3) 理子の憂鬱
☆★☆
(………どうしよう)
ステージから降りた理子の頭の中は、ひたすらその言葉ばかり回っていた。どのみちバレてしまうことは分かっていた。彼の機嫌を損ねるくらいなら、さっさと白状して許可を貰ったほうが、賢いやり方だったのだが。
「駄目!絶対ダメですからねっ!!」
なぜが沙絵の猛反対にあったのだ。修司が絡むと面倒くさいとか、あいつは心が狭い、とか延々とぶうたれられて、しぶしぶ修司への報告を断念させられた。これでも何度も言おうとした。その心意気だけはかってほしいが、修司に分かってもらえるとは到底思えないのは、なぜだろう。
結局、言えずじまいで本番を迎えてしまった……。
(しかも、ムービーなんて撮ってるしっ)
深澤と並んで、なにやら談笑しながらも、携帯のカメラは終止こちらを向いていた。表からは見えないが、あの仮面の奥には底知れぬ何かが潜んでいるということも、先日の事件で知ったばかり。
なんとか歌い上げたは良いが、当然心臓はバクバクだった。人前でセーラー服を着て歌ったことがじゃない。修司の反応が怖いのだ。
高校時代のセーラー服を微妙に手を加えたのは、りり子。彼女の裁縫の腕は見事なものだった。だが、多少遊びをきかせ過ぎている。
(た、丈が短い)
腕を上げると、素肌が見えてしまう。『絶対にキャミソールは禁止!』のお達しで、素肌の上に着たのだが、やはり気が気ではなかった。スカートの丈は想像していたよりも長めだったが、それでも膝上10センチ。裏地にはレースのビスチェがついている。可愛いけれど、動く度にひらひらと中が見えてしまうので、やはり気になって仕方がない。白いソックスと、ポニーテールは沙絵指定。姿見で見た自分の姿に、どんな顔をしていいのか分からなくなった。
「いいですよっ、理子さん!萌えますっ!その恥ずかしそうな感じが良いですっ。ぜひ、そのままで行ってください」
握りこぶしを作って力説されても。たじろぐ理子に、同じようにセーラー服に着替えた沙絵が興奮もあからさまに鼻息を荒くしていた。
(なんでこうなっちゃったかなぁ…)
終わった事をくよくよ考えても仕方がないが、この後、どんな顔をして修司と会えばいいか分からない。修司には運営係の手伝いをする、と告げていたのだ。それがいつの間にか、出し物に参加する羽目になった。
歌うのは良いとしても、やはりこの格好はまずいだろう。三十路にリーチをかけた女が、セーラー服だなんて。
彼はこれをみて何を思ったのだろう。……あぁ、目眩がする。
はぁ…と漬物石並みの重い溜息を落とした時だ。
「おつかれ、理子」
今、一番会いたくない人物がにこりと笑って立っていた。
「浅野、くん。お、おつかれさま」
あんなに素敵だと思っていた『王子スマイル』が、今日はやたら恐ろしい。思わず笑顔も片頬が引きつってしまった。
「なかなか、刺激的なカラオケだったね」
「え…、あの。―――ご、めんなさい」
とにかく謝ってしまえの勢いで、謝罪を述べる。すると修司はひょいと肩を竦めて苦笑した。
「なんで謝るの?盛り上がってたし、いいんじゃない」
「へ?あ、の……怒って、ないの?」
てっきり、「いい年してなんて格好をしてるんだ」と詰られると思っていただけに、この反応は予想外だ。パチパチと瞬きをしながら、修司の顔色をうかがう。
「怒ってないよ。なにせ今日の俺は寛大だったらしいから」
「寛大…」
「そう、自分の恋人のあの暴挙を快く許した俺は寛大だって、会う人会う人に言われ通しだった」
「あ、あの…、浅野くん?」
朗らかな面で笑っているが、言葉を紡ぐ声は底冷えするほど冷めている。目はぴくりとも笑っていない。
(ぜ…ぜんぜん、良くないじゃない!)
駄目だ、完全に怒っている。やはり修司に隠し事をした時点でアウトだったのだ。
背筋を走る悪寒にぞくぞくしながら、修司の放つ冷気にたじろぐ。思わず一歩後ずさると、あっという間に腰を攫われた。腕の中に囚われて、そのまま壁に押し付けられる。
「あ、浅野くん!」
「なに」
「なに、じゃなくて!ここ、通路っ!」
「うん。知ってる。でも、誰も通ってないよ」
「そういう問題じゃなくって……んっ」
最後の言葉を良い終わらない間に、修司に唇を塞がれた。すぐに腰が抜けるような濃厚さになって、唇を放された時には一人では立っていられないほどだった。
修司の腕に縋りつきながら、目尻を赤く滲ませた理子が修司を睨む。修司はそれに何とも言えないくらいの艶笑を浮かべた。
「怒ってないけど、もし理子が俺に悪い事をしたなって思っているなら、俺からのお願いを聞いてほしいな」
「お願い…?」
ぽすりと彼の腕に体を預けて理子が聞き返す。美由紀の寛大な心遣いで、週の半分は理子の家に泊まる恋人。一昨日の情事を彷彿とさせるキスに、理子の欲望が目を覚ました。そのせいか、てっきり修司のお願いもその類のものだと思い、理子はわずかに頬を赤らめる。それを見て、修司がじわりと双眸を弛めた。
「そう。俺が前いたアパートの掃除。いい加減、引き払おうと思って」
「……え、」
当てが外れた理子は多分、ものすごく間抜けな顔をしていた。太陽の日差しが似合うほど健全な「お願いごと」に何度も瞬きを返す。そのまま修司を見上げると「何だと思ったの?」と王子スマイルが笑った。
勝手にエッチなことを想像してた理子は、カッと赤面して修司の胸から体を起こす。
「な、な、なんでもないですっ!!」
(だって、「お願い」とか言うんだものっ。ま、紛らわしい言い方しないでっ!!)
