34) 糸口
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昼休み、やはり理子の部署までやってきた修司と連れ立って外へランチに行こうとしたところで、小さな物体が物凄い勢いで突進してきた。
「うっ!」
「修司っ!お昼奢ってよっ!!」
修司の背中に一直線してきたのは、沙絵。
隣で目を見開いている理子に「御一緒させて下さいっ!」と太陽の笑顔で伺いを立てる。
突撃に一瞬息が止まった修司が、苦しげに顔を歪ませてむせた。
「お、前はっ。もっと静かな声のかけ方があるだろ」
「あはは、ごめんね。ちょっと興奮しちゃってさ」
まったく悪びれる様子もなく口にした謝罪は、ティッシュよりも軽い。修司は一瞬渋い顔をしたが、理子の顔を見て「どうする」と問いかける。
「もちろん、一緒に行こうね」
首を傾けて沙絵を見ると、ぱっと表情を輝かせた。
「近くのビュッフェはどう?種類もあるし、たくさん食べれるよ」
「さっすが、理子さん!愛してますっ!」
言って今度は理子に抱きついた。
志穂を介して親しくなった沙絵は、修司の元カノという事実を差し引いても、妹みたいで可愛い。
ベリーショートの髪を撫でてやると、すりすりと理子の胸に顔を摺り寄せてきた。
(か、可愛い…っ)
そんな沙絵の彼氏は、あの『フジモリ・ケーキ』の跡取り息子。まだ一度も会った事はないが、かなりのイケメンらしい。
修司から聞いた話によれば並んだ姿は、「赤ずきんと野獣」なんだとか。
(一度会ってみたいな)
そして、できれば間近であの魔法のケーキが出来上がるのを見てみたい。
この件が落ち着いたら、絶対沙絵に頼んでみよう。
「おい、いつまでも胸に顔を埋めるな」
修司がいい加減にしろと、沙絵を理子から引き剥がす。
「もぅ、妬かないでよ。小さい男ね」
「何とでも」
「そうだぞ、修司」
「………お前は。いつもどこから沸いてくるんだ?」
さも初めからそこに居たかのように、自然と会話に混じってきた尚紀を見て、修司が嫌そうに眉を潜める。
「俺も聞きたいな。沙絵ちゃんが興奮したわけを」
軽い口調は変わらないが、いつになく力のある口調に、はっとして沙絵を見下ろした。
「もしかして、沙絵ちゃんも?」
沙絵も清水の件に関わっているのだろうか。
理子は修司を見る。
「それでは、ビュッフェに向かって出発!」
理子の予想を肯定するように、沙絵が意気揚々と声を上げた。
☆★☆
沙絵の健啖ぶりは深澤宅で見ているが、何度見ても感嘆のため息が出る。
志穂はこれが見たくて、頻繁に沙絵を自宅に招いているほどだ。
美味しそうに食べる沙絵に、うっとりと恍惚の表情を向けている志穂に、深澤と顔を見合わせては溜息を吐いている。
「今が昼だってこと忘れるなよ。まだ午後があるんだぞ」
修司の忠告は口だけのようなもので、もはや本気で沙絵を止めようという気はさらさら無い。
尚紀に関しては、まったく眼中に入れていない。
つまり、皆が沙絵の大食漢に慣れたということだ。
「で、ひと息ついたなら、そろそろ話せよ。興奮する話をさ」
修司は理子以外と話す時は、微妙に口調が違う。
沙絵はコーラをストローで飲み干しながら、「うん、そうだったね」と頷いた。
「修司に言われて、清水さんの交友関係をそれとなく聞いてみたんだけど。あの人、ビックリするくらい何もないのよね。この人っていう友達も居ないし、終業後の行動もまったく分からない。話しかければそれなりに会話はするんだけど、自分からっていうのもあまりないみたい」
「それで」
修司が促すと、沙絵が「黙って聞いて」と制す。
「でもね、何度か女子会に行って、彼女の大学時代の同期の子に会えたの。彼女の話だと、清水さん。昔から憧れていた幼馴染みがいるらしいの」
沙絵はそこで話を切ると、じっと理子を見た。
なんだろうと、沙絵を見つめながら瞬きを返す。すると、沙絵が突然頭を下げた。
「ごめんなさいっ」
「えっ?!」
驚いたのは、理子だけではない。修司も尚紀も同じ反応を見せた。
「ど、どうしたのっ、何で急にごめんなさいなわけっ?」
