30) 余韻と油断
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翌朝は、修司の心を切り取ったような爽快な青空が広がっていた。
「よぉ。昨日は御馳走さ…、ん?」
尻あがりのおかしなトーンに振り返れば、未来の義兄がいつも通りのおちゃらけた顔で立っていた。
「おはよう」
挨拶を返すと、一瞬惚けた顔になり、はっとしたかと思えば、途端に険を孕んだ。
「修司、お前…」
「何」
気色悪い百面相に眉を寄せながら問いかける。するといきなり両肩を掴まれた。その態勢で山下が顔を寄せてきたので、咄嗟に手を顔と顔の間に差し込んだ。
(いきなり何だよっ)
出勤時間まっただ中の、社員が往来するロビーで何をしでかしてくれるのか。周りから見れば、修司が一方的に迫られているように見えているはずだ。その証拠に、数人の女子達がこっちを見ながら「きゃあっ」と黄色い歓声を上げている。
冗談じゃない、きゃあと言いたいのはこっちの方だ。
何の因果で朝いちから野郎に迫られなきゃいけない。しかも嬉しくない事に山下の目は真剣だ。兄妹とはいえ修司を強請ってくれるのは理子だけでいい。
力いっぱい顔を押しやると、山下が負けじと押し返してくる。
無言の攻防を数秒繰り広げて、なんとか引き剥がすことに成功して見れば、今度は剥き出しの敵意を投げつけられた。
「だから、何」
スーツの乱れを整えて、向けられた視線と奇行の理由を尋ねる。山下はじっと修司を凝視したまま、ぼそりと呟いた。
「―――したのか」
何を、と聞き返すほどお子様じゃない。だが、不躾な事を真顔で尋ねる山下のデリカシーの無さにこめかみが軽く痙攣した。
修司は答える代わりにメガネを外して、いつもより2割増しの笑顔で返す。素顔で放つ全開の王子スマイルに周囲からはさっきより盛大な歓声が上がった。それを尻目に山下が奥歯で苦虫を噛み潰すと、「ちょっと来い!」腕を掴んでずんずんと社内に入っていく。
「なんとかしろとは言ったが、なんだよ!そのきらっきらの王子スマイルはっ!昨日までのヘタレちゃんはどうしたっ!」
「お前が下らない事を聞くからだろ」
「アイツの匂いをぷんぷんさせてくるからだっ」
「そりゃ、するだろう。さっきまで一緒にいたんだからな」
「こ…の、ゲス野郎!」
くわっと目を見開いて、山下が吠えた。
いくら本人の意思が尊重される大人の恋愛とはいえ、こうもあからさまに見せつけられるのは兄として面白くないのだろう。
ロビーで迫ってきたのは、修司の体についた理子の残り香を確認するためだったのか。
(まったく…、犬かコイツは)
相変わらずのシスコンっぷりには困ったものだ。
メガネをかけ直して呆れた顔をすれば、ますます山下の鼻息が荒くなった。
「お前という奴は…っ、性欲なんか無さそうな顔しながら…。このむっつりスケベ!俺はまだ認めてないぞ!」
「お前の許可がいるとは思わん」
「俺の妹だ!」
「違うな。俺の彼女、だ」
誰がなんと言おうと、理子は自分のものだ。
一歩も引かない兄を相手に、このくだらない悶着も何回繰り返したことか。
何をしようと自分達の勝手だ。どこに交際の進捗具合をいちいち報告するバカがいるんだ。しかも、相手は理子の兄。絶対に言うものか。
理子を離してやれたのは、ほんの2時間ほど前のこと。宣言通り、一晩中理子の甘さを堪能していた。
なにが理子の体を思いやってだ。触れてしまった後は、タガが外れたように理子を求めた。
もう無理だと懇願する彼女を何度も追いつめた。
ぷっくりと赤く腫れた唇も、そこから零れる吐息も、潤んだ目も、しっとりと汗ばんだ肌も、何もかもが修司を誘った。
とどまる事の知らない欲望に夢中になりすぎて、気がつけば腕の中の恋人はくったりとなっていた。
おかげで一睡もしていないが、心の中はいつになく清々しい。
陰鬱とかかっていたどす黒い雲が一掃したような気分。晴れた視界に何もかもが眩しく映ってしまう。
ようやく身も心も自分のものになったという陶酔感に、思わず口端が緩んだ。
