32) ひとつの決意
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「いいか、お前なんか馬に蹴られちまえっ!」
玄関で靴を履きながら、山下が見当外れな捨て台詞を吐いた。
(いつからお前が理子の恋人になったんだよ……)
頭は良いのに、こと理子に関することになると、可哀そうなシスコンに成り下がる。修司はもう呆れて溜息も出ない。
「あぁ、そうだな」
適当にあしらって、まだブツブツ小言をぼやく小姑をとっとと玄関の外へと追いやる。
「あ、こら!お前、また泊まる気かっ!?」
閉める引き戸を慌てて押さえながら、山下がまた騒ぎ出した。
修司はうんざりしつつも、にこりと笑って答えてやる。
「安心しろ、親公認だ」
そんな事をすれば、火に油を注ぐことくらい分かっているのに。
ぴしゃりと戸を閉めて、ようやく修司は息をついた。
(アレが来ると、ひと騒動だな…)
しかし、なんだかんだと言いながら、山下もやることはやっていった。
メールの復元もしたし、後は履歴の一覧を作れば良い。
居間に戻って、復元されたデータに目を通す。
軽くスクロールしたが、この膨大な量を整理するには骨が折れそうだ。
「今日、病院に行ったんだって。診断書は貰って来た?」
「うん、一応…」
今朝、会社に行く前に理子を病院に連れて行ってくれるよう、母に頼んでおいたのだ。すっかり自分の娘のように思っている母は、なにかと理子の世話を焼きたくて仕方がないらしい。
快く頷いてくれた。
反面、病院に連れて行かれた理子は、かなり嫌々だったらしい。
理子はバッグの中から白い封筒を取り出して修司に渡した。
「これ」
「うん。じゃあ、俺が預かっておくから」
「明日は会社に行ってもいいでしょ?」
隣に座った理子が、修司の顔を窺うように覗く。
「もう少ししたら、ね」
「それって、明日も休めって事?」
「そうしてくれる?」
修司も同じように首を傾けて、理子の顔を覗きこむ。途端、理子は面白くないと口を尖らせた。
「いつまでも休んでられないわ。あたしだって仕事があるのよ」
「知ってるよ。なら、せめて食欲だけは元に戻してくれないと。今日の昼もあんまり食べてなかったんだって」
ちゃんと聞いてるぞとねめつけると、理子がうっと声を詰まらせた。
「シュウはしっかり食べてたらしいじゃないか。理子も見習ってほしいね」
夕方、母と共にシュウの様子を見に行った際、持参した蒸したささ身をシュウは美味そうに食べていたと言っていた。見事な食べっぷりに「これなら大丈夫です」と、先生の苦笑交じりのお墨付きも貰って帰ってきたらしい。
「母さんからいなり寿司預かってきた。明日の朝、二人で食べろって。ほら、あそこ」
言って、台所を指す。皿から溢れださんばかりの山盛りのいなり寿司に、理子の視線が釘付けになった。
「あれで一食分…?」
「そこは突っ込まないでやって。うちの母さん、作る量は半端ないから」
正当な疑問に思わず苦笑が漏れる。
理子が立ちあがって、台所に入っていくと「でも、美味しそう。今、ちょっとだけ食べてもいい?」と、声を上げた。
「いいよ。それなら、俺にも何個かちょうだい」
「うん。あ、ねぇ。この携帯ショップの袋って」
あぁ、そうだ。忘れるところだった。
修司はかけていたメガネを外して、顔を上げた。
「昨日言っただろ。今までの携帯は使わないで欲しいから、明日代わりのを渡すって。しばらくはそっちを持ってて欲しいんだ」
「持ってて欲しいって。これ、あたしの名前で契約してないよ。新規でしょ?」
「そこら辺は気にしないで。俺が勝手に買ってきたんだから」
「駄目よ。あたしが使うなら、料金もあたしが払うべきよ。それに、番号を変えた事もみんなに知らせないと」
「それは、しばらく待って」
ストップを掛けると、理子は怪訝な顔をした。
どうしてと問いかける顔を、修司がすまなそうに見る。
「どこで清水と繋がってるか、まだはっきりしなうちは番号を誰にも知らせないで欲しいんだ。せっかく換えたのに、元の木阿弥になるのは嫌だから」
