29) 偽王子の欲望
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「しばらくちゃんと食べてなかったんだろ」
手こずっている様子を眺めながら尋ねると、ちらりと一瞬だけ視線が合うがすぐ逸らされる。本当はもう食べられないのだけど、修司が見ているから無理やり食べているのが見え見えだ。
だが、甘やかすつもりはない。ここで食べることを思い出させておかなければ、理子の体は細くなる一方だ。
女の子は少しくらいふくよかな方が良い。
ようやく食べ終えた頃には、満腹感にぐったりとしていた。
「もう明日の夜まで食べられない……」
ソファーに埋まった顔から、くぐもり声がする。
「うん。明日の朝は母さんが何か持ってくると思うから、がんばれ。あと、明日はまだ会社に行ったら駄目だからな」
「え、なんで」
「そんな顔して仕事なんてできるわけないだろ。明日は家でゆっくりしてろ。でも、病院なら行ってもいいよ。精神科のある病院に行って診断書貰っておいで」
「精神科っ?診断書って、なんで?」
「精神的苦痛を証明するものだから」
「なにもそこまでしなくても……」
馴染みのない科への受診と診断書の言葉に、理子が完全に引いたのが手に取るようにわかった。
どうやら彼女も事の重大性を分かっていないようだ。
パソコンのメールソフトをいじっていた修司がかけていたメガネを外して、理子をねめつけた。
「理子は単なるいやがらせって思ってるだろうけど、これはもう犯罪なんだ。向こうがどういうつもりかは知らないけれど、現実として理子の生活に支障がきてる以上、彼女には相応の償いはしてもらう」
「でも…」
修司の言葉を聞いてもおよび腰の態度に、呆れて眉を寄せた。
ここまでされているのに、まだ牙をむく事を恐れている。
「理子の優しさは良いところだけど、変な同情はやめろ。このままは嫌なんだろ?」
少しきつく問いかけると、理子の目が揺れる。が、小さく頷いた。
「うん、俺も嫌だよ。だから、これで終わらせるんだ。自分を守るために戦うことも覚えて。いいね」
諌めると、理子は顎を引いて目を反らした。
彼女がもめ事を嫌っているのは雰囲気で感じていた。だが、降りかかる火の粉も自分の手で止めることができることをいい加減知らなくては駄目だ。
傷つくのも傷つけることも恐れていては何も解決しない。
様子を窺っていると、理子は唇を引き締めて修司を見た。
「そのかわり、彼女をどうするかはあたしに決めさせて」
「わかった」
もちろん、修司もそうするつもりでいた。あくまで今やっている作業は、清水の逃げ道を断つ為のものだ。証拠が揃っているからといって、法に訴えるかどうかは、被害者である理子に一任する。
頷くと、理子も頷き返した。
りきみ過ぎて口がへの字になっている。
思わず噴き出すと、途端にそれがタコになった。
「人の顔を見て笑うなんて」と口を尖らせているが、可愛いと思ってしまうのだから仕方がない。頭を撫でると、ますますふくれっ面になった。
理子のこんな顔を見るとホッとする。笑った顔だけでなく、これからは違う顔も見せてほしい。
「ところで、メールが届き始めたのは先週から?」
「ううん。もっと前からなんだけど、くる度に消したり迷惑メールに入れたりしてたの」
「そうか、この辺は山下にやらせるかな。明日来るように言っとくよ」
「……やっぱり、尚ちゃんも知ってるんだ」
山下の名前にまた理子の顔が翳った。
「まあね、犯人を突き止めたのもアイツだし。あれはさすがにバレるよ」
経営側の人間としては、会社のデータに手を出したなら見過ごしておけないだろう。
「……尚ちゃん、怒ってなかった?」
清水が不正アクセスして情報を得た事を知らない理子は、役員としての山下より、兄としての反応を恐れていた。それほど前の一件が堪えているのだ。
「いや、どっちかって言うと、俺にキレてた。理子と別れろって詰め寄ってきたな」
「そうなんだ…。ごめんね、結局迷惑かけちゃって」
肩を落として項垂れる姿にはにかんで、細くなった体を引き寄せた。
「そう思うなら、これからは話して。何も知らないのが一番堪える」
実際、山下を筆頭に非難の集中砲火を浴びせられっぱなしだ。すべて自分の不甲斐なさが原因だと言われれば返す言葉もないが、さすがに気持ちが折れそうになった。
「……ごめんなさい」
それでも、こうして理子が自分の傍に帰ってきてくれたのだから、まだ首の皮一枚くらいは繋がっていたらしい。
もう、あんな思いは二度とごめんだ。
肩に乗った頭に軽く口づけを落として、肩を抱き寄せる。
ふわりと香るシャンプーの香り、流れる長い髪から覗くうなじの艶めかしさが目に入って、くらりと意識がもっていかれた。
今夜の理子はなにかと危うい。
心を開いてくれたのは嬉しいが、ここまで無防備になられるとどう対応していいか分からない。
何気なく抱きよせただけなのに、これほど簡単に自分の首を絞めれるものなのか。
うっかり走り出そうとする欲望の襟首を慌てて掴むと、理子の頭に顎を乗せながらやるせなさを吐き出した。
もうこのまま抱きたい。
こんなに我慢するはめになるなら、とっとと抱いておけば良かったと、しみじみ後悔する。
大事にしすぎて今まで手が出せなかったなんて、偽善にもほどがある。
自分は聖人君子でも白馬の王子でもない。
どうしようもないくらい、ただの男だ。好きな女を抱きたいと思って何が悪い。
それでもやりきれない気持ちを振り払って、なんとか思考を違うことへ向ける。
「もう他には何もされてない?電話と、メールと、車の細工と、それだけ?」
「メールに添付されてる写真がポストに入ってた。それで全部」
言いながら理子が顔を肩に摺り寄せる。触れる感触は彼女が部屋着一枚しか着ていないことを教えていた。
(やばい…)
コクリ…と生唾も飲み込んでしまう。
さっきはなんとか凌いだが、作業もひと段落した今はとどまる要素がない。いや、彼女の体を気遣うという大事な要素はあるのだが、当の本人は全く頓着していない。
これは無防備の延長なのか、それとも誘っているのか。
もう試されてるどころの話じゃない、生殺しだ。
それなりに経験を重ねてきたつもりでも、理子が相手だとまるで中学生だ。こうして抱きしめているだけでも限界が来る。
いっそ、このまま波にのまれてしまおうか。
悶々としていると、理子がふいに顔を上げた。
ほんのりと赤くなった頬、女の顔に胸が高鳴った。
小さな目の訴えが口から零れ落ちかけるが、言葉になる前にまた肩に埋まった。触れ合っている部分がほんのりと熱い。
伝わる熱が彼女の気持ちだと受け取っていいだろうか。
(どっちにしろ、俺がもう限界…)
愛しくてたまらない存在が腕の中にいて、温もりを感じて、お互いにそれを望んでいるのに手を出さないはずがないだろう。
百理由を並べても、この欲望には抗えない。
「……眠れないぞ」
手を出してしまえば、止まらなくなるのはわかっている。
なけなしの理性で尋ねると、「…それでも、帰らないで」と消え入りそうな呟きが返ってきた。
その瞬間、欲望が自制を越えた。