そんな様子を見てひくりと頬を痙攣させた山下だったが、諦めたように盛大な溜息を吐いた。
ようやく立ち止まった場所は、あの非常階段だ。
「それで、アイツは?」
がっくりと落ちた肩が寂しそうだ。
「休ませたよ。あの状況じゃ仕事なんてできそうにないし」
「お前は中学生か」
「バカ言え。そういう意味じゃない」
あながち嘘ではないが、それはまた別の話。休ませたのは昨日までの様子が芳しくなかったからだ。
ぐっすりと眠り込んだ横顔を思い出して、修司は細い息を吐いた。
ベッド下に散らばっていた飲みかけの錠剤。手に取った箱に書かれた『睡眠薬』の文字にぞっとした。
残り少なくなっていたそれが、常用の頻度を物語っていた。
あんなものを使わないと眠れなくなっていたなんて、今さらのように後悔が押し寄せた。
疲労が残る横顔をそっとなぞった感覚がまだ指先に残っている。
もう、これ以上の危害は加えさせやしない。
修司の眼差しの強さを横目に、山下が早速煙草に火をつけた。「お前も吸うか?」と差し出すが、修司は首を振って断る。
「理子が嫌がるから」
「あっそ…」
やっぱり面白くない顔をして、白い煙を吐き出した。
「で、昨日教えた事は全部したんだろうな」
「あぁ」
昨日修司がした「いやがらせ対策」は山下からの指示だ。
「アイツはそういうことはからきしだからな。防戦一方で立ち向かうことを知らない。しかも穏便に済ませたいと思ってる。犯人を締め上げるって言ったら嫌な顔してただろ」
「……本当、お前は呆れるほど理子を知ってるな」
理子を知り尽くした口調に、少し嫉妬する。山下はふふんと鼻を鳴らした。
「当然。離れてた期間はあるけれど、ずっとアイツを見てきたのは俺だもん。今更シスコンが止められるか」
「なんだ、自覚はあったんだ」
驚くと山下は煙草を咥えながら自嘲的に笑った。
「言っただろ。今度こそ理子には幸せになってほしいって。その為なら何だってするさ」
「また権力を行使してでも?」
「今度は修司、お前がいる。俺が手を下さなくても理子が望む終わり方ができるはずだろ」
「随分と買いかぶられたな。それは俺が兄貴のお眼鏡にかなったと受け取っていいんだな」
「気が早いぞ。でも、まぁこれが解決できたら考えてやってもいい」
にやりと笑う山下に、「えらそうに…」と悪態づいた。
修司もこんな事をいつまでも続けるつもりはない。
登録番号以外の受信を拒否しなかったのは現行犯で現場を押さえるためだ。もし違う番号でかかってきたとしても、理子には迷惑電話を着信拒否に登録するよう言ってある。清水だってそうそうプリペイドの携帯ばかり買っていられないはずだ。いずれ違うものに頼る。
形勢を逆転させるには、絶対に勝てる喧嘩でなければ駄目だ。これはそのための仕込み。
必ず仕留めてやる。
「じゃあ、しっかり協力してくれよ。山下、お前がすることは?」
「…清水の共犯をさぐること」
「そういうことだ」
清水にセキュリティをかいくぐってデータに侵入するほどの知識はない。使用されていたパスワードは経理課課長のものだ。考えられる選択肢は、課長自らが清水に教えたか、誰かがパスワードを偽装し清水に渡したか、それとも清水自身が自力でパスワードを持ち出したかだ。
彼女の交友関係は沙絵がそれとなく調べることになっている。女子達の情報網は侮ってはいけない。特に「ここだけの話」はとんでもない爆弾を抱えていたりする。
そこで得た情報を修司に流すことが、沙絵に与えた仕事だ。ただやる気に満ち溢れた沙絵が勢い余って首を突っ込み過ぎそうで怖い。もし沙絵に何かあったら、間違いなくあの彼氏に殺される。
「まぁ、そっちは任せろ。俺の会社で好き勝手はさせないからさ」
にやりと口端にシニカルな笑みを浮かべる山下は、どこか楽しげに映る。普段おちゃらけた男が、一旦こうなると獲物を捕食するまで終わらない。修司にとって理子への嫌がらせを止めさせることが目的なので、不正を犯し理子を追いつめた者にかける情けは微塵もない。
共犯者をどうするか、清水にどんな処分を下すのかは山下次第だ。一介の課長補佐が口出しする権限はない。
