35) 過去 -前編-
☆★☆
時々、修司の無茶ぶりに泣きたくなる時がある。
例えば、今日の朝いちでかかってきた電話がそうだ。
「出番だ」の言葉に、嫌な予感を覚えてしまうのも、毎度のこと。こと、清水への報復を始めてからの修司は容赦がない。
そんな父を長男が「また来てね」と笑顔で送り出してくれる。
その後ろから、妻の美咲がニヤニヤと山下の様子を眺めている。
子供達から『父親』と思われていない、この寂しさ。ここしばらくはまともに家にいない自分が悪いのだが、それでも堪らない孤独と疎外感を感じてしまうのは、決して間違っていないだろう。
「これをかけている場所を知りたい」
挨拶もなく差し出されたのは、理子が持っているはずの携帯。
受け取って履歴を見れば、そのほとんどが「公衆電話」からだ。
(馬鹿言うな。逆探知でもしなけりゃ無理だろうが)
これだけの手掛かりで、どうやって発信先を割り出せというのだ。
修司は自分を何だと思ってるんだろう。
いくら財閥の後継者で、機械オタクでも、限界はある。
山下は露骨に嫌そうな顔をして修司を見る。
「無理」
修司の手に携帯を押しつける。
だが、修司に受け取る素振りは無い。
「入っている録音、再生してみろよ」
言われて、山下は訝しげに眉を寄せる。修司の考えている意図が掴めないまま、しぶしぶ録音を再生させた。
携帯を耳に当てて内容を聞いてみるが、流れるのは時間だけだ。
ますますわけが分からない。
「…んだよ、コレ。無言電話だろ。こんなの聞かせてどうしろっていうの?」
分かっているのは、犯人は清水ということだけ。
一旦、携帯を耳から離すと、「もう一度、聞け」と修司が言う。
(何回聞いたって同じだろ)
だが、聞けと言う以上、これには何か重要なことが録音されているのだろう。山下は二度、三度とそれを再生させる。
時間いっぱいまで録音された無言電話。
何度も聞いているうちに、山下はある事に気がついた。
(あれ…?)
山下の表情を見て、修司がニヤリとしたり顔になる。
「分かるか?"無言電話"だけど"無音"じゃないよな。それが何の音なのか、割り出して欲しい」
「マジかよ…。こんなちっちゃな音、」
「ヘルツを変えたらいいだろ」
「お前、そんな簡単に言っちゃってくれるけどな。俺は科学捜査班じゃないぞ」
「でも、お前なら出来る」
(買いかぶってくれちゃったけどさ…)
さらりと言ってのける修司に、山下が忌々しげに舌うちをする。
「その時間帯でかかってくる事が多いんだ。場所が分かれば、現行犯で捕まえられる」
「もし、割り出せなかったら?」
そんなわけがないけれど、一応聞いてみる。
すると、修司はにこりと王子スマイルを浮かべた。
「その時は、お前が清水を尾行するだけだ」
クラリときそうな微笑と、物騒な発言のアンバランスさに、目眩がしそうだ。
妻帯者で、生まれたばかりの子供がいる男に、平気で他の女を尾行しろと言う修司は鬼だ。
王子などと呼ばれているが、裏はとんでもなく強かで、ろくでなし。
使えるものは何でも利用するし、そこに何の躊躇もない。
守る対象と、攻撃する対象がはっきりしている今は、尚更だ。
誰にでも良い顔をするのは止めろと言ったが、ここまでこき使われるとは思わなかった。
社会的な立場は自分の方が上なのに、この扱いは何だ。
「言っただろ。お前には働いてもらうって」
頼むよ、とさして心にもない言葉を吐く修司に、片頬が引き攣った。
あくまでも『友人』としてのスタンスを崩さないところが、気に入っている。
山下の素性を知ってからも、それは変わらない。
しかし……。
(理子、お前は騙されてるぞっ!)
