36) 過去 -後編-
☆★☆
配属されたのは、幸運にも修司がいる企画開発部だった。
優しく温和で、柔らかい物腰と、心を溶かすような『王子スマイル』、加えてあの容姿。
今度こそ完璧な形を成して、りり子の前に再来した王子。
これは運命なんだ。
神様がくれたとっておきのサプライズ。
隆文だけに開いていた間口が閉じ、気持ちが一気に修司へと流れていく。
「清水」
修司に名前を呼ばれる度に、胸が高鳴った。隆文のように「りり」と呼ばれることはないけれど、それでもいい。修司の存在が、りり子を支えていた。
そう、りり子は修司に隆文の面影を重ねていた。
りり子の知っている隆文像は、まさに修司だ。
いつだって優しく微笑み、傍に居てくれた。横に並んで歩くことはできなくても、彼の一番だったのは自分だったはず。
彼女が居ても、都会へ出ていっても、隆文はりり子の存在を覚えていてくれた。
家の屋根に上り、二人で満天の星空を見る。
言葉を交わさなくとも、お互いの存在があるだけで、心は満ち足りた。
だからこそ、修司という存在で救って欲しかった。もう一度、この心を満たして欲しかった。
隆文が空けた穴を、りり子は修司で塞ごうとしたのも、自分の心を守るため。
彼の代わりは、より完璧な人でないと埋まらない。
修司に、自分という存在を見て欲しい。
りり子は、その為に必死で働いた。
自分達の間にあるのは、仕事だけ。ならば、そこで成果を上げる事が、修司との絆を作る足掛かりになるような気がしたからだ。
隆文は、頑張るりり子を好きだと言ってくれた。
きっと修司にもその姿勢で接すれば、認めてもらえる。
毎日をまい進していくうちに、いつしか目的も影を潜め、頭の片隅にひっそりと存在するだけになっていた。
修司の元で働くことは、忙しくもあるけれど、充実した時間でもある。
彼に対する、憧憬とも慕情とも呼べる気持ちは、時が経つにつれ大きくなる。不思議とそれは、沙絵という愛らしい彼女がいても少しも色褪せることはなかった。
そして、沙絵の場所に立ちたいとは一度も思わなかった。自分には身分不相応の場所だと分かっていたし、彼女以上に完璧なものは作り出せない。
自分はこの場所から見ていられれば、それでいい。
二人が寄り添う姿を見ることで、隆文が幸せだった頃を思い出せるから。
(やっぱり、素敵)
だからこそ、修司の傍に理子が居ることが許せなかった。
修司には沙絵のような人が相応しい。
十人並みの容姿しか持ち合わせていない理子では、釣り合いが取れない。身分違いもいいとこだ。
なぜ、修司が沙絵を捨ててまで理子を選んだのか。
とりわけ秀でたものがあるわけでもない、どこにでもいる女ではないか。
(彼女の何が良かったの)
沸々と胸に渦巻くどす黒い感情。追い立てられるように、白雪 理子について探った。
そして、知ることになる。
彼女は山下 幸三の孫。隆文を奈落に追いやった張本人だということを。
りり子の中で、忘れていた復讐心に火が灯った。
そうよ、自分は何をしていたんだろう。
此処に入ったのは、隆文を追いつめた人物を知るためじゃなかったの?