「それと今夜にでも彼女の家に行ってやって。メールの復元をして欲しいんだ」
「了解」
修司との仲は相変わらず不満のようだが、理子を守りたいという点は一致している。始業時間が迫っていたので修司は「じゃあな」と言い残して先に社内に入った。
自分の部署へ向かいフロアに入ると「おはようございます」とそこかしこから声がかかる。
その声に応えながらデスクに着くと、改めて声がかかった。
顔を向ければ、清水が立っていた。理子とは対照的な溌剌とした表情に一瞬で胸糞が悪くなる。
あれだけの事をやっておきながら平然とできる神経が分からない。その表情には心なしか自信のようなものも窺える。以前は感じなかったものだ。
思わず眉をひそめかけて、メガネを押しやる仕草で誤魔化した。
「おはよう」
「課長補佐、こちらの書類にサインを頂けますか」
「分かった、そこに置いておいて」
視線でデスクの端を指すと、その場所に書類が置かれる。が、清水は席に戻ろうとしない。
「まだ何かあるのか?」
内心うんざりしながら問いかけると、口ごもった。こういう仕草をする時は、まず仕事関係の話ではない事は、もう知っている。
躊躇いがちの様子を無言で見返した。
「あの…、昨日、高木さんとご一緒だったんですね」
やっぱり。
しかも言った清水はなぜか嬉しそうだ。
昨日は沙絵とロビーで待ち合わせをして二人で会社を出た。そのすぐ後を山下が追いかけてきたが、誰もそこまでは気に止めなかったのだろう。
(…あぁ、なるほど。そういうことか)
清水がどこかで見ていたのか、もしくは人づてに聞いたのかはどうでもいいが、彼女は自分の計画が順調だと思っている。とんとん拍子に計画が進んですっかり有頂天になっているんだ。
垣間見る自信はそこからか。
確かに彼女のたくらみは半ば成功していた。実際、理子は薬に頼らざるを得ないほど疲弊した。
これで修司が沙絵と復縁でもすれば、万々歳だったに違いない。
だが、物事にアクシデントはつきものだ。計画通りに行くことなど稀だと言ってきたはずなのに、清水はそのことをすっかり失念している。
この場合、それは修司だ。
そもそも、清水はなぜ修司にばれずに遂行できると思ったのか。とは言うものの、修司もここまで事態を悪化させるまで何も手を打てずにいたのだから偉そうなことは言えない。
でも、挽回のチャンスは掴んだ。
「浅野課長補佐?」
「いや、なんでもない。それが、どうかしたか」
修司が浮かべた含み笑いに、気を良くした清水が嬉しそうに話を続ける。
「やはりお二人が並ぶ姿はお似合いです」
「そう」
「そういえば…、総務課の白雪さん。昨日からお休みなんですよね」
あぁ、全容が見えていると清水の行動のひとつひとつが滑稽に見えてくる。
接点のない清水がどうして理子の欠勤を知っているのかなんて、普通に考えてもおかしいだろう。
わずかな油断が計画に綻びを生んだ。
今度こそ眉を潜めると、「ご存知じゃないんですか?」と小首を傾げた。
もしここが職場でなくて、彼女が男だったら間違いなく殴り倒している。理子を追いつめておいて、しゃあしゃあと彼女を語るふてぶてしさには、もう嫌悪しか感じない。
「ただの風邪だよ。熱が下がらないんだ」
職場で堂々と上司のプライベートを尋ねる態度もどうかと思う。もっと節度をわきまえた人間だと思っていたのは、修司の勘違いだ。
理子の様子を伝えることで、まだ切れていないという事も匂わす。案の定、一瞬だけ清水の顔が険しいものになった。
「気にかけてくれて、悪かったね。でも大丈夫だから」
「…いいえ。偶然耳にしただけですから」
一礼して清水が踵を返す。その後姿に向かって修司が声をかけた。
「それと、この間の件だけど。――先方に確認したが事実無根だった。君も根拠のない噂に惑わされないように。いいね」
鋭い視線で語尾を強めると、振り返った清水がきゅっと下唇を噛みしめた。
「…はい、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる姿に、報復の幕が上がった。
さぁ、次はお前が狩られる番だ。