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窓恋  作者: 宇奈月 香
本編
3/46

3) 偶然という何か


☆★☆



 終業時間間近、後ろから呼びかける声に足を止めた。


「修司、今日一緒にご飯食べに行こうよ」


 制服姿の沙絵が愛らしい笑顔を浮かべてそう言った。

 柔らかい栗色の髪を毛先だけ巻いて、頭を動かすとそれもゆんわりと揺れる。大きな目はいつも濡れたように見えて、それを囲むまつ毛も一本一本がわかるほど綺麗に整えられている。

 女性の持つ柔らかい肌、今は控え目に塗られているが沙絵の赤い唇は熟れた果実みたいだ。


「…悪い、まだ仕事が残ってるんだ」

「そっか、残念。結構かかるの?わたし、先にお店で待ってても良いよ」

「今日中に作らないといけない書類でさ。帰りがいつになるかもわからないから」


 沙絵と最後に会ったのはもう一カ月ほど前のことだ。

 仕事の忙しさと、アパートの水害とですっかりほったらかしにしてしまっている。

 悪いと思っているが、疲れた身体で沙絵の相手をするのはしんどい。

 沙絵は何か言いたげに口を開きかけたが、すぐにその口をつぐんで代わりに笑顔を浮かべた。


「わかった。じゃあ、また今度ね」


 言いたい事があるのだろう。

 修司に対する不満や二人の関係に不安を感じていること。沙絵をどう思っているか。

 聞きたいことはたくさんあるけれど、懸命にそれらを押し殺して「聞きわけの良い彼女」を演じようとしている沙絵を見ていると、申し訳ない気持ちになる。


「あぁ、また今度な」


 打った相槌が社交辞令になっていることにも、修司は気づいていた。


(そろそろ潮時か…)


 漠然と終わりを感じる。沙絵と別れても修司の日常は何も変わらない。

 朝から晩まで仕事漬けで、休日だけ時間が空くだけだ。だがそれもたまっているDVDを見たり、本屋をめぐっていれば十分埋まる時間である。


(好きだったはずなんだけどな)


 いつからそれが薄れてきたんだろう。

 去っていく沙絵の後姿を見送って、小さく溜息を零した。



 ☆★☆



 結局、家に帰ったのは10時を過ぎた頃だった。

 カーポートに車を入れて家に入る途中、何気に視線が隣の家に向いた。

 いつもと同じ明かりがともっている。

 それだけで修司の心に不思議な安堵が広がった。


(…俺も相当疲れてるな)


 他人の家の明かりにほっとするなんて、どうかしている。団らんを望んでいるわけでもないくせに。

 ここ数日の不可解な感情に首をかしげるも、すべて忙しさが見せる錯覚で片づけた。


「ただいま」

「お帰りなさい。遅かったのね、夕飯はどうするの?」

「なんか軽く食べたい」


 ネクタイを緩めて、かけていた眼鏡をはずす。スーツのジャケットを脱いでリビングのソファに座るとまたテーブルの上にトマトがあるのを見つけた。


「またもらったの?」


 母もそれがトマトの事だと知っているので、「そうよ」と頷いただけだ。


「洗って一個ちょうだい」


 無性にあのトマトが食べたくなって頼むと、夕飯の準備をしていた母がちらりと修司を見た。


「いいわよ」


 手頃な大きさのをひとつとり、洗ってそれを器に乗せて持ってきた。器ごと受け取って、さっそくかじりつく。口に入ったトマトは、今日もうまかった。


「トマト食べるのもいいけれど、せめて着替えてらっしゃい」

「これ食べたら着替えるよ」


 ぼんやりとしながら無心でトマトを頬張っている修司に、母は呆れた顔をした。


「なぁ、母さん。隣りってひとりで暮らしてるんだろ。畑するくらいならけっこういい年なんじゃない」


 どうしてそんな事を聞いたのか、修司にもよくわからなかった。ただ、このもやもやを解消する何かが欲しかっただけなのかもしれない。


「あなた、まだ一度も会ったことないの?理子ちゃん、修司と同じ会社で働いてるのよ。年だってあなたと同じよ」

「えっ?」


 思いがけない事実に、それまでソファに沈んでいた身体が振り子のごとく起き上った。


「同じ会社?って何部にいるか聞いた?」

「ええっと、確か総務って言ってたかしら」


 驚いた。ひさびさにこんなに驚いた。

 まさか隣人が同じ会社の子社員だったとは、まったくの想定外だ。

 こんな偶然があるのか。

 手にしたトマトを落とすくらい衝撃的だった。


 そうか、同じ会社なのか。


 ありえない展開に、笑いがこみあげてくる。

 唐突に笑い出した修司を母が気味が悪いと顔を歪めた。だが、今の修司に母の反応はどうでもいい。


(会いたい)


 それは自然と芽生えた感情だった。


 どんな子なのか、見てみたい。







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