意味もなくスカートの汚れを払いながら、破廉恥な想像を隠す。そんな理子に修司はクスクスと笑った。
「それで、返事は?」
うかがい顔をじろりとねめつけながらも、理子はまだ赤みが残る顔で頷いた。その程度で修司へ秘密を作っていた事が許されるのなら、お安い御用だ。
「じゃあ、悪いけど明日、此処を出た足で向かってもいい?あらかた片づけてあるから、そんなに汚れないと思うよ」
「わかった。明日ね」
もっと怒られると思っていたのに。
物分かりのいい彼氏に、少しだけ歯がゆさと物足りなさを感じた。もし自分が逆の立場だったら、絶対おもしろくないと思う。こんなマニア受けしそうな格好で歌って踊った恋人。それが強制参加だったとしても、当日知らされれば面白くないと思うのが心情じゃないか?もしかして修司はそれほど理子に興味がないのだろうか。少しだけ彼の気持ちを勘ぐってしまいそうだ。
(駄目、駄目っ。彼は大人なのよ)
こんなことで目くじら立てるような小さい人ではない。りり子との一件で、修司からの想いを抱えきれないほど貰ったじゃないか。
「それはそうと、その格好で会場入りするの?」
心にかげったモヤモヤを「理屈」で取り払っていたところに、修司が言った。その格好の言葉に改めて自分がどんな格好なのかを思い出す。
「し、しませんっ!」
そうだ、衣装を脱ぎに行く途中だった。理子は、さっと両手でスカート丈から見える素足を隠し、カニ歩きで修司の脇を抜けるとそのまま部屋へ駆け戻った。
☆★☆
翌朝、旅館を出て駐車場へ向かうと、見覚えのある黒いワンボックスカーが修司の車の隣に止まっていた。
「あっ…」
それに最初に気付いたのは、沙絵。声を上げて足を止める。行きはバスで来たが、帰りは修司の車で送ってもらうことになっていた。理子もそれが誰の車なのか分かって、数歩先に行ったところでやはり足を止めた。
運転席から出てきたのは、沙絵の恋人で理子が愛してやまない『フジモリ・ケーキ』のパティシエ 優治。野性味あふれる雰囲気から、どうしてあんなに甘いスイーツが生まれるのか甚だ不思議だけれど、お菓子作りに顔は関係ない。必要なのは情熱と愛情だ。
「おはようございます」
まず優治は修司に向かって挨拶をする。理子から見れば、修司は沙絵の元彼、優治は今彼という微妙な三角関係に思えるが、優治は修司に対していつも一歩引いた感じがする。それが年功序列の精神からなのかは分からないが、それなりに上手く付き合っているというのは、素直に嬉しかった。
「例のアレ、見ました。コイツには俺からよく言って聞かせますんで」
言って、鋭い眼光を躊躇なく沙絵に向ける。傍で見ていた理子の方がひっ…と竦みたくなるような強い眼差し。だが、幼馴染みの沙絵は堂に入ったものだ。まったく動じていない。
「沙絵、お前はこっち」
「えぇ~、なんで?迎えに来てなんて、頼んでないじゃん」
わざわざ迎えに来てくれた彼氏に、平気で口を尖らせている。優治はそんなことなどお構いなしで、勝手に彼女のバッグを奪い、猫の首でも掴むように沙絵を引っ立てた。
「じゃあ、すみません。俺達はこれで。―――沙絵、行くぞ」
「えっ、やっ!ちょっとっ、あ、あぁ、理子さん、みんなまたね!!」
ぐいぐいと腕を引っ張られながら、沙絵が手を振った。それに手を振り返しながら、追い立てられるように助手席に押し込まれた沙絵をなかば茫然と見ていた。
あっと言う間に、駐車場から走り去った優治達。
「なんだったの…?」
思わずそう言いたくなるほど、一瞬の出来事だった。
「さぁ、優治が沙絵を迎えに来ただけだよ」
「そう…なの?でも、彼何となく機嫌悪くなかった?」
「気のせいだよ」
「どことなく目も据わっていたような」
「それは彼に失礼だよ」
首を傾げながらにこりと笑われる。優治の強面は今に始まったことではない。本人は全く気にしていないが、怒ってもいないのに「怒っている」と言われるのは良い気持ちはしないだろう。人の機微にあまり敏くない理子は、修司が言うのならと頷いた。
「でもさっき、”例のアレ”とか言ってなかった?浅野君、優治君に何か渡したの?」
「たいしたものじゃないよ」
それも、笑って軽く受け流された。二人のやりとりを傍で見ていた尚紀が、したり顔で修司を見ている。やはり何かあるんだろうかと勘繰ると、「行こうか」と背中に手を添えられて促された。