと笑う修司を見て、山下の表情がひきつった。
「もうとやかく言わせないから」
言って、食べかけのトレイを持って立ち上がる。
「今度こそ、三千年くらい愛せるかもしれないしな?」
意味深な言葉を残して、不敵に笑う。
呆気にとられる山下を残して、修司は軽くなった足取りで午後の仕事へ向かった。
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急にやる気になった修司を見送った山下は、その姿が見えなくなるとようやく息を吐き出した。
「三千年くらい愛せるかもだって。―――今度は何歌ってたのかな、理子ちゃん」
さっきまで修司が座っていた席のひとつ空けた右隣、広げたお弁当もそのままに真っ赤な顔をして俯いている理子を見た。
「…多分、マ○ちゃん?」
「多分って、絶対マ○ちゃんだろ。どうすんだ?あのやる気は仕事以外で見たことないぞ。理子、マジでそれくらい愛されちゃうかもしれないぜ。しかもあいつ、しらっと千年足したぞ」
真顔で言った修司は相当痛い。
しかも、当人がすぐ傍にいることも気づいていないのだから、痛いどころか哀れだ。
近づく前に気持ちをばらしてどうする。
が、見た目が良いのは何かと得だ。
歯の浮くような台詞も、あの顔で言われると妙に納得してしまう。
真顔で迫られたら、男でもくらりとしそうだ。
つくづく恵まれた男。
「あんな恥ずかし~い王子様でいいわけ?理子ちゃん、これから大変だな」
耳まで真っ赤にした理子は、何度も手の甲を頬に当てて火照りを冷ましている。
修司はまだ自分の気持ちに自覚がないのか、それともあえて気づかないふりをしているのか。
「適当な恋愛」しかできなかった男が、ここまで会ったこともない女に固執する理由が、ただの好奇心なわけがないのに。
(意外とウブなんだよな)
体と性だけ大人になったが、修司の初恋は芽吹いたばかり。
それを大事に育てられるかどうかは、ひとえの修司の努力次第だ。
なにせ相手は"俺たちの大事"な理子。
(前途多難だな…)