27) 喧嘩 -後編-
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嫌々車を降りた理子は、修司と居るのが余程苦痛なのか、車の中でもシュウの話が終わった途端、そっぽを向いていた。笑ったのはシュウの動画を見ていたあの一度だけ。
話がしたくても、理子との間には分厚い壁がある。
―――修司に対する拒絶。
自分のしたことを思えば当然の結果だが、これほど簡単に心を閉ざしてしまう理子に悲しくなった。
いったい、自分はどれくらい理子に信用されていたのだろう。
手を取り合っていたと思ったのは幻で、実際は糸ほどか細い絆だったんじゃないだろうか。
それでも理子を手放すことなんて、できない。
どうせこんなところではろくに話もできないだろうと早々に諦めた修司は、さっさと家へ帰ることにした。
理子とゆっくり話し合える空間が欲しかったからだ。
謝りたい。
だが、理子はその隙すら与えてくれない。
自分の部屋か、理子の家か逡巡したが、やはり理子の家で話すことにした。昨日、ここでこじれたのなら、ここで修正すべきだ。
「あれ…、電気ついてる」
窓から零れる光に後ろからついてきた理子が呟く。
「多分、母さんじゃないかな」
世話好きの母の事だ。理子を心配して待っていたのだろう。
玄関を開けると、案の定、台所から母が顔を出した。
「おかえりなさい。シュウちゃんはどうだった?」
この気まずい空気を一掃する母の声に少しだけ救われる。だが、それも一時のことだ。
「ごめん、母さん。ちょっと理子と話があるから外してくれる?」
「え、今から。理子ちゃん今日疲れてるんだから、明日にしてあげれば?」
「どうしても今じゃないと駄目なんだ」
首を振ると母は少し不満げに顔をしかめたが、「それなら仕方ないわね」と頷いた。
「理子ちゃん、今日何も食べてないでしょう。台所に鍋焼きうどんの準備してあるから、話が終わったら食べなさい。食欲が無くてもちゃんと食べきるのよ。明日見に来ますからね」
修司の後ろに立っていた理子は、母の勢いに気押されつつ頷いた。
「今日はいろいろとありがとうございました」
「いいのよ。困った時はお互い様っていうでしょ。それじゃ二人とも(・・・・)お休みなさい」
去り際に修司の腕を軽く叩いて行く。
(なんだよ、今のは…)
意味深な台詞に目をむいたが、理子は何も気づいてないようだ。
母の「これからしようとしていることなんてお見通しよ」と言わんばかりの顔を見ていると、その手のひらで踊らされている気がしてくる。
「理子、先にうどん食べるか?」
気を取り直して問いかけても、理子は首を振るだけ。母とはまともに話すくせに、相手が修司だと途端に口が重たくなる。それほど自分は嫌われてしまったのだろうか。
溜息を吐いて部屋に上がる。彼女の家なのに、当の本人はひどく居心地が悪そうだ。
「座って」
ソファに促すと、大人しく腰を下ろした。修司は畳に膝をついて、理子と向かい合える姿勢になる。
だが理子は俯いたままで、顔も見ない。右手の人差指を反対の指で摘まんだり離したりして気まずさを誤魔化している。見かねてそれに手を置くとものすごい勢いで振り払われた。
「や…っ」
言葉でなく態度での拒絶。その瞬間、修司の中で何かが切れた。
もう一度その手を掴む。また振り払おうとするが、修司は離さなかった。
「理子、俺を見ろ」
理子は俯いたまま首を振る。
「ちゃんと話をしよう。俺達、大事な話から逃げたよな」
掴まれた手を暴れさせながら、また首を振った。どうあっても顔を上げる気はないらしい。
何が「違う」と言っているのか、いい加減言葉で話してほしい。その口は何のためについている。
思いを伝えるためにあるんじゃないのか。
「俺は逃げた。理子に感情をぶつけるのが怖かったから、ろくに話も聞かず君に背を向けた。本当はあの時、相手の男に嫉妬してたんだ。理子が不倫してるわけないって分かってたけど、見知らぬ車で送られてきた姿を見たら居ても立っても居られなかった」
理子が話たくないなら、自分の気持ちを伝えるだけだ。
彼女が心の闇をうち明けてくれるまで、いつまでだって伝え続ける。
これで終わりになんて、絶対にさせない。
「車が故障したのも、嘘だと思ってた。それは男と会うための口実で、俺は騙されてるんじゃないかって。冷静に考えればそんなわけないのに、それすらも分からなくなってた。あの時、俺が好きだと言ってくれたのは、それが理子にとって真実だったからだろ。なのに、分からないなんて言ってごめん。俺は昔の事をとやかく言うつもりはないよ。君が終わっているというなら、俺はそれを信じる」
いつの間にか、理子の抵抗は止んでいた。まだ顔は上げないが、じっと黙って修司の言葉を聞いている。が、最後の言葉を聞いて理子の肩が震えた。
