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窓恋  作者: 宇奈月 香
本編
6/46

6) 身勝手な男


☆★☆



その呟きを口火に、作った笑顔がボロボロと崩れ始めた。


「な…んで?あたし、何か修司の気に障るようなことした?」


 震える声に涙色が混じる。


「仕事が忙しいことなら気にしてないよ?修司が仕事熱心なのは知ってるし、そんなとこも好きだもの。だって…」

「仕事は関係ない」

「だったら…っ」

「ごめん。もう無理なんだ」

「何が無理なのよぉっ!」


 興奮した高い声が店内に響いた。

 他の客達が「何事か」と一斉に視線をこちらに向ける。

 他人の視線を浴びている事も気づかないほど激昂した沙絵。目を真っ赤に充血させながら下唇を震わせる。


「知ってるよ。修司がそんなにあたしのこと好きじゃなかったことくらい。でも、そんなの付き合いだせばいくらでも変えられるって思ってた。修司の一番近くにいて、いつも笑っていれば絶対にあたしを見てくれるはずだって。修司に釣り合うような彼女になりたくて、お洒落もメイクも話し方も練習した。いつでも『可愛い彼女』でいたかったから。―――なのに、なんで?好きになれないって、なに?あたし、うざいの?」

「違う。沙絵のせいじゃない。俺が悪いんだ」


 一緒にいることが面倒くさいと思うようになった。

 沙絵がいなくなっても平気だとわかったら、そばにいることが無意味に思えた。

 全部、自分の我が儘。


「気が済むまでなじってくれていい。殴りたいならそうしてくれ。俺に出来るのはもうそれくらいしかない」

「それくらいしかないって…!―――じゃあ、もう一度やり直してよ。悪いと思ってるのなら今度こそ本気で好きになって!」


 金切声かなきりごえに近い叫びが、修司に突き刺さる。

 人の気持ちが強要されてどうにかなるものじゃないことくらい、沙絵だって知っているだろうに。

 ふくれ上がった激情を持て余しているのか、必死で唇を噛みしめていた。

 怒りに満ちた強い眼差し。

 食い入るように睨まれようと、気持ちは揺らがない。

 もう一度、彼女を好きになることはない。


(ごめん、沙絵)


「それはできない」


 直後、顔面に衝撃が当たった。


「きゃっ!」


 かぶさるように女性客の悲鳴が聞こえて、マスターが慌ててカウンターから出てくるのが見えた。

 修司は濡れた髪も顔もそのままで、向かいに座る沙絵を見据えた。

 指の色が変わるほどグラスを強く握りしめた沙絵は、泣きそうな顔で修司を睨んでいる。


 気がすむようにすればいい。

 沙絵にはその権利がある。

 

 沙絵が嫌いになったわけじゃない。

 好きだと思っていた。―――違う、好きだと思い込んでいた。

 いつだって好きかと問われれば答えは「否」だったのに、そこから目をそむけていた。

 そうしなければ付き合う意味がなくなるから。

 理子の事がなかったら、山下の言葉がなかったら、きっと今回も自然消滅を選んでいた。

 別れを切り出したのは、沙絵が特別だったからじゃない。

 修司に『特別』なことができたからだ。

 沙絵との関係を解消することで、修司は動き出せる。この気持ちの正体を見に行ける。

 その為の別れ。

 その為だけの別れ。

 相当むごいことをしている。どれだけもっともらしい理由を並べても、沙絵にしてみれば最悪だ。

 いや、もっともらしい理由なんて果たしてあるのか?

