38) 決着
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思わず視線が揺らいでしまうと、修司がぎゅっと理子の手を握りしめた。
「何らかのきっかけで佐々木は理子が山下 幸三の孫娘だと知った。山下財閥の親族になれば、その影響力は絶大だ。一企業の常務が遣える権力など、たかが知れてる。あいつが欲しかったのは絶対的な権力で、妹に惚れてたわけじゃない」
その瞬間、繋いだ手に力が込められた。
尚紀の発した言葉で理子が傷つくと思ったのだろう。理子は修司に「自分は大丈夫だ」と浅く笑ってみせた。
「でもな、いくら仮面夫婦だと言っても、既婚者である以上、理子との関係は不倫だ。理子は慌てて別れを切り出したが、当然佐々木は受け入れよとはしなかった。当り前だよ、これさえ手に入れば自分の目的は成し遂げられるんだからな。その為だけに全てを投げうってきたような男が、みすみす手放すはずなんてない。で、どうしようもなくなった理子が助けを求めてきたのが、俺。佐々木を海外に飛ばしたのは、理子じゃない。俺だよ」
清水が驚愕に目を見開く。
「俺は佐々木に成り代わって計画をとん挫させることで、理子との別れを承諾させた。もともと、計画を白紙に戻す事が目的だったんだから、それが成し遂げられれば、あいつが理子に執着する理由なんてないのさ」
「でも……っ、だったらなんで海外なんかに」
「それは、あの男が内部告発したからさ。自分の大事なものに手を出した報復、だったんだろうな。そこまでするかって気もしたけど、恨みの根は想像以上に深かったってことだ。あの当時、男が勤めていた企業は脱税と代議士への献金疑惑があった。その確固たる証拠を用意したのが佐々木。リークしたのは俺。その前に海外に飛ばしたのは、あの男への報復の可能性があったから。そして、めでたく計画はとん挫、あの男の目的は達成されたってわけさ」
話を聞き終えても、清水は驚愕と動揺から戻ってこれなかった。
「嘘、嘘よ……」
うわ言のように何度も呟いて、瞠目しながら首を振っている。
「なんで、どうしてタカ兄がそんなこと…。そんな事の為に人生かけたりするの。別に故郷なんてどうでも」
「……違うわ。あの人が守りたかったのは、故郷じゃない。あなたよ」
理子が静かに告げた。
「ずっと、あなたが大切だったから。だから、あなたと過ごしたあの場所を守りたかったの」
それは、先日の電話で隆文本人から聞いた告白だ。
ひとまわり近くも年の離れた、幼馴染み。兄のように慕ってくる小さな女の子を自分だけの宝物だと気づいた時には、もう恋に落ちていた。
「"りり"―――。そう、呼ばれてたのよね」
隆文しか知らない呼び名で呼ばれて、清水が目を見張った。
理子はそんな彼女の表情に小さくはにかんだ。
「あたしと付き合っていた時、あの人が一度だけ寝言で呼んだ事があったの。途切れ途切れだったし、はっきりとは分からなかったから気に留めなかったんだけど、あれは"りこ"と言いたかったんじゃないのよね。"りり"と呼んでたのよ」
そう、夢に見るくらい清水に恋い焦がれていた。
だが、彼女は隆文を男として見ていない。
彼女は自分を『妹』と言い、隆文のことを『兄』と呼ぶ以上、隆文の想いはどこにも行けなくなった。
強引に関係を変える勇気もなく、それならいっそ彼女の良き『兄』として居続けようとした。
でも、感情は理性でどうにかなるものではない。
若い女ばかり手を出していたのは、無意識に清水の面影を重ねていたのだろう。彼女達を抱いている最中でも、隆文はいつもそこに清水を見ていた。
理子と付き合っているときだって同じことだ。
所詮、理子は清水の代わりでしかなかった。
「実はね、この間10年ぶりに連絡を取ったの。どうしても確かめたいことがあって、兄に連絡先を教えてもらってね。……佐々木さん、あたしがあなたと同じ会社で、あなたを知ってると言ったら何て言ったと思う?"りりは元気にしてるか?"って聞くのよ。"あいつは不器用だから人に誤解されやすいけれど、本当はとてもいい子で頑張り屋だから、気にかけてやってほしい"そう言ってたわ。そんな事言われたら、もう"分かった"としか言えないじゃない」