「でも、そうしたら」
理子が何か口を挟む前に、修司は畳みかける。
「分かってる。理子にはしばらく不自由をかける事になるけど、俺の我が儘を聞いて欲しいんだ。もう理子がいやがらせに怯える姿は見たくない。頼む、聞き入れて欲しい」
言い募ると、理子は押し黙った。その表情には、はっきりと戸惑いが見える。
修司はじっと様子を窺った。
しばらくして理子が「わかった」と頷く。
「ありがとう」
ほっと安堵する胸内で、修司はやはり母の見解は間違っていない事を再認識する。
(間違いなく、俺は父さん似だよ)
こんな言い方をすれば、理子が断れない事を知りながら、あえてその方法を選ぶ自分は、なんて強かだろう。
俺が悪い、全部俺のせいなんだと理子の良心に語りかける。
だから、『俺のせいにして』許して欲しいと。
二人分のいなり寿司と携帯の袋を持って戻ってきた理子は、ちょこんと修司の隣に腰を下ろした。
「はい、どうぞ」
理子は必ず最初に修司の分を並べる。些細なところで自分を立ててくれる気遣いがこそばゆい。
「これ、開けてもいい?」
「いいよ」
頷くと、早速中身を取り出し始めた。箱を開けて、すぐに驚いた表情で修司を見上げる。
「これ…」
「今使ってるやつと同じだって言いたいんだろ。こっそり取り替えるのに、見た目が違ってちゃ意味ないからね」
「そう、だよね」
今までの物と何も変わりはしないのに、理子は嬉しそうだ。開いたり、閉じたりを繰り返している。今までの携帯からストラップを取り外し、新しいものへと付け替えれば、見た目は何も変わらない。
理子は、額を修司の腕に当てて「ありがとう」と甘えた。
修司ははにかむと、そんな理子の髪に口づけを落とす。
「もうしばらくの辛抱だから」
「あたしこそいっぱいしてもらって、ありがとう」
素直に甘えてくる理子が可愛いと思う。
「あ、でも番号言っちゃ駄目なんだよね。実家からの電話とかどうしよう。このままだと浅野君が電話出ることになるよ」
「固定電話にかけてもらえば。お義母さんには、携帯が故障したとでも言っておこうか。確かナンバーディスプレイついてただろ?番号見て電話受けたらいいよ」
「あ、そうか」
「美咲ちゃんには山下がうまいこと言うだろうし、大丈夫だよ。その他の着信はその都度知らせるから、それも家の電話でかけてくれる?」
「わかった」
明るさを取り戻し始めた理子に、修司はほっと胸を撫でおろしていた。
誰だって、恋人の暗い顔は見ていたくない。それが、自分以外の何者かがさせているのなら、一刻も早く原因を取り去るまでだ。
素直に修司の言う事を聞く理子は、本当に同級なのかと思うほどあどけない。それは修司に信頼を寄せてくれているせいだと思いたいが、この白さは危うさをも秘めている。
理子は白磁気のようだ。
極限まで薄く伸ばされた陶器は、ほんのわずかな衝撃で砕け散ってしまう。
壊れないよう、傷つかないよう、山下はそれを守ってきた。
一度入った亀裂を、それ以上広げさせないよう、懸命に隠してきた。
修司もそうするべきだとずっと思っていた。
理子を綺麗な場所に飾り、些細な衝撃すら与えないよう腕の中で守ろうとしていた。
だが、それでは駄目なのだ。
誰もかれもが理子に同じように接してきたから、彼女は自分の身を守る術を知らない。いつも誰かが守ってくれていたから、痛みを受ける事も傷つけることも恐れている。
その事に、理子自身もようやく気が付いた。
まだ悪意と対峙する事への恐怖は拭いきれていないが、立ち向かう覚悟はある。
以前のような、後ろ向きな感情は見えなくなったのは、良い傾向だ。
もしまた新たな亀裂が入ったとしても、その時は修司が金継ぎをすればいい。割れて欠けたとしても、何度でも直して見せる。
その傷がまた違う理子を見せてくれるだろう。
「美由紀さんのおいなりさん、美味しいね」
理子と添い遂げるのは、自分しかいないと確信している。
まだ修司の想いを知らない理子は、そう言って微笑んだ。