28) 誘惑と理性
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腕の中で愛しい人が身じろいだ。
ソファーの肘置きを背もたれにして、理子の髪を指に絡ませて遊んでいた修司は視線を下げると、その頭に軽く唇を落として彼女を支えていた腕の力を緩める。
理子が鼻をすすって体を起こした。
「もういいのか?」
頷いて、顔を上げた。乾ききっていない涙が両目を潤している。泣きすぎて赤くなった鼻の頭を指でかきながら恥ずかしそうにはにかんだ。
「ごめん、濡れちゃった…」
言ってその部分を指でなぞる。涙でしっとりと濡れたそこは理子の体温が離れたせいで、ひんやりと冷くなっている。本人は拭いている気になっているのだろうが、修司からは濡れた衣服を押しつけているようにしか見えない。
だが、その行為すら愛おしく感じてしまい、自然と口元が綻んだ。
ひとつ欲を言えば気にするのは修司の服ではなく、修司自身にしてほしい。
「いいよ、気にしないから」
両手で理子の頬を包み、親指で涙を拭う。自分の額と理子の額を軽く合わせて、小さな目を覗き込むと理子が少し笑った。それだけで幸せな気持ちになり、心の赴くまま唇を合わせる。
こうして彼女に触れるのも久しぶりだ。
柔らかい弾力に誘われ、すぐに深いものへと変わる。
本心は今すぐにでも彼女のすべてを自分のものにしてしまいたいが、今夜はもうひとつ大事な用が残っている。
分かっているが味わってしまった幸福観から逃れるのは難しい。名残り惜しさは振り払えず、「あと少しだけ」と自分を甘やかした。
それでもなんとか唇を離せば、零れた吐息が未練を誘う。
余韻が残る表情はひどく扇情的で、今すぐにでも引き戻したい衝動にかられる。理性だけが必死でそれを押し留めた。
潤んだ目がこの先を望んでいるのがわかるからこそ、苦しい。
まるで試されてるみたいだ。
「そんな顔しないで、…たまらなくなるから」
結局、早々に白旗を上げるしかなかった。これ以上、その顔で見られたら自制が引いた一線を越えてしまう。
いや。絶対、超える。
だが理子はそんな苦悩も知らず、さらに煽る。
腕を広げて修司の首に絡めると、自ら唇を寄せてきた。
(なんで、よりにもよって今日なんだ…っ)
こんな積極的な理子は見た事が無い。細い体と口づけを受けとめながらも、千載一遇のチャンスをむざむざ手放そうとしている自分は大馬鹿者だ。
それでも深みにはまる一歩手前でとどまれたのは、渾身の自制心が踏ん張ったからだ。
目先の快楽を選ぶのは容易いが、それで理子の不安が解消されることはない。何も考えず、ただ修司を感じながら眠らせてやりたいと思う。だが、それは今夜じゃない。
痩せた体、疲弊をにじませた表情。そこに肉体的な疲労を重ねさせるわけにはいかなかった。
目を閉じて、一切の煩悩を振り払うように深く息を吐いてから、ゆっくりと理子の体を離した。
「これ以上は駄目だ」
「……どうして?」
初めて見せる修司への甘えと、欲情と、拒絶された悲しみが混じった表情に、せっかく築いた防壁に亀裂が走る。が、からくも持ちこたえた自分の理性に励まされて理子を見た。
「まだ解決してないことがあるだろ。今からしておきたい事があるんだ」
怪訝な顔に「いやがらせ対策」と告げると、途端に表情が翳る。
視線を下げて唇を結びながら頬を少し膨らます仕草は、とてもさきほど見た「女の顔」からは想像できない。修司の知っている理子の顔だ。
悔しいが今だけは理子の気が削がれたことにほっと胸をなでおろした。
「対策って、なに?着信拒否したら違う番号でかかってきたのに。メールだって」
「大丈夫、一個ずつ見ていくから心配するな」
「でも…っ」
余程堪えているのだ。怯えた仕草を宥めるように頭を撫でた。
「大丈夫だ」
揺れる眼差しを真っ直ぐ見つめかえして、力強く告げる。それでも不安の色は完全には消えなかったが、修司の言葉に頷くとまた腕の中に飛び込んできた。
「…お願い、ぎゅってして」
両腕を背中に回された腕の強さと呟きに頬が緩む。
心を開いた理子は、どうしようもないくらい修司のツボをくすぐっていた。
☆★☆
ようやくパソコンを開くことができたのは、それから1時間後だった。
隣では理子が遅い夕食を食べている。もちろん、母が用意していた鍋焼きうどんだ。
お互いそれぞれ風呂に入り、理子が上がってくる前にうどんを作った。
一旦家に戻ってきて出て行く修司に、母は一度だけ視線を流したが何も言わなかった。
再び理子の家を訪れた修司がまず始めたことが、無言電話対策だった。
バッテリー切れで放ってあった携帯を充電させながら電源を入れた途端、並ぶ不在着信に目を疑った。
理子はうどんを啜りながら、バツの悪い顔をして修司の顔色を窺っている。
(よく耐えてたよ…)
驚きや呆れよりも、その精神力は称賛に値する。沙絵といい、理子といい、修司が思っている以上に女性はたくましい存在なのかもしれない。
なのに、当の本人は叱られた子供みたいな顔をしている。修司の反応が気になるようだ。
口を開きかけた途端、鳴り出す着信音。その音に理子の肩が震えた。
彼女の様子を横目で見ながら、通話ボタンを押して耳に当てる。が、当然無言だ。
修司は迷わず切った。
すぐさま「迷惑電話おことわりサービス」にその番号を登録する。もし、清水がこの一台しか手元にないのなら、今夜はかかってこないだろう。
まだ自分の携帯でかけてこないだろうと踏んでのことだ。
「…いま、何したの」
理子が不安そうな声で尋ねた。
「迷惑電話を着信拒否にしてくれるサービスに登録しただけ。違う番号でかかってきたら、また登録して。清水が尻尾を出すまで続けるから」
「……清水?って、あの清水さん?」
「そうだよ。この犯人は彼女だ」
清水の名を聞いて、理子は心底驚いた顔をしていた。どうやら彼女は不倫相手以外、犯人を想定していなかったようだ。
「でも、今はまだ証拠がね。他には?さっきメールがどうのって言ってなかった?」
「なんで、どうしてあの人がこんな事するの?」
「うん、それは作業しながら話すよ。だから、理子もまず食べなさい」
すぐに箸を置こうとする理子を窘めると、慌ててうどんを頬張り出した。
(まったく…)
すっかり食が細くなった理子は、たった一杯のうどんを食べるのも一苦労だ。加えて修司のしている事にも興味があるらしく、目を離すとすぐに修司の手元ばかりみている。
「それは、何?」
「これは、夜間の電話は受けないように設定してるんだ。悪いけどこの携帯はしばらく使わないで。明日、違うヤツを渡すから。…ほら、また箸が止まってる」
「あ、はい…」
まるで子供を相手にしているみたいだ。