 気になる子ができた。ちょうど気持ちが冷めていた。だから別れることを決めた。

 そこに沙絵の気持ちは欠片かけらも組まれていない。

 すべて修司の一存。身勝手な理由。それのどこがまっとうな理由だというのか。


 沙絵は可愛い。だが、それだけ。

 これまで付き合ってきた彼女達と同じで、修司の心を掴む"何か"を持っていない。

 例えば、あの鼻歌みたいな。

 同じものを見て、同じように感じて欲しいと願ったこともない。どう思うかなんて聞いたこともなかった。

 マスターの入れるコーヒーを飲んで欲しいと思わなかった。

 ここを待ち合わせにしていたのは、修司がここのコーヒーを飲みたかったからにすぎない。

 いつだって沙絵と自分は、そばに居ながら気持ちは別の場所にいた。

 1年も付き合っていながら、沙絵のことを何も知らないのがその証拠じゃないか。


「―――他に、好きな子でも、出来た…?」


 掠れた声で、沙絵が問う。


 ―――好きな子。

 顔も知らない人が気になるのは、好きと呼べるのか。


「まだ、よく分からない」

「は…っ、―――なにそれ。意味わかんないし…」


 ありのままの気持ちを告げると、沙絵は嘲笑ちょうしょうを浮かべてそれきり口を噤んだ。

 持っていたグラスを乱暴にテーブルに置くと、そのまま両ひじをついて手のひらで顔を覆う。


「―――行って」


 ぽつりと零れた声に、修司は眉を寄せる。


「もう行ってよ。あたし振られたんでしょ?ならもう行って。一人にしてよっ」


 投げやりな言葉が傷の深さを見せつける。

 血を吐くような口ぶりに、修司は返す言葉がない。

 山下が言った「適当な恋愛」の結末がこれだ。

 好きだと言われたから付き合った。求められたから寝た。ごく自然のことのように流されていた。

 なんてお粗末だろう。


 修司は一度もこちらを見ない沙絵に、深々と頭をさげてもう一度「ごめん」と心から謝罪した。

 テーブルを立つと、入口近くでマスターがタオルを差し出した。

 修司はそれを首を振って断ると、財布から一万円札を抜いて差し出した。


「ご迷惑をおかけしました」


 マスターにも頭を下げて、そのまま店を出る。

 ラウルが不安げに修司を見上げている。「悪かったな」言って撫でるとクゥン…と寂しそうに鳴いた。

 後味の悪いものが胸に重くのしかかってくる。

 何度か経験した別れの中で、これまで味わったことのない感情。

 自分で望んだことなのに、どうしてこんなにも重たい気持ちになるのか。

 ぶつかってくる感情の強さも、むき出しの怒りも、それ以上の悲しみも。

 すべてが「なぜ」と問いかけていた。

 心変わりの理由。---始めから心がなかったと言えば良かったのか。


「あいつ、一度も泣かなかったな…」


 メガネを外して濡れた前髪を後ろにかき上げると、溜息が出た。


(確かに「適当な恋愛」だったよ…)



☆★☆



 家に帰って風呂に入れば、あの歌声が聞こえてくる。

 風呂場の窓を半分開けておくのも、当り前になっていた。

 今日もご機嫌な鼻歌は、修司の知らない曲だ。ロマンチックカラー満載の歌詞は、多分何かのアニソンだろう。もちろん歌詞が合っているかどうかなんて知らない。

 テンポの良い鼻歌を聞きながら、湯船に顔を沈める。

 

(疲れた…)


 仕事でもこんなに疲れたと感じることは少ない。

 精神的な疲労は、体の芯まで疲弊させた。


 濡れたスーツで帰宅した修司に母は物言いたげな顔をしたが、それも無視した。

 今は何も言われたくない。

 ぼんやりと湯船に浸かりながら、理子の鼻歌に耳を傾ける。

 なんだか沙絵の気持ちを可愛らしくデフォルメしたような歌だ。

 実際はこんなピンクっぽい感情だけで済まないのに、と勝手に愚痴る。


(アニソンに八つ当たりしてどうすんだよ…)


 駄目だ、相当まいってる。

 湯をすくって豪快に顔にかける。

 沙絵にかけられたのは冷水だったなと思い返す。

 だが冷たいとは少しも思わなかった。

 あれがあの時、沙絵にできた精一杯の抵抗だったのかと思うと、やるせない気持ちになる。 

 沙絵は一滴も涙を零さなかった。

 怒りで顔を上気させながらも、わななく口は修司を罵ることもなかった。

 言いたいことは山ほどあったはずだ。

 やりきれない感情を沙絵はどこに向けるのだろう。


(俺が考えることじゃないか)


 手を放したのは修司だ。

 納得できないと言われるかもしれない。

 その時はまた同じ言葉を告げるだけだ。

 だが、できることなら言いたくない。これ以上沙絵を傷つけたくない。

 

(違う。これ以上最低な自分を見たくない、だろ?)


 ようやく顔を出した本音に、修司は自嘲じちょうした薄笑いを浮かべた。

 沙絵の視線にさらされて、いかに自分が最低だったのか思い知った。

 幾度の別れの中で経験したことのない、胸のつかえ。

 その正体が罪悪感だとしたら、自分はどれだけ卑怯なことを繰り返していたのだろう。

 最後の決断はいつも相手任せ。

 その方が楽だから。自分はそれにならうだけでいいから、相手を傷つけた自覚がない。

 何が女の自尊心を傷つけない別れ方だ。

 結局は自分が傷つくのが嫌だっただけじゃないか。


 柔らかい印象しかなかった沙絵の、あれほど強い眼差しを初めて見た。

 もしかして修司が思うよりずっと強いのかもしれない。

 涙を見せなかったのも、恨みごとを言わなかったのも、修司が望んだとおりの「彼女」を演じきりたかったのだとしたら。

 すげなくされても笑顔を浮かべられたのは、強さゆえのことだとしたら。


 修司は大きく息を吐きながら首を振った。

 今更考えても遅い。

 胸のもやもやも、とげとなってくすぶっている沙絵への罪悪感も、自分がまいた種。

 理子は気が遠くなるほどの愛を歌う。

 

 (俺もそれくらい愛してみたいよ)


 そう思える相手に出会ってみたい。






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