5) 別れ話
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駅を通り過ぎて、大通りから脇道へと曲がる角地に建つクラシカルな外装の建物。その1階にある喫茶店が「いつもの場所」だ。
店舗を探していたマスターと建物の管理者を探していたオーナーの利害が一致したことはもちろん、マスターの挽くコーヒーに惚れ込んだオーナーが当初契約事項になかった資本金の出資と二階も居住区として貸し出した話は、馴染み客の間では有名だ。
店内には旅行好きのオーナーが買ってくるアンティーク品がさりげなく飾られている。
メルヘンチックなものが多いのは、孫が大のアリスファンだからとか。
懐中時計の時刻に慌てるウサギ、帽子屋を連想させるハット、すまし顔のネコ。
落ち着いた雰囲気にちょっとした遊び心を添えることで、ほっと息つく空間に仕上がっている。
店先では看板犬ラブラドールレトリバーのラウルが尻尾を振って修司を出迎えた。
「よぉ、元気だったか」と頭を撫でると、気持ち良さそうに黒目を細めた。
ベルを鳴らしてドアをくぐると、カウンターから馴染みの声がかかった。
「いらっしゃい」
「お久しぶりです」
マスターは修司を見て嬉しそうにほほ笑んだ。
肩につく襟足を紺色のリボンで結んで嫌味に見えないのは、それが似合っているから。40代半ばだというが、見た目はどう見ても30代。
白いシャツと黒いエプロン、袖を捲くった腕のたくましさに少しの老いも見えない。
オーナーを虜にしたオリジナルブレンドは絶品だが、店内に女性客が多い理由もわかる気がする。
人当たりの良い笑顔、柔らかい物腰は迎えられる者をほっとさせる魅力がある。
「いつものでいいかな」
「お願いします。それと向こう空いてますか?」
視線だけで指したのは、窓際奥のテーブルだ。
「あぁ、もちろん。後から沙絵ちゃんが来るの?」
いつもと変わらない笑顔で言われると、どう返していいかわからない。
まさかこれからここで別れ話をするんだとも言えず、修司は曖昧に笑った。
普段なら待ち合わせで座るのはカウンター。マスターは「後で持っていくよ」とだけ言った。
アルバイトの女の子が、テーブルについた修司の前に水の入ったグラスを置いていく。
修司は沙絵が来るまでの間、ぼんやりと窓の外を眺めて見ていた。
店内に流れる心地よい音楽を聞きながら、思い出すのは理子の鼻歌。
少し鼻にかかった歌声。
ここに理子を連れてきたらどんな反応を見せるだろう。やっぱり鼻歌を口ずさんだりするのだろうか。
店内を飾るアンティーク達は、理子の心をくすぐってくれるのか。
マスターの入れるコーヒーを飲ませてみたい。いや、そもそも理子はコーヒーを飲むのか。
向かいに座る理子の幻影は、ミルクと砂糖をたっぷり入れている。
あのコーヒーはブラックに限るが、理子が飲むならそれも許せる気がする。
(何考えてんだ、俺)
これから別れ話をするくせに、考えるのは顔も知らない理子のことばかり。
どうしてこんなに気になるのだろう。
家庭菜園をやっていて、母の受けも良くて、友人にも大事にされて、少し鼻にかかった声で童謡やアニソンを熱唱する顔も知らない隣人。
それは修司が知りたくて調べたことではなく、自然と耳に入ってきたものばかり。
顔も知らないくせにこれだけ知っているのもおかしな話だ。
どんな子なんだろう。
そういえば母は「いい子だ」とは言っていたが、容姿については一言も触れなかった。擦りガラス越しに見える人影程度じゃ相手の姿を思い浮かべられるはずがない。
ただ分かっているのは、あの歌声は嫌いじゃない、という事だけ。
「修司、お待たせ」
真横から突然降ってきた声に、修司ははっと我に返った。
振り仰ぐと、ちょっと驚いた顔をした沙絵が立っている。
「ごめん、そんなにびっくりした?」
「――いや、いいんだ。座れば?」
さっきとは違うアルバイトの女の子が沙絵の前にグラスを置くと、「ミルクティを下さい」とメニューを見ずに伝えた。沙絵はアールグレイかミルクティしか飲まない。