修司はその様子に眉を潜める。なぜ怯えるのかが分からなかった。
「……うそつき」
ぽつりと落ちた言葉は、悲しみに満ちていた。
修司はその言葉をうち消すように首を振る。
「嘘じゃない。俺は理子を信じる」
「嘘よ…。だって疑ったじゃない…、あんな簡単にあたしのこと疑ったでしょ!」
はじかれたように顔を上げた小さな目には、たくさんの涙が溢れていた。
「不倫なんて、もうしてない!あの時の一回だけよっ!あの人とだって一度も会ってないわ、なのに…っ!」
「ごめん」
「あたしのことなんだと思ってたの?二股かけてるように見えた?そんな風な目で見られてたって知って、あたしがどんな気持ちだったのか分かる?あぁ、あたしってそんな程度の女なんだ、って。好きだって言っても一蹴されたあたしの気持ちがわかるの?!」
吐き出したのは、初めて聞く修司への不満。
どこにもぶつけられなかった感情が、今修司めがけて襲いかかってくる。
刺さる言葉が痛い。
それが深く彼女が傷ついていることを告げていた。
「それを簡単に信じるなんて、なんで言えるのっ?あたしには信じられるものが無いんでしょ、そう言ったじゃない!」
責められてぐっと奥歯を噛みしめた。確かに昨日そう言って彼女を責めた。
なのに今日は理子を信じると言われれば、疑いたくもなるだろう。
だが、その一日が修司には重要な時間だった。彼女の周りで起きている事を知ることができた貴重な時間でもあった。
「ごめん…」
だから謝った。だが、理子はそれすら拒絶する。
「謝らないで!どうせ本気でそんなこと思ってないくせに!あの人だっていっつも口先だけだったわ!理子が好きだから、俺を信じて。そればっかり言ってた。あなただってそうなんでしょっ?」
自分の過ちのことならいくらでも我慢もできた。が、昔の男と一緒くたにされて黙ってられるほどお人よしではない。
「だったら、ちゃんと言えよ!」
理子の吐きだす激情につられて、気がつけば叫んでいた。
「分かってほしいなら、俺に話すことがあっただろ!なんで、いやがらせ受けてるの黙ってた。俺や山下に黙ってた理由って何」
「な…んで、それ」
小さな目が限界まで見開いて、絶句した。
当り前だ、彼女はいやがらせの件についてひとことも口にしていない。ばれていることなど知りもしない。
だがそんな説明は後回しだ。
そんなものより、今は大事なことがある。
彼女を想う気持ちがひと欠片も零れることなく、理子に届いて欲しい。
「俺はもう君のどんな話を聞いても絶対に嫌いになれない。この先理子が泣いて嫌がっても、離してやる日は来ないよ。それくらい理子が欲しいんだ、俺には必要なんだよ。情けない姿や、惨めなとこも見せてくかもしれない。俺は今までそういう感情を誰かに見せた事がないから、本当に格好悪い姿になるだろうけど、理子には見ていて欲しいんだ。気がついてる?俺の手、馬鹿みたいに震えてるの。―――君に嫌われるのが怖くて必死なんだ」
冷たくなった指先で、縋るように理子の手を握りしめる。
離れて行かないでほしい。
大切だから、どこにも行かないで。
ただ切に願って強く握りしめると、包んだ手に力が込められた。でもそれは振り払う為のものではなく、修司の手を握り返す為。
驚いて顔を上げると、泣き笑いみたいな顔をした理子がいた。
「―――本当に?」
握り返した手が、自分と同じくらい冷たいことにようやく気がついた。
理子も怖かったのか。
修司が不安に思っていたように、彼女も不安だった。車の中の見えない壁は拒絶なんかじゃなく、怯えていただけなんだ。
小さな目から、宝石みたいな涙が零れ落ちてくる。
「話しても、あたしの事…。嫌いにならない…?」
それは理子が心を開いた瞬間だった。
修司はこみあげるものを必死で堪え、力強く頷いた。
途端、理子の顔が完全に泣き顔へ変わる。
「ほ、ほんとはね…、ずっと怖かったの。言いたかったけど、もしかして隆文さんじゃないかって思ったら、どうしても言えなかった。あなたには、不倫してた事を知られたくなかった…っ」
やっと聞けた。理子の本音。
だから、修司には何も言わなかったのか。
「おいで、理子」
引き寄せると、素直に腕に落ちてくる。
最後に抱きしめた時よりずっと細く薄くなった体を力いっぱい抱きしめた。
ようやく還ってきた愛しい温もりに今度こそ涙が落ちた。
髪を撫でれば胸の中で子供のように泣きじゃくる。ずっと耐えてきたものからようやく解放されたんだ。
思いきり泣けばいい。
もう、絶対に彼女をこんな目には合わせない。
柔らかい髪に顔を埋めて、彼女の香りを深く吸いこんだ。
報復の幕開けはすぐそこだ。
だが、今夜だけは取り戻した幸福に浸っていたい。