3) 偶然という何か
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終業時間間近、後ろから呼びかける声に足を止めた。
「修司、今日一緒にご飯食べに行こうよ」
制服姿の沙絵が愛らしい笑顔を浮かべてそう言った。
柔らかい栗色の髪を毛先だけ巻いて、頭を動かすとそれもゆんわりと揺れる。大きな目はいつも濡れたように見えて、それを囲むまつ毛も一本一本がわかるほど綺麗に整えられている。
女性の持つ柔らかい肌、今は控え目に塗られているが沙絵の赤い唇は熟れた果実みたいだ。
「…悪い、まだ仕事が残ってるんだ」
「そっか、残念。結構かかるの?わたし、先にお店で待ってても良いよ」
「今日中に作らないといけない書類でさ。帰りがいつになるかもわからないから」
沙絵と最後に会ったのはもう一カ月ほど前のことだ。
仕事の忙しさと、アパートの水害とですっかりほったらかしにしてしまっている。
悪いと思っているが、疲れた身体で沙絵の相手をするのはしんどい。
沙絵は何か言いたげに口を開きかけたが、すぐにその口をつぐんで代わりに笑顔を浮かべた。
「わかった。じゃあ、また今度ね」
言いたい事があるのだろう。
修司に対する不満や二人の関係に不安を感じていること。沙絵をどう思っているか。
聞きたいことはたくさんあるけれど、懸命にそれらを押し殺して「聞きわけの良い彼女」を演じようとしている沙絵を見ていると、申し訳ない気持ちになる。
「あぁ、また今度な」
打った相槌が社交辞令になっていることにも、修司は気づいていた。
(そろそろ潮時か…)
漠然と終わりを感じる。沙絵と別れても修司の日常は何も変わらない。
朝から晩まで仕事漬けで、休日だけ時間が空くだけだ。だがそれもたまっているDVDを見たり、本屋をめぐっていれば十分埋まる時間である。
(好きだったはずなんだけどな)
いつからそれが薄れてきたんだろう。
去っていく沙絵の後姿を見送って、小さく溜息を零した。
☆★☆
結局、家に帰ったのは10時を過ぎた頃だった。
カーポートに車を入れて家に入る途中、何気に視線が隣の家に向いた。
いつもと同じ明かりがともっている。
それだけで修司の心に不思議な安堵が広がった。
(…俺も相当疲れてるな)
他人の家の明かりにほっとするなんて、どうかしている。団らんを望んでいるわけでもないくせに。
ここ数日の不可解な感情に首をかしげるも、すべて忙しさが見せる錯覚で片づけた。
「ただいま」
「お帰りなさい。遅かったのね、夕飯はどうするの?」
「なんか軽く食べたい」
ネクタイを緩めて、かけていた眼鏡をはずす。スーツのジャケットを脱いでリビングのソファに座るとまたテーブルの上にトマトがあるのを見つけた。
「またもらったの?」
母もそれがトマトの事だと知っているので、「そうよ」と頷いただけだ。
「洗って一個ちょうだい」
無性にあのトマトが食べたくなって頼むと、夕飯の準備をしていた母がちらりと修司を見た。
「いいわよ」
手頃な大きさのをひとつとり、洗ってそれを器に乗せて持ってきた。器ごと受け取って、さっそくかじりつく。口に入ったトマトは、今日もうまかった。
「トマト食べるのもいいけれど、せめて着替えてらっしゃい」
「これ食べたら着替えるよ」
ぼんやりとしながら無心でトマトを頬張っている修司に、母は呆れた顔をした。
「なぁ、母さん。隣りってひとりで暮らしてるんだろ。畑するくらいならけっこういい年なんじゃない」
どうしてそんな事を聞いたのか、修司にもよくわからなかった。ただ、このもやもやを解消する何かが欲しかっただけなのかもしれない。
「あなた、まだ一度も会ったことないの?理子ちゃん、修司と同じ会社で働いてるのよ。年だってあなたと同じよ」
「えっ?」
思いがけない事実に、それまでソファに沈んでいた身体が振り子のごとく起き上った。
「同じ会社?って何部にいるか聞いた?」
「ええっと、確か総務って言ってたかしら」
驚いた。ひさびさにこんなに驚いた。
まさか隣人が同じ会社の子社員だったとは、まったくの想定外だ。
こんな偶然があるのか。
手にしたトマトを落とすくらい衝撃的だった。
そうか、同じ会社なのか。
ありえない展開に、笑いがこみあげてくる。
唐突に笑い出した修司を母が気味が悪いと顔を歪めた。だが、今の修司に母の反応はどうでもいい。
(会いたい)
それは自然と芽生えた感情だった。
どんな子なのか、見てみたい。