「急に電話してくるからびっくりした。今日はもう仕事は終わったの?」
「まあね、沙絵も本当は予定あったんじゃないのか?」
「ん?いいよ。久々に修司と会えるんだもの。全然問題ない」
言って嬉しそうに笑う沙絵はやっぱり可愛いと思う。笑うとふわりと揺れる毛先や、グラスを持つ細い指が爪の先まで綺麗に整っていることに女らしさを感じる。綿菓子みたいな女の子。
だが、愛おしいとは思わなかった。
恋人の笑顔を目の前にしても心は弾まない。
もしかして沙絵の顔を見たら決心が鈍る、なんて一抹の不安があったわけじゃないが、やはり自分がこの恋に冷めてしまったことを自覚させられる。
「これからどこ行く?ご飯、なに食べようか」
「いや。食事はいいよ。それより話があるんだ」
「今すぐじゃないと駄目?あたしもうお腹ペコペコなの」
こんな風に沙絵と向き合うことも久しぶりだ。最後に会った時、彼女は春らしい色合いの長袖ワンピースを着ていた。裾が短くなった分が流れた時間を表している。
細い腕が記憶と重ならない。もしかして少し痩せたのだろうか。
そう感じて沙絵の顔を見ると、やはり顔周りも小さくなった気がする。
女の子ならば夏に向けてのダイエットというのもあるだろうが、沙絵の場合は違う。
修司に対する不安。
目の下のクマは上手く化粧でごまかせても、漂う憂いは作り笑いなんかじゃ消えない。
そういえば沙絵にはアパートが水浸しになったことも言っていない。「一緒に暮らしたい」と言い出されるのが面倒で、あえて何も告げなかった。もしかして何度か修司のいない部屋を訪ねてたのかも知れないが、沙絵は何も言ってこない。いや、言えなかったのだろう。
何も話してくれないことが更に不安をかきたて、「物分かりのいい彼女」を演じることを強要させた。
会えない時間などなかったように笑う沙絵。
今はその不自然さに違和感を覚える。
(沙絵も、もう限界なんだ)
修司はぐっと腹に力を込めてまっすぐ沙絵を見た。
「別れてほしい」
前振りもなにもない。
幸せな彼女であろうとする顔に、修司は告げた。
その笑顔がゆっくりと凍る様を見ても、心は驚くほど静かだった。
「沙絵の事、もう好きになれない。だから、別れてほしい」
勝手な言い分だが、物分かりの良い彼女を演じるなら、最後まで演じきって欲しいと思った。
これで引いてくれると助かる。
別れの原因が自分にありながら、なんて身勝手な考えだ。
一瞬の沈黙の後、大きく見開かれた目がゆっくりと瞬きを終えると、
「それでね、修司は何食べたい?」
沙絵はあらぬ方向に走り始めた。
「沙絵。ちゃんと聞いて」
「ほら、前に目の前で揚げてくれる天ぷら食べてみたいねって話してたじゃない。あたし良いお店見つけたの。今夜はそこに行かない?」
今度こそ修司は目を眇める。
聞こえなかったはずがない。この状況で聞き逃すことなどありえない。
瞬きをするわずかな間で別れ話をなかった事にした沙絵は、どうでもいい話を口にしている。
別れたくない。
全身がそう訴えていた。
ならばそう言えばいいのに。
なかったことにすれば、別れが訪れないとでも?
理由を問い詰めるわけでもなく、話を流したのはただ逃げただけだ。
突然の別れに気が動転したのはわかる。誰だってできることならなかったことにしたいだろう。
今、自分がひどい事をしていることも理解している。
だが恋愛は一方通行じゃ続かない。お互いが強く願わなければ越えられない事だってある。
「終わりにしてほしい」
わざとらしくはしゃぐ沙絵を前に、修司の心はどんどん冷えていく。
静かに別れを告げる修司が沙絵には見えていないのだろうか。
「あたしは修司が好きよ」
挙句の果てには、およそ場違いな言葉を口にする。
貼りついた笑顔も、その目だけは笑っていなかった。受け入れたくない現実を懸命に覆そうと必死な目だ。
大きな目がじっと修司を見据える。無言で問いかける。
『嘘でしょう?』と。
懇願するような眼差しに、修司は無言で首を振った。
もう沙絵が望む言葉は口にできない。
「――――ど…して?」