6) 身勝手な男
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その呟きを口火に、作った笑顔がボロボロと崩れ始めた。
「な…んで?あたし、何か修司の気に障るようなことした?」
震える声に涙色が混じる。
「仕事が忙しいことなら気にしてないよ?修司が仕事熱心なのは知ってるし、そんなとこも好きだもの。だって…」
「仕事は関係ない」
「だったら…っ」
「ごめん。もう無理なんだ」
「何が無理なのよぉっ!」
興奮した高い声が店内に響いた。
他の客達が「何事か」と一斉に視線をこちらに向ける。
他人の視線を浴びている事も気づかないほど激昂した沙絵。目を真っ赤に充血させながら下唇を震わせる。
「知ってるよ。修司がそんなにあたしのこと好きじゃなかったことくらい。でも、そんなの付き合いだせばいくらでも変えられるって思ってた。修司の一番近くにいて、いつも笑っていれば絶対にあたしを見てくれるはずだって。修司に釣り合うような彼女になりたくて、お洒落もメイクも話し方も練習した。いつでも『可愛い彼女』でいたかったから。―――なのに、なんで?好きになれないって、なに?あたし、うざいの?」
「違う。沙絵のせいじゃない。俺が悪いんだ」
一緒にいることが面倒くさいと思うようになった。
沙絵がいなくなっても平気だとわかったら、そばにいることが無意味に思えた。
全部、自分の我が儘。
「気が済むまで詰ってくれていい。殴りたいならそうしてくれ。俺に出来るのはもうそれくらいしかない」
「それくらいしかないって…!―――じゃあ、もう一度やり直してよ。悪いと思ってるのなら今度こそ本気で好きになって!」
金切声に近い叫びが、修司に突き刺さる。
人の気持ちが強要されてどうにかなるものじゃないことくらい、沙絵だって知っているだろうに。
ふくれ上がった激情を持て余しているのか、必死で唇を噛みしめていた。
怒りに満ちた強い眼差し。
食い入るように睨まれようと、気持ちは揺らがない。
もう一度、彼女を好きになることはない。
(ごめん、沙絵)
「それはできない」
直後、顔面に衝撃が当たった。
「きゃっ!」
被さるように女性客の悲鳴が聞こえて、マスターが慌ててカウンターから出てくるのが見えた。
修司は濡れた髪も顔もそのままで、向かいに座る沙絵を見据えた。
指の色が変わるほどグラスを強く握りしめた沙絵は、泣きそうな顔で修司を睨んでいる。
気がすむようにすればいい。
沙絵にはその権利がある。
沙絵が嫌いになったわけじゃない。
好きだと思っていた。―――違う、好きだと思い込んでいた。
いつだって好きかと問われれば答えは「否」だったのに、そこから目をそむけていた。
そうしなければ付き合う意味がなくなるから。
理子の事がなかったら、山下の言葉がなかったら、きっと今回も自然消滅を選んでいた。
別れを切り出したのは、沙絵が特別だったからじゃない。
修司に『特別』なことができたからだ。
沙絵との関係を解消することで、修司は動き出せる。この気持ちの正体を見に行ける。
その為の別れ。
その為だけの別れ。
相当むごいことをしている。どれだけもっともらしい理由を並べても、沙絵にしてみれば最悪だ。
いや、もっともらしい理由なんて果たしてあるのか?