理子には、自分が味わった以上の苦しみを味あわせてやりたい。いや、そうするべきだ。
自分から隆文を奪い、修司までたぶらかした女に、かける情けがあるものか。
徹底的に思い知らせてやる。
りり子は理子の個人情報を入手するためだけに、ハッキングに強い男を探して近づいた。手段など選ばない。
見返りに関係を求められようが、金銭をせびられようが、目的が果たせるなら何だってした。
男から社内の極秘情報へのパスワードを受け取ると、誰もいない時間を見計らって、データを盗んだ。
そこで得た情報をもとに、理子の家に写真を送りつけた。
あの写真は隆文の家から持ってきたものだ。
二人が出かける姿を隠し撮りし、理子の顔を油性のマジックで何度も塗りつぶした。
真っ黒に染めると、彼女の存在が消えて無くなるようでスッとする。
いっそ、本当に消えてしまえばいいのに。
『負けないよ』
何度目かの無言電話での、宣戦布告。
小癪な態度に苛立ちを覚えたのも最初だけで、理子は口ほどの存在ではない。
実際、何一つできやしなかった。
ただ、じっと耐えていただけだ。
(馬鹿な女)
日ごとやつれていく姿に、笑いが止まらない。
携帯が鳴る度に強張る顔は、いつ見ても爽快な気持ちにさせてくれる。
修司に理子は似合わない。
彼に似合うのは、沙絵のような女性しかいないんだ。
隆文が妻を選んだように、修司も沙絵を選ぶべきだ。
「あんな女、消えればいいのよ…」
☆★☆
その公衆電話は、アパートから10分ほど歩いた人気のない場所に、ひっそりと置かれていた。
夜の帳が下りて、数える程度の街灯がわびしさを誘う。
歩くヒールの音が、冬の冷気によく響いた。
むき出しの公衆電話の前に立ち、いつものように10円玉を縦に積む。暗記した11ケタの番号を指で押して、受話器を耳に当てた。
(忌々しい…)
さっさと修司と別れれば良いのに。何を思い立ったのか、突然着信拒否を始め出した。
いよいよ終焉になろうかというところでの、反撃の狼煙。
車に細工をしたのは、ちょっとした思いつきだったが、効果はてきめんだった。
(もう少しだったのに)
これ以上、あの人を汚さないで。
受話器から聞こえる呼び出し音を、ひとつ、ふたつと数える。
遠くでは微かに踏切を電車が通る音が聞こえる。
りり子は音がする方に視線を一瞬投げて、また電話機に戻す。
今日はやけに呼び出し音が長い。
イライラを紛らわすように、人差し指で電話機をトントンと叩いて、リズムを刻む。
幾日かの病欠後、理子は当然のように修司と連れ立って出勤するようになった。
繋がれた手を目の当たりにした時は、あまりの苛立ちに、目の前が真っ赤になった。
恥ずかしげに俯く姿には、侮蔑と殺意しか感じない。
何もできないような顔をしていても中身は性悪で、強かで、ずる賢い。
どうしてみんな、あの女を選ぶのか。
騙されている。
その時、呼び出し音から通話に切り替わる。
りり子は積年の恨みを込めて、初めて声を発した。
「あんたなんか、死ねばいいのに」
刹那、
「誰が死ねばいいって?」
ガシャン―――と受話器が下ろされ、側頭部を撫でるように低音が響いた。
「随分手こずらせてくれたね、―――清水」
恋人に囁くような、甘美さを孕んだ声に、ぞわりと悪寒が背筋を走る。
心地良さすら覚える声音はまるで呪詛だ。
体が動かない。声が発せられない。
ただ警鐘のごとく早鐘を打ち続ける鼓動だけが、耳にうるさく響いた。
コクリ…と喉を上下させて、生唾を飲み込む。
瞬きすら忘れた両目が、冷気に晒されて痛い。
居るはずの無い、声。
彼がこの場所を知るわけがないのに。
それでもゆるゆると首を動かして、背後を振り返った。微かな望みを現実へと変えるために。
だが、りり子の双眸が映したものは、最悪の結末。
「浅野…課長、補佐」
驚愕に目を見開いたりり子が、受け入れられない現実を零す。
「こんばんは」
王子の仮面を取り去った面は、なんて冷然としているんだろう。その端整な美貌には、何の感情も浮かんではいない。
氷よりも冷たい視線に晒されて、カタカタ…と体が震え出した。
圧倒的な威圧、本能がそれを怖いと叫ぶ。
そんなりり子に見せつけるように、修司はおもむろに携帯をかざす。見覚えのある機種に、りり子は「ひ…っ」と息を飲んだ。
修司が持つには、不似合いなベビーピンクの携帯。
手慣れた仕草でボタンを操作し、画面に『公衆電話』の文字を表示させる。
茫然自失するりり子の前で、修司はそれにリダイヤルをかける。途端、鳴り出したのは、今、りり子が使っていた公衆電話だ。
「俺が此処にいる理由がわかるな」
誤魔化しようがない。
修司が持っているのは、理子の携帯だ。
いつから……?いつから、携帯がすり替わっていた…?
なぜ、修司がここにいるの。
混乱に真っ白になった頭は何も答えてはくれない。ピリピリとした気配が、りり子から思考能力を根こそぎ奪い去った。
抑揚のない声に、りり子がぎこちなく頷く。
「そう、いい子だ」
言って、修司は悠然と艶笑した。