「えっと、それは。……ちょっと嫌な気分になるんじゃないかと思って。理子さんにしたら、二度と思い出したくない事かも知れないし。だから、」
言いにくそうに沙絵が言葉を濁す。
「沙絵ちゃん。続けて」
尚紀ががらりと表情を変える。冷えた迫力に、さすがの沙絵も少し呑まれながら頷く。
「う、うん。その幼馴染みっていうのが、―――"佐々木 隆文"なの」
刹那、理子の頭は真っ白になった。
(清水さんの幼馴染みが……隆文さん?そんな、偶然って……)
そうか。だから、「ごめんなさい」なんだ。
沙絵は清水を調べて行くうちに隆文に行き着き、理子との関係をも知った。
だからと言って、沙絵が謝ることなどないのに。
人の痛みを自分の事のように感じる沙絵を見ていると、自然と微笑みを浮かべてしまう。
清水はそれをどこに置き忘れてきたんだろう。
「清水さん、彼には物凄く懐いていたみたいで」
その表情に沙絵もほっと肩の力を抜いて、話を続けた。
「話をしてくれた人も彼女のことは"清水さん"って言ってたのに、その人は彼女を"りり"って呼んでいるのを聞いたんだって。清水さん、下の名前で呼ばれるのを物凄く嫌がっていたみたいよ。だから、その呼び方をしていたのも、清水さんが許してたのも、その彼だけなの」
確信に満ちた口調で話す。
いつの間に、彼女の交友関係を探っていたのだろう。
受付嬢も似合っているが、他の課でも十分やっていけるのではないか。
彼女の情報収集能力には、舌を巻くものがある。
目の前でグラスの底を啜っている沙絵に関心しつつ、理子の頭には、新しく出てきた単語が引っかっていた。
――――『りり』?
どこかで聞いた事がある。
初めてではない言葉を探して、記憶の針が一気に逆戻りを始める。
『りり』…、『りり』、そうだ。そうよ、『りり』よ。
思い出した。
カチリ、と針が止まって、理子の中で一本の糸が生まれた。
理子の考えが間違っていなければ、いや、おそらく『そう』なのだろう。
だとしたら、隆文が頭の中で抱いていたのは、理子ではない。あれは聞き間違いではなかったんだ。
理子ははっと顔を上げて、尚紀を見た。
「尚ちゃんっ、違うっ。お兄ちゃん!!」
勢い余って席を立ちあがった理子に、沙絵がぎょっとする。
「へっ?お兄ちゃんっ!?」
「隆文さんと話がしたいの。お願い、連絡つけてっ!」
☆★☆
風呂上がりの修司は冷蔵庫から350mlの缶ビールを取り出し、その場で一口煽った。
あの後、理子が強引に尚紀を連れて店を出て行った。
驚いた。の一言しか言えない。
あれほど過去を嫌悪していた理子が、なぜわざわざその元凶である男と連絡を取りたがったのか。
問いただしても、意味深な含み笑いをされるだけだった。
「あたしだって、やられてばっかりじゃないんだから」
と、的を得ない答えに、修司は曖昧に頷くしかなかった。
(一体、何だっていうんだ…?)
沙絵は、理子と山下が正真正銘の兄妹だと言う事に、絶句していた。
見た目もまるきり似ていない、名字の違う二卵性の双子など、本人か周りが言わない限り気づかないだろう。事実、修司も理子に紹介されるまで美咲繋がりの友人だと思っていた。
「あら、今日はお泊まりは無し?」
台所に入ってきた母が、修司に尋ねる。
「そうそう連泊はしないよ」
呆れると、「意外と真面目なのね」と言われた。
本当に母の考えていることだけは分からない。もしかして、あの父ですら分かっていないんじゃないだろうか。
(次、帰ってきたら聞いてみよう)
「じゃ、おやすみ」
缶ビール片手に部屋に戻る。
テーブルに置きっぱなしになっていた理子の携帯を開くと、目新しい着信があった。
『不在着信 公衆電話』
―――来た。
いよいよ、尻尾を見せ出した。
修司はこれを待っていたのだ。
プリペイドでは足がつかない。なら、足がつくものになるまで待てばいい。
理想は清水個人の携帯なんだが、さすがにそれはないだろう。
あとは、この公衆電話を特定すればいい。
より多くかけてくる時間帯を絞り、その時間、彼女がどこにいるか調べれば良い。
じわり、じわりと罠に近づく獲物に、修司はこみ上げる笑いを堪えることができなかった。