隆文は理子が10年前の顛末を知ったと知ると、心から謝ってくれた。
自分ことの為だけに理子を利用したこと、理子に清水の面影を重ねて抱いていたこと、理子の気持ちを蔑ろにしてしまったこと。
女にだらしなくても、清水にだけは誠実だった。
それは隆文にとって、清水だけが綺麗なものだったからだ。
彼女の前だけでは、良い男を演じていたかった。
なぜ突然連絡を寄こしてきたのか、どうしてそこに幼馴染みの名前が上がったのか、隆文は何も尋ねなかった。ただ、理子の質問に対して誠実に答えてくれた。
もしかしたら、彼女が何かしたのを察したのかも知れない。
不器用で誤解されやすいけれど、とてもいい子で頑張り屋。
それが彼にできる精一杯のフォローだったんじゃないだろうか。
「じゃあ…、あたしのしたことって……っ。そんなの全然知らなかったっ!だって、あたしはずっと妹としか」
「うん。……妹なら、一生繋がっていられるものね」
開けたパンドラの箱に怯える清水に、理子が言葉を繋ぐ。
隆文が年の差に足踏みしたように、清水にとってもそれは超えられない壁だった。だからこそ、自分を『妹』という位置づけに置いたのだろう。
長く近くに居過ぎたからこそ、互いの想いに気付けなかった。
清水に至っては、隆文への恋心すら素直に受け入れられないでいたじゃないか。
だが、隆文の想いを知った今はどうだろう。
それでもまだ、自分の中にある隆文への想いを認めないのだろうか。
「清水」
茫然とする清水の前に、おもむろに修司が差し出したもの。
それは、彼女が理子へ続けた無言電話の履歴と、メールの履歴。そして、車に細工をしている写真があった。
「これが君のしたことだ。今なら、これがどれだけ卑劣か分かるだろう」
その時、初めて清水の顔に怯えが見えた。
今まで頑ななまでに誰にも開かなかった心が、隆文をきっかけに緩んできている。ようやく、周りの言葉が聞こえ出すと、自分の愚行に目を向けることができたのだろう。
このタイミングでそれを突き付けるのは残酷だと思ったが、理子は口を出さなかった。
やはり、罪は罪と認めて受け入れなければいけないと思ったからだ。
すべてはねじ曲がった愛情が愛憎へと成り変わったことで起きたことだけれど、清水のしたことは理子を傷つけた。
理子が叩いた左頬が赤くなっている。
手のジン…とした痛みは消えたが、人を傷つけると心はいつまでも痛みが残る。
修司の鋭い視線が清水を射抜く。尚紀も口には出さないが、その視線はありありと彼女を責めていた。
事の次第では、法に訴える。
それが彼らの主張だからだ。
ここがボーダーライン。
今、悔い改めなければもう後には戻れない。
理子はここへ来たのは、彼女に止めを刺すためなんかじゃない。清水に隆文への想いを伝えるためだ。
この発端にいるのが彼なら、清水を止められるのは隆文しかいない。
偽善と呼ばれようと、彼女にある良心に全てを賭ける。
今、理子が望む結末はたったひとつだけ。
「タカ兄、元気にしてました…?」
清水が震える声で問いかける。
「うん。向こうで頑張ってるよ。今は誰とも付き合ってないって言ってたわ」
『りりに見合う男に戻って、日本に帰りたいんだ』
電話口で恥ずかしげに言った隆文の声を思い出して、思わず頬笑みが零れた。
いい年して恥ずかしいだろ、と言った隆文は、呆れるほど純な男になっていた。
「………そう、ですか」
清水はそれだけ呟くと、修司に向き合った。
「浅野課長補佐、それは警察に提出してくださって構いません。然るべき処遇を受けます」
真っ直ぐ修司を見て告げる清水に、修司は首を横に振った。
「これをどうするかを決めるのは、俺じゃないよ」
言って、修司は理子を見た。
それを決めるのは理子だ。
「清水さん。あなたのしたことは許せないわ。でも、これは警察には出しません。身の振り方は自分で決めて下さい」
はっきりとした口調で告げる。
清水は観念したように目を伏せた。そして、
「―――申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げて、初めて理子に謝罪をした。