この件が片付いたら、もう一度妹を説き伏せて見ようと、山下は固く心に誓った。
☆★☆
スタンドライトのオレンジ色の光だけが灯る部屋に、カチカチ…と規則的な硬い音が木霊する。
テーブルに肘をついて、親指の爪を噛んでいる黒髪の女。
「どうして…っ、」
計画は順調に進んでいた。
理子は清水の予想通り、何もできなかった。ただ、無言電話に怯えていただけだ。
徐々に疲弊しやせ細っていく姿は、自分の計画が順調な証。
見ていて楽しかったし、この上なく満足だった。
修司も沙絵との復縁を匂わせるように、食事に出かけた。
すべては、清水の思惑通りに進んでいた。
なのにっ……。
理子の4日間の欠勤後、事態は急変した。
堂々と修司と連れ立って出勤してきたではないか。
なんて厚顔な女なんだろう、どこまで強かなの。
何もできない癖に、弱いだけの女のくせに、男をたぶらかす事だけは長けているということなのか。
テーブルに転がる、用済みの携帯達。
ことごとく、着信拒否にされた携帯だ。
もう、個人で所有できる台数に達してしまった。これ以上は買えない。
でも、いやがらせを止めることなんて無理だ。止めれば、あの女に屈したことになる。
爪を噛む清水の体が、無意識に前後に揺れている。
上手くいかない、上手くいかない。
不満と苛立ちは仕事にも影響を見せ始めていた。
つまらないミスで、修司に叱責されたのは、今日の午後のことだ。
あんなミス、普段の自分なら絶対にしないのに。
みんなの前で辱められることなど、あってはならないのに。
「全部、あの女のせいよっ……」
仕事でミスを犯したのも、計画が進まないのも、この苛立ちも全部、あの女がいるせいだ。
(あの人を奈落に突き落としておきながら……っ、自分だけ幸せになるなんて、許さないっ)
フォトフレームに収まった、大好きな笑顔。
幸せな顔で笑っている自分。
自分にこの顔をさせるのは、世界中でただ一人、隆文だけなのだ。
☆★☆
「りり」
隆文は会った時から、そう呼ぶ。
清水 りり子。
きつい印象を与える目と、愛想のない口調からかけ離れた、愛らしい響きを持つ名前が嫌いだった。
でも、隆文に呼ばれる時だけは、嬉しかった。
自分を『りり』と呼んでいいのは、隆文だけ。
「タカ兄」
隆文をそう呼べるのも、りり子だけ。
二人だけが呼びあえる名前があるのは、それだけでお互いが特別になった気がしていた。
隆文はりり子にとって、ずっと『憧れの王子様』だ。
優しく、カッコよく、いつだってりり子をお姫様のように扱ってくれた。
中学、高校、大学と進むにつれて、隆文の魅力はさらに輝きを放ち、彼の周りにはたくさんの女性が集まるようになった。
甘い花の蜜に群がる、蝶のような光景。
隣を歩く彼女が変わる度に、ツキン…と痛む胸の痛み。
(でも、私は"妹"だから)
彼女よりもずっと隆文の近くにいるはずなんだ。血のつながりはないけれど、自分達は違う絆で結ばれている。
りり子は隆文の自慢の妹であろうと、勉強に励み、隆文を応援し続けた。
「りりは良い子だな」
どれほどの彼女と付き合っていようと、隆文は時々りり子の元を訪ねてくる。二人で家の屋根に上り、満天の星空を見るためだ。
その時、必ず買ってきてくれるアイスを二人並んで食べた。
「俺、大学を卒業しても、あっちで就職することにしたんだ。もう内定も貰ってある」
「そっか。タカ兄もいよいよ社会人だね。あ~ぁ、いいなぁ!私も早く大人になりたい」
「何言ってんだよ。りりはゆっくり大人になれば良いんだよ。そのうち戻りたくても戻れなくなるんだから」
「なに、それ。タカ兄。ジジ臭いよ?」
その頃、りり子の住む地区一体に土地開発事業の話が登っているという噂が立っていた。
りり子の家は、祖父の代から続く旅館を営んでいる。
ここ最近は、めっきり宿泊客の足が遠のいてしまっているが。
「りり、大学はこっちに来いよ。待ってるから」
「うん!」
隆文は宣言通り、大学を卒業し一流企業に就職した。が、そこは開発事業を請け負っている企業だったと知ったのは、ずっと後のことだ。
父は会社が提示した金額で、土地と家を売り渡した。
経営不振で膨らんだ赤字を補てんするには十分すぎる金額。父は、家族の為、この先の為に長年住み慣れた土地を離れる決意をした。
りり子はその金で、隆文の後を追う様に上京し、同じ大学に入った。
しばらくして再会した隆文は、既婚者になっていた。相手は、上司の一人娘という可愛らしい人だ。
美男美女。
まさにその言葉がぴったりのお似合いの二人に、りり子はお祝いの言葉を述べる事しかできなかった。
(もう、私がタカ兄の一番じゃなくなったんだね……)
秋風に似た寂しさが心を拭きぬけるけれど、悔しいくらいお似合いなのだから仕方がないと思った。
隆文が幸せなら、りり子はそれで良かった。いつだって隆文が第一で、唯一だった。
でも、そんな儚い想いは突然砕けてしまった。
隆文が突然離婚し、海外へ行ってしまったからだ。
(どう……して?)
あんなにお似合いだったのに。
出世街道にも乗って、順風満帆だったはずなのに。
愕然としたりり子は、突然の離婚と海外行きの理由を調べずにはいられなかった。
そうして隆文について調べ出したりり子は、またも驚愕の事実を知る事になる。
隆文は決してりり子が思い描いていたような『理想の王子様』などではなかった。
妻帯者でありながら、幾人もの女と関係を持っていたのだ。
それも、決まって若い女ばかりを選んでいる。
信じていたものが崩れてしまう。
りり子が思い描いた隆文はただの幻想で、蓋を開ければ、平気で不貞を働く男だったのだろうか。
違う、隆文はそんな男ではない。
誰よりも近くで隆文を見てきたのは、他ならないりり子だ。その彼が不倫などするわけがない。
事実を覆そうとすればするほど、隆文の不貞を露呈させていく。
違う、違う、違う、違うっ!
理想と現実。
その狭間で行き場を失くしたりり子の隆文への想い。
隆文を信じたい、でも、もう何を信じて良いか分からない。
そんな時だった。
付き合っていた女達の中に、山下財閥の関係者がいたというのを聞いたのは。
隆文と最後まで付き合っていたのも、この女だということも。
あの山下財閥なら、隆文一人海外に飛ばすことくらい造作もないだろう。
もしかして、別れた腹いせに隆文を海外に追いやるよう仕組んだのかも知れない。
そう考えたりり子は、この会社に入ることを目標に換え、何としてでも隆文を奈落に追いやった人物をつきとめる事だけに専念した。
そして、彼が不貞を働いていたことだけを都合よく記憶から消した。
二年後、見事財閥傘下の企業へ入社を決めたりり子は、今度こそ本物の『王子』とめぐり合った。
それが、浅野 修司だ。