気になる子ができた。ちょうど気持ちが冷めていた。だから別れることを決めた。
そこに沙絵の気持ちは欠片も組まれていない。
すべて修司の一存。身勝手な理由。それのどこがまっとうな理由だというのか。
沙絵は可愛い。だが、それだけ。
これまで付き合ってきた彼女達と同じで、修司の心を掴む"何か"を持っていない。
例えば、あの鼻歌みたいな。
同じものを見て、同じように感じて欲しいと願ったこともない。どう思うかなんて聞いたこともなかった。
マスターの入れるコーヒーを飲んで欲しいと思わなかった。
ここを待ち合わせにしていたのは、修司がここのコーヒーを飲みたかったからにすぎない。
いつだって沙絵と自分は、そばに居ながら気持ちは別の場所にいた。
1年も付き合っていながら、沙絵のことを何も知らないのがその証拠じゃないか。
「―――他に、好きな子でも、出来た…?」
掠れた声で、沙絵が問う。
―――好きな子。
顔も知らない人が気になるのは、好きと呼べるのか。
「まだ、よく分からない」
「は…っ、―――なにそれ。意味わかんないし…」
ありのままの気持ちを告げると、沙絵は嘲笑を浮かべてそれきり口を噤んだ。
持っていたグラスを乱暴にテーブルに置くと、そのまま両ひじをついて手のひらで顔を覆う。
「―――行って」
ぽつりと零れた声に、修司は眉を寄せる。
「もう行ってよ。あたし振られたんでしょ?ならもう行って。一人にしてよっ」
投げやりな言葉が傷の深さを見せつける。
血を吐くような口ぶりに、修司は返す言葉がない。
山下が言った「適当な恋愛」の結末がこれだ。
好きだと言われたから付き合った。求められたから寝た。ごく自然のことのように流されていた。
なんてお粗末だろう。
修司は一度もこちらを見ない沙絵に、深々と頭をさげてもう一度「ごめん」と心から謝罪した。
テーブルを立つと、入口近くでマスターがタオルを差し出した。
修司はそれを首を振って断ると、財布から一万円札を抜いて差し出した。
「ご迷惑をおかけしました」
マスターにも頭を下げて、そのまま店を出る。
ラウルが不安げに修司を見上げている。「悪かったな」言って撫でるとクゥン…と寂しそうに鳴いた。
後味の悪いものが胸に重くのしかかってくる。
何度か経験した別れの中で、これまで味わったことのない感情。
自分で望んだことなのに、どうしてこんなにも重たい気持ちになるのか。
ぶつかってくる感情の強さも、むき出しの怒りも、それ以上の悲しみも。
すべてが「なぜ」と問いかけていた。
心変わりの理由。---始めから心がなかったと言えば良かったのか。
「あいつ、一度も泣かなかったな…」
メガネを外して濡れた前髪を後ろにかき上げると、溜息が出た。
(確かに「適当な恋愛」だったよ…)
☆★☆
家に帰って風呂に入れば、あの歌声が聞こえてくる。
風呂場の窓を半分開けておくのも、当り前になっていた。
今日もご機嫌な鼻歌は、修司の知らない曲だ。ロマンチックカラー満載の歌詞は、多分何かのアニソンだろう。もちろん歌詞が合っているかどうかなんて知らない。
テンポの良い鼻歌を聞きながら、湯船に顔を沈める。
(疲れた…)
仕事でもこんなに疲れたと感じることは少ない。
精神的な疲労は、体の芯まで疲弊させた。
濡れたスーツで帰宅した修司に母は物言いたげな顔をしたが、それも無視した。
今は何も言われたくない。
ぼんやりと湯船に浸かりながら、理子の鼻歌に耳を傾ける。
なんだか沙絵の気持ちを可愛らしくデフォルメしたような歌だ。
実際はこんなピンクっぽい感情だけで済まないのに、と勝手に愚痴る。
(アニソンに八つ当たりしてどうすんだよ…)
駄目だ、相当まいってる。
湯をすくって豪快に顔にかける。
沙絵にかけられたのは冷水だったなと思い返す。
だが冷たいとは少しも思わなかった。
あれがあの時、沙絵にできた精一杯の抵抗だったのかと思うと、やるせない気持ちになる。
沙絵は一滴も涙を零さなかった。
怒りで顔を上気させながらも、わななく口は修司を罵ることもなかった。
言いたいことは山ほどあったはずだ。
やりきれない感情を沙絵はどこに向けるのだろう。
(俺が考えることじゃないか)
手を放したのは修司だ。
納得できないと言われるかもしれない。
その時はまた同じ言葉を告げるだけだ。
だが、できることなら言いたくない。これ以上沙絵を傷つけたくない。
(違う。これ以上最低な自分を見たくない、だろ?)
ようやく顔を出した本音に、修司は自嘲した薄笑いを浮かべた。
沙絵の視線に晒されて、いかに自分が最低だったのか思い知った。
幾度の別れの中で経験したことのない、胸のつかえ。
その正体が罪悪感だとしたら、自分はどれだけ卑怯なことを繰り返していたのだろう。
最後の決断はいつも相手任せ。
その方が楽だから。自分はそれに倣うだけでいいから、相手を傷つけた自覚がない。
何が女の自尊心を傷つけない別れ方だ。
結局は自分が傷つくのが嫌だっただけじゃないか。
柔らかい印象しかなかった沙絵の、あれほど強い眼差しを初めて見た。
もしかして修司が思うよりずっと強いのかもしれない。
涙を見せなかったのも、恨みごとを言わなかったのも、修司が望んだとおりの「彼女」を演じきりたかったのだとしたら。
すげなくされても笑顔を浮かべられたのは、強さゆえのことだとしたら。
修司は大きく息を吐きながら首を振った。
今更考えても遅い。
胸のもやもやも、棘となってくすぶっている沙絵への罪悪感も、自分がまいた種。
理子は気が遠くなるほどの愛を歌う。
(俺もそれくらい愛してみたいよ)
そう思える相手に